法華経 現代語訳 73

妙法蓮華経 如来神力品 第二十一
その時に、千の世界を微塵にしたほどの数の大いなる菩薩たち、および地より涌き出た菩薩たちは、みな仏の前において一心に合掌し、その尊い御顔を仰ぎ見て、仏に次のように申しあげた。
「世尊よ。私たちは世尊とその分身の諸仏の国土において、その仏の滅度の後、まさに広くこの経を説くべきと存じます。なぜならば、私たちもまた自ら、この真理であり清らかな大いなる教えを得て、受け保ち読誦し解説し書写して、これを供養しようと願うからです。」
その時に世尊は、文殊菩薩はじめ無量百千万億の娑婆世界の大いなる菩薩たち、および多くの僧侶や尼僧や男女の在家信者、天龍八部衆などのすべての衆生の前において、大いなる神通力を現わされた。
すなわち、広長舌(こうちょうぜつ・仏の舌は広く長いという意味であるが、それは、仏の教えが広く全世界に及ぶということを表わしている)を出して、上は梵天に至り、またすべての体毛の穴より、無量無数の色の光を放って、広く遍くあらゆる方角の世界を照らされた。
また、多くの宝樹の下の立派な座におられる諸仏も、同じように広長舌を出し無量の光を放たれた。このように、釈迦牟尼仏および宝樹の下におられる諸仏は、百千年間、この神通力を現わし続けられた。
その後、釈迦牟尼仏および諸仏は、広長舌を収められ、同時に咳払いをされ、また共に指を弾かれた。この咳払いの声と指を弾いた音は、釈迦牟尼仏および諸仏の光に照らされた、あらゆる方角の世界に遍く広がり、その地はみな六通りに震動した。
そして、そのあらゆる方角の世界の中にいる衆生天龍八部衆たちは、この仏の神通力によって、この娑婆世界の中の、無量無辺百千万億の多くの宝樹の下にある立派な座におられる諸仏を見、および釈迦牟尼仏多宝如来が共に宝塔の中にあって、その立派な座に座られている様子を見、また、無量無辺百千万億の大いなる菩薩、および多くの僧侶や尼僧や男女の在家信者が、釈迦牟尼仏を拝み敬い、その周りを囲っている様子を見た。
このように見た彼らは、このようなことは今までかつてなかったことだと大いに喜んだ。
その時、虚空の中から大きな天の声が響き渡り、次のように言った。
「ここから無量無辺百千万億の世界を過ぎたところに国がある。その国の名前は娑婆という。その中に仏がおられる。その仏の名は釈迦牟尼という。今、多くの大いなる菩薩のために、大乗経典である『妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念』(みょうほうれんげ・きょうぼさっぽう・ぶっしょごねん)と名づけられる経典を説かれている。あなたがたはまさに、心深くこのことを喜ぶべきである。またまさに、その釈迦牟尼仏を礼拝し供養すべきである。」
その多くの衆生は、このような虚空の中の声を聞き終わって、合掌して娑婆世界に向かって、次のように言った。
「南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏。」
そしてさまざまな花や香、瓔珞、旗や立派な傘、およびさまざまな身を飾る装飾品、珍宝、妙なる品物をもって、みな共に遥か遠くにある娑婆世界に向かってそれらを注いだ。その注がれた諸物は、あらゆる方角から雲のように集まって来て、さらにそれが変化して宝の傘となり、この娑婆世界の諸仏の上を覆った。その時、あらゆる方角の世界は、各々の区別がなくなり、みなひとつの仏の国土のようになった。
その時に仏は、上行菩薩などの多くの菩薩たちに次のように語られた。
「諸仏の神通力は、このように無量無辺であり、人の計り知れるものではない。しかし、私がこの神通力をもって、数えることもできないほどの長い歳月の間、この経典を伝える功徳を説き続けたとしても、語り尽くせるものではない。なぜならば、この経典の中には、如来の持つすべての教え、如来の持つすべての自在の神通力、如来の持つすべての重要な秘められた事柄、如来の持つすべての非常に深い事柄が、みな述べられ、表わされているからだ。
このために、あなたがたは如来の滅度の後において、まさに一心に受け保ち、読誦し解説し書写し、説くところに従って修行すべきである。
ある国土に、この法華経を受け保ち、読誦し解説し書写し、説くところに従って修行する者がいたとする。それが、経典が安置されているところであっても、園の中であっても、林の中であっても、樹木の下であっても、僧坊であっても、在家の人の家であっても、立派な殿堂であっても、山谷の広野であっても、みなその場所に塔を建てて供養すべきである。それはなぜであろうか。まさに知るべきである。その場所は、すなわち道場なのである。諸仏がその場所において最高の悟りを得て、諸仏がその場所において教えを説き、諸仏がその場所において死んで完全な悟りの境地に入られたからである。」
その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。
「救世者である諸仏は 大いなる神通力をもって 衆生を喜ばすために 無量の神通力を現わされた 広長舌を出されて梵天に至り 身より無数の光を放って 仏道を求める者のために この尊い姿を現わされた 諸仏の咳払いの声と および指を弾く音 遍くあらゆる方角の国に響き渡り その地は六通りに震動した 仏の滅度の後に 人々にこの経を保たせるために 諸仏はみな喜んで 無量の神通力を現わされた この経を伝えるために 経を保つ者を賛美するならば 無量の長い歳月の中においても なおそれをすべて尽くすことはできない この人の功徳は 無辺にして限りあることはない あらゆる方角の虚空には その果てがないことと同じである 
この経を保つ者は すなわちすでに私を見ているのであり また多宝仏および多くの仏の分身を見ているのであり また私が今 教化している多くの菩薩を見ているのである 
この経を保つ者は 私および分身の仏 さらにすでに滅度している多宝仏を喜ばせる そしてこの者は あらゆる方角の仏 ならびに過去の仏や未来の仏を見て 供養し喜ばせることができるのである 諸仏が道場に座って得たところの 秘められた重要な教えを この経を保つ者は 間もなくそれを得るであろう 
この経を保つ者は あらゆる教えの意味 その文字や言葉において 自由に説いて極まりないであろう それは風が空中において 全く妨げがないようなものである 如来の滅度の後に 仏が説いた経典の その因縁および順序を知って 正しい意味に従って説くであろう それは太陽や月の光が 多くの暗闇を除くように その人はこの世にあって 衆生の闇を滅ぼし 無量の真理を求める者を導き ついには一乗の教えに入らせるであろう 
このために智恵のある者は この功徳を聞いて 私の滅度の後において この経を受け保つべきである この人は仏の道において 決して疑いを持つことはないであろう」

