法華経の現代語訳と解説

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 60

妙法蓮華経 如来寿量品 第十六

 

(注:いよいよ今回から、第十六章目の『如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)』に入る。天台宗では、迹門の『方便品』と本門の『如来寿量品』を同等か、どちらかと言えば、迹門の方を重要視するが、日蓮宗日蓮系の諸宗教は、この『如来寿量品』を法華経の中心とする。)

 

その時に仏は、多くの菩薩とすべての大衆に次のように語られた。

「多くの良き男子たちよ。あなたたちはまさに、如来の誠を明らかにする言葉を信じ理解すべきである。」

また大衆に次のように語られた。

「あなたたちはまさに、如来の誠を明らかにする言葉を信じ理解すべきである。」また多くの大衆に次のように語られた。

「あなたたちはまさに、如来の誠を明らかにする言葉を信じ理解すべきである。」

この時に、菩薩たちと大衆は、弥勒菩薩を筆頭として、合掌して仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。ただ願わくば、これを説いてください。私たちは仏の言葉を信じ受けます。」

このように、

「ただ願わくば、これを説いてください。私たちは仏の言葉を信じ受けます。」と、三度申し上げた。

その時に世尊は、多くの菩薩たちが、三度願ってやまないことを知られ、彼らに次のように語られた。

「あなたたちは明らかに、如来の秘密にして神通の力を聞くべきである。

この世のすべての天と人および阿修羅は、みな、今の釈迦牟尼仏は、シャーキャ族の王宮を出で、伽耶城の近くの修行の場に座り、最高の悟りを得たと言っている。しかし、良き男子たちよ。私は実は、仏になってから今まで、無量無辺百千万億那由佗劫(むりょうむへんひゃくせんまんおくなゆたこう・「なゆた」とは千億のこと。つまり数えることができないほど長い歳月)である。

例えば、五百千万億那由佗阿僧祇(あそうぎ・これ自体、数えきれないほどの数を意味する)のすべての世界を、もし人が微塵に粉々にして、東の方角の五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎたところで一塵を下し、そのようにして東の方角に行って、その微塵を尽くしたとする。多くの良き男子たちよ。どう思うか。こうして通過したすべての世界は、考え計算して、その数を知ることができるであろうか。」

弥勒菩薩たちは、共に仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。その多くの世界は、無量無辺であり、計算しても知ることができません。また想像力のおよぶところではありません。すべての声聞、辟支仏などが、煩悩を断ち切った智慧をもってしても、考えてその数を知ることはできません。私たちは、もう退くことのない修行段階に達していますが、このことについては、まだ達してはいません。世尊よ。このような多くの世界は無量無辺です。」

その時に仏は、大菩薩たちに次のように語られた。

「多くの良き男子たちよ。今まさに、あなたたちに明らかに語ろう。この微塵を下した世界と下さなかった世界のすべてを再び擦って微塵として、その塵ひとつを一劫とする。私が仏となって今まで、それらすべての劫をさらに百千万億那由佗阿僧祇劫過ぎているのだ。それ以来、私は常にこの娑婆世界にあって説法して教化している。また、他の百千万億那由佗阿僧祇の国々においても、衆生を導いている。

多くの良き男子たちよ。その中において、私は然燈仏(ねんとうぶつ)などの名称で教えを説き、また、涅槃に入ると述べた。これらはみな、方便をもって判断した結果である。

多くの良き男子たちよ。もし人々が私のところに来るならば、私は仏の眼をもって、彼らの信仰の能力の優劣を観じ、導くべき方法をもって其の信等の諸根の利鈍を観じて、まさに悟りに入らせる方法に従って、自らのさまざまな名前、その寿命の長さを説き、また、応に涅槃に入ると述べ、また、あらゆる方便をもって、妙なる教えを説いて、人々に歓喜の心を起こさせたのだ。

 

(注:さっそく、大変なことが語られた。実は、釈迦は29歳で出家して、35歳で悟りを得て、80歳で死ぬまで布教をされた、ということになっているが、実は、「本当の釈迦」は、想像も及ばない過去から、想像も及ばない未来にかけて、ずっとこの娑婆世界で生きておられ、それこそ数えきれないほどの菩薩たちを教化してきたのだ、というのである。

ここまで繰り返し述べてきたように、『法華経』そのものが、歴史的釈迦の説いたものではなく、紀元直後、大乗仏教運動が起こった中で記されたものである。このことは間違いなく、このことを否定する者は、よっぽどの狂信者か、仏教を勉強していない者である。しかし、そのことを横に置いておくとしても、この『法華経』自体が、「この『法華経』を説いている釈迦は、実は歴史的釈迦ではない」と記しているのである。では、目に見える形となってこの経を説いている釈迦は誰か。それは、「本当の釈迦」が、人々の能力などに応じて姿を現わした仏だというのであり、そのパターンで姿を現わした仏は他にもたくさんいる、というのである。今まで、すでに数多くの名前の仏がこの『法華経』に登場してきたし、これからも登場するわけであるが、それらのすべての仏は、この「本当の釈迦」が姿を変えたものだ、と解釈できる。もちろん、そのように解釈するしかない。

さて、この「本当の釈迦」を、いくつかの呼び名はあるが、「久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦」などと呼ぶ。そして、その久遠実成の釈迦を「本仏(ほんぶつ)」と呼び、本仏が姿を変えて現われた仏を「迹仏(しゃくぶつ)」などとも呼ぶこともある。これは、あまり天台宗などでは言われないが、日蓮宗日蓮系の宗教ではよく言われることである。

では、この久遠実成の釈迦とは、誰なのか。キリスト教などで言う創造主なる神様なのか、などと思いたくもなるが、そもそも、宗教が違うので、ここで「違う宗教」の用語などを持ち出して来て比較することなど、愚の骨頂である。

訳者の私としては、ここまで、『法華経』は霊的世界を如実に現わした経典である、と述べてきたが、この久遠実成の釈迦は、まさにその霊的世界の真理を表わすと確信している。

霊的真理は、言葉には表現することはできない。したがって、この久遠実成の釈迦も、仏像や仏画などで表すことはできないことは当然である。

日蓮が、本尊として、釈迦仏などを彫って崇拝するのではなく、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることを教え、それを文字化したものを本尊としたことが、ここにきて、さらによくわかるのである。」

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 59

その時に釈迦牟尼仏は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「良いことだ、良いことだ。阿逸多(あいった・弥勒菩薩の別名)よ、よく仏にこの大いなることを尋ねた。あなたたちはまさに共に一心に精進の鎧を着て、堅固なる心を起こすべきである。如来は今、諸仏の智慧、諸仏の自在の神通力、諸仏の師子奮迅の力、諸仏の威猛大勢の力を明らかに述べようと思う。」

