大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その5

像法に入って四百年あまり過ぎたころ、朝鮮半島百済国より、すべての経典と釈迦の仏像と僧侶などが渡って来た。それは中国では梁の末から陳の始めに当たる。日本においては、初代天皇である神武天皇より第三十代の欽明(きんめい)天皇の時代である。欽明天皇の御子である用明天皇の太子に聖徳太子がおられ、仏教を広められた。そればかりではなく、『法華経』と『維摩経』と『勝鬘経』を鎮護国家の教えと定められた。その後、第三十七代孝徳天皇の時代に、三論宗成実宗(じょうじつしゅう・三論宗の付属的な性質があり、三論宗と共に、ある一定の経典ではなく、大乗仏教思想の論書を研究する宗派である)を観勒(かんろく・百済の僧侶。日本において初めての僧正に任命される)が百済より伝えた。同じ時代に、道昭(どうしょう・遣唐使として唐に渡り、玄奘に師事した日本の僧侶)は、中国から法相宗倶舎宗(くしゃしゅう・法相宗の付属的な性質をもつ。やはり、大乗仏教思想の論書を研究する宗派)を伝えた。第四十四代元正天皇の時代には、インドより『大日経』を持って日本に渡って来たが、日本には広まらなかったので、中国に帰った僧侶がいた。それは善無畏であった(これは伝説であり史実ではない)。第四十五代聖武天皇の時代に、審祥(しんじょう・日本人か新羅人かは不明。唐に渡って華厳宗の法蔵に師事して華厳宗を伝える)新羅国より華厳宗を伝え(新羅にも渡っている可能性があるため、日蓮はこのように表現している)、日本において、良弁(りょうべん・審祥と共に東大寺を建て、大仏建立に活躍する)と聖武天皇に伝えて、東大寺の大仏を建てた。同じ時代に、唐の鑑真(がんじん)が渡来して、天台宗律宗を伝えた。律宗については、それを広め、小乗の戒律を授ける戒壇東大寺に建立させたが、天台宗の教えについては何も伝えず亡くなった。

 

(注:鑑真は有名であり、唐招提寺を建てて、戒律を重んじる律宗を伝えたということは、歴史の教科書にも載っている。それに加えてもうひとつの功績が、多くの天台教学についての書物を日本にもたらしたということがあげられる。それはあくまでも書籍をもたらした、ということにとどまり、日蓮上人が言うように、天台教学について人々に説くことはなかったようである。しかし、鑑真の弟子の道忠(どうちゅう)は、後に伝教大師最澄と親しく交わりを持ち、道忠が関東地方に布教したことがきっかけで、後に関東地方出身の慈覚大師円仁などが最澄の弟子となり、最澄自身も北関東に来るなどのきっかけを作ることとなった。また、最初奈良の平城京で仏教を学んでいた最澄が、天台教学に興味を持ったのも、鑑真が天台教学の書物を伝えていたからであった。

なお、日蓮上人は、「小乗の戒律を授ける戒壇」という言い方をしているが、これも後に、最澄が、鑑真によって広められた戒律を小乗仏教の戒律として、大乗仏教には大乗戒が必要であると朝廷に訴えたことが背景にある。鑑真には、小乗仏教の戒律という認識はなかった。これ以降は、その最澄についての記述となる)

第五十代桓武天皇の時代は、像法八百年の時代である。その時代に、最澄という僧侶が現われた。後の伝教大師である。最初は、三論宗法相宗華厳宗倶舎宗成実宗律宗の六宗ならびに禅宗などを、行表僧正(ぎょうひょう・奈良時代の僧侶。僧正となる)に学ばれた後、国昌寺(こくしょうじ・後の近江国分寺)を経て、後に比叡山と名付けられる山に入られた。そして、今まで学ばれた六宗の経典や論書と、それらの宗派の僧侶たちの解釈を引き合せて研究して見ると、諸宗派の僧侶の解釈が、それらの宗派が基づいているとしている経典や論書と食い違っており、自分勝手な解釈が多いことに気づかれた。このような教えを受け入れてしまっては、みな悪しき世界に堕ちてしまうと考えられた。その上、『法華経』の真実の教えは、それらの宗派の人々も理解していると自ら述べているが、実際はそのようなことはなかった。

しかし、このようなことを言ってしまっては、論争になってしまうし、言わなければ、仏への誓いに背いてしまうと思い煩われて、ついに桓武皇帝に申し上げた。帝はこのことを驚かれて、奈良の六宗の僧侶たちを招き、論議をさせた。最初は彼らは山のような高慢な思いと毒蛇のような悪しき心で反発してきたが、最後は帝の前で最澄に攻め落とされ、奈良の六宗や七つの大寺は、一同に最澄の弟子となった。これは、中国において南北の多くの僧侶や学者たちが、陳の王の前で天台大師に攻め落とされ、それからは弟子となったこと同じである。

(注:このようなことは全くない。この論争と言っていることは、論争ではなく、「法華十講(ほっけじゅっこう)」と呼ばれるもので、最澄を見出して登用した桓武天皇が、奈良の学僧たちを講師として依頼し、比叡山で『法華経』の講義を行なわせたことを指す。もちろん、奈良の僧侶たちがみな最澄の弟子となったなどと言うことはあり得ない。日蓮上人の記述に、天台大師の時と同じだとあるが、天台大師の場合は、確かに、陳の国王の前で論議があり、天台大師がことごとく難問を破り、人々は驚いた、ということがあるが、最澄の場合は、それに似たような事実はない。この後、最澄は京都の高雄山寺で天台教学の中心的書物である『天台三大部』(中国の天台大師の講義を弟子が記述したもの)の講義(高雄講経)を行なったが、招かれていた奈良の僧侶たちも感銘を受けた、という記録はあるが、弟子になるまでにはなっていない。さらに、後の記述にあるように、最澄の晩年、戒壇のことについて奈良の仏教と衝突し、このころは論争に論争を繰り返すこととなるが、これとは別のことである。

これ以降も、最澄についての記述は続く。)

しかし、これは天台宗における修行実践と教学のことであるが、さらに最澄は天台大師も行なわなかった、戒律の問題にも取り組まれたのである。最澄は、それまで奈良の東大寺戒壇で行なわれた受戒(じゅかい・僧侶が出家する時、戒律を受けること。それによって正式に僧侶となることができるので、受戒が行なわれる戒壇は非常に重要であった。)は、いまだに小乗仏教のものであるとして、奈良の六宗の中心的な僧侶たちに『梵網経(ぼんもうきょう)』に基づく大乗戒(だいじょうかい)を授けたばかりではなく、『法華経』の教えに基づく円頓戒(えんどんかい・完全な戒律という意味)を授ける戒壇比叡山に建立された。これによって、比叡山延暦寺戒壇は日本第一のみならず、釈迦の死後、千八百年あまりの間、この世のどこにもなかった『法華経』で説かれた大いなる戒律が、この日本に始まったのである。

(注:この段落の記述も正確ではない。事実は次の通りである。

東大寺戒壇が設けられ、その後、九州の太宰府観世音寺と、関東の下野薬師寺(しもつけやくしじ)にも戒壇が設けられ、それらは三大戒壇と呼ばれていた。当時は、出家する僧侶の人数は朝廷で決められており、朝廷が認めた者たちが、その戒壇で受戒して僧侶となっていた。しかし、唐から帰って、天台宗の教学と組織の独自の確立を目指していた最澄は、奈良仏教からの独立を求め、比叡山にも戒壇を設けるよう、朝廷に申し出た。

最澄の主張は、奈良仏教で授けられている戒律は、小乗仏教の戒律であり、『梵網経(ぼんもうきょう)』に基づく大乗戒(だいじょうかい)を授けなければならないというものであった。もしその時、桓武天皇が生きていたら、それもすぐに成就したであろうが、最澄の最大の外護者であった桓武天皇は、最澄が唐から帰ると間もなく死に、続く桓武天皇の子の平城天皇も、すぐに弟の嵯峨天皇に譲位し、嵯峨天皇は特に最澄には興味を示していなかった。それどころか、これは当然のことであるが、奈良の仏教勢力が、三大戒壇以外に戒壇を設けることには猛烈に反対した。

「奈良の六宗の中心的な僧侶たちに『梵網経』に基づく大乗戒を授けたばかりではなく」と日蓮は記しているが、最澄が奈良の僧侶たちに授けたのは、最澄が唐に渡って伝えた密教の儀式である灌頂(かんじょう・頭に水を注いで、密教の仏と関係性を結ぶ儀式)である。これも桓武天皇の命令によって行なわれたものだった。

したがって、これは日蓮上人の勘違いか、あるいは、日蓮上人が批判する密教最澄が伝えた、ということを書くことを避けるために、意識的にすり替えたかである。

さて結局、最澄が生きている間は、その願いは達成されなかったが、最澄の死後の初七日の日に、弟子たちの活躍もあって、ようやく比叡山戒壇設立の許可が朝廷から下された。これにより、比叡山は奈良仏教から独立し、それ以降、比叡山は日本仏教の中心となっていく)。

このように、伝教大師の業績を見れば、竜樹や天親以上であり、天台大師や妙楽大師より優れた聖人である。そうであるなら、日本の東寺や園城寺や奈良の七大寺や諸国の八あらゆる宗派、たとえば浄土宗や禅宗律宗などの僧侶たちの中で、誰が伝教大師の円頓戒に背くのだろうか。中国の諸国の僧侶たちは、完全な実践修行や完全な智慧においては、天台大師の弟子と言えるけれども、円頓戒の戒壇は中国にはなかったので、その点においては、天台大師の弟子とは言えない者もいたであろう。

(注:確かに、中国においては、天台大師の教えは大きな影響力を持ったが、それによって、すべての僧侶が天台大師の弟子となったと言う日蓮上人の言葉は行き過ぎである。しかし、天台大師は、戒律においての戒壇は設けていないので、中国には、戒律においては天台大師の弟子ではない者もいた、と言っているのである。もちろん、天台宗以外の僧侶たちは、学問においても戒律においても、天台大師の弟子だと思っていた者など一人もいないのである。天台大師の弟子になりたければ、天台宗の寺院に入るまでのことである)。

したがって、この日本においては、伝教大師の弟子ではない者は、みな外道であり悪人である。しかし、中国と日本の天台宗真言宗の優劣は、伝教大師の心の中には存在していたが、奈良の伝統的な六宗と天台宗と公の場所で論議して勝敗を決めたことはあっても、天台宗真言宗の優劣はつけなかったので、伝教大師以後は、東寺や奈良の七大寺や園城寺の諸寺を始め日本中、真言宗天台宗に勝っていると、上の人から下の人に至るまで思っている。したがって、天台法華宗天台宗をこのように呼ぶことも多い)が本当の意味で活動できたのは、伝教大師の時だけであったと言える。伝教大師の時は、像法の末期であり、『大集経』でいうところの、寺院などが多く建設される時であった。未だに、国乱れて正しい教えが隠れてしまう時ではなかった。

 

 つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その4

正法一千年の後は、月氏(げっし・インド西北部の国。クシャーナ朝などと呼ばれ、特にカニシカ王が仏教に帰依したことは有名。その結果、シルクロードを通ってもたらされたヘレニズム文化と仏教文化が合流し、ガンダーラ地方に仏教文化が栄え、仏像などが初めて作られた。ガンダーラ美術などと呼ばれる。西域仏教国のひとつ。)に仏の教えが充満したが、その時は、小乗をもって大乗が破られ、大乗仏教であっても、『法華経』以前の教えによって、真実の教えが隠され、仏の教えが乱れ、悟りに至る者が少なくなり、悪しき道に堕ちる者たちが数知れなかった。

(注:正法が終わって、像法の時代になると、悟りが得られなくなり、教えは伝えられるが、正しい教えは乱れる、とされる)。

正法一千年の後、像法に入って、仏の教えは西域から中国の漢に伝わった。像法の前半の五百年のうち、その最初の一百余年の間は中国の道教月氏国から伝わった仏の教えとの論争が激しく、たとえ仏の教えが伝わったとしても、それを受け入れた人の心はそれほど深くなかった。このような時に、仏教は大乗仏教小乗仏教とに分かれ、大乗仏教も、仮の教えと真実の教えとに分かれ、また顕教(けんぎょう・密教以外の教え)と密教(みっきょう・真理は人間の理論では理解できない隠された秘密のものなので、秘密の儀式や呪術的な修行などを通して悟りを得ようとする教え)とに分かれるのだ、などと教えてしまえば、教えがひとつになっていないなどとはおかしい、という疑いを起こして、結局は他の宗教に行ってしまうという危険性があったので、迦葉摩騰(かしょうまとう)や竺法蘭(じくほうらん・この二人は、初めて中国に仏教をもたらした僧侶と言われる)たちは、自らは知っていても、大乗や小乗や、仮の教えや真実の教えの区別は言わなかった。