 

つづく

 

法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 72

この僧侶の命が終わろうとした時、虚空の中において、威音王仏が昔説かれた法華経の二十千万億の偈をつぶさに聞き、それをすべて受け保ち、そして先に述べた清らかな眼、耳、鼻、舌、身、意識を得た。
(注:この清らかな眼、耳、鼻、舌、身、意識を、原語では「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」という。よく登山をしながら「六根清浄、お山は快晴」などと掛け声をすることを聞くが、その場合、この世から離れた大自然の中で、自分も清められる気がする、という意味で言っているのであろう。しかし、本当の「六根清浄」は、この直前の『法師功徳品』で詳細に説かれていた特別な能力を得ることなのである。)
この清らかな六つの器官を得た後、この僧侶はさらに二百万億を一千億倍した数の年齢を延ばし、広く人々のためにこの法華経を説いた。
その時に、この僧侶を軽蔑し、不軽という名前をつけた高慢の僧侶、尼僧、男女の在家信者たちは、この僧侶が大いなる神通力を得、巧みに教えを説く力を得、大いなる悟りの力を得たことを見、その教えを聞いて、みなひれ伏して信じた。
この僧侶であり菩薩である人は、さらに千万億の人々を教化して、最高の悟りを得させた。その命が終わった後は、二千億の仏に会ったが、その仏はみな日月燈明(にちがつとうみょう)という名であった。この人は、その仏の世界において、この法華経を説いた。その因縁によって、またさらに二千億の仏に会ったが、その仏はみな雲自在燈王(うんじざいとうおう)いう名であった。
このように、諸仏の世界の中において、法華経を受け保ち読誦して、多くの僧侶、尼僧、男女の在家信者のためにこの経典を説いたために、常に清らかな眼、耳、鼻、舌、身、意識を得て教えを説き続け、その心には恐れがなかった。
得大勢菩薩よ。この大いなる常不軽菩薩は、このように多くの諸仏を供養し、敬い、拝み、褒めたたえて、多くの良き霊的種を植え、後にまた千万億の仏に会い、またその諸仏の世界の中において、この経典を説いて功徳を成就し、ついに仏となることができた。
得大勢菩薩よ。あなたはどう思うか。その時の常不軽菩薩は誰でもない、この私なのだ。
もし私が過去に経てきた世において、この経を受け保ち読誦し、他の人のために説かなかったならば、速やかに最高の悟りを得ることはできなかった。私が過去の仏のもとで、この経を受け保ち読誦し、人のために説いたために、速やかに最高の悟りを得ることができたのだ。
得大勢菩薩よ。あの時、私を怒りの心をもって軽蔑した僧侶、尼僧、男女の在家信者は、そのために二百億劫もの長い間、仏に会うことがなく、教えを聞くことがなく、僧侶に会うことがなかった。千劫もの間は地獄の底において、大きな苦悩を受けた。その罪を終えて、また常不軽菩薩が最高の悟りのために教化しているところに会ったのだ。
得大勢菩薩よ。あなたはどう思うか。その時この菩薩を軽蔑した人たちは、誰でもない、今この会衆の中にいる、跋陀婆羅(ばっだばら・人の名前)などの五百人の菩薩たち、師子月(ししがつ・人の名前)などの五百人の僧侶たち、尼思仏(にしぶつ・人の名前)などの五百人の在家信者たちであり、彼らはすでに、最高の悟りを求める心においては退くことがなくなっている。
得大勢菩薩よ。まさに知るべきである。この法華経は、多くの大いなる菩薩たちを導き、最高の悟りを得させるのである。このために、多くの大いなる菩薩たちは、如来の滅度の後において、常にまさにこの経を受け保ち読誦し解説し書写すべきなのである。」
(注:常不軽菩薩を軽蔑したために地獄に落ちた人たちも、やがてその「刑期」が終われば、再び常不軽菩薩に会って教えを受け、今や、この法華経が説かれている場所に集っている菩薩や僧侶たちとなっている、という。つまり、今は菩薩であっても、過去はその罪によって地獄に落ちたことがある、というのであるから驚きである。地獄を経験したことのある菩薩様、などということは、一般的にはなかなか想像もつかないのであるが、それだけ、法華経の世界は常識を超えてダイナミックな広がりを持っている、ということができるのである。)
その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。
「過去に仏がいた その名を威音王といった その智恵は優れて無量であり すべての衆生を導かれた 天と人と龍と天的存在たちすべてが 共に供養する仏であった その仏の滅度の後 教えが尽きようとしていた時 一人の菩薩がいた 常不軽といった 僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは 彼を非難した 常不軽菩薩は彼らのところに行き 『私はあなたがたを軽蔑しません あなた方は仏の道を行じて まさにみな仏となるでしょう』と言った 人々はこれを聞き 軽蔑して罵ったが 常不軽菩薩はこれを忍耐して受けた 常不軽菩薩は 前世からの因縁が清められ その命が終わる時に臨んで この経を聞くことを得て 六根清浄となった その神通力によって寿命を増し また人々のために 広くこの経を説いた 彼を罵った人々は みなこの菩薩の教化によって 仏の道に入ることができた 常不軽菩薩はその命が終わり 無数の仏に会った その仏の世界でも この経を説いたために 無量の福を得 次第に功徳を積み重ねて 仏の道を成就した その常不軽菩薩は すなわち私である その時に常不軽菩薩から『あなたがたは仏となるでしょう』という言葉を聞いて 彼を罵った僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは その因縁をもって 後に無数の仏に会い 今この会衆の中において 菩薩や五百人の衆生 および僧侶や尼僧や男女の在家信者たちとなって 私の前で教えを聞いているのである 私は前世において この多くの人々に勧めて この経の第一の教えを聞かせ 真理を開き示して教え 悟りに入らせ 次の世も次の世も この経典を受け保たせた この法華経は 数えることのできないほどの 何億万劫の時を経て ようやく聞くことができる経典であり 数えることのできないほどの 何億万劫の時を経て ようやく諸仏世尊が この経典を説かれるのである そのために仏の道を歩む者は 仏の滅度の後において この経を聞いて疑いを起こすことがあってはならない まさに一心に広くこの経を説くべきである そうするならば 次の世も次の世も 仏に会うことができ 速やかに仏の道を成就するであろう」