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「まさに精進して心を統一せよ 私はこのことを説こうと思う 疑うことなかれ 仏の智慧は人の思いを超えている あなたがたは今 信仰の力を出して  よく忍耐の心を起こすべきである 昔から今まで聞いたことのない教えを 今みなまさに聞くことができるであろう 私は今あなたがたを安らかに慰める 疑うことなかれ 仏には不実の言葉はない その智慧は測ることができない 仏が得ている第一の教えは 甚だ深く容易に判断することはできない このような教えを今まさに説くべき時である あなたがたは一心に聞きなさい」

その時に世尊は、この詩偈を説き終って、弥勒菩薩に次のように語られた。

「私は今、この大衆の中において、あなたがたに告げる。阿逸多よ。あなたたちが今まで見たことのない、この地より涌き出た数えることができないほどの多くの大いなる菩薩たちは、私がこの娑婆世界において仏の最高の悟りを得てから、この菩薩たちを教化し指導し、その心を整えさて、仏の悟りを求める心を起こさせたのだ。この多くの菩薩たちは、みなこの娑婆世界の下、この世界の虚空の中において住んでいるのだ。彼らは多くの経典をよく読誦して、考え理解し、正しく記憶している。

阿逸多よ。この多くの良き男子たちは、人々の中にあって多く語ることを願わず、常に静かな場所を願い、努め精進し、いまだに休息したことがない。また、人や天の世界に留まることをしない。常に深い智慧を求めて滞ることはない。また常に諸仏の教えを願って、一心に精進して無上の智慧を求めている。」

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「阿逸多よ あなたは知るべきである この多くの大菩薩は 無数の劫の過去より今まで 仏の智慧を修習してきた みな私が教化して 大いなる仏の道への心を起こさせたのだ 彼らは私の子である この世界に留まっていた 常に欲を捨て去る行ないをして 静かな場所を求め 大衆の雑踏を捨てて 賑やかなことを願わなかった このような者たちは 私の道と教えを学習して 昼夜に常に精進した 仏の道を求めるために 娑婆世界の下方の空中にあって住んでいる 志と念の力が堅固であり 常に智慧を努めて求め あらゆる妙なる教えを説いて 恐れることはない 私は伽耶城(がやじょう)の菩提樹の下に座り 最高の悟りを得て この上ない教えを説き 彼らを教化して 初めて仏の道の心を起こさせた 今はみな退くことのない段階にある すべて必ず仏となるのだ 私は今真実を説く あなたたちは一心に信じなさい 私は久しく遠い過去より今まで 彼らを教化してきたのだ」

その時に、弥勒菩薩と無数の多くの菩薩たちは、心に疑惑を生じさせ、そのようなことは聞いたことがないと怪しんで、次のように思った。

「世尊はどのようにして、短い年月の間に、これらの数えきれないほどの多くの大菩薩を教化して、最高の悟りの境地に向かう道に入れたのだろうか。」

そして仏に次のように申し上げた。

如来である世尊は、王子であられた時、釈迦族の王宮を出で修行され、伽耶城の近くの修行の場に座られ、最高の悟りを得られました。今はそれから四十年ほどが経っています。世尊よ。そのようにして、この短い間に、このような大いなる仏のわざを行なわれましたか。仏の大いなる力をもってでしょうか。仏の功徳をもってでしょうか。このような無量の大菩薩たちを教化して、最高の悟りに至らせることができるものなのでしょうか。

世尊よ。この大菩薩たちは、もし人が千万億劫かけて数えたとしても、数えきれるものではありません。その上、彼らは久しく遠い過去より今まで、無量無辺の諸仏の所において、多くの善根を植え、菩薩の道を成就し、常に優れた行を積んできました。世尊よ。このようなことは信じ難いことです。

例えば、顔色美しく、髪も黒い二十五歳の人が、百歳の人を指して、これは私の子です、と言うようなものです。その百歳の人が、またこの若い人を指して、これは私の父です、私たちを育ててくれました、と言うようなものです。

仏も、このような信じ難いことをおっしゃっていることと同じです。仏は、悟りを得られてから、実際、まだ多くの歳月を過ぎていません。しかし、この非常に数多くの菩薩たちは、すでに無量千万億劫において、仏の道のために努め精進し、無量百千万億の三昧(さんまい・いわゆる精神統一)に入り出てそこに留まり、大いなる神通力を得て、久しく清き行を修し、次第に多くの良き教えを修習し、問答も巧みであり、人の中における宝として、すべての世界において非常に尊い存在です。

今日、世尊は、悟りを得られてから、この菩薩たちを初めて悟りを得ようとする心を起こさせ、教化示導して、最高の悟りに向かわせているとおっしゃった。世尊よ。仏になられてから、長い年月を経ないまでも、このような大きな功徳のことをなさいました。私たちは、仏のさまざまな教え、仏の語られる言葉は、偽りや誤りはなく、仏はすべてのことを知っておられると信じてはいても、悟りを求める心を起こしたばかりの菩薩たちは、仏の滅度の後において、もしこの言葉を聞けば、あるいは信じ受けることをせず、教えを否定するという罪業の因縁を起こしてしまうかも知れません。

ただ世尊よ。願わくばこのことを解き明かし、私たちの疑いを除かれますように。さらに未来世の多くの良き男子たちが、このことを聞くならば、疑いを起こすことはないでしょう。」

その時、弥勒菩薩は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語った。

「仏は昔、シャーキャ族から出家され 後に伽耶(ガヤ)の近くの菩提樹に座られ 悟りを得られてから 長い歳月は経っていません この多くの仏の子らは その数を数えることができません 彼らは長い間 仏の道を行じて 神通力と智慧の力を得ています よく菩薩の道を学び 蓮の花が水の中にあって濡れないように この世の教えに染まっていません 地より涌出し すべての者たちに敬う心を起こさせ 世尊の前に留まっています 彼らが仏に教化されたということ 考えることができません なぜ信じることができるでしょうか 仏が悟りを得られたことは それほど昔のことではないにもかかわらず その成就されたことは非常に多いです 願わくばこのために 多くの人々の疑いを除き 真実をわかりやすく説いてください 例えば二十五歳の若い人が 髪白く皺のある人を示して これは私の産んだ子ですと言い 子もこれは私の父ですと言ったとします 父は若く子は老いている この世の人々すべてが信じられないことですが 世尊もまたこれと同じです 悟りを得られてからそれほど歳月は経っていません この多く菩薩たちは 志固く恐れることはありません 数えることができないほどの昔から 菩薩の道を行じています 難問にも巧みに答え その心に恐れるところはなく 忍辱の心も動くことなく その姿はうるわしく威徳があり あらゆる方角の仏が讃嘆するところです 教えをよく説くことができ 人々の中にいることを願わず 常に好んで禅定にあって 仏の道を求めるために 下方の世界の空中に留まっています 私たちは仏からこのことを聞いたので 疑いはありませんが 願わくば仏よ 未来の人々のために このことを説いて理解させてください もしこの経において 疑いを生じて信じることができなければ まさに悪しき世界に堕ちてしまいます 願わくば今 解き明かしてください この無量の菩薩を どのようにして短い間に教化し 悟りを求める心を起こさせ 退くことのない境地に住まわせられたのでしょうか」