(注:実際は、インドから西域を経て中国に入った仏教は、一度に伝えられたわけではなく、それぞれのインドや西域の僧侶たちが、経典や仏像などをその都度伝えて、伝えられた経典から、次々と漢訳されていったのである。そもそも、中国に仏教が伝えられた紀元後1世紀~2世紀は、まだインドでも密教すら成立していない。そのため、顕教密教の区別などはあり得ない。中国においては、その後、かなりの経典が漢訳されてから仏教の研究が深まり、その結果、仏教は大乗仏教小乗仏教に分かれる、などの分析が明らかにされていったのである。日蓮上人当時は、経典はすべて釈迦の説いたものだとされていたため、中国に仏教が伝えられた当初から、大乗、小乗、顕教密教などがしっかりと区別されて存在していた、ということになってしまうのである。

これ以降も、結局、『法華経』は末法の時代でこそ流布する経典なのだ、ということを述べるために、日蓮上人はかなり長い紙面を使って、漢の時代に中国に入って来た仏教の歴史を、日本に至るまで詳しく述べることとなる。)

その後、魏・晋・斉・宋・梁の五代の間、仏教の内部で、大乗と小乗、大乗の中の仮の教えと真実の教え、顕教密教などが互いに争って、それぞれ決定的な道理も立てられず、一般の人々も不審がるほどだった。「南三北七」といって、教判においても、南の地域には三つ、北の地域には七つの異論があって、それぞれ激しく論議をしていた。しかし、それらのだいたいの内容は同じようなものであった。いわゆる、釈迦一代の教えの中で、第一は『華厳経』であり、第二は『涅槃経』であり、第三は『法華経』だとするのである。『法華経』は、それ以前に説かれた『阿含経』や『般若経』や『維摩経(ゆいまきょう)』や『思益経(しやくきょう)』などと比べたら優れているが、『涅槃経』に比べれば劣っているなどと判断された。

仏教が入って来た漢の時代より四百年から五百年過ぎて、陳と隋の二代に及んで、智顗という一人の僧がいた。後に天台智者大師といわれる人物である。これらの南北の誤った教えを破り、釈迦一代の教えの中では、『法華経』が第一であり、『涅槃経』が第二であり、『華厳経』が第三だとする教判を立てた。この出来事は、像法の前半の五百年のことであり、『大集経』でいうところの、経典は読誦され、教えもよく教えられる時に当たる。

像法の後半の五百年は、唐の始めの太宗皇帝の時代に、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が月支国に入って十九年間学び、百三十あまりの国々の寺院を回り、多くの師に会って、すべての経典の奥義を習い尽くした。その中に法相宗(ほっそうしゅう)と三論宗(さんろんしゅう)の二つの教えがあった。大乗仏教である法相宗は、その初めは弥勒(みろく・弥勒菩薩弥勒ではなく、インドの僧侶であり、法相宗の開祖とされるが伝説的な要素が多い人物)と無著(むじゃく・4世紀ごろのインドの僧侶で、弥勒の弟子。唯識学の大成者)からであり、玄奘は戒賢(かいけん・インドの唯識学の学者)からそれを学び、中国に帰って太宗皇帝に伝えたのである。法相宗では次のように教えている。「仏は、教えを聞く相手の能力に応じて教えられたということが重要である。すべての人々はやがて究極的な悟りを開いて仏になることができる、ということが理解できる者にとっては、悟りにはいろいろな段階があって、その段階までしか到達できない者がいるという教えは、方便(ほうべん・巧みな手段)の教えであり、すべての人々が究極的な悟りを開いて仏になれるという教えが真実となるのである。すなわちこれが『法華経』である。また逆に、悟りにはいろいろな段階があるということしか理解できない者には、それを真実として教え、すべての人々は仏になれる、という教えは方便となるのである。すなわちこれが『深密経(じんみつきょう)』や『勝鬘経(しょうまんきょう)』である。天台智者大師はこのことを教えてはいない」などと主張している。太宗は賢い王であり、天下に名前が知られているばかりではなく、中国のそれまでの大いなる皇帝も超越したといううわさは国境を越え、高昌国(こうしょうこく・西域の国の一つ)や高麗(こうらい)などの千八百あまりの国々まで聞こえ、内政や外交までも究めた王であると言われた王である。そして玄奘はその王が最も信頼して帰依していた僧侶である。このように法相宗で主張されても、天台宗の僧侶は何も言えなかった。このようにして、『法華経』の教えは中国において衰退していった。

そして、同じ太宗の太子である高宗と、その高宗の継母であり後に高宗の皇后となり実権を握った則天武后の時代に、法蔵(ほうぞう・644~712。華厳教学の大成者)という僧がいた。法相宗によって天台宗が退けられるのを見て、この時とばかり、以前に天台大師に第一の座を退けられた『華厳経』を取出して(注:もちろんこのような日蓮上人の言葉は正確ではない)、釈迦の教えの中では、『華厳経』が第一であり、『法華経』が第二であり、『涅槃経』が第三であるとした。

第四代の玄宗皇帝の時代である開元四年と同八年に、西インドから善無畏(ぜんむい)と金剛智(こんごうち)と不空(ふくう・この三人によって中国の密教が伝えられた)は、『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』や『蘇悉地経(そしつじきょう)』を持って中国に来て、密教を宗旨とする真言宗を立てた(注:正確には、真言宗という宗派は、日本に密教を伝えた空海が立てた宗派である)。この宗の教えに二つある。ひとつは、『華厳経』や『法華経』などを顕教(けんぎょう・真理を秘密(密)として、誰もが理解できる言葉として表さず、表わしても象徴的な方法を取る密教に対して、積極的に言葉で真理を明らか(顕)にする教え)として、もうひとつは、『大日経』などを密教とする。『法華経』は顕教の第一とし、この経典は『大日経』などの密教に比較して、究極的な教えの点では同じであるけれど、真理を象徴して手や道具を通して表わす印契(いんげい)と、釈迦が実際に使っていたとされる古代インド語を翻訳せずに用いる真言(しんごん)は記されておらず、密教において必要とされる三密(さんみつ・体と言葉と心によって真理を象徴的に表すこと)がそろわないので、劣った教えだとする。

以上のように、法相宗華厳宗真言宗の三宗は、同じように、天台宗の『法華経』の教えを貶めたが、天台大師ほどの智者は当時の天台宗の中にはおらず、天台大師のように公の場で論戦などもしなかったので、上は国王大臣から下はすべての人民に至るまで、仏教について迷い、人々が悟りを得ることはなかった。これらは、像法の後半の五百年の、さらに前半の二百年あまりのことであった。

(注:ここまでが西域から中国の仏教史についての論述であり、次の段落からは、いよいよ日本の仏教史についての記述となる。実際はこの後、日蓮上人が尊敬する妙楽大師湛然(たんねん・711~782)が唐の時代の中に現われて、天台教学を中興するわけであるが、もうそのころになると、日本でも奈良仏教が盛んになるため、話を日本に持っていく必要があったと考えられる)

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その3

問う:龍樹や天親(てんじん・世親とも言われる。4世紀から5世紀のインドの僧。唯識(ゆいしき)思想の大成者)などの学者の論書に、このことは述べられているのか。

答える:龍樹や天親たちは、心の内には思っていても、説くことはしなかった。

さらに追及して言う:なぜそれを説かなかったのか。

それには多くの理由がある。まずは、その時には、その教えを聞くことのできる能力のある者たちがいなかったのである。そして二つめの理由は、時がまだ至っていなかったのである。三つめには、彼らはまだ『法華経』の本当の意味を教えるために現われた者たちではなかったからである。

さらに求めて言う:このことは、もっとよく聞かせていただきたい。

答える:釈迦が死んだ日は、二月十五日なので、二月十六日から、正法の始まりである。迦葉尊者(かしょうそんじゃ・摩訶迦葉(まかかしょう)のこと。釈迦の十大弟子のひとりで、直接、釈迦から教団の後継者として指名されたと言われる)は、仏から後を引き継ぎ二十年、次に阿難尊者(あなんそんじゃ・釈迦のいとこであり、釈迦に常に付き従い、最も多く釈迦の説法を記憶していたと言う)が引き継ぎ二十年、次に商那和修(しょうなわしゅ)が二十年、次に優婆崛多(うばくった)が二十年、次に提多迦(だいたか)が二十年、以上の百年間はただ小乗仏教の経典の教えのみが広まり、大乗仏教の経典はその名前さえなかった。どうして『法華経』を広めることができようか。次は弥遮迦(みしゃか)、仏陀難提(ぶっだなんだい)、仏駄密多(ぶっだみった)、脇比丘(きょうびく)、富那奢(ふしゃな)などの四~五人の師が教えを継いだが、この五百年あまりの間は、大乗仏教経典の教えが少し形成されていたけれど、とりたてて広まらなかった。あくまでも、小乗仏教の教えが表に出ていた。以上、これが『大集経』に述べられている、悟りを正しく開くことのできる五百年間の時代(解脱堅固)である。

(注:繰り返し述べてきたように、大乗仏教は、紀元直後にインドで成立した仏教改革運動である。これが明らかとなったのは明治以降であり、日蓮上人の時代は、すべて歴史的釈迦が説いたものとされていた。史実ではないとしても、一人の釈迦が最初に小乗仏教を説いて、後に大乗仏教を説いたということは、理解でないこともない。しかし、では、なぜ、紀元前の仏教者が大乗仏教を説いておらず、紀元後になって大乗仏教の論書が登場しているのか、ということは、どういうことなのか。日蓮上人はこれについて、まだ時至っていなかったので、紀元前の時代は、小乗仏教の影に大乗仏教が隠れていて、まだ文章にされていなかった。紀元後になって、時となったので、大乗仏教の経論が著されたのだ、と説いている。それではむしろ、紀元後までの約五百年間、大乗仏教は、まるで生き物のように姿を隠していた、また、釈迦が説いた大乗仏教の教えを知っている人も、時ではないので、それを説かなかった、ということになり、それでは大乗仏教はどのように継承されていったのだろうか。むしろ、紀元後までの約五百年間、大乗仏教の教えがしっかりと伝えられ、紀元後になって、急に数えきれないほどの経典や論書が記された、というほうが奇跡としか言いようがない。もちろんそのようなことはない。

このように、日蓮上人の時代で正しいとされていたことが、現在では明らかに誤りだとわかっている。つまり日蓮上人の著作にも、誤りは多いことが現在では明らかとなっている。したがって、それらをすべてそのまま受け入れるわけにはいかない。しかし、日蓮上人の宗教的思想は、それら歴史的事実との錯誤によっては、何ら影響は受けない。なぜなら、宗教的思想と悟りは、時間と空間を超越しているからである。それを見抜いて、日蓮上人から学ぶ必要がある)。

正法の後半の六百年から一千年になるまでの五百年の間は、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ・菩薩とは、その人物を最大限に尊敬しての呼称。馬鳴は、1世紀から2世紀の仏教文学者。最初はバラモン教の僧侶であったが、後に回心して仏教の僧侶となり、優れた詩を残している。『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』という大乗仏教思想の書物を記したと言われているが、現在の仏教学ではそれは否定されている)、毘羅尊者(びらそんじゃ)、龍樹菩薩(龍樹も、最初はバラモン教の僧侶であったが、後に仏教の僧侶となり、繰り返すが、大乗仏教思想の大成者となった)、提婆菩薩(だいばぼさつ)、羅睺尊者(らごそんじゃ)、僧佉難提(そうぎゃなんだい)、僧伽耶奢(そうぎゃやしゃ)、鳩摩羅駄(くまだら)、闍夜那(じゃやな)、盤陀(ばんだ)、摩奴羅(まぬら)、鶴勒夜那(かくろくやな)、師子(しし)などの十人あまりの人々は、最初は外道(げどう・仏教以外の宗教)の者であったが、後に小乗経典を究め、さらには大乗の経典をもって、多くの小乗経典を打ち破った。これらの偉大な人物たちは、多くの大乗経典をもって多くの小乗経典を論破したが、多くの大乗経典と『法華経』の優劣は述べなかった。