 

つづく

 

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法華経 現代語訳 71

妙法蓮華経 常不軽菩薩品 第二十

その時に仏は、得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)に次のように語られた。
「あなたはまさに知るべきである。もし、法華経を保つ僧侶や尼僧や男女の在家信者に対して、悪口を言い、罵ったり誹謗したりするならば、大きな罪の報いを受けることは、すでに述べたとおりである。また、法華経を保つ者は、その功徳によって、先に説いた通り、その者の眼、耳、鼻、舌、身体、意識はみな清らかとなる。
得大勢菩薩よ。数えることも測ることもできないほど遠い昔に、仏がいらっしゃった。その仏の名は、威音王(いおんのう)如来という。その仏の時代の名は離衰(りすい)といい、その仏の国の名は大成(だいじょう)という。
その威音王仏は、その世の中において、天や人や阿修羅のために教えを説かれた。また、声聞を求める者には、それにふさわしい四諦(したい)の教えを説いて、生老病死の苦しみを解決させ、悟りを成就させ、辟支仏を求める者には、それにふさわしい十二因縁(じゅうにいんねん)の教えを説き、多くの菩薩のためには、最高の悟りに導くために、それにふさわしい六波羅蜜(ろくはらみつ)の教えを説いて、仏の智恵を成就させた。
得大勢菩薩よ。この威音王仏の寿命は、大河の砂の数を四十万億倍し、さらにそれを一千億倍した劫数である。その正法(しょうぼう)の劫数は、この世をすりつぶして微塵にした数であり、像法(ぞうぼう)の劫数は、四つの大陸をすりつぶして微塵にした数である。その仏は、衆生を教え終わって、その後に滅度された。
(注:仏の滅度、つまり仏が死んで姿がなくなった後、その仏の教えが正しく伝えられ、悟りが得られる時代を正法といい、その正法が終わって、教えは伝わるが、悟りが開けなくなる時代を像法という。つまりこの文の流れでは、仏の滅度のことが正法と像法の記述の後に来ているので、像法の後に仏の滅度が来るように読めてしまうが、そうではないのである。)
正法が終わり、そして像法が終わった後、その国土にまた仏が出られた。その仏の名も威音王如来であり、そのように続いて、二万億の仏が同じように出られた。みな名も同じであった。
最初の威音王如来が滅度され、それに続く正法が終わり、その後の像法の時代において、思い上がって高慢になった多くの僧侶たちがいた。
その時にひとりの菩薩である僧侶がいた。名を常不軽(じょうふきょう)という。
(注:この『常不軽菩薩品』の主人公であるこの菩薩は、「菩薩比丘(ぼさつびく)」と表現されている。「菩薩」は大乗仏教の人々であり、「比丘」とは僧侶の意味である。菩薩と僧侶は、決してイコールではない。大乗仏教は、僧侶ではない一般信徒が中心の、仏教改革運動の中から生まれた新しい仏教の流れだとされるが、その大乗仏教の運動に共感して、伝統的な仏教教団の僧侶たちも多く大乗仏教の教団に入って来るようになったと考えられている。この「菩薩比丘」という名称も、そのような僧侶たちを指していると考えられる。そのためここでは、「菩薩である僧侶」と訳した。
ところで、地蔵菩薩の像や絵を見ても、見た目がいかにも僧侶である。地蔵菩薩も、この「菩薩比丘」の典型ではないであろうか。つまり、この常不軽菩薩に対しても、地蔵菩薩の姿をイメージすればよいのではないだろうか。)
得大勢菩薩よ。なぜこの菩薩を常不軽と名づけるのだろうか。この僧侶は、僧侶や尼僧や男女の在家信者などに出会うことがあるならば、みな彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。
『私は深くあなたを敬います。決して軽んじたりしません。あなたがたは、みな菩薩の道を行ない、必ず仏となるでしょう。』
しかもこの僧侶は、経典を読誦せずに、ただこのような礼拝を行なうばかりであった。たとえ遠くであっても、四衆(ししゅう・僧侶や尼僧や男女の在家信者たちのこと)を見ては、同じように彼らのところに行き、彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。
『私は決して軽んじたりしません。あなたがたは、必ず仏となるからです。』
四衆の中で、心が汚れている者は怒って、悪口を言い、罵倒して次のように言った。
『この無智の僧侶は、どこから来て、自分勝手に、あなたがたを軽んじない、などと言って、私たちが仏になるなどという授記をするのだろうか。私たちはそんな虚妄の授記などは必要ない。』
このように、長い年月を経て、常に罵倒されても、怒りの念さえ起こさず、いつも『あなたがたは仏となるでしょう』と言い続けた。
このように言われた人々が、棒や木や瓦や石をもって、この僧侶を打とうとすれば、彼はそれを避けて走り去り、遠く離れてなお大声で『私はあなたがたを軽んじません。あなたがたは仏となるでしょう』と言った。
このように、この僧侶は常にこの言葉を発していたので、思い上がった高慢な僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、彼を『常不軽』と名づけたのであった。
(注:「あなたがたは仏となるでしょう」という言葉は、決して悪い言葉ではないのに、なぜ棒や石で攻撃するまで、相手は怒るのであろうか。
大乗仏教は、歴史的釈迦の教えを受け継ぐ伝統的な仏教教団の教えを批判し登場した、新しい仏教の流れである。伝統的な仏教教団では、いくら修行をしても、いくら悟ったと言っても、釈迦と同じ悟りには到達できない、つまり、仏となることはできず、その前の段階である阿羅漢(あらかん・聖者という意味)の段階(阿羅漢果)にまでしか到達できない、としていたと言われる。それに対して大乗仏教は、誰でも仏となることができるのであり、さらにそれは決して僧侶とならずとも、在家の姿のままでも仏となることができるとまで主張していた。
そのような状況の中で、上に述べたように、もし伝統的な仏教教団に属して僧侶となった者が、後に大乗仏教に転向して、さらに僧侶のままの姿で、大乗仏教の教えを堂々と説くならば、当然、伝統的な仏教教団側の僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、大いに怒って当然であろう。「あなたがたを軽んじません」と言っても、かえって彼らには大いなる皮肉に聞こえるのである。
またあるいは、同じ大乗仏教教団に属するグループから、そう軽々しく、誰に対しても、あなたは仏となるであろう、という授記を与えるべきではない、という非難が来ても不思議ではない。
このように、実際に常不軽菩薩のような人物がいたかは別として、この物語も、大乗仏教の歴史的事実を背景としていることは確かである。)

 

つづく

 

法華経 #現代語訳

 