 

つづく

 

法華経 #仏教 #現代語訳

 

 

 

法華経 現代語訳 58

その時に弥勒菩薩、および大河の砂の数を八千倍したほど多くの菩薩たちは、みな次のように思った。

「私たちは昔より今まで、このような大いなる菩薩たちが、地より涌き出して、世尊の前にあって合掌し供養して、如来に挨拶をするようなことは、見たことも聞いたこともない。」

その時に大いなる弥勒菩薩は、その多くの菩薩たちの心を知り、ならびに自分自身の疑念を解決しようと思い、仏に合掌し、詩偈の形をもって次のように申し上げた。

「この無量千万億の多くの菩薩たちは 昔より今まで見たことがありません 願わくば尊い師よ 説きたまえ 彼らはどこから来たのでしょうか 何の因縁をもって集まったのでしょうか その身は巨大にして神通力があります その智慧も思いを超えるものであり その志は堅固であって 大いなる忍耐力があります 誰が見ても素晴らしいものです 彼らはどこから来たのでしょうか それぞれ菩薩が率いている多くの従者も その数は数えきれず 大河の砂の数のようです ある大いなる菩薩は 大河の砂の数の六万倍を率いています この多くの大衆は 一心に仏の道を求めています その従者も大河の砂の数の六万です 共に来て仏を供養し およびこの経を守り保っています また大河の砂の数を五万倍した従者を率いている菩薩もさらに多くいます 大河の数の四万倍および三万倍 二万倍より一万倍に至る 千倍そして百倍 さらに大河の砂の数 さらにその半分 三分の一 四分の一 億万分の一 千億を千万倍した数 万億の多くの弟子 さらに半億に至る弟子たちを率いている菩薩たちもさらにいます 百万より一万に至り 千及び百 五十と十と さらに三二一の弟子を率いている菩薩 さらに一人で弟子はなく 一人を願う菩薩もさらにいて 共に仏の所に来ています このような大衆について もし人が数えきれないほどの歳月をかけて計算しても 数えつくすことはできません

 

(注:ここで初めて出てきたわけではないが、法華経では、数に対する表現が、やはり常識を超えている。もうこれなら、「無数に」という一言で済むのではないか、と思うであろう。もちろん、霊的世界においては、もともと数はないのである。それでは、この世、すなわち娑婆世界に現われた霊的世界の存在も、数がなくていいではないか。無数とか無限とか、そのような一言でなぜ済ませないのだろうか。それは、この娑婆世界が有限の世界であるからである。そして、この世界に働きかける霊的存在は、その娑婆世界の有限さに徹底的に合わせているのである。つまり、この私たちがいる世に、どれくらいの人々がいようとも、そして、その人々がどのような状態にいようとも、必ずその一人一人に、霊的存在は対応して働くのだ、ということである。具体的に言えば、この世で法華経を保つ者には、法華経に書かれている多くの霊的存在の誰かが、その者の「担当者」として来るのだ、ということである。それも一人や二人ではなく、ものすごい数の菩薩や天的存在や、仏の道を歩むことを決意した魔的存在まで、その者を助け導くために実際に来るのだ、ということである。この事実の前では、「いや、私のようなどうしようもない人間に来る方々など、いるはずがない」と言うことはできない。なにせ、大河の砂の数の何億倍もの数がいるのであるから、「人手不足なので、あなたのような人に遣わすことはできません」とは言われないのである。自分はとんでもなくつまらない人間だ、と思っていても、誰かしらは来てくれるのである。)

 

この大いなる威徳と精進を備えた菩薩たちは 誰が教えを説いて教化したのでしょうか 誰に従って初めて悟りを求める心を起こし 何れの仏の教えを受け 誰の経を受け保ち 何れの仏の道を修習したのでしょうか この多くの菩薩は 神通力と大いなる智慧の力があります 四方の地震により地が裂け みなその中より涌き出ました 世尊よ 私は昔より今まで このようなことは見たことがありません 願わくば この菩薩たちの国土の名を説いてください 私はあらゆる国を巡ってきましたが まだこのようなことを見たことがありません 私はこの菩薩たちの中の一人も知りません 突然地から出たのです 願わくばこの因縁を説いてください 今この大衆の中の 無量百千億もの菩薩たちも みなこのことを知りたいと願っています 地から湧き出た菩薩たちには 最初から今までの因縁があるはずです 無量の徳を備えられた世尊よ ただ願わくば多くの人々の疑念を解決してください」
その時に釈迦牟尼仏の分身の諸仏は、無量千万億の他方の国土より来て、あらゆる方角にある多くの宝樹の下の立派な座の上で、結跏趺坐して座っていた。そして、その仏たちの従者たちは、この菩薩たちが、すべての世界のあらゆる方角の地から涌き出し、空中に留まっているのを見て、それぞれの仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この数えることもできないほどの多くの菩薩たちは、どこから来たのでしょうか。」

その時に諸仏は、それぞれの従者に次のように語った。

「多くの良き男子たちよ。しばらく待て。大いなる菩薩がいる。名を弥勒という。釈迦牟尼仏が授記した者である。後の世で仏になるであろう。この菩薩が、すでにこのことを尋ねている。仏は今、この菩薩にお答えになるであろう。あなたたちはこれによって聞くことができるであろう。」

 

(注:かなり弥勒菩薩の質問が長かった。読者としては、弥勒菩薩の質問は「この地から湧き出た菩薩たちは誰ですか。」の一言でよいはずである。読者はこの菩薩たちの様子はすでに知っているので、弥勒菩薩が繰り返すまでもないと思ってしまう。