たとい、その優劣を少し説いたようだけれども、本迹の十妙(ほんじゃくのじゅうみょう・本とは本門のことで、『法華経』の後半のこと。迹とは迹門のことで、『法華経』の前半のこと。天台大師は、『法華玄義』において、「迹門の十妙」と「本門の十妙」について解き明かしている)や、二乗作仏(にじょうさぶつ・本来仏にはなれないとされていた菩薩以外の人も、仏になることができるという教え)や、久遠実成(くおんじつじょう・釈迦の本当の寿命は永遠であるという教え)や、已今当の妙(いこんとうのみょう・『法華経』の中に、「すでに説き、今説き、当(まさ)に説くであろう」という言葉がある。つまり釈迦は、その奥義(妙)を過去にすでに説き、現在説き、未来においても説くであろうという意味)や、百界千如(ひゃっかいせんにょ・仏教では、人間が生まれ変わる世界を十種類あげるが、その一つ一つの世界にはすでに、他の世界が具わっているということで、10×10=百世界になり、さらにその百世界のひとつひとつは、『法華経』で説かれる十種類の範疇(十如是・じゅうにょぜ)が具わっているとして、100×10=千の如是になる。つまり存在すべてをこのように表現し、観心の対象とする)や、一念三千(いちねんさんぜん・百界千如で導き出された千如是のひとつひとつには、さらに五蘊世間(ごうん・人間の認識作用を五つに分けたもの。その認識作用の世間とは、一個人の認識の世界のこと)と衆生世間(その個人が集まった世界のこと。いわゆる社会)と国土世間(その社会が集まって存在する国土を指す)の三つの範疇があるとして、1000×3=三千世間となる。この三千、つまり人間を取り囲むすべては、たった一瞬の心の動きである一念に含まれる、という教え。これも観心の結果、悟られる真理だとするのが天台教学の中心である。日蓮は、この一念三千は、南無妙法蓮華経の題目によって実現すると言う)などの重要な教えは明らかにされていない。ただそれは、指を使って月を指すようなものであって、その教えの真理そのものには至っていない。

あるいは、文の中で、それらの教えの一端くらいは書いているが、釈迦がどのように人々を導いたか、師である釈迦とその弟子たちの関係の浅さや深さについて、その教えによって悟りを得られるか得られないか、などについては、全く述べられていない。

これらは、正法が終わってからの五百年のことであり、『大集経』でいうところの、修行はよく行なわれていた時代(禅定堅固)の時である。

(注:ここまでは、釈迦が死んでからの、前半の五百年間と後半の五百年間、つまり、『法華経』は広く流布してはいなかったが、正しい教えが伝えられ、修行もしっかりと行なわれている正法(しょうぼう)の千年間のことが説かれていた。そして、これからは、像法(ぞうぼう)と呼ばれる期間についての記述となる。

当時ばかりではなく現在も、釈迦の生没年については明確な定説がないが、だいたい、釈迦は紀元前5世紀から4世紀の人と見て間違いはない。しかし日蓮当時の日本では、釈迦が死んだのは、西暦でいうと紀元前949年とされていた。したがって、最終的な時代である末法(まっぽう)は、すでに見てきたように、釈迦の死後二千年後に始まるのであるから、平安時代の中期にあたる1052年(永承7年)に始まった、という説が有力であった。2000-948=1052だからである。

日蓮上人は、1222年から1282年の人物であるから、まさに、これから末法(まっぽう)が本格化するという危機感を持ち、さらにその危機感を裏付けるような事件が、日本の国と、自分の身の回りと自分自身に降りかかって来たのであった。

ここまでは日蓮上人から見ても、あまりにも遠い昔の時代のことを扱ってきたので、記述自体がかなり抽象的であったが、これからは日蓮上人にとっても具体的に知ることのできる時代となるので、記述も具体的になっていく)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その2

問う:その証拠になる経文などは何であるか。

答える:『法華経』に「私の滅度(めつど・仏が死んでその世界から姿がなくなること)の後の五百年間、この経は広まり、この世において教えは断絶することがないであろう」とある。この経文は『大集経』でいうところの、正しい教えが滅んだ次の時を指すのである。

(注:この五百年間、ということについて記す。

法華経』には「薬王菩薩本事品」に二箇所と「普賢菩薩勧発品」に三箇所、「後の五百歳」という言葉が記されている。もちろん、これは『法華経』の訳者である鳩摩羅什(くまらじゅう)がこのように記したのであるが、ではサンスクリット原本ではどうなっているかと見ると、「薬王菩薩本事品」では、「最後の五十年」となっており、「普賢菩薩勧発品」では、「後の五百年たった悪しき世の中」という意味で使われている。

まず、「薬王菩薩本事品」の言葉を見るが、まず一つめの箇所では、『法華経』を聞いた女人の話であり、この女人はもう女性としての生を受けることはなくなる、という内容である。したがって、サンスクリット原本の「最後の五十年」とは、明らかに、人の一生は昔は50歳までと認識されていることから、生まれ変わりを繰り返す中の、人間として、あるいは、ある特定の「生(しょう)」の存在としての、最後の一生という意味である。

また「薬王菩薩本事品」の二つめの箇所では、宿王華菩薩に委ねられた言葉として、この法華経をこの地に広く述べ伝えるべき期間を表している。

まずここでも、この箇所のサンスクリット原本を見ると、「したがって、宿王華菩薩よ。この薬王菩薩本事品が最後の時であり最後の機会である最後の五十年の経過している間に、この娑婆世界に行なわれて消滅しないように、(中略)私はそれをあなたに委ねよう」となっている。この原本の「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」は、先の女人の生涯のことと同じく、この宿王華菩薩の生涯を表わしていると解釈すれば、すべて意味が通じる。つまり、宿王華菩薩は、もう二度と、この娑婆世界には生まれて来ないのである。したがって、宿王華菩薩にとっては、現在の娑婆世界にいる期間が、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」と表現されるのである。言い換えれば、仏が宿王華菩薩に薬王菩薩本事品を委ねるということは、彼がこの娑婆世界にいる最後の機会の五十年間、この娑婆世界にそれが行なわれて消滅しないことが期待されているということなのである。このように解釈すれば、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」という一見不思議な言葉も、その意味がよくわかる。

したがって、「『薬王菩薩本事品』に『後の五百年において、この世に教えを広めよう』とある」という日蓮上人の解釈は誤りとなる。

そして次に「普賢菩薩勧発品」の三箇所を見ると、「於後五百歳。濁悪世中。其有受持。是経典者。我当守護」と「若後世後五百歳。濁悪世中」と「若如来滅後。後五百歳。若有人。見受持読誦」の三つである。この文の意味は読んでわかる通り、みな同じである。したがって、この「後五百歳」は、「薬王菩薩本事品」の内容とは全く関係がない。しかし、鳩摩羅什はこのことがわからず、「薬王菩薩本事品」の二個所の「五十年」も、この意味と解釈して訳してしまったのである。

この「後五百歳」については、伝統的に『大集経』に記されている「第五の五百年」のことと解釈されており、鳩摩羅什もその解釈に立っていると考えられる。

この『大集経』の言葉は、「五百年が五つ重なった時」という意味である。つまり、第一の五百年は、1年から499年までであり、第二の五百年は、500年から999年までであり、第三の五百年は、1000年から1499年まで、第四の五百年は、1500年から1999年まで、そして第五の五百年は、2000年から2499年までである。そして『大集経』によれば、釈迦の死後二千年から末法が始まるとするので、第五の五百年から末法が始まるとするのである。この鳩摩羅什が訳した「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、「第五の五百年」と解釈することは、すなわち、末法の始まりを意味することになる。

日本の日蓮上人も、このように解釈しているが、それは、日蓮上人が非常に尊敬し、日蓮が書いた大曼荼羅本尊にも名前があがる妙楽大師湛然(たんねん・711~782・中国唐の僧侶。天台教学の中興の祖)がそのように解釈しているからである。湛然は、『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」の意味を、『大集経』の「第五の五百年」と解釈しており、日蓮上人は、その説を受け入れているのである。

日蓮上人は、この湛然の解釈の通り、この『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、仏の滅度の後の第五の五百年、つまり末法の始まりと解釈しており、そのため、日蓮上人は、末法の時代でこそ、『法華経』は広まるのであり、そのように釈迦は『法華経』を委ねられたのだと主張しているのである)。

また同じく『法華経』には、「悪しき世である末法の時、この経典を保つ者は」とある。また「後の末の世において、教えが滅ぼうとしている時」、また「しかもこの経典に対しては、如来(=釈迦)が現在いる時すら敵対視する者が多い。ましてや、私が滅度した後はなおさらである」、また「すべての世に敵が多く信じることが難しい」、また一切世間怨多くして信じ難し」、また、仏の滅度の後の二千年過ぎた後の五百年には、この経典に対する敵が多くなる、ということを説いて「悪魔や魔民など、悪しき天竜や夜叉や鳩槃荼(くはんだ・夜叉と同様、鬼神の一種。『法華経』の中では回心して善神となった鬼神たちも多いが、この場合は悪い鬼神を指す)たちが攻撃する機会をねらうであろう」とある。

また『大集経』には「多くの争いが起こる」とあり、また『法華経』には「悪世の中の僧侶」また「あるいは寺院にあって」とあり、また「悪鬼あその身に入る」とある。

これらの文の意味は、釈迦の死後の二千五百年めの時、悪鬼がその身に入る有名な僧侶など、国中に充満するということである。その時に、正しい智慧を持つ一人の人が出現すると、その悪鬼が入った有名な僧侶や時の王や大臣や他の民たちが、悪口を言い罵倒し、杖や木や瓦礫で傷つけ、さらに流罪や死罪にするであろう。

その時、釈迦如来多宝如来(たほうにょらい・『法華経』の中に登場する過去仏。『法華経』の説法の時、『法華経』が正しいことを証明して釈迦と並んで座る仏)や十方の諸仏たち(『法華経』が説かれ、多宝如来が来られたと言うことで、あらゆる世界から集まって来た仏たち)は、地涌の菩薩(じじゅのぼさつ・『法華経』の中に登場する、地面から湧き出した無数の菩薩たち。この世で『法華経』を述べ伝える使命を与えられた菩薩たちである)に命じて、さらに地涌の菩薩たちは梵天帝釈天や日天子や月天子、および四天王たちに命じて、天変地異を起こさせるであろう。

それにもかかわらず、国王たちが悪しき者たちをいさめなければ、さらに鄰国に命じて、その国の悪しき王や悪しき僧侶たちを攻めさせるであろう。そうなれば、前代未聞の大戦争が起こるであろう。

その時、天下のすべての人々は、自分の国を惜しみ、また自分の命を惜しみ、すべての仏菩薩に祈っても、何の効果もないであろう。さらにそうなると、以前は彼らが憎んでいた一人の僧侶の言葉を信じ、多くの有名な僧侶をはじめ、あらゆるところの国王たち、さらにすべての民たちが、みな頭を地につけ手を合せて、一同に「南無妙法蓮華経」と唱えるであろう。

それはまさに、たとえば、『法華経』の「如来神力品(にょらいじんりきほん)に記されている、あらゆる世界の人々が、すべてこの娑婆世界(しゃばせかい・私たちが住むこの世を意味するが、この場合は、『法華経』が説かれている世界という意味)に向かって大きな声で、「南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏」と叫んだように、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と叫ぶようなことになる。

 

問う:経文には明らかにそのように記されていることはわかったが、天台大師や妙楽大師や伝教大師(でんぎょうだいし・日本の最澄のこと)たちは、未来について予言しているのだろうか。

答える:あなたの言っていることは真逆である。もし、人が書いた論書を引用する場合は、そのような言葉は明らかに経典に記されているか、ということを確認することは当然であるが、経典に明らかに書いてあるならば、あえて人が書いた論書を見る必要はないのである。もし論書の言葉が、経典に相違していれば、あえて論書を信じることはあるまい。

言う:確かにそうである。しかし、一般人にとっては、経典の言葉はなかなか難しい。しかし、論書ならば親しみやすく、信心も起こしやすい。

答える:あなたは求める気持ちが深いので、では申し上げることにしよう。

天台大師は「後の五百年から未来にかけてまで、『法華経』の教えは行なわれるであろう」(注:ここで天台大師は、後の五百年とだけ言っていることに注目である。これは、単に鳩摩羅什訳の『法華経』の言葉を引用しただけであり、天台大師には、仏の死後の二千五百年という概念はないのである)と言っている。