法華経 現代語訳 70

また次に常精進菩薩よ。もし良き男子や良き女人が、この経を受け保ち、読誦し、解説し、書写するならば、千二百の舌の功徳を得るであろう。
好ましい味、好ましくない味、おいしい味、まずい味、および多くの渋い味、苦い味など、この舌の器官においては、すべて良い味と変わり、天の甘露のようになり、好ましくないものなどないであろう。
もしその舌の器官を用いて、大衆の中において演説するならば、深く妙なる声を出して、よく人の心に入り、聞く者たちは喜びに満たされるであろう。また多くの天子、天女、帝釈天梵天などの天的存在は、その深く妙なる声をもって演説される内容を聞いて、みな集まって来て聞くであろう。および多くの天竜八部衆やその女までもが、教えを聞くためにみな集まって来て、説法者を敬い供養するであろう。および僧侶や尼僧や在家信者の男女、国王、王子、群臣、従者、小転輪聖王、大転輪聖王転輪聖王の家臣や子供たち、その内外の従者たちは、各々の宮殿に乗ったまま、共に来て教えを聞くであろう。その法華経を説く者は菩薩であって、よく説法するために、婆羅門、居士(こじ・大商人の信者)、国内の人民たちは、力の限り従って供養するであろう。
また多くの声聞、辟支仏、菩薩、諸仏たちは、常にこの者を見ることを願うであろう。諸仏たちは、この人のいる方角に向かって教えを説くであろう。は、諸仏皆、其の処に向かって法を説きたまわん。このように、説法者はすべてよくあらゆる仏の教えを受け保ち、深く妙なる教えの声を出すであろう。」
その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。
「この人の舌の器官は清く 最後まで悪い味を味わわないであろう その食べる物の味はみな甘露となるであろう また深く清らかな妙なる声をもって 大衆に教えを説くであろう あらゆる因縁や比喩をもって 衆生の心を導くであろう 聞く者はみな喜び 多くの上等の供養を設けるであろう 多くの天や龍や夜叉 および阿修羅など みな敬う心をもって 共に来て教えを聞くであろう この説法する者は 自らの妙なる声を すべての世界に充満させようと願うならば その通りになるであろう 大小の転輪聖王 およびその子供たちや従者など 合掌し敬う心をもって 常に来て教えを聞くであろう 多くの天や龍や夜叉 暴虐な鬼や人を食う鬼までもが 喜びの心をもって 常に来て願って供養するであろう 梵天王や魔王 自在天や大自在天のような天的存在も 常にその場所に来るであろう 諸仏および弟子 その説法の声を聞いて 常に念じて守護し ある時は身を現わすであろう
また次に常精進菩薩よ、もし良き男子や良き女人が、この経を受け保ち、読誦し、解説し、書写したとする。その者たちは八百の身体の功徳を得て、浄瑠璃(じょうるり・美しい青色の石)のような清らかな身体となり、人々が見たいと願うほどであろう。その身体は清らかなため、すべての世界の人々が生まれる時のこと、死ぬ時のこと、優れていること、劣っていること、見栄えが良いこと、見栄えが悪いこと、よい場所に生まれること、悪い場所に生まれることなど、すべてその身に現わすことができるであろう。および、あらゆる山の王とその衆生のことも、その身に現わすことができるであろう。地獄の底から天の最も高いところにいる衆生のことを、すべて現わすことができるであろう。声聞、辟支仏、菩薩、諸仏が説法する姿を、自分の身体として現わすことができるであろう。」
その時に世尊は、再びこの内容を述べようとして、詩偈の形をもって次のように語られた。