しかし法華経は、まず散文の箇所があり、その内容を繰り返す意味で、詩偈の形の部分が続くというのが基本的な構成である。この弥勒菩薩の質問は、最初から詩偈の形である。つまり、地涌の菩薩の登場を記す散文の繰り返しの詩偈の部分が、弥勒菩薩の質問となっているのである。)

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 57

妙法蓮華経 従地涌出品 第十五

 

(注:今回からは、第十五章目にあたる『従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)』となる。伝統的な法華経の解釈では、法華経を前半と後半に分け、前半を迹門(しゃくもん)と名付け、後半を本門(ほんもん)と名付けるということはすでに述べた。そして、今回の箇所から本門となるわけであるが、これもすでに述べたが、十章目にあたる『法師品』から文章の形が一変しているので、法華経成立史的に見れば、すでにそこから後半に入っていると言える。さらに見れば、その『法師品』から前回の『安楽行品』までは、この『従地涌出品』以降の内容の前段階的な役割をしているのである。)

 

その時に、他の方角の仏国土から来た、大河の砂の数を八倍したほど多くの数の大いなる菩薩たちは、大衆の中において起立し、合掌し、礼拝して仏に次のように言った。

「世尊よ。私たちが仏の滅度の後に、この娑婆世界にあって、努め精進し、この経典を守り保ち、読誦し、書写し、供養することをお許しいただけましたら、この国土において、広くこの教えを述べ伝えます。」

その時に仏は、多くの菩薩たちに次のように語られた。

「良き男子たちよ。やめなさい。あなたたちがこの経を守り保つ必要はない。なぜならば、私の国土である娑婆世界には、すでに大河の砂の数を六万倍したほどの数の大いなる菩薩たちがいる。その一人一人の菩薩には、それぞれまた大河の砂の数を六万倍したほどの数の従者がある。彼らが私の滅度の後に、この経典を守り保ち、読誦し、広く説くであろう。」

仏がこのように語られた時、娑婆世界のすべての国土が、みな揺れ動き地が裂け、その中から無量千万億の大いなる菩薩たちが湧き出た。この多くの菩薩たちは、体が金色であり、優れた相を持ち、無量の光明を放っていた。以前より娑婆世界の下にある虚空の中にいたのであり、釈迦牟尼仏が彼らのことを説いている声を聞いて、下から来たのである。

 

(注:ここでまたさらに不思議なことが起こった。娑婆世界の下の虚空と言われても、人間の常識的には納得することなどできない。娑婆世界は、私たちが住んでいるこの世のことである。この世の下に虚空世界がある、というようなことをいきなり言われても、何のことだかさっぱりわからないのである。しかし、法華経は歴史的釈迦の教えではない。むしろ、このような場面が続く法華経を、歴史的釈迦が、同じく地球上のインドのある場所で説かれた、と理解できる方が不思議である。しかし、明治以前は、すべての仏教徒がそのように信じて疑わなかったのであるから、そちらの方が驚きである。法華経は、霊的真理を、歴史上の釈迦と、その仏教用語を用いて記した宗教書である。娑婆世界において、このようなことが起こった、とあっても、それは人間の目に見える形で起こったことではなく、霊的次元でのことである。したがって、法華経を通して霊的真理を受け取れば、それでじゅうぶんなのであるから、人間の常識では理解しにくい場面が続いても、それに翻弄されないように読み進めるべきなのである。)

 

その一人一人の菩薩は、みな大衆を導くべき指導者である。それぞれ、大河の砂の数を六万倍したほどの数の従者を率いている。また、大河の砂の数を五万倍、四万倍、三万倍、二万倍、一万倍したほどの数の従者を率いている者たちもいた。さらにまた、大河の砂の数と同じほど、その半分ほど、その四分の一ほど、あるいは大河の砂の数を千憶の千万億倍した数で割った数の従者を率いている者もいた。さらに、千憶の千万億倍した数、また億万の従者を率いている者もいた。さらにまた、千万、百万、一万、また、千、百、十、また、五、四、三、二、一の弟子を率いている者もいた。さらにまた、従者はおらず、一人で悟りの道を願う者もいた。このように、彼らの数は算数や比喩を用いても知ることができないほどであった。

このあらゆる菩薩は、地より出で、それぞれ空中に留まっている七宝の妙塔の多宝如来釈迦牟尼仏の所に詣でた。そして、二世尊に向い、頭を足につけて礼拝し、さらに多くの宝樹の下にある立派な座に座っている仏の所にも行き、礼拝して、右に三回回り、敬い合掌し、多くの菩薩のさまざまな讃嘆の方法をもって讃嘆し、座の一面に座って、喜んで二世尊を仰ぎ見た。

この多くの大いなる菩薩たちは、地より涌出して、それぞれの菩薩のあらゆる讃嘆の方法をもって仏を讃嘆し、そのようにしている間に、五十小劫が過ぎていった。その間、釈迦牟尼仏は黙って座っておられた。また聴衆の人々も、みな黙って五十小劫の間座っていた。しかし、仏の神通力の故に、その聴衆は半日ほどの時間にしか感じなかった。その時、聴衆はまた仏の神通力をもって、多くの苦薩たちが、無量百千万億の国土の空中に満ちている光景を見た。

この菩薩たちの中に、四人の導師があった。最初の菩薩を上行(じょうぎょう)と名づけ、二人目を無辺行(むへんぎょう)と名づけ、三人目を浄行(じょうぎょう)と名づけ、四人目を安立行(あんりつぎょう)と名づける。この四大菩薩は、他の菩薩たちの中において、最も上に位置する上首の導師である。

 

(注:地面から涌き出した菩薩たちを「地涌の菩薩」と呼ぶ。結局、この娑婆世界で法華経を述べ伝える者は、地涌の菩薩たちだ、ということである。冒頭で、釈迦から、あなたたちが述べ伝える必要はない、と言われた者たちは、他の仏国土から来た菩薩たちである、ということに注目すべきである。他の仏国土の菩薩たちは、自分の仏国土法華経を述べ伝えよ、ということなのである。さらに、法華経を述べ伝えるのは、この地涌の菩薩たちばかりではなく、もちろん、ここで法華経を聞いている聴衆も、法華経を述べ伝える使命を持つわけである。

さて、地涌の菩薩たちの中で、トップ4である四大菩薩の名前が挙げられているが、最初が上行菩薩であり、日蓮は自分自身をこの菩薩の生まれ変わりだと称したことは有名である。)

 