また妙楽大師は「末法が始まったとは言え、仏菩薩からの功徳がなくなるわけではない」と言っている。

また伝教大師は「正法と像法が過ぎ去って、末法が近くなった。『法華経』の時はまさに今である。どうしてそれを知ることができようか。『法華経』の「安楽行品(あんらくぎょうほん)に、『末の世であり教えが滅びる時である』とあるからである」、また「時代を考えれば、像法が終わって末法が始まる時であり、国土を考えれば、日本は中国の東に位置し、羯(かつ・小月氏国とも言う。中国北東部沿岸に存在していた国)から見れば西であり、人を考えるならば、飢饉や天災や戦争などが起こり(劫濁・こうじょく)、誤った考えが広まり(見濁・けんじよく)、煩悩が盛んになり(煩悩濁)、人々の質が低下し(衆生濁・しゅじょうじょく)、人々の寿命が短くなる(命濁・みょうじよく)の五濁(ごじょく)であり、争いごとが絶えない時である。『法華経』に、「私の滅度の後はなおさら困難が多い」と述べられていることはこのことである」と言っている。

釈迦が世に出られた時は、人の寿命が百歳の時である(注:仏教の時代の考え方によると、昔になればなるほど人の寿命は長く、そこから人の寿命は短くなっていくと考えられている)。その百歳から寿命が短くなっていき、それが十歳になるまで間が今現在であり、さらにそれは、釈迦が教えを説かれた約五十年と、釈迦が死なれてから、正法と像法の二千年と末法の一万年となり、その間に『法華経』が広まるわけであるが、これに二回あったと見るべきである。すなわち、釈迦が直接『法華経』を説かれた八年間と、釈迦が死なれた後においては、末法の始めの五百年(つまり、釈迦の死なれた後、二千年たってから二千五百年の間)である。

しかし、天台大師や妙楽大師や伝教大師たちは、もちろん釈迦が『法華経』を説いた時には生まれていないし、さらに末法の時でもなく、むしろ、『法華経』が広まるべき末法の始まりの時を恋い慕って、このように語られたのである。

例えば、阿私陀仙人(あしだせんにん・釈迦が生まれた時、それを見て、その子の将来を予見した仙人)が、釈迦が太子としてお生まれになった時、嘆きながら、「ああ、私はもう九十歳になっているから、この太子が悟りを開くところを見ることができない。また、私が死んだら無色界(むしきかい・物質的存在のない世界)に生まれるので、太子が仏となってからの五十年の説法の座につくことはできない。もちろん、その後の世界にも生まれることはできない」と言ったようなものである。

仏の教えを求める心がある人々は、これを知って喜ぶべきである。正法や像法の二千年間に大王と生まれるよりも、未来世に仏となることを願う人々は、末法の今の時代の民であるべきではないか。なぜこれを信じないのだろうか。

あの天台の座主(ざす・天台宗のトップの僧侶)よりも、「南無妙法蓮華経」と唱える愚かな人間になるべきではないか。梁の武帝は、「釈迦を傷つけた提婆達多(だいばだった)となって地獄の底に堕ちることがあっても、釈迦が悟りを開く前に釈迦が師事していた欝頭羅弗(うずらんほつ)にはなるまい」と誓ったのである(つまり、最悪な人間となったとしても、仏の教えを聞くことができない人間とはなるまい、という意味)。

撰時抄 その1

撰時抄

 

(注:『撰時抄(せんじしょう)』は、日蓮54歳の著作である。身延において記される。この題名には、今はどのような「時」であるのか、それを「撰(えら)ぶ」という意味がある。)

 

釈迦の弟子である日蓮が述べる

 

そもそも仏の教えを学ぼうとするならば、必ずまず「時」を知るべきである。

過去世において、大通智勝仏は世に出られ、十小劫という長い間、ひとつの経典も説かれなかった。『法華経』には、「十小劫の間、座を立たれなかった」とあり、また「仏は時が未だ至っていないことを知り、教えを説くことを求められても、黙って座り続けられた」とある。現在の仏である釈迦は、四十年あまりの間、この『法華経』を説かれなかった。そのことを『法華経』では、「説く時が未だ至っていなかったため」とある。

(注:すべての経典が釈迦の説いた教えだと信じられていた当時は、すべての経典を釈迦の教えとしてランク付ける教相判釈(きょうそうはんじゃく)、略して教判が行なわれていた。それによると、悟りを開いて教えを述べ始めてから四十年たって、釈迦は『法華経』を説いたとされる。)

老子は母の胎の中にいて八十年、生まれる時を待ったという。弥勒菩薩兜率天(とそつてん・弥勒菩薩がいるとされる天)の内院にこもられて、五十六億七千万年が過ぎるのを待っておられる。

(注:釈迦が死んでから、この世に現われる次の仏が弥勒菩薩だという信仰があり、それは五十六億七千万年後だと言われる。)

ホトトギスは春が過ぎるのを待って鳴き、鶏は夜明けを待つ。動物でさえこうなのであるから、どうして仏の教えを実践しようとするのに時を問わないことがあろうか。

華厳経』が説かれた寂滅道場(じゃくめつどうじょう)においては、あらゆる方角の多くの仏が現われ、すべての大菩薩が集まり、梵天帝釈天、および四天王は衣を翻しながら来て、天龍八部衆(仏でもなく人でもない存在を総じてこのように呼ぶ)は手を合わせ、一般の人や修行の進んだ人たちは耳をそばだてて、解脱月菩薩 (げだつがつぼさつ)はじめ、人間の肉体を持っていながら煩悩を断つことのできた多くの菩薩たちが、釈迦に教えを説くよう求めたのである。しかし釈迦は、後に『法華経』で説かれるところの、二乗作仏(にじょうさぶつ・菩薩以外の者でも仏になれるという教え)や久遠実成(くおんじつじょう・釈迦の本当の寿命は永遠であるという教え)は、その名前さえ説かれず、即身成仏(そくしんじょうぶつ・そのままの身体で仏になるということ)や一念三千(いちねんさんぜん・一瞬の念の中にすべてが含まれるということ)は、その教えを説かれなかった。これらのことは、ただ、聴衆はそろっているけれども、まだ時が至っていなかったからだと『法華経』に記されている通りである。

(注:中国隋の天台大師が立てた教判(すべての経典の分類)によると、釈迦は悟りを開いて、まずその悟りの境地をストレートに表現した『華厳経』を説いたとされる。しかし、あまりにも内容が難しく、能力の低い者はわからなかったので、その次からは、程度の低い教えから説くことにしたとされる。そして、上に述べたように、四十年たってから、いよいよ最高の教えである『法華経』を説いたのだとされる。つまり、釈迦は、『華厳経』という悟りの境地をありのままに述べた経典でさえ説かれなかった教えを、時至って『法華経』において説かれたのだ、というのである)

そして、『法華経』が説かれた霊鷲山(りょうじゅせん)においては、その聴衆から違っていた。王である父親を殺して王となった、この世において最も親不孝者である阿闍世王(あじゃせおう)もその座にいた。また、釈迦を迫害して怪我まで負わせた提婆達多(だいばだった)もおり、その上、彼には将来、天王如来という仏となるであろうと授記(じゅき・仏になるという予言)まで与えられた。さらに、女性は五つの妨げがあるから仏にはなれないとされた女性であり、さらに竜女であった彼女にも、その蛇身を変えずにそのまま仏になるという授記を与えられた。声聞(しょうもん・釈迦の声を聞くという意味で、釈迦の弟子、つまり小乗仏教の人たちを意味する)と縁覚(えんがく・因縁の道理を悟って悟りを開くも、弟子は作らず、一人で一生を終える者を指す)は、もうその状態は決定してしまって、それ以上にはなれないとされていたが、その彼らにも仏になる授記を与えられたことは、まさに死んだと思われた種が芽を出し、花が咲き、実がなったようなものである。さらに、釈迦の命は永遠であり、すでに数えることのできないほど多くの菩薩たちを、自分の子供のように教化してきたと説かれた時、聴衆はあまりにも驚いて、それでは百歳の老人が二十五歳の者の子供となれるだろうか、と疑わせたほどである。

法華経』から導き出された一念三千の教理においては、仏以外の九つの世界も仏の世界と同じであり、仏の世界も他の九つの世界と同じだとする。それならば、この『法華経』の一文字は如意宝珠(にょいほうじゅ・願いをかなえる宝の玉)であり、一文字は多くの仏の種子(しゅじ・あらゆる存在を生み出す力や働き)となる。このような尊い教えが説かれた理由は、集まった聴衆が優れていたためではなく、ただ時が至ったためである。そのことを『法華経』に、「今まさに時である。必ずこれから大乗の教えを説こう」と記されている。

問う:教えを理解できない人に教えを説いて、その人が理解できないために教えを批判して、そのためにその人は悪しき世界に堕ちてしまうならば、それはその教えを説いた人の罪ではないだろうか。

答える:道に迷ってしまった人がいたとして、それはその道を作った人の罪となるだろうか。良医がいて、薬を病人に与えたところ、その病人はそれを嫌って飲まずに死んだとする。それは良医の失敗となるだろうか。

尋ねて言う:『法華経』に、「無智の人に対して、この経を説いてはならない」とあり、また「みだりに言い広めて人に与えてはならない」とあり、また「この法華経は諸仏如来の秘密の蔵のようなものであり、諸経の中で最上の経典である。昼夜となく守ってみだりに言い広めてはならない」などとある。これらの経文の意味は、聞く能力のない人に説いてはならないということではないか。

反論して言う:同じく『法華経』の「常不軽菩薩品」に、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は、「私は深くあなたたちを敬う」と言って礼拝したが、あらゆる身分の民の中には心が汚れていて怒りを感じる者がいて、「この無智な坊主め」と悪口を言い罵倒して、多くの人々は、棒や木や瓦や石で彼を打ったとある。また、「勧持品」には「多くの無智な人たちは、悪口を言い罵倒し、さらに刀や棒で打ちかかるであろう」とある。これらの経文に「悪口を言われ、罵倒され、さらに打たれたとしても」と書かれていている。それは、説く人の失敗となるだろうか。

質問して言う:確かに、この二つの『法華経』の言葉は互いに矛盾していて、水と火のようなものである。どのように理解したらいいのだろうか。

答えて言う:天台大師(智顗(ちぎ)・中国の陳から隋の僧で、天台教学の大成者)は、このようなことは時を見て判断すべきだと述べており、その弟子の章安(灌頂(かんじょう)・智顗の弟子で、智顗の講義の多くを筆記して後世に残した)は、「その取捨選択は適宜にすべきであり、片寄ってはならない」と述べている。つまり、ある時は、批判されるならばしばらく説かずにおき、ある時は、批判されても強いて説くべきであり、ある時は、一人くらいは信じそうであっても、他の万人が批判するならば説いてはならず、ある時は、万人がすべて批判しても強いて説くべきなのである。『華厳経』を説かれた時には、法慧・功徳林・金剛幢(こんごうどう)・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月などの大菩薩、梵天帝釈天、四天王など、一般人から能力の大変高い者たちまで、その数知れず、『阿含経(あごんきょう・教判においては、釈迦の初期の教えとされるが、事実は、歴史上の釈迦の教えに最も近い教えが記された経典)』が鹿野苑(ろくやおん)において説かれた時には、倶鄰(くりん)などの五人、迦葉(かしょう)などの二百五十人、舎利弗(しゃりほつ)などの二百五十人、八万の諸天などの聴衆が集まり、釈迦が初めて大乗の教えを説いた時には(注:あくまでも教判に基づいた解釈で、歴史上の事実とはことなっている)、釈迦の父親である浄飯王(じょうぼんのう)が熱心に教えを説くよう願ったので、仏は宮に入られ、『観仏三昧経(かんぶつざんまいきょう)』を説かれ、すでに亡くなっていた母のために、仏は忉利天(とうりてん)に昇られて九十日間おられ、『摩耶経(まやきょう)』を説かれた。父親のため母親のためであるから、どんな秘めた教えであっても惜しまずに説かれそうなものだけれども、やはり『法華経』は説かれなかった。それを思うに、聴衆は教えを聞く能力を持っていても、時が至っていなければ、どのような場合であっても説かれなかったのである。

問う:どのような時に小乗や『法華経』以外の大乗経典を説き、どのような時に『法華経』を説くのか。

答える:菩薩でさえ、下位の菩薩から最上位の菩薩に至るまで、時と相手の能力を知ることはできず、仏のみご存知である。ましてや私たちは普通の人間である。どうしてそれを知ることができるだろうか。