「もし法華経を保つならば その身体は浄瑠璃のように非常に清らかとなり 衆生が見たいと願うほどであろう また清らかな鏡がすべての物の像を映し出すように 菩薩の清らかな身体となって この世にあるすべてのものを現わすことができるであろう それはその者だけが明らかに現わせるものであって 他の人々は知らないものである すべての世界のあらゆる生きとし生けるもの 天や人や阿修羅 地獄や餓鬼や畜生 これらの姿をその身に現わすことができるであろう 多くの天の最も高いところに至るまでの宮殿 およびあらゆる山や大海の水など みなその身に現わすことができるであろう 諸仏および声聞や仏の弟子や菩薩などが ひとりで説法する姿や多くの人々の前で説法する姿を すべて現わすことができるであろう まだ完全な悟りに至っておらず 心理のままの身体を得ていないといえども 常に清らかな身体をもって すべてのことを現わすことができるであろう
また次に常精進菩薩よ。もし良き男子や良き女人が、如来の滅度の後に、この経を受け保ち、読誦し解説し書写するならば、千二百の意識の功徳を得るであろう。この清らかな意識をもって、この経の一偈でも一句でも聞くならば、無量無辺の正しい意味を明らかにするであろう。この正しい意味を理解し終わって、一句一偈についてであっても、それを演説するならば、一か月、四か月、そして一年続くであろう。
その多くの説かれた教えは、意味的にも内容的にも、真理と異なることはないであろう。もし俗世間の書籍、世の政治の法律、経済のしくみなどについて説いても、事実の通りであろう。
また、すべての世界の生きとし生けるものの、その心の動きや、心の変化、心の思い論じることなど、みなすべて知るであろう。まだ最高の智恵を得ていないといえども、その者の意識が清らかであることは、以上の通りであろう。
この人が思惟し、推論し、言説するならば、それらはそのまま仏の教えであって、真実でないものはなく、またそれらは、過去の仏の経典に説かれているものと同じであろう。」
その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。
「この人は意識が清らかであり 明哲であり濁りがなく この妙なる意識をもって 上中下の教えを知り たとえ一偈を聞いたとしても 無量の正しい意味に通じるであろう その教えを説き始めたなら 一か月から四か月さらに一年続くであろう
この世界の内外の すべての衆生 または天や龍および人 夜叉や鬼神など そのすべての生きとし生けるものの中にある 思いのわずかな種でさえ 法華経を保つ者は すぐにそのすべて知ることができる
あらゆる方角の無数の仏 多くの祝福に飾られた権威の姿で 衆生のために説法するが この者はそのすべてを聞いて受け保つであろう
無量の正しい意味を思惟し 説法することもまた無量であり 終始忘れたり間違えたりすることはない 法華経を保っているために すべての存在の姿を知り 正しい意義によってその成り立ちを分析し 言葉や言語を巧みに駆使し 自らの表現をもって演説するであろう
この人が説くならば みなすべて過去の仏の教えであり、この教えを語るために、人々の前にあっても 怖れることはないであろう。
法華経を保つ者は このように意識が清らかである。まだ最高の悟りを得ていないといえども その意識は悟りに先行する この人はこの経を保ち 良い地に安住して すべての衆生に喜ばれ愛され尊敬されるであろう 千万種類の巧みな言語をもって わかりやすく演説するであろう それは法華経を保っているためである」