この四大菩薩は、大衆の前にあって、それぞれ合掌し、釈迦牟尼仏を仰ぎ見て、次のように尋ねた。

「世尊よ。病少なく悩み少なく、安らかにいらっしゃいますか。まさに悟りに導く者たちは、教えをよく受けるでしょうか。世尊を疲れさせるようなことはないでしょうか。」

その時、四大菩薩は詩偈の形をもって次のように語った。

「世尊は安らかに 病少なく悩み少なくいらっしゃいますか 衆生を教化するにあたり お疲れはないでしょうか また多くの衆生は 教化をよく受けるでしょうか 世尊を疲れさせるようなことはないでしょうか」

その時に世尊は、多くの菩薩大衆の中において、次のようにおっしゃった。

「その通りだ、その通りだ。多くの良き男子たちよ。如来は安らかに病少なく悩みも少ない。多くの衆生は、教化しやすい。疲れもない。なぜならば、この多くの衆生は、過去世より常に私の教化を受けて来たのだ。また、過去の諸仏に対して、供養し尊び、多くの善根を種えて来たのだ。この多くの衆生は、私を見ただけで、私の説教を聞いただけで、すぐにみな信じ受け入れ、みな如来智慧を理解している。もっとも、最初から修習して、小乗を学んだ者は除くが、そのような者たちも、今はまたこの経を聞いて、仏の智慧を理解している。」

その時に多くの大菩薩たちは、詩偈の形をもって次のように語った。

「良いことです 良いことです 大いなる雄者である世尊よ 多くの衆生は教化しやすく よく諸仏の非常に深い智慧を求め 聞いて信じ理解する 私たちも喜んでいます」

その時に世尊は、上首の多くの大菩薩を讃歎して、次のようにおっしゃった。

「良いことだ、良いことだ。良き男子たちよ。あなたたちはよく如来に対して、共に喜ぶ心を起こした。」

 

(注:地涌の菩薩たちが現われ、その上首である四大菩薩からの挨拶が済んだ。さて、しかし、この様子を見ていた聴衆は黙ってはいられない。もちろん、このようなことは今まで見たことがない。とにかく法華経では、聴衆が見たことも聞いたこともない出来事が連続して起きるのである。仏教用語でこのことを「未曽有(みぞうう・あるいは、みぞう)」と言うのであるが、この未曽有の出来事に対する質問と答えが、続く箇所から始まり、そしてついにそれは、法華経のもうひとつの大いなるテーマに展開して行くのである。)

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 56

また文殊師利よ。大いなる菩薩が、後の末の世の、教えが滅びようとしている時に於いて、法華経を受け保とうとする者は、在家、出家の人の中において、大いなる慈しみの心を起こし、菩薩ではない人の中において、大いなるあわれみの心を起こして、まさに次のような思いを持つべきである。「この人たちは、如来が相手の能力に応じて説く教えを大いに失っている。聞きもせず、知らず、悟らず、質問せず、信ぜず、理解しない。この人たちはこの経について、質問せず、信ぜず、理解しないといえども、私が最高の悟りを得たならば、どこにあっても、神通力と智慧の力をもって、彼らを導き、この教えの中に入らせよう」。

文殊師利よ。この大いなる菩薩が、如来の滅度の後において、この第四の教えを成就するならば、この教えを説く時、誤りはないであろう。

 

(注:今回の箇所は、第四安楽行である「誓願」について述べられるところである。あくまでも、菩薩はまだ仏の最高の悟りを得ていないので菩薩なのである。その菩薩が持つべき誓願が、どのようなものであるかが説かれるのである。)

 

常に僧侶、尼僧、男女の在家信者、国王、王子、大臣、人民、婆羅門、長者たちに、供養され、敬われ、重んぜられ、讃歎されるであろう。虚空の諸天も、教えを聞くために、常に付き従うであろう。もし集落、町、寂しい所、林の中にある時、難問しようと人が近寄ってきても、諸天は昼夜に、常に教えのためにこの者を護衛して、聞く者をみな喜ばせるであろう。なぜなら、すべての過去、未来、現在の諸仏が、その神通力をもって、この経を守っているからである。

文殊師利よ。この法華経は、無量の国の中において、名前さえも聞くことはできないからである。ましてや、見て受けて保って読誦することなどできないのである。文殊師利よ。このことを次の例えによって述べよう。

例えば、力のある転輪聖王(てんりんじょうおう・正義をもって世界を治めるとされる王)がその威勢をもって、諸国を降伏させようとしていたとする。しかし、多くの王たちは従わなかった。すると、転輪聖王は多くの兵を起して、彼らのところに行って討伐した。その時、転輪聖王は、兵士たちが戦って手柄を立てるのを見て、大いに喜び、その手柄に応じて賞を与え、あるいは田宅、集落、町を与え、あるいは衣服や厳かに身を飾る武具を与え、あるいはさまざまな珍宝、金、銀、瑠璃(るり)、法螺貝(ほらがい)、碼碯(めのう)、珊瑚(さんご)、琥珀(こはく)、象や馬、車、奴隷、人民を与える。しかし、ただその神の毛の中に結い込んである明珠(みょうじゅ)だけは、与えなかった。なぜなら、その王の頭の上だけに、その明珠があるのであって、もしこれを与えてしまっては、王のあらゆる従者たちは必ず驚き、大いに怪しむからである。

文殊師利よ。如来もまたその通りである。如来は禅定や智慧の力をもって、真理の国土を得ており、すべての世界の王である。しかし、多くの魔王は従わない。そこで、如来の賢く聖である多くの将軍たちは彼らと戦い、その手柄のある者に対して如来は喜び、あらゆる人々のために、さまざまな経典を説いて、その心を喜ばせ、禅定、解脱、そしてさまざまな修行の道についての教えを財宝として与え、さらにまた、涅槃を城として与えて、滅度を得たと言って、その心を引導して、みな喜ばせた。しかし、それでもこの法華経は説かなかった。

文殊師利よ。転輪聖王が、大いなる手柄を立てた兵士を見て、とても喜んで、長い間髪の毛の中に結い込まれた珠を、みだりに人に与えなかったにもかかわらず、今、それを与えるように、如来もまたその通りなのである。

すべての世界において、如来は大いなる教えの王である。教えをもって、すべての衆生を教化する。賢く聖なる軍隊が、魔である肉体の妨げや煩悩や死と戦い、大いなる手柄を立てて、貪欲、怒り、無知の三つの毒を滅し、迷いの世界を出て、魔の網を破るのを見て、如来は大いに喜び、人々を仏の智慧に導き、この世においては妨げが多く信じることが難しいため、今までは説かなかったこの法華経を、今説くのである。