さらに求めて言う:しかし、少しでもそのことを知ることはできないのだろうか。

答える:仏の眼をもって時と相手の能力を考えよ。仏の光をもって国土を照らせ。

問う:それはどういう意味か。

答える:『大集経(だいじっきょう)』に記されているところによると、釈迦は月蔵菩薩(がつぞうぼさつ)に向かって、未来の時について語っておられる。釈迦の死後、五百年の間は、悟りも開け教えも守られる時であるが、次の五百年には禅定が守られる時であり、以上で千年となるが、次の五百年には経典はよく読誦され、教えも学ばれる時であり、次の五百年には塔や寺院が多く造られる時であり、以上で二千年となる。さらに次の五百年には、仏の教えについても論議が戦わされ、正しい教えが隠れてしまう時という。以上の二千五百年についての解釈も人それぞれである。

まず、中国の道綽(どうしゃく・562~645)の説では次のように言っている。

正しい教えが伝えられ、悟りも開くことができる時期である正法(しょうぼう)と、悟りは開くことができなくなるが教えだけは残る像法(ぞうぼう)を合わせた二千年間では、小乗と大乗の教えは盛んに行なわれるが、続く末法(まっぽう)に入ると、それらの教えは消滅して、浄土の法門すなわち念仏の教えだけが、人々を生死の苦しみの連鎖から離れさせることになる。

日本の法然(ほうねん・1133~1212)がこれ解釈して、次のように言っている。

今の日本に流布している『法華経』、『華厳経』ならびに『大日経』や、その他の小乗経典、天台宗真言宗律宗などの諸宗は、『大集経』にある正法と像法の計二千年の教えである。末法に入つてからは、これらの教えはみな消滅するであろう。たとえその教えに従って修行する人があったとしても、一人も悟りを開いて、生死の苦しみの連鎖から離れることはできないであろう。『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん・インドの大乗仏教思想の大成者である龍樹(りゅうじゅ)の著作)』と曇鸞(どんらん・生没年不詳)が述べる難行道(なんぎょうどう・自分の力で修行する困難な道)、また、道綽(どうしゃく・562~645)が言う「一人も悟りを得ることができない」という言葉、また、善導(ぜんどう・597~681)が言う「千人の中でも一人もいない」という言葉がこれである。これらの難行道の教えが末法の世になって消えて、その次には『浄土三部経(じょうどさんぶきょう・浄土思想の中心的な三つの経典。『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)』の教えである阿弥陀仏の御名を唱える念仏のひとつの行だけが、人々を導く教えとして出現するであろう。この教えを行なう人は、どんな悪人や愚人であっても、十人なら十人、百人なら百人、ただ浄土の一門のみあってみな入ることができる、と言っているのである。

こうして法然の流れをくむ浄土教の人々は、死後良い世界に行くことを願う人々に対して、比叡山や東寺や園城寺や奈良の七大寺などの日本の諸寺諸山に帰依することをやめさせ、それらの寺院に寄進された田畠郡郷を奪い取って、それらを、念仏を行なう寺院に送れば極楽往生は決定すると言い、こうして「南無阿弥陀仏」の念仏を勧め、約五十年が過ぎて、とうとう日本中の人々がこの教えに入ってしまった。

日蓮は、この教えの悪義を非難して、すでに長い年月が経っている。『大集経』に記されている「正しい教えが消滅する時」は、確かに釈迦の死後の二千年が過ぎた後であることは疑うことはできない。ただし、正しい教えが消滅した次には、『法華経』の中心である「南無妙法蓮華経」の大いなる教えを、この世に八万の国があるならばその八万の王ごと、ならびに臣下さらに万民に至るまで、今の日本中の人々の口が「南無阿弥陀仏」と唱えているように、「南無妙法蓮華経」の題目を広く述べて流布させるべきである。

 

日蓮 #撰時抄

寺泊御書 現代語訳と解説

寺泊御書

 

今月十日(文永8年・1271年)、相州愛京郡依智の郷(現在の神奈川県厚木市)を出発して、武蔵国久目河の宿(現在の東京都東村山市)に着き、十二日間を経て、越後国の寺泊の港に着きました。これから海を渡って佐渡に行こうとしていますが、風が定まらず、いつになるかわかりません。ここまでの旅路を振り返っただけでも、言葉にも文字にもできないほどです。どうかお察しください。またもちろん、このようなことは覚悟の上です。今更嘆くことでもないので、これ以上は書きません。

(注:『寺泊御書』は、日蓮上人の最も有力な信者である富木常忍(ときじょうにん・1216~1299)に送った書状である。常忍は日蓮上人の死後、出家して日常と名乗り、自宅を寺とした。それが現在の千葉県にある中山法華経寺である。この『寺泊御書』もその寺に保管されている。

江の島の龍ノ口で処刑されるところを奇跡的に免除された日蓮上人は、そのまま、現在の厚木市にある本間重連(ほんましげつら)の邸宅に約一か月預けられた。なぜ厚木の本間邸に送られたのか定かではないが、彼は佐渡国守護代、つまりこれから日蓮上人が流罪となる佐渡国の行政をする事実上の責任者であり、すでにこの時、佐渡流罪が決まっていたと考えられる。本間重連については、日蓮上人の手紙以外に資料がなく、詳しいことは不明だが、後に日蓮上人の信者となったと言われる。

日蓮上人は、厚木を出発した後、東村山市付近を通過して、日本海に面する港町である寺泊に到着した。現在は新潟市直江津市佐渡への玄関口であるが、当時は寺泊であった。日蓮上人はここで約一週間、風を待つこととなるが、その間に記されたのが、この『寺泊御書』であり、日蓮上人50歳の著作である。本書は、これから佐渡で記される、日蓮上人の思想の転機となった『開目抄』や『観心本尊抄』の前章的な意味があると言われる。)

法華経に「この経典に対しては、私(釈迦)がいる現在においても非難されている。ましてや、私が死んだ後は言うまでもない」とあり、また他の箇所には、「世の中には妨げになることが多く、信じることは難しい」とあります。

また『涅槃経』に「その時、すべての外道(げどう・仏教以外の宗教)の人々は、次のように言った。『大王よ。今、非常に悪い者がおります。瞿曇沙門(くどんしゃもん・釈迦のこと)と言います。他の多くの悪人は、私腹を肥やすために彼のところに行き、しかも弟子となって、善を行なうことはありません。また釈迦は呪術によって、迦葉(かしょう)や舎利弗(しゃりほつ)や目連(もくれん・この三人は釈迦の大弟子たちである)たちを操っています』」とあります。

この『涅槃経』の文は、あらゆる外道が、自分たちの経典が釈迦に論破されたことに対する恨みの言葉です。しかし、この文はまだ、仏教以外の外道からの非難ですが、先に引用した『法華経』の文の意味はそうではありません。天台大師(538~598・中国の陳から隋の僧。天台教学の大成者)の著作の解釈書によれば、この非難する者は、目先の悟りばかりにこだわっている釈迦の弟子たちであるとあります。この『法華経』を聞こうとせず、信じようとせず、口に出して非難しなくても、そのような者たちも、天台大師は『法華経』の敵だとしました。したがって、今現在を考えてみますと、他の宗派の学者たちは、すべて外道のようなものです。同じく、今現在においては、『涅槃経』の文の中で、「非常に悪い者」と言われている者は、この日蓮に当たります。そして「他の多くの悪人」とは、日蓮の弟子たちです。この外道たちは、『法華経』が過去の仏たちも説いていた教えであることを知らず、釈迦がこの経を説くことを非難するのです。今現在の他の宗派の学者たちもこれと同じです。仏の教えを誤解しているのです。それはまるで、自分が酔って目を回しているのに、目に見える大きな山が回っていると思うようなものです。今現在、多くの宗派に分かれているため、それぞれ論議をしているのも、このような理由からです。

(注:この箇所から、『法華経』が最も優れていることを、当時の仏教学をもとに語られる箇所となるが、この箇所を理解するためには、当時の仏教学の常識を知らねばならないので、ここで簡単にそれを記す。

明治になるまで、すべての経典は釈迦の教えを記したものだと信じられていた。しかし、明治以降、それは覆され、すべての経典は釈迦の教えではなく、紀元直後に起こった仏教の宗教改革である大乗仏教運動の中で、それぞれのグループが自分たちの主張を釈迦に語らせる形でそれぞれの経典を創作していったことが明らかとなった。しかし、それはあくまでも明治以降に明らかになったことであり、それまでの祖師や学者たちは、すべて釈迦の教えだと信じていたため、それでは、多くの経典の中で、どれが初歩的な教えで、どれが最終的かつ最高の教えか、というランク付けがされることとなった。そのランク付けのことを教相判釈(きょうそうはんじゃく・略して教判)という。そして多くの学者や僧によって、多くの教判が立てられていったが、天台大師智顗(ちぎ)の立てた教判が最も優れているとされ、それ以降、多くの僧たちが、その教判に基づいて経典を解釈するようになった。日蓮上人ももちろん天台大師を尊敬し、その教えによって、自らの法華経解釈を築き上げていったのである。

その天台大師の教判によると、『妙法蓮華経』つまり『法華経』が最高の教えであるが、釈迦が最後に説いた経典は、『涅槃経』であるとする。その『涅槃経』は、その前に説かれた『法華経』の教え以上のことは説かれていないが、改めて、『法華経』が最高の教えであることを裏付ける役割があるとされる)。

『涅槃経』には、「宝を与えて命を生かす」という言葉があります。これについて天台大師は、「命とは『法華経』のことである。宝とは、『涅槃経』に説かれる『法華経』以前の別教・通教・蔵教の三教である(注:天台教学では、すべての経典をその内容に基づいて、円教・別教・通教・蔵教の四種に分けている。これを化法の四教という。『法華経』の内容は、最後の円教に当たる)。それでは、その『涅槃経』が説く円教は何であろうか。それは、この『法華経』に説かれるところの仏性常住(ぶっしょうじょうじゅう・仏性とは、仏の本質という意味。つまり、その仏性は誰にもそして常に存在するという意味)を重ねて説いて、『法華経』の核心に帰入させ、『涅槃経』の円教における仏性常住をもって『法華経』に摂取させるのである。したがって、『涅槃経』の働きは、円教の前の三つの教えに限って及ぶことになる。天台大師の『法華玄義(ほっけげんぎ)』には、「『涅槃経』は、『法華経』を生かす宝である。『法華経』を証しするために、再び手を打って賛同しているようなものである」とあります。また妙楽大師湛然(たんねん・711~782。中国唐の天台宗の僧であり、天台教学の中興の祖と言われる)が記した『法華玄義』の注釈書である『法華玄義釈籤(ほっけげんぎしゃくせん)』にも、「『涅槃経』の「宝を与えて命を生かす」という比喩を天台教学では、『涅槃経』を宝とするのである」と述べています。

天台大師の『四念処(しねんじょ)』という著作には、『法華経』の「さまざまな教えを説くと言っても、それらはすべて『法華経』に導くための方便(ほうべん・巧みな手段)である」という言葉を引用しつつ、『法華経』以前に説かれた他の経典は、『法華経』を生かすための宝だとしています。もしそうならば、『法華経』以前に説かれた経典ばかりでなく、『法華経』以後に説かれた経典(『涅槃経』のこと)も、『法華経』を生かすための宝ではないでしょうか。

しかし、世間の学者は「そのような理屈は、天台宗だけが言っていることであり、他の宗派では用いられるわけがない」と言っています。

この日蓮がこのことを考えますと、次のように言えるのです。

多くの宗派は、すべて釈迦の死んだ後に起こったもので、それぞれの祖師や学者たちが、その教義を立てています。しかし、このように釈迦の死んだ後に立てられた教義によって、釈迦の経典を理解してはならないのです。天台大師の解釈は、すべての経典の真意にそったものなので、天台宗の一宗に限ったものだと決めつけてはならないのです。他の宗派の学者たちは、自分の宗派の祖師の誤った教えに執着するため、「正しく理解されないのは、教えが間違っているのではなく、聞く者の能力がないためだ」とか、「昔の偉大な師の説だから正しい」とか、さらに支配者のご機嫌を取って味方につけたりして、結局最後には、悪い心が湧き出して争いごとに発展させ、罪もない者を滅ぼすことを願ったりするのである。