 

つづく

 

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法華経 現代語訳 69

その時に世尊は、再びこの内容を語ろうと、詩偈の形をもって次のように語られた。
「この人は鼻が清らかであり この世にあって 香ばしい香りや臭い臭いなどを すべて嗅ぎ分けることができるであろう

(注:法華経を保つ者は、あらゆる器官が優れた能力を持つようになることが、非常に長く、そして詳しく具体的に述べられている箇所が続く。実際、このような能力が、この世にあって与えられたならば、かえって煩わしいのではないか、と思われても不思議ではない。しかし、まずこれらは、この世にあって与えられることは確かであっても、対象はほとんど、目に見えない霊的世界である。さらに、このような能力が、一度に一人の人に与えられるのではなく、この中の一部が、それぞれの人の能力や個性や性格に従って与えられる、と考えるべきである。霊的目が開かれるならば、確かにここに記されている多くの事柄の中の一つや二つは、体験するようになるものである。訳者である私も、良い霊的存在から薫る香りや、悪しき存在から出される臭い臭いは嗅ぎ分けることができる。)

須曼那闍提(しゅまんなしゃだい) 多摩羅栴檀(たまらせんだい) 沈水(ちんすい)および桂(かつら)の香 あらゆる花や果実の香 および衆生の香 男子や女人の香を知るであろう 
説法者は遠くにあっても 香によってその所在を知るであろう 力ある転輪聖王や小転輪およびその子 群臣や多くの宮人たちの香によってその所在を知るであろう 彼らの身に着けている珍宝 および地中にある宝蔵 転輪聖王の宝女などの香によってその所在を知るであろう 多くの者の身の装飾品や衣服および瓔珞や あらゆる塗られた香など 嗅いでその者が誰であるかを知るであろう 多くの天的存在が 進んだり座ったり または遊戯または神変する様子を この法華経を保つ者は その香を嗅いですべて正しく知るであろう
多くの花や果実 および蘇油(そゆ・宗教的儀式に使用する油)の香気などを この経を保つ者はこの世にあって すべてその所在を知るであろう 多くの山の深く険しい場所にある 栴檀樹(せんだんじゅ)の花が開くあり様を 衆生の中にありながら その香を嗅いで正しく知るであろう
鉄囲山(てっちせん・この世の最も外側にあるとされる山)や大海や地中の多くの衆生も この経典を保つ者はその香を嗅いで すべて正しくその所在を知るであろう
阿修羅の男女 およびその多くの従者たちが 闘争し遊戯する時の香を嗅いで すべて正しく知るであろう 荒野の険しい場所で 師子や象や虎や狼 野牛や水牛などの香を嗅いで所在を知るであろう 
もし懐妊した者がいたとして その子が男であるか女であるか または生きているが死んでいるかなども その香を嗅いで正しく知るであろう その香を嗅ぐ力をもって 初めて懐妊して 無事生まれるか生まれないか 楽に産めるかどうかも知るであろう 香を嗅ぐ力をもって 男女の所念 欲望や怒りの心を知り また善を行なう者を知るであろう 
地中に埋められた宝 金銀などの珍宝 銅器などがある所 その香を嗅いで正しく知るであろう あらゆる瓔珞の価値がわからない状態であっても その香を嗅いで その価値があるかないか どこで作られたのか およびその所在を知るであろう
天上の多くの花である曼陀曼殊沙(まんだまんじゅしゃ)や 波利質多樹(はりしったじゅ)の香を嗅いですべて正しく知るであろう 天上の多くの宮殿の 上中下の違いや 多くの宝の花が厳かに飾られている香を嗅いで すべて正しく知るであろう 天の園林や優れた宮殿 多くの高殿や妙法堂 またその中にあって娯楽する その香を嗅いですべて正しく知るであろう 多くの天的存在たちが 教えを聞いたり 五欲を受けたりする時 または行住坐臥する時の香を嗅いで すべて正しく知るであろう 天女が着ている衣が 良い花の香をもって厳かに飾られ 飛び回って遊戯する時の香を嗅いで すべて正しく知るであろう
このように順次昇って 梵天に至るまでの禅定に入った者出た者の香を嗅いで すべて正しく知るであろう 光や音が遍く清らかな天から 天の最も高い天に至るまでの 初めて天に生まれた者や 再び人間界に落ちてしまう者などの香を嗅いで すべて正しく知るであろう
多くの僧侶たちが 教えにおいて常に精進し 立ったり歩いたり および経典の教えを読誦し あるいは林樹の下にあって 座禅に専念したりする香を 法華経を保つ者は嗅いで すべてその所在を知るであろう
菩薩の志が堅固であり 坐禅したり経典を読んだり あるいは人に説法する香を嗅いで すべて正しく知るであろう
あらゆる方角の世尊が すべての人々に敬われ 人々を憐れんで説法する香を嗅いで すべて正しく知るであろう 衆生が仏の前にあって 経典を聞いてみな喜び 教えの通りに修行する香を嗅いで すべて正しく知るであろう
この法華経を保つ者は 菩薩の煩悩を断ち切った鼻を得ていなくても まずその鼻の形を得るであろう