文殊師利よ。この法華経は、多くの如来の第一の説教であり、諸説の中において最も深い教えである。力の強い王が、長い間保っていた明珠を、今与えることと同じなのである。

文殊師利よ。この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵のようなものである。諸経の中で最も上にあり、長い間守り保って、みだりに説かなかったが、今日、初めてあなたがたにこれを説くのである。」

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「常に辱めを忍び すべての人々をあわれんで よく仏の讃めたもう経を述べ伝えよ 後の末の世で この経を保つ者は 在家と出家と および菩薩でない人々に対して まさに慈悲の心を起こすべきである 彼らはこの経を聞かず信ぜず 教えを大いに失っている 私は仏の道を成就し あらゆる方便をもって この法を説いて 人々をその中に入らせる

例えば 力の強い転輪聖王は 手柄を立てた兵士に対して あらゆる象や馬や車 身を厳かに飾る武具 および多くの田宅 町や集落を賞として与え あるいは衣服 多くの珍宝 奴隷や財物奴を喜んで与える しかし非常に勇敢で 大変困難な手柄を立てた者には 王の髪の毛の中に結い込んだ明珠を解いて これを与えるように 如来もまたその通りである

如来はあらゆる教えの王である 大いなる忍耐の力 智慧の宝蔵あり 大慈悲をもって教えを説いて世を教化する すべての人があらゆる苦悩を受け 解脱を求めて多くの魔と戦うのを見て この衆生のために あらゆる教えを説き 大いなる方便をもって 多くの経を説く そして衆生がその力をすでに得たと知るならば 最後にこの法華を説くことは 王の髪の毛の中に結い込んだ明珠を解いて これを与えるようなものである この経は尊く あらゆる経典の中の最上である 私は常に守護して 妄りに開示はしない 今まさしくこの時である あなたたちのために説く 私の滅度の後に 仏の道を求める者が 平安をもって この経を述べ伝えようとするならば ここまで述べた四安楽行を保つべきである

 

(注:詩偈の部分は最後まで続くが、四安楽行についての説教はここまでであり、続く部分は、法華経を読む者の功徳を説く箇所となる。)

 

この経を読む者は 常に憂い悩みはなく また病や痛みもなく 顔色は鮮やかとなろう 生まれ変わっても 貧しかったり不自由な体となったりしないだろう その姿は立派な聖人のようであり 人々が会いたいと思うほどであり 天のあらゆる童子が給仕をするであろう 刀杖も加えられず 毒も害することはない もし人が罵って来るならば その口はすぐに塞がるだろう 行き来することに恐れがないことは 獅子の王のようであり 智慧の光明は 日の照らすようである

もし夢の中にあっても ただ彼は妙なる事を見る 多くの如来が立派な座に座り あらゆる僧侶たちに囲まれて 説法する姿を見る また大河の砂の数のように多くの龍神や阿修羅などが敬って合掌しており 彼は彼らに教えを説いている場面を見る また無量の光を放つ金色の仏がすべてを照らし 素晴らしい声をもって あらゆる人々のために この上ない教えを説く姿を見る 彼もその中にあって 合掌して仏を讃嘆し 教えを聞いて喜び 供養をして 陀羅尼を得 退くことのない智慧を得る 仏は彼の心が深く仏の道に入っていると知られ 彼に最高の悟りを得るであろうと授記して 「良き男子よ まさに来世において 無量の智慧の 仏の大いなる道を得て その国土は厳かに清らかであり 大変広大であり またあらゆる人々が合掌して教えを聞くであろう」と語られるのを見る また彼自身 山林の中にあって 良き教えを修習し あらゆる存在の真実の姿を悟り 深く禅定に入って あらゆる方角の仏を見る その諸仏の身は金色であり 多くの祝福の形は荘厳であり 教えを聞いて 彼自身もその教えを説く 常にこのような良い夢を見るであろう

また国王となる夢を見 宮殿や従者たち および五欲がこの上なく満たされることを捨てて 道場に行き 菩提樹の下において 悟りの座に座り 道を求め続けて七日を過ぎ 諸仏の智慧を得 最高の道を成就し 立ち上がって多くの人々のために教えを説き 千万億劫を経て 悟りの妙なる教えを説き 無量の衆生を導いて 後に煙が尽きて灯火が消えるように涅槃に入る

もし後の悪しき世の中で この第一の教えを説くならば その人はここに述べたような功徳の大いなる祝福を得るであろう」

 

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 55

(注:本文には明記されていないが、ここからは第二の「口」の安楽行についてである。)

 

「また文殊師利よ。如来の滅度の後に、末法の中において、この経を説こうとするならば、まさに安楽行に基づいて歩むべきである。口で教えを説き、書かれた書物を読む時、他の人の教えやその経典の間違ったところを指摘してはならない。また他の法師を見下げて軽蔑してはならない。他人の良いところ悪いところ、長所や短所を説いてはならない。声聞の人を名指しで非難したり、また名指しで褒めたりしてはならない。また人に対して嫌悪感を抱いてはならない。よくこの安楽の心を修習すれば、その聴衆も逆らうことはないのである。難問が来たならば、小乗の教えではなく、大乗の教えをもって答え、よく解説して、すべてを知る仏の智慧を得させなさい。」

 

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「菩薩は常に願って 安穏に教えを説け 清浄の地において座を設け 身に油を塗り 塵汚れを洗い落とし 新しい清い衣を着て 内外共に清くして 法座に安らかに座って 質問に従って説け もし僧侶や尼僧、および男女の在家信徒 国王王子 群臣士民が来るならば 妙なる真理をもって 穏やかな表情で説け もし難問が来るならば 真理に従って答えよ 因縁譬喩をもって よく判断して広く述べよ この方便をもって みな悟りを求める心を起こさせ 次第に導いて 仏の道に入らせよ けだるい心や怠ける気持ちを除いて さまざまの思い煩いを離れ 慈しみの心をもって教えを説け 昼夜に常に この上ない道の教えを説け さまざまな因縁 無量の譬喩をもって 衆生に開き示して 聞く者を喜ばせよ 衣服や家具 飲食医薬 そのようなものを欲しがってはならない ただ一心に説法における因縁を念じて 仏の道を成就して 衆生を悟りに導こうと願うべきである これこそ大きな善なることであり 安楽の供養である

私の滅度の後に もし僧侶がいて この妙法蓮華経を述べ伝えるなら 心に嫉妬や怒りや さまざまな悩みや患難はなく また憂いや悲しみなく および罵詈罵倒する者もなく また脅され 刀杖を加えて来る者もなく また追い出されることもない その者は忍耐に安住しているためである 

智者はこのように この心を修習すれば 安楽に住まうこと 私が上に述べた通りである この人の功徳は 千万億劫をかけて数えても 比喩をもって説いても 尽くすことはできないのである