他の多くの宗派の中でも、真言宗は特に片寄った考え方をしています。善無畏(ぜんむい)や金剛智(こんごうち・この二人は、中国に真言宗の教理である密教をもたらしたインドの僧。密教とは大乗仏教の一つの流れであり、真理は秘密であるから、秘密の行によってそれを得るとする教え)たちは、次のように考えています。「一念三千(いちねんさんぜん・一瞬の心の動きの中にすべてが含まれる、という天台教学の重要用語)は天台教学の極みであり、釈迦のすべての教えの中心である。顕教(けんぎょう・真理は秘密であるという「密教」の立場からすると、真理を積極的に言葉で表現しようとする教えは、表に明らかに表現された教えである「顕教」であるとする)と密教の両方においても、一念三千は共通する重要な教えであるが、それはしばらく置いておき、印相(手の指で形作る真理を象徴した形)と真言(いわゆる呪文・釈迦が使っていた古代インド語の発音そのままだとする)が仏教で最も重要なことである」。その後、真言宗の僧や学者たちは、善無畏や金剛智の教えに基づくとして、印相と真言がない経典は程度が低く、外道の教えのようなものだとしたのです。

(訳者注:一念三千とは、天台教学の修行方法である止観(しかん・乱れた心を静めて、その心を観察する修行。心を観察することを観心という)の教えであり、天台大師智顗が唱え、その後、天台教学の中興の祖と言われる妙楽大師湛然(たんねん)が発展させた天台宗の教学の用語である。瞬間的な心である一念にすべて(すべてということを三千という数字で表現している)が備わっているという教えであり、そのことを観心の中で観察することが説かれる。この一念三千という言葉は『法華経』の中にはない。しかし日蓮上人は、一念三千こそ『法華経』の真理だとする)。

あるいは、真言宗の教義に、「『大日経密教の中心的な経典)』は、他の釈迦の教えとは違った特別な経典である」、あるいは「教主である釈迦の第一の教えである」、またある教理には「釈迦如来と現われ顕教の経典を説き、大日如来密教で中心的な仏)と現われ密教の経典を説く」などとあります。このように、道理を得ずに無数の偏見を起こしています。

それは例えば、牛乳などの乳の色を知らない者が、いろいろ言ったところで、結局は本当の色を表現することができないようなものです。また、象を知らない盲人が、象のしっぽをさわって、象は細長い生き物だ、と言ったという有名な例え話のようなものです。

真言宗の人たちよ、あなたがたは知るべきです。『大日経』などの密教経典は、『法華経』の前に釈迦が説いた経典だとするならば、『華厳経(けごんきょう)』のようなもので(訳者注:天台大師の立てた教判によれば、悟りを開いた釈迦は、まず『華厳経』を説いて、悟りの神髄をストレートに表現したが、能力の低い人たちはそれを理解できなかったので、それからは、程度の低い経典から順次説くことにした、としている。日蓮上人は、『大日経』はその『華厳経』のようなもの、と言っているところから考えるならば、日蓮上人もある程度、『大日経』のレベルの高さを認めていることがわかる)、もし『法華経』の後に釈迦が説いた経典だとするならば、『涅槃経』のようなものです(訳者注:これも同じように、先にも説明したが、日蓮上人は『涅槃経』は『法華経』の後に説かれた経典で、『法華経』を証しする重要経典だと述べているので、やはり『大日経』のレベルの高さを認めていることがわかる)。

また善無畏は、インドの『法華経』の原典には印相と真言もあったが、翻訳者がこれを略し、その翻訳者のひとりである鳩摩羅什(くまらじゅう・344~413他説あり。西域の僧であり、中国に来て、代表的な大乗経典を数多く漢訳した翻訳僧。『法華経』の翻訳者)は、これを『妙法蓮華経』と名づけ、後に印相と真言を加えて翻訳して、『大日経』と名づけた、とでも言うのでしょうか。例えば、同じ『法華経』の原典を用いて翻訳しても、翻訳者によって、『正法華経(しょうほけきょう)』、『添品法華経(てんぽんほけきょう)』、『法華三昧経(ほっけざんまいきょう)』、『薩云分陀利経(さつうんふんだりきょう)』などの異名があるようなものだ、とでも言うのでしょうか。

(訳者注:『法華経』はインドで紀元直後から約1世紀の間、少しずつ編集され、いくつかの部分が組み合わされて成立した大乗経典である。大きく分けて、前半と後半に分けられ、それは誰が読んでもすぐにわかるほどなので、前半を迹門(しゃくもん)、後半を本門(ほんもん)と言う。

法華経』のサンスクリット原典の名前は、「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」という。「サッ」は「正しい」あるいは「不思議」という意味で、「妙」と訳される言葉であり、「ダルマ」は「教え」という意味で、「法」と訳される言葉、「プンダリーカ」は「白い蓮華」という意味であり、「スートラ」は「経典」のことである。このため、鳩摩羅什は『妙法蓮華経』と訳したのである。しかし、竺法護(じくほうご)という翻訳僧は『正法華経』と訳した。そして闍那崛多(じゃなくった)によって『添品法華経(てんぽんほけきょう)』と訳された。闍那崛多によって、「提婆達多品(だいばだったほん)」と「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」の詩偈の箇所が付け加えられたので、「品(=章)を添える」という言葉が表題にある。『法華三昧経』と『薩云分陀利経』は、現存していないので、不明である。このように『法華経』と言っても、いろいろな異訳がある。しかし、その中でもやはり、鳩摩羅什の訳が最も優れているということで、『法華経』と言えば、彼が訳した経典を指す。)

釈尊の入滅後に『法華経』が優れていることを知った人物、は龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ・2世紀ごろのインドの僧。大乗仏教思想の空思想の大成者であり、彼を最大級に尊敬して菩薩と呼んでいる)であり、中国では天台智者大師である。真言宗の善無畏たちや、華厳宗(けごんしゅう・『華厳経』を最高経典とする宗派で、日本では奈良の東大寺が本山であり、奈良の大仏は『華厳経』の世界観によって造られた)の澄観(ちょうかん・中国の華厳教学の改革者)たちや・三論宗(さんろんしゅう・龍樹やその弟子が記した三つの論書を中心とする学派なので、このように呼ばれる)の嘉祥(かじょう・嘉祥大師吉蔵(きちぞう)のこと。吉蔵の名の方が有名である。中国の三論宗の僧)たちや、法相宗(ほっそうしゅう・唯識(ゆいしき・根本的な「識」によってすべては成り立っているということを研究する学派)を伝える宗派。日本では奈良の薬師寺が本山)の慈恩(じおん・慈恩大師基(き)のこと。中国の唯識学の大成者。有名な玄奘(げんじょう)の弟子)たちは、名目上はそれぞれの宗派の祖師とされていますが、内心では天台宗の教義を受け入れ、従っていたのです。しかし、その門弟たちはそのことを知りません。どうして正しい教えを破る罪を逃れられるでしょうか。

(注:「内心では天台宗の教義を受け入れ、従っていたのである」とあるが、もちろん、文字通りにはこのようなことはない。日蓮上人の著作の中に、多くこれと同じような言葉が使われているが、その意味は、天台大師の『法華玄義』などに表わされた教学は非常に優れていて、誰もそれを無視することができなかった、ということと解釈できる。事実、『法華玄義』で説かれる教学を学んだ上で、その応用あるいは焼き直しのような形で、自らの主張を立て上げていった宗派がほとんどであると思われるのである。特に澄観の華厳教学は間違いなくそれである)。

ある者は、日蓮を非難して次のように言っています。「日蓮は、相手かまわず、自らの主張をぶつけるので迫害にあうのだ」。またある者は、「日蓮は、自分は『法華経』に書いてある通りに迫害にあっているのだ、と言うけれど、その『法華経』の言葉は、この世の人間に対してではなく、菩薩に対して述べられているのであり、この世の人間は、『法華経』の他の箇所に記されているように、平穏に満ちた布教生活を送るべきである」と言っています。またある者は、「私もあなたの教えに同感するが、とても人前では言えない」と言っています。またある者は、「そもそも仏教は、理論と実践修行が伴ってこそ、であるが、日蓮は理論ばかりで実践の教えがない。しかし、私はその両方とも身につけている」と言っています。

(訳者注:特に天台教学では、理論のことを「教相(きょうそう)」といい、修行のことを「観心(かんじん)」という。現在日本で「修行」と言うと、荒行などの行動的な行を思い浮かべる人が多いと思うが、これは日本独特の修験道と仏教が結びついた結果である。本来、仏教の修行は、釈迦以来、瞑想を中心としたものである。瞑想とは、心を観察する観心であり、止観である。この寺泊から佐渡に渡った日蓮上人は、まず塚原という場所で『開目抄(かいもくしょう)』を著わすが、この内容は教相を中心とした内容である。その後、日蓮上人は一の谷(いちのやつ)という場所に移って、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を著わすが、これは文字通り、観心を中心とした内容である。もちろん、日蓮上人は座禅的な瞑想を説くのではなく、妙法蓮華経の五文字にそれが含まれる、と説くのである。)

中国の卞和(べんか)は、王に貴重な宝石を献上したところ、それが疑われて足を切られてしまいました。日本の清丸(きよまる・和気清麿(わけのきよまろ)のこと)は、道鏡天皇になろうとしたのを止めたため、朝廷の怒りを買って、穢丸(きたなまる・あるいは、きたなまろ)という名前を与えられ、死罪にされそうになりました。当時の人々はこのことをあざ笑いましたが、むしろそのように非難した人々の名前は、歴史上から消えてしまっています。上に述べたような私に対する非難も、またこのように、いつか消えてなくなるでしょう。

法華経』の「勧持品(かんじほん)」には、「無智な人は、悪口を言ったり、罵倒したりする」とあります。日蓮のことも、まさにこの経文に該当します。どうして非難をする人々が、この「無智な人」に該当しないことがありましょうか。

また同じく『法華経』に、「刀や杖をふるわれる」という言葉があります。日蓮はこの経文を、自らのこととして読んでいます。非難する人々は、この経文がわからないのでしょうか。

また同じく『法華経』に、「常に多くの人々の前で、私たちを非難しようとする」とあり、また「国王や大臣やバラモン教の人や在家信者たちに対して、私たちの悪口を言い侮辱をして、度々追放する」とあります。この経文に「度々」とあるように、日蓮は追放されること数多く、流罪は、伊豆への配流に続いて、今度が二度目です。

法華経』は、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたってのことが記されています。何度も迫害されながらも、『法華経』の教え通りに行なった常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のことが『法華経』の「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)」に書かれてありますが、常不軽菩薩は過去の釈迦の姿であるので、「常不軽菩薩品」は過去のことであり、それは現在の「勧持品」に当たります。すなわち、現在の「勧持品」は、過去の「常不軽菩薩品」です。さらに、現在の「勧持品」は未来の「常不軽菩薩品」でもあります。したがって、未来世においては、日蓮は過去の常不軽菩薩とされることでしょう。

法華経』は八巻二十八品(ほん=章という意味)ですが、インドの原典は地面に敷かれるほどの量だと言われます。かなりの分量だったのでしょう。したがって現在、中国や日本に伝来している二十八品は、原典を省略して、要点だけを記したものなのでしょう。

今ここで、『法華経』の重要な要点は述べませんが、「見宝塔品(けんほうとうほん)」には、釈迦がすべての聴衆に向かって、この経典の布教を三度勧めたという箇所があります。そしてその後の「勧持品」には、それに対する二万・八万・八十万億などの大菩薩が、布教を誓ったことが記されていますが、それについては日蓮の浅い智慧では理解しきれません。ただし、その誓いの言葉の中に、「恐怖悪世の中(で布教します)」とあることは、世の終わりが近い悪い世の中、つまり末法(まっぽう)の始まりを意味します。さらに、その言葉が記されている箇所の後の「安楽行品(あんらくぎょうほん)」には、「末世」とあり、異訳の『正法華経』には「後の末世」あるいは「後に来る末世」ともあり、同じく『添品法華経』には「恐怖悪世の中」とあります。

まさに現在の世は悪世であり、『法華経』に記されている三種類の敵、すなわち、布教する者に暴行する俗人、正しい教えを破る僧、聖人のふりをする僧などは確かにいます。しかし、上に述べたところの、布教を誓った八十万億もの菩薩たちは一人も見当たりません。海が乾いたままで潮が満ちず、月が欠けたままで丸くならないようなものです。しかし、水が清まれば自然と月は水面に映り、木を植えれば自然と鳥が巣を作ります。日蓮は八十万億の菩薩たちの代理として、その菩薩たちからのご加護を請い求める者です。

さて、あなたが付け人として送って下さったこの僧の方は、佐渡の国までお供をしたいとおっしゃっていますが、私一人でも大変な流罪の地での生活ですから、帰ってもらうことにします。もちろん、あなたのお気持ちに対しては、今更申し上げるまでもありません。みなさんにも、このようにお伝えください。ただし、鎌倉で捕らわれの身となっている弟子の僧たちのことが気がかりです。何かわかりましたら、すぐにお知らせください。