つづく

 

法華経 #仏教 #法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 68

また次に常精進菩薩よ。もし良き男子や良き女人が、この経を受け保ち、読誦し、解説し、書写するとするならば、八百の鼻の功徳を成就するであろう。この清浄の鼻の器官をもって、あらゆるすべての世界の、上下、内外のさまざまな香を嗅ぐことができるであろう。
須曼那華香(しゅまんなけこう)、闍提華香(しゃだいけこう)、末利華香(まつりけこう)、瞻蔔華香(せんぼつけこう)、波羅羅華香(はららけこう)、赤蓮華香(しゃくれんげこう)、青蓮華香(しょうれんげこう)、白蓮華香(びゃくれんげこう)、華樹香(けじゅこう)、果樹香(かじゅこう)、栴檀香(せんだんこう)、沈水香(ぢんすいこう)、多摩羅跋香(たまらばつこう)、多伽羅香(たからこう)、および千万種の和香(わこう・あらゆる香を混ぜたもの)、あるいは粉にしたもの、あるいは丸めたもの、あるいは塗香(ずこう)など、この経を保つ者は、この世にあって、すべてよく嗅ぎ分けることができるであろう。
(注:多くの聞きなれない香の名前が列挙されているが、ひとつひとつがどのようなものであるかを知る必要はなく、またそもそも、完全に知ることは不可能である。妙なる植物や花の香りであると理解することで十分である。)
また、衆生の香、象の香、馬の香、牛羊などの香、男の香、女の香、童子の香、童女の香、および草木や林の香を嗅ぎ分けられるであろう。それが近くても遠くても、あらゆる香をすべて嗅ぎ分けることができ、誤ることはないであろう。
この経を保つ者は、この世にいながら、天上のあらゆる天の香を嗅ぐであろう。波利質多羅(はりしったら)、拘鞞陀羅樹香(くびだらじゅこう)、曼陀羅華香(まんだらけこう)、摩訶曼陀羅華香(まかまんだらけこう)、曼殊沙華香(まんじゅしゃげこう)、摩訶曼殊沙華香(まかまんじゅしゃげこう)、栴檀(せんだん)、沈水(ちんすい)、さまざまな抹香、雑華香など、このような天の香やそれらが混ざり合って放つ香など、嗅ぎ分けられないものなどないであろう。また、あらゆる天の体の香を嗅ぐであろう。釈提桓因(しゃくだいかんにん・=帝釈天)が、立派な御殿の上で、五欲を楽しみ遊戯をしている時の香、あるいは妙法堂(天にあって天的存在たちが集まって論議する場所)の上で、忉利(とうり・帝釈天のいる天の名)のあらゆる天的存在のために説法をする時の香、あるいは、あらゆる園において遊戯する時の香、および他の天の男女の体の香など、みなすべて遠くにあって嗅ぐであろう。
このように順次昇って行き、梵天に至り、天の最も上にいるあらゆる天的存在の体の香や、それらが焚く香も嗅ぐことができるであろう。
および声聞の香、辟支仏の香、菩薩の香、諸仏の体の香なども、みな遠くにあって嗅ぐことができ、その所在も知るであろう。これらの香を嗅いでも、鼻の器官は損なわれることはない。もし他の人々にこのことを説いたとしても、正しく記憶しているため、誤ることはないであろう。」

 

つづく

 

法華経現代語訳

 