 

(注:前には、法華経を説く者は、さまざまな迫害にあう、ということが説かれていたが、ここでは一変して、そのようなことはない、と説かれているように見える。しかしそれは、「その者は忍耐に安住しているため」とあるように、迫害を迫害とは感じず、非難や迫害する者と同じ次元に立たないということであることがわかる。あくまでも主観的および霊的な次元のことなのである。ここで説かれている「安楽行」とは、その者の霊的次元を引き上げることに他ならない。

また、本文には明記されていないが、ここまでが第二であり、次からは第三の「意」の安楽行についてである。)

 

また、文殊師利よ。後の末の世の、教えが滅びてしまう時において、この経典を受け保ち、読誦しようとする者は、嫉妬や人にへつらう心を抱いてはならない。また、仏の道を学ぶ者を軽蔑したり罵倒したり、その長所短所を指定するようなことをしてはならない。僧侶や尼僧や男女の在家信者、および声聞、辟支仏、菩薩の道を求める者を悩ましたり疑いを持たせたりして、「あなたがたは、道から大変遠く離れている。すべてを知る仏の智慧を得ることは最後までできない。なぜなら、あなたがたは自分勝手な人たちであり、正しい道を求めることにおいて怠けているからである」などと言ってはならない。また、あらゆる教えについて、不必要な議論をしたり、論争をしたりしてはならない。

まさに、すべての衆生に対して、大いなる哀れみの心を起こし、あらゆる如来に対して、慈しみ深い父という心を起こし、あらゆる菩薩に対して、大いなる師匠という心を起こすべきである。あらゆる方角の大いなる菩薩に対しては、まさに常に深く心に敬い、礼拝すべきである。

すべての衆生に対しては、平等に教えを説くべきである。教えに従順であり、必要以上に多く語ったり、少なく語ったりしてはならない。たとえ、教えを深く愛する者がいたとしても、多く語ったりすることがないようにせよ。

文殊師利よ。法華経を述べ伝えようとする大いなる菩薩は、後の末の世の教えが滅びようとする時において、この第三の安楽行を成就する者は、この教えを説く時、妨害する者はないであろう。そして、共にこの経を読誦する良い同学者を得るであろう。また多くの人々が聞きに来て、聞き終ってそれをよく保ち、よく読誦し、よく説き、よく書き、または人に書かせて、経巻を供養し、敬い、尊び、讃歎するようになるであろう。」

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「もしこの経を説こうとするならば まさに嫉妬や怒りや高慢 へつらいや偽りの悪い心を捨てて 常にまっすぐな正しい行ないをすべきである 人を軽蔑せず また教えにおいて不必要な議論をするべきではない 他人を疑わせたり迷わせたりして 「あなたは仏にはなれない」などと言ってはならない 仏の子が教えを説くにあたっては 常に柔和であり よく忍耐して すべてを慈悲の心をもって行ない 怠ける心を起こしてはならない あらゆる方角の大いなる菩薩は 人々をあわれんで仏の道を行なっているのであり まさに「私の大いなる師匠である」という敬う気持ちを持つべきである 諸仏世尊に対しては この上ない父であるという思いを持ち 高慢の心を持つことなく 仏が教えを説くにあたって妨げがないようにせよ 第三の教えは以上であり 智者はまさに保って守るべきである 一心に安楽行を成就するならば 多くの人々に敬われるであろう

 

(注:本文には明記されていないが、ここまでが第三であり、次からは第四の「誓願」の安楽行についてである。)

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 54

妙法蓮華経 安楽行品 第十四

 

その時に、文殊師利法王子菩薩摩訶薩(=文殊菩薩)は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この多くの菩薩たちは大変尊い者たちです。仏を敬い従うために、大いなる誓願を立てました。後の悪しき世において、この法華経を守り保ち、読誦し、説くでありましょう。

世尊よ。菩薩たる者、後の悪しき世において、どのようにこの経を説くべきでしょうか。」

 

(注:今回から、第十四章目にあたる『安楽行品(あんらくぎょうほん)』である。「安楽」とは、安らかという意味であり、現在のように、そこに楽しみという意味はそれほど強くない。さて、ここまで多くの菩薩たちが、後の世が悪しき世であるといっても、そこで自分たちはこの法華経を説きましょう、という誓願を立てていることに応じて、菩薩の筆頭である文殊菩薩が、彼らのために教えを請うところから始まる。)

 

仏は文殊師利に次のように語られた。

「もし菩薩たる者、後の悪しき世においてこの経を説こうとすれば、まさに次の四つに安住すべきである。

 

(注:「次の四つ」とは、「四安楽行」と呼ばれるもので、「身(しん・行動)」「口(く・言葉)」「意(い・心)」「誓願」の四つの方面から説かれて行く。)

 

第一は、菩薩の行処(ぎょうしょ)、親近処(しんごんしょ)であって、そこに安住して、衆生のために、この経を説くべきである。

 

(注:第一は行動に関してであり、行処と親近処のふたつに分けて述べられていく。)

 

文殊師利よ。どのようなものを菩薩の行処と名づけるか。菩薩は辱めを忍び、柔和で従順であり、粗暴でなく、心を驚かせず、また、執着をもって行なうことなく、あらゆる存在の真実の姿を見抜き、しっかりと判断して行なうこと。これを菩薩の行処と名づける。

また、どのようなものを菩薩の親近処と名づけるか。菩薩は、国王、王子、大臣、官長に親しく近づいてはならない。あらゆる外道(げどう・他の宗教のこと)、梵志(ぼんし・バラモン教の人のこと)、尼揵子(にけんし・ジャイナ教の教祖となった人物を指す)など、および世俗の文筆や歌などの書を作る者たち、また路伽耶陀(ろかやだ・唯物論)、逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ・前述の者たちと逆という意味であるが、詳しくは不明)の者に親しく近づいてはならない。またあらゆる戯れごと、格闘技、相撲および変現の戯れ(今で言うコスプレ)に親しく近づいてはならない。また、生き物を殺す者、および家畜を飼う者、狩猟や漁に従事する者たちの悪しき行ないに親しく近づいてはならない。このような人々が自ら来るならば、彼らのために教えを説くのみであり、彼らと交際してはならない。また、声聞を求める僧侶、尼僧、男女の在家信者に親しく近づいてはならない。また自ら訪問することなどはしてはならない。部屋の中においても、廊下においても、講堂の中にあっても、共にいてはならない。もし自ら来るならば、適宜に教を説いて、彼らと交際してはならない。

 