あなかしこ あなかしこ

 

十月二十二日酉の時

日蓮  花押

土木(=富木)殿

立正安国論 現代語訳と解説 後半

客人は少し和らいで言った。

おっしゃること、すべて理解したわけではありませんが、ほぼ、その内容はわかりました。しかし、京都から鎌倉に至るまで、仏教界の棟梁とも言うべき中心的な人物がいます。そのような人たちは、誰も幕府に訴えることもせず、朝廷に上奏した者もいません。あなたは卑しい身分をもって、たやすく悪口を言うのではありませんか。おっしゃることは議論の余地があることで、いわれのないことではありませんか。

 

主人が言った。

私は能力もない者ではありますが、恐れ多くも、大乗を学ぶ者です。ハエも駿馬の尾についていれば万里を走り、つるを伸ばす植物も松のてっぺんに至れば、自らの長さもそれと同じになります。仏の弟子となって、あらゆる経典の中で最も優れた法華経に仕える者としては、どうして仏法の衰えるのを見て、悲しむ心情を起こさないでいられるでしょうか。

その上『涅槃経』には、『もし良い僧侶がいて、仏法を破る者を見て、そのままにしてしまって、責めもせず追い出すこともせず罪を指摘しなければ、まさに知るべきである。その人は仏法の中の怨敵である。もし責め追い出し罪を指摘するならば、まさに私の弟子であり、声聞(しょうもん・仏の声を聞く者、すなわち弟子)である』とあります。私は良い僧侶ではありませんが、仏法の中の怨敵と責められることを避けるために、ただ概略を述べて、その一端を示しています。

そのうえ、去る元仁年中に比叡山延暦寺と奈良の興福寺から、たびたび朝廷に奏上が出され、その結果、天皇からの勅宣や幕府からの御書が下され、法然の『選択集』の版木を比叡山の大講堂に取り上げ、過去・現在・未来の仏の恩に報いるために、これを焼き捨てさせました。また法然の墓は、延暦寺配下の用人に申し付けて、これを壊しました。そして法然の高弟である隆観、聖光、成覚、薩生たちは流罪になったのですが、その後、いまだにそれが赦されていません。

このように、あなたは、誰も幕府や朝廷に訴える者がいないとおっしゃいましたが、そのようなことはないのです。

 

客人は穏やかになって言った。

あなたも、浄土宗の諸経典を見下し、法然という僧侶を非難しているではありませんか。

しかし、確かに大乗仏教の二千八百八十三巻にも及ぶ経典と、すべての諸仏菩薩、および多くの諸天善神などを、「捨てよ、閉じよ、排除せよ、投げ打て」の対象としてしまったことは明らかで、それは決して良いこととは思えません。そうかと言って、それはわずかばかりの傷のようなもので、あなたはそのわずかな傷を取り上げて、強く批判しています。私には、法然聖人が迷って言っているのか、悟って言っているのかよくわかりません。そしてあなたの意見と法然聖人と、どちらが賢く、どちらが愚かで、良いのか悪いのか、判断がつきません。ただし、あなたはすべての災難は『選択集』にあるとおっしゃって、さかんに非難されています。

しかし、そもそも天下泰平国土安穏は、君臣や民が同じく願うものです。国は教えによって栄え、教えは人によって尊いのです。国が亡んで人が滅んでしまうならば、仏を誰が崇めるでしょうか。教えを誰が信じるのでしょうか。まず国家のために祈って、そして仏法を立てるべきです。もし災難を消し止める方法があるならば、是非聞きたいものです。

 

主人が言った。

私はあくまでも愚かな者であり、賢いのではありません。ただ、経典の言葉について、わずかながら意見を述べたいと思います。

そもそも災難を収める方法は、仏教の経典にも、また他の宗教の聖典にも、たくさん記されているではありませんか。それらすべてをあげることは困難です。

ただし、仏道に入った者として、私の愚かな考えを巡らせば、正しい教えをそしる者を排除して、正しい教えを行なう者を重んじれば、国内は平安であり、天下泰平となります。

すなわち、『涅槃経』には次のようにあります。

「誰にでも布施することは称賛されるべきことであるが、それは、ただ一人を除いてのことである。では、ただ一人の人とは誰であろうか。それは一闡提(いっせんだい・仏になれない者のこと。しかし、『涅槃経』では、その一闡提にも仏になれる可能性である仏性があると説くが、日蓮上人の引用の趣旨はそこにはなく、あくまでも最悪の者という意味でこの文を引用している)である。さらに、ではその一闡提とはどのような者であろうか。それは、正しい教えを非難する者のことである」。

また同じく『涅槃経』には「どんな生き物であっても、それを殺してしまえば、死後、その者は悪い報いを受けなければならない。しかし、一闡提を殺してしまっても、その者は悪い報いは受けない」とあります。

また『仁王経』には、「正しい教えは僧侶や尼僧に委ねないで、多くの国王に委ねるべきである。なぜならば、僧侶や尼僧には、王のような正しい教えを守る力がないからである」とあります。

また『涅槃経』には、「今、この上ない正しい教えを、多くの王や大臣および僧侶や尼僧、在家の人たちに委ねる。もし正しい教えを破る者があるならば、正しい教えを委ねられた者は厳しくこれを罰しなさい」とあり、また「私は正しい教えを守ったという功徳によって、仏となったのだ。僧侶でない在家の者で、正しい教えを守る者は、戒律を持つよりも、武器を持って正しい教えを守るべきである」とあり、また「在家の者で、戒律を保つ者があっても、その者は大乗を行じる人とは言えない。戒律を保たなくても、正しい教えを守る者を、大乗を行じる人と名付けるのである」とあります。

また、同じく『涅槃経』には次のようにあります。

「善き男子よ。過去の世に拘尸那(くしな)城において、ある仏が世に出られた。名は歓喜増益如来という。その仏が涅槃を表わされた後(注:世から去られた後という意味)、正法(しょうぼう・仏が入滅された後に、その仏の正しい教えが世に行なわれる期間)は無量億年もの長い期間だった。その正法の時代も残り四十年となった時、一人の戒律をよく保つ僧侶がいた。名は覚徳という。その時に多くの破戒の僧侶がいた。覚徳が説法をする時、刀杖をもってこの法師を迫害した。その時の国王の名は有徳というが、王はこのことを聞き、護法のために、すぐに説法者の所に行って、この多くの破戒の悪しき僧侶たちと激しく戦った。こうして、説法者は危害を免れた。しかし王は多くの刀や槍の傷を受け、体に傷がないところは芥子粒ほどしかなかった。その時に覚徳は王を褒めて『良いことです、良いことです。王は今、まさに正しい教えを護る者となりました。まさに来世では、その体は無量の教えの器となるでしょう』と言った。王はこうして正しい教えを聞くことができ、心は大いに歓喜しながら、やがて寿命を終えた。そして阿閦仏(あしゅくぶつ)の仏国土に生まれたが、しかもその仏の第一の弟子となった。そして、その王の家来や人民や、共に戦った人々、そして正しい教えに歓喜した者たちは、すべて悟りを求める心を失わず、命終えてからは同じく阿閦仏の仏国土に生まれた。覚徳も寿命が尽きて、同じく阿閦仏の仏国土に往生し、その仏の弟子である声聞衆の中の第二の弟子となった。正しい教えが滅びようとしている時、まさにこのように教えを受け保ち、擁護すべきである。摩訶迦葉よ。その時の王とは、すなわち今の私なのだ。そして、その正しい教えを説いた僧侶は、迦葉仏(かしょうぶつ・この摩訶迦葉のことではなく、釈迦より過去にいたとされる過去七仏の六番目の仏)である。摩訶迦葉よ。正しい教えを護る者は、このように無量の果報を得るのである。この因縁をもって、私は今日において、種々の仏の姿を得て自らを荘厳し、法身不可壊(ほっしんふかえ・真理が人格化した法身は損なわれることはないという意味)の身体を成就したのだ。さらに仏は、摩訶迦葉に語った。このように、正しい教えを護ろうとする在家信者たちは、まさにこのように、刀杖を執持して擁護すべきである。善き男子よ。私の涅槃の後、悪しき世となって国土が荒れ乱れ、互いに奪い合い、人民は飢餓状態となるであろう。その時に飢餓のために出家する者たちがいるであろう。そのような者たちを禿人(とくにん・単なる禿げ頭の人という意味)という。その禿人の輩は、正しい教えを護り保つ者を見ると、追い出し、殺し、傷つけるであろう。そのために、正しい教えを保つ僧侶は、刀や杖などの武器を持つ在家の人々と共にいるべきなのである。その在家の人々は、正しい教えを守ることによって、戒律を保つ者と名付けるのである。ただし、刀や杖を持つと言っても、それは防御と教えを守るためであって、人の命を断ってはならない」。

(注:「飢餓のために出家する者たち」とあるが、とりあえず、僧侶の形をしていれば、食べ物にありつけるだろうとする者たちは、いつの時代にも多かったと思われる。また、日蓮上人の弟子で、武士であった四条頼基という人物がいるが、後に日蓮上人が龍ノ口で処刑されそうになった時もそこにいて、共に切腹しようとするまでの熱心な弟子であった。また後に日蓮上人は佐渡で、この武士宛に『開目抄』を記した。武士であり弟子である者にとって、このような経文はまさに自らに語られた言葉として、信仰の指針としていたに違いない)。

さらに『法華経』には「もし人がこの法華経を信じないで誹謗するならば、仏になる可能性を完全に失うことになり、その人は死んでから地獄の底に落ちる」とあります。

このように、経典には明確に記されており、あえて私が何かを付け加える必要もないくらいです。そもそも『法華経』にある通りならば、大乗経典を誹謗する者は最も重い罪であり、地獄の底に落ちて、そこから非常に長い間出ることはできないことになります。また『涅槃経』にある通りならば、最も重い罪を犯した者に布施することは許されても、大乗経典を誹謗する者に対する布施は許されないことになります。また蟻を殺す者が、死後に悪しき世界に堕ちたとしても、大乗経典を誹謗することを止める者は、悟りに向かって退くことのない位に昇るでしょう。そして、その証拠として、覚徳は迦葉仏となり、有徳王は釈迦であると説かれています。

法華経』と『涅槃経』は、釈迦の教えの中でも最も中心的な経典です。したがって、この経典を非難することを禁ずる戒めは重いのです。誰が従わずにおられましょうか。

それにもかかわらず、非難する人々は正しい道に歩むことを忘れ、さらに、法然の『選択集』によって、さらに愚かさを増し加えています。そのため、法然の遺体を慕って、その木像を作ったり絵に描いたり、またはその誤った教えを信じて、それを版木で印刷して日本中に広めたりしています。そしてひたすら念仏する集団だけが尊ばれ、その門弟にのみ布施をするということが行なわれています。

このように、釈迦如来像の指を切って、阿弥陀如来の印相(いんそう・仏菩薩などの手の印の結ぶ形)に変え、東方瑠璃光浄土の薬師如来の像を、西方極楽浄土阿弥陀如来の像にすり替え、あるいは四百余年間も続いてきた、『法華経』を書写する修行方法である如法経も、浄土三部経を書写するように変えられ、また、天台大師の法会(ほうえ)も、善導の法会になってしまいました。このようなことは数えきれません。これこそ、仏を破ることではありませんか。正しい教えを破ることではありませんか。僧侶を破ることではありませんか。このような悪しき教えは、『選択集』によることです。なんと悲しいことでしょうか。仏の戒めに背いていることは、哀れなほどです。早く世間の災難を鎮めることを考えるならば、国中に蔓延するこの誤った行為と教えを排除すべきです。

 

客人は言った。

もし、そのような正しい教えを非難する者たちを罰し、仏の戒めを破る者を断つならば、経典の言葉通り、死罪としなければならないのでしょうか。もしそうならば、殺害の罪を犯してしまいます。すなわち、『大集経』には「僧侶となった人に対しては、誰でも供養すべきである。なぜなら、僧侶を供養することは、仏を供養することだからである。もし彼らを打つならば、それは仏の子を打つようなものである。もし僧侶に対して悪口を言うならば、仏を辱めることになるのだ」とあります。