法華経 現代語訳 67

妙法蓮華経 法師功徳品 第十九

(注:今回からは、第19章にあたる『法師功徳品(ほっしくどくほん)』である。法師とは、以前にもあったが、法華経を受け保つ者を指す。つまり、法華経を受け保ち、それを人に説く者自身に、どのような功徳があるか、という内容である。
そして、前回の『随喜功徳品』までは、仏の説法の対象は弥勒菩薩であった。しかし、今回の相手は常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)となる。このように、章によって相手が違ってくるが、このような違いも、その箇所が成立した順番や経緯などを考えるときにヒントを与えるものである。)
その時に仏は、常精進菩薩に次のように語られた。
「もし良き男子や良き女人がいて、この法華経を受け保ち、あるいは読み、あるいは読誦し、あるいは解説し、あるいは書写したとする。その人は、まさに八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の心の功徳を得るであろう。この功徳をもって、あらゆる器官を優れたものとし、清らかにするであろう。
この良き男子や良き女人は、生まれながらの清らかな肉眼をもって、あらゆる世界の内外にある山林や川や海を見ることができ、下は地獄の底から、上は天の最も高い世界に至る、すべての世界のすべての衆生を見、そのすべての業の因縁、そしてその果報の有様を見て、ことごとく知ることができるであろう。」
(注:「八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳」などと言われても、いったい何のことやら、と思わざるを得ない。今までのほぼすべての記述もそうであったが、法華経に関する功徳についても、とてもこの世の常識では受け入れがたい記述が続く。しかし、それは当然であり、法華経は、この世に留まらず、むしろ、過去世、未来世、そして霊的世界についての真理を表現しているのであり、この世の常識で受け取るものではないのである。法華経の真理を読み解くためには、霊的世界に対する信仰が必要である。つまり、法華経を素直に受け取り、それを読み進めること自体が、この真理の霊の世界に足を踏み入れていることであり、その世界の広がりは、この世の空間、時間を超越しているのである。)
その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。
「もし大衆の中において 恐れることなく この法華経を説くことについての功徳を あなたたちは聞くがよい この人は八百の 功徳ある優れた眼を得るであろう この功徳がその目に満ち溢れるために その目は非常に清らかであろう 生まれたままの眼をもって すべての世界の山々や山林 そして大海や江河の水を見ることができ その範囲は地獄の底から天上界の最も高いところに至る さらにその中にいるすべての衆生を見る まだ天眼(てんげん・神通力の一種)を得てはいないといえども その肉の眼の能力はこのようになる」
「また次に常精進よ。もし良き男子や良き女人が、この経を受け保ち、読み、読誦し、解説し、書写したとすれば、彼らは千二百の耳の功徳を得るであろう。この清らかな耳をもって、すべての世界において、下は地獄の底から上は天の最も高いところの、内外のあらゆる言語、音声、象の声、馬の声、牛の声、車の音、泣き叫ぶ声、悲しみ嘆く声、螺(ほらがい)の音、鼓(つづみ)の音、鐘の音、鈴の音、笑う声、語る声、男の声、女の声、童子の声、童女の声、教えの声、教えではない声、苦しみの声、楽しみの声、凡夫の声、聖人の声、喜ぶ声、喜んではいない声、天の声、龍の声、夜叉(やしゃ)の声、乾闥婆(けんだつば)の声、阿修羅(あしゅら)の声、迦楼羅(かるら)の声、緊那羅(きんなら)の声、摩睺羅迦(まごらか)の声、火の音、水の音、風の音、地獄の声、畜生の声、餓鬼の声、僧侶の声、尼僧の声、声聞の声、辟支仏の声、菩薩の声、仏の声を聞くであろう。
つまり、すべての世界の中の内外のあらゆる声を、まだ天の耳を得ていないといっても、生まれつきの清らかな耳をもって、みなことごとく聞いて知ることができるであろう。このようなあらゆる音声を聞き分けたとしても、耳そのものは損なわれることはない。」
その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。
「生まれつきの耳が 汚れのない清らかなものとなり この耳をもって すべての世界の音を聞くことができるであろう 象や馬や車や牛の声 鐘や鈴や螺(ほらがい)や鼓(つづみ)の音 琴や琵琶の音 簫(しょう)や笛の音 清らかな歌の声 これらを聞いても執着は起こさないであろう 無数のあらゆる人の声 聞いてすべて理解するであろう またあらゆる天の声 妙なる歌の声を聞き および男女の声 童子童女の声を聞くであろう 山や川や険しい谷の中の 迦陵頻伽(かりょうびんが・天の鳥)の声 命命(みょうみょう・神話の中のキジ)などのあらゆる鳥の音声を聞くであろう 地獄のあらゆる苦痛 さまざまな痛み苦しみの声 餓鬼が飢渇に苦しめられ 飲食を求める声 あらゆる阿修羅などが 大海のほとりに住んで 互いに話をする時 大きな声を出すことすらも聞くであろう このように法華経を説く者は この世にあって 遠くあらゆる世界の衆生の声を聞いても 耳を損なうことはないであろう あらゆる世界の中の 鳥や獣が互いに呼び合う声を 法華経を説く者は この世にあってすべてこれを聞くであろう あらゆる梵天のさらに上の天 および天の最も高いところの声も 法華経を説く者は すべてこれを聞くであろう すべての僧侶たち およびあらゆる尼僧が 経典を読誦し また他の人のために説くその声も 法華経を説く者は この世にあって すべて聞くであろう また多くの菩薩たちが 経典の教えを読誦し また他の人のために説き 人々を集めてその意味を解き明かすそのすべての声を聞くであろう また大いなる聖なる世尊が衆生を教化され あらゆる会衆の中において 妙なる教えを説くその声を この法華経を保つ者は そのすべてを聞くであろう すべての世界の内外のあらゆる音声 下は地獄の底から 上は天の最も高いところに至るまで みなその音声を聞いて その耳を損ねることはないであろう その耳の能力が優れているために すべて正しく聞き分けて知ることができるであろう この法華経を保つ者は まだ天の耳を得ていないといえども 生まれつきの耳を用いて その功徳はこのようになるであろう

 

つづく

 

法華経現代語訳