(注:法華経が説かれている場には、あらゆる人々がいるわけであり、もちろん、婆羅門や声聞たちも数えきれないほどいた、とはすでに記されていたところである。しかし、今回の箇所を表面的に見れば、彼らと親しくしてはならない、とあるのはどうしたことか、と思われるであろう。これは、どのような人であっても、法華経を聞きたいと思う人々は、それぞれそのままの身分で受け入れられていた、ということである。しかし、法華経を聞きたいとは思わず、自分たちの立場でいいのだ、という人々には近づくな、ということなのであり、これは当然のことであり、行なうことが難しい戒律のようなものではない。)

 

文殊師利よ。また菩薩は、女への欲望につながる思いを抱いて、教えを説いてはならない。またそのような姿を見ようとしてはならない。もし他の家に入る際には、少女、処女、やもめなど共に語ることをしてはならない。また男であって男でないような者に近づいて、親しくしてはならない。また一人で他の家に入ってはならない。もしどうしても一人で入らねばならない時は、ただ一心に仏を念じなさい。もし女のために教えを説く時には、歯をあらわにして笑わないようにしなさい。胸を現わさないようにしなさい。そして教えのためにも、親しくしないようにしなさい。もちろんその他のことも同様である。自ら願って、年少の弟子、出家前の子供や幼い子を集めないようにしなさい。また彼らと同じ師につこうと願ってはならない。常に坐禅を好んで、静かな場所にあって心を修練しなさい。文殊師利よ。これを最初の親近処と名づける。

また次に菩薩は、すべての存在を認識するにあたって、すべては空であり、そのままが真実の姿であり、倒れず、動ぜず、退かず、転ぜず、虚空のように本性を有することなく、あらゆる言語の表現を越え、生じることなく、出ることなく、起きることなく、名もなく、形なく、何かを所有することもなく、無量であり無辺であり、滞りなく妨げがないと観じるべきである。すべてはただ因縁によって生じるのであり、人がそれらを存在するものだと錯覚することによって生じるのである。このために、常に願って、あらゆる存在に対してこのように観じるようにしなさい。これを菩薩の第二の親近処と名づける。」

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「もし菩薩が後の悪しき世において 心に恐れなくこの経を説こうとするならば まさに行処そして親近処に入るべきである 常に国王 および国王子 大臣官長 凶険の戯者 および旃陀羅 外道梵志を離れ また増上慢の人 小乗に貪著する 三蔵(経・律・論の三つ)の学者に親しく近づいてはならない 破戒の僧侶 名ばかりの阿羅漢 および尼僧の 戯笑を好む者の 深く肉の欲に執着して 現世における悟りを求める 女の在家信徒に近づいてはならない

 

(注:現世における悟りを求める女の在家信徒に近づいてはならない、とは、法華経の立場をよく表している言葉である。法華経は、この世を越えた霊的世界を如実に表わしている経典であることは、繰り返し述べてきた。しかし、歴史的釈迦の教えは、そのようなこの世を超えた世界を説くものではなく、あくまでもこの世における悟りを教えるものであった。しかし大乗仏教になって、この世を超えた霊的世界が明らかにされるようになり、歴史的釈迦の教えを批判的にとらえるようになったのである。それは、歴史的釈迦の教えが間違っていた、ということではなく、次元の違いなのである。したがって、現世における悟りを求めることは、法華経の立場からすれば、非常に浅いことであり、言い方は不適当かもしれないが、そのような浅薄な悟りを求めるのは、せいぜい、おしゃべりな女性の在家信徒だ、ということなのである。さらに、そのような悟りに対する浅い理解は、結局、本当の悟りを得るのではなく、自己満足の理解の程度なのだ、ということである。それは、自己満足の学者と同じで、近づくべきものではないのである。)

 

このような若い女たちが 好意をもって菩薩のところに来て 仏の道を聞こうとするならば 菩薩は何事にも執着しない心をもって 肉の欲望を抱くことなく教えを説くべきである やもめや処女 および諸の不男に親しく近づいて交際してはならない また生き物を殺す者や狩猟や漁をする者 自分の利得のために生き物を殺す者たちに親しく近づいてはならない 

 

(注:自分の利得のために生き物を殺す者を避けよとは、現実的には不条理な教えである。彼らも立派な職業である。このような記事を、現代のことにぴったり当てはめる必要はない。そしてこのような具体的な教えの認識には、時代の違いも反映されることは確かである。そして、自らを法華経の行者としていた日蓮が、自分は漁師の子供だ、ということを繰り返し述べていたことも、この法華経の言葉に関連して、複雑な思いからの言葉であったことは確かである。)

 

肉を売って自活し 女色を商売にする このような人に親しく近づいてはならない 格闘技や相撲 あらゆる遊戯 婬女などに親しく近づいてはならない ひとり部屋の中で 女のために教えを説くことをしてはならない もし教える時には 戯れに笑ってはならない 里に入って托鉢する時には もうひとりの僧侶と共に行きなさい もし僧侶がいなければ 一心に仏を念じなさい これを名づけて 行処(ぎょうしょ)・近処(ごんしょ)という このふたつをもって 安らかに教えを説きなさい 
またこの教えが上だとか中間だとか下だとか あるとかないとか 真実だとか真実ではないとか そのような相対的な次元の議論に左右されてはならない またこれは男だ これは女だという区別をすべきではない あらゆる存在を得ようとはせず 知ろうとも見ようともすべきではない これを名づけて菩薩の行処という

すべての存在は空であって 何にも属するものではない 常にあることなく また生じたり滅したりもしない これを智者の親近処の範囲と名づける

すべての存在は有である無である 真実である不真実である 生じる生じないなどということは 真理とは逆の判断によることである 静かな場所において 心を修練し 安住して動かざること 須弥山(しゅみせん・仏教の世界観で世界の中心にある最も高い山)のようであれ すべての存在を観ずる時 みな属するところなく 虚空のようであり 堅く変化しないものなどなく 生じることなく出ることなく 動かず退くこともない 常にひとつとしてあると悟ることを 近処と名づける もし僧侶がいて 私の滅度の後において この行処および親近処に入って この経を説く時には 恐れたり弱ったりすることはない 菩薩が静かな部屋に入って 正しい憶念をもって 真理に従ってあらゆる存在を観じ 禅定より立って 多くの国王 王子や大臣や民 または婆羅門などのために 真理を開いて教化し広く述べ この経典を説くならば その心は安穏であり 恐れたり弱ったりすることはない

文殊師利よ これを菩薩の 正しい教えに安住して 後の世において 法華経を説くと名づける」

 

づづく

 

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