したがって、善悪を論ぜず是非を選ばず、僧侶ならば、供養しなければなりません。どうしてその子を打って、その父を悲しませることができましょうか。

竹杖外道(ちくじょうげどう・人の名前。外道とは仏教に敵対する宗教を指す)は、釈迦の弟子の目連(もくれん)を殺したため、非常に長い間地獄の底に沈み、また提婆達多(だいばだった)は釈迦の弟子の蓮華比丘尼(れんげびくに)を殺したため、非常に長い間、地獄の火に焼かれ続けました。このようなことは明らかなのですから、後の人も恐れなければなりません。正しい教えを非難する者を断罪することは、正しいことのようですが、かえって、仏の戒めを破ることになります。もちろん、そのようなことはしてはならないことですから、あなたの言葉をどう解釈すればいいのでしょうか。

 

主人は言った。

あなたは明らかに経典を読みながら、まだそのようなことをおっしゃるのですか。まだわからないのですか。私は、仏の子を排除しようとするのではなく、正しい教えを非難することをやめさせようとしているのです。すなわち、非難する者に布施しない、ということです。そのようにして、この世のすべての人々が、正しい教えを非難する者に布施をせず、正しい教えを受け入れれば、どうして災難が起こりましょうか。

 

客人はすかさず座を空け、襟を正して言った。

今、仏の教えは多くの宗派に分かれていて、それぞれの教義は究めがたく、疑問もわき、合理的とは思えませんでした。ただし法然聖人の『選択集』は、確かにその中に、あらゆる経典をはじめ、諸仏諸菩薩、諸天善神などを捨てよ、閉じよ、排除せよ、投げ捨てよ、という文があります。それによって、聖人は国を去り、善神は場所を捨て、世の中は飢え乾き、疫病が流行しているということを、主人は広く経文を引いて、道理を明らかに示してくださいました。このため、私の誤った執着は翻り、耳も目も明らかになりました。

国土泰平、天下安穏は誰であっても願うところです。いち早く、正しい教えを非難する者に対する布施をやめて、多くの僧侶や尼僧たちを供養し、仏教界の混乱を収め、教えを整えれば、この世は理想的な世界となり、国は平和な国土となりましょう。そうした後、仏の教えの優劣を研究して、その中の最高の教えを受け入れ、本当の師を崇めたいと思います。

 

主人は喜んで言った。

鳩が鷹になり、雀が蛤(はまぐり)となる、という昔の言葉がありますが、誠に喜ばしいことです。あなたは私のもとに来られ、麻のような真っすぐな心となられました。本当に、近年の災難を顧みて、私の言葉を信じるならば、風は和らぎ波は静かになって、間もなく豊作となるでしょう。ただし、人の心は時に従って移り変わり、物質の性質は環境によって決まります。たとえば、水に映った月は波が動けば動き、それは戦の中の剣が光るようです。あなたは今ここでは受け入れるとおっしゃっても、後には忘れてしまうかも知れません。もしこの国を安らかにして、現在と来世のために祈ろうとするならば、すぐに身心を尽くして、誤った教えを滅ぼさねばなりません。

それはなぜでしょうか。『薬師経』には、「伝染病、外国から侵略される災難、国内で起こる反逆、星の運行に起こる異変、太陽や月の日食や月食、暴風雨、干ばつ」という七つの災難が記されていますが、そのうちの五つはすでに起こっており、二つの災難が残っています。それは、「外国から侵略される災難、国内で起こる反逆」です。

また『大集経』には、「凶作、戦争、疫病」の三つの災難が記されていますが、そのうちの二つはすでに起こっており、一つが残っています。それは戦争です。

また『金光明経』に説かれているさまざまな災難も次々と起こりましたが、「多くの他国の兵士が国を侵略する」という災難はまだありません。

さらに『仁王経』にある七つの災難のうち六つまでは起こっていますが、最後の一つが起こっていません。それは、「他国が国を侵略し国内でも内乱が起こる」という災難です。しかも、「国が乱れる時は、鬼神が騒ぐ。鬼神が騒ぐために、多くの民が乱れる」とあります。今この文について考えますと、すでに多くの鬼神は騒いでおり、多くの民が滅んでいます。まず起こる災難が起こっているのですから、それに続いて起こる災難は間違いなく起こります。

もし残っているこの「他国が国を侵略し国内でも内乱が起こる」という災難が、誤った教えがあるために起こったらどうなるでしょうか。国王というものは、国家を基盤として天下を治め、人々は田園を持って社会を保っています。しかし、他国が国を侵略し、同時に国内でも内乱が起こったならば、どうして驚かないでいられましょうか、どうして騒がないでいられましょうか。国を失い家をなくせば、どこに逃れればいいのでしょうか。あなたはあなた自身の平安を祈り求めるならば、まずは国の平穏を祈るべきではないでしょうか。そもそも、人は生きている間、死後のことを恐れるものです。そのために、ある人は誤った教えを信じ、ある人は正しい教えを非難する言葉を受け入れてしまう。私はもちろん、人々が仏の教えについて迷うことを悲しむけれども、それでもそのような人々が、引き続き仏の教えを慕っていることを哀れに思うのです。どうして仏に対する信心を持っていながら、誤った教えを受け入れてしまうのでしょうか。もしその執着する心が翻らないで、ねじ曲がった心がそのままならば、早々にこの世を去って、地獄の底に落ちてしまうでしょう。

なぜなら、『大集経』に次のようにあるからです。

「もし国王がいて、大変長い間、施しをして、戒律を守り、仏の教えを学んでも、仏の教えが滅んでいくことを見て見ぬふりをして、それを止めようとしなければ、今までの良い行ないも、すべて無に帰す。さらにその王は間もなく重い病にかかり、死後、地獄に落ちるであろう。そして王ばかりではなく、夫人も太子も大臣も城主も役人たちも、同じようになるであろう。」

さらに『仁王経』に次のようにあります。

「人が仏の教えを破ってしまうなら、親孝行する者なく、親族に不和が生じ、天神も助けず、疫病、悪鬼が毎日襲って来て、災難や精神的圧迫が続き、死後は地獄、餓鬼、畜生の悪しき世界に堕ちるであろう。もし、そこから出られて再び人と生まれたとしても、兵士とさせられてしまうであろう。音や影が残るように、また、夜に書物を読んでいる時、灯火が消えてしまっても、文字はそのままあるように、その悪い因縁は何度生まれ変わっても、残り続けてしまうであろう」。

また『法華経』には、「もし人がこの法華経を信じないで非難するならば、その人は死語に地獄の底に堕ちるであろう」とあり、また同じ経典の他の箇所にも、「その人は死後、数えきれないほど長い間、地獄の底にいて、大きな苦痛を受け続けるであろう」とあります。

さらに『涅槃経』には、「良い友を遠ざけ、正しい教えを聞かず、悪しき教えを受け入れれば、その因縁のために地獄の底に堕ちて、途方もない苦しみを受けるであろう」とあります。

このように、経典を開いてみると、正しい教えを損なうことが、最も重い罪であるとしています。悲しいことに、みな正しい教えの門から出て行き、深く誤った教えの獄屋に入ってしまっています。なんと愚かなことでしょうか。それぞれ悪しき教えの綱に捕らえられ、永遠に正しい教えを損ねる網にかかってしまっています。これは霧に迷うことであり、盛んな火の中に沈むようなものです。どうして憂えずにいられましょうか。どうして苦しまずにいられましょうか。

あなたは早く正しい信心を持ち、速やかに唯一なる真実の教えを受け入れなさい。そうすれば、あなたにとってこの世は仏の国となるでしょう。仏の国ならば、衰えることはありません。あらゆる方角の国土も、宝の国となるでしょう。宝の国ならば、滅びることはありません。その国が衰微せず、国土に破壊がなければ、その身は安全であり、心はいつも平安です。この言葉は信じるべきであり、崇めるべきです。

 

客人は言った。

今の世においても次の世のいても、誰が慎まないでいられましょうか。誰が受け入れないでいられましょうか。経典を開いて仏の言葉をいただいて、正しい教えを非難する罪がいかに重いかよくわかりました。私は今まで、阿弥陀仏というたった一人の仏だけを信じ、他の仏たちを捨ててしまい、『浄土三部経』だけを仰いで、他の経典を捨ててしまったことは、私が考えたことではなく、悪しき指導者によることです。それは他の人たちも同じでしょう。そのままだと、この世においては心悩まされ、来世には地獄に堕ちてしまうということは、経典の文に明らかであって、疑う余地はありません。さらにあなたの慈しみ深い教えを仰ぎ、さらに愚かな人たちの悪しき心を開き、速やかに悪を退治し、早く国家泰平となるよう、まずはこの世を平安にして、死後の世への功徳を積んでいきたいと思います。ただ私だけが信じようとするのではなく、他の人の誤りを正したいと思います。

 

 

立正安国論奥書(おくがき)

 

文応元年(1260年)にこの『立正安国論』を記した。

正嘉年間(1257年~1259年)から書き始めて文応元年に記し終えた。

去る正嘉元年八月二十三日の大地震を体験して、この書について考え始めた。文応元年七月十六日に宿屋左衛門光則(執権北条時頼の側近)を通じて、今は亡き最明寺入道殿(=執権北条時頼)に奉った。

その後、文永元年(1264年)七月五日に現われた大きな彗星の時、いよいよこの災難が始まることを悟った。

文応元年より文永五年(1268年)正月十八日に至るまでの九年を経て、西の国である大蒙古国から日本を攻めるという書状が来た。また翌年の六年にも再び書状が来た。

これらはすでにこの『立正安国論』に記した文と合致している。このことから、これからもその通りになるだろう。

この書には予言が記されている。これは日蓮の力ではない。『法華経』の真実の文に霊感を得て記したのである。

 

文永六年(1269年)十二月八日これを写す。

 

(完)

 

(注:日蓮上人は、佐渡で記した『開目抄』の中で、「日本に仏法わたりてすでに七百余年、ただ伝教大師一人ばかり法華経をよめり」とあり、また、同じく佐渡で記した『観心本尊抄』には「夫れ仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴して但三人のみ有りて始めて此の正法を覚知せり。所謂月支の釈尊、真旦の智者大師、日域の伝教此の三人は内典の聖人なり」とある。日蓮上人は、ひたすら、釈迦はもちろん、天台智者大師と伝教大師をあがめ、また、いわゆる「本尊」とされる「南無妙法蓮華経」の題目のまわりに、多くの諸仏諸菩薩諸天神と祖師たちの名が記されているが、そこにも、天台大師、妙楽大師、伝教大師の名がある。このように、日蓮上人は『法華経』とその『法華経』に基づいて大乗仏教を総括した天台大師の『法華玄義』の教えを広めようとした人物である。しかしその前に立ちはだかった現実が、法然上人の教えが多くの人々の心をとらえていたということだった。経典によると、邪教が広まれば国が亡ぶとあり、実際、その言葉通り、元が攻めて来るということになった。国が滅んでしまえば、正しい教えも『法華経』もないわけであるから、まずこの「邪教」に対決する必要があったのである。その先駆けとして、この『立正安国論』が記され、執権北条氏に奏上されたわけだが、これにより多くの迫害を受けるようになった。国は滅びに向かい、自身もその弟子たちも激しい迫害にあう、という現実の中で、日蓮上人の働きが表わされ、その著作も生まれていくわけである。もしこのようなことがなく、日蓮上人が天台大師、伝教大師の教えを日本に広めることに専念できていたなら、また大きく異なった日蓮上人の働きがあったに違いない。

さて、その天台大師の教義は、『法華玄義』に集約されるわけであるが、もちろん、『法華玄義』は、教義書であり、天台大師も、教えだけしかなければ、車の車輪の片方しかないようなもの、鳥が片方の翼だけで飛ぼうとするようなもの、他人の宝を数えるようなものと言っているように、必ず修行の実践が必要である。天台教学においては、それは『次第禅門』や『摩訶止観』に説かれる止観である。いわゆる坐禅瞑想であるが、現在、一般的に坐禅は無念無想を目的とすると思われているのと異なり、また、道元の「ひたすら座る」という只管打坐とも異なり、天台の止観は、観心と表現される心の観察である。それも、細分化された段階と、その時の心の状況に対応する多くの項目で成り立っているものである。しかしこれが天台大師における実践であるならば、それは天台大師や伝教大師当時の、バックに国がいて、僧侶はひたすら学びと修行に専念できる時代であるならば可能であったかもしれないが、すでに日蓮上人の時代では、それも困難となっていたであろう。ましてや、現在は言うまでもない。

そのような現実の中、日蓮上人は、『観心本尊抄』で具体的に記されているように、「南無妙法蓮華経」の題目と、その周りに多くの諸仏諸菩薩諸天神そして祖師たちの名を記したものを本尊とした。日蓮上人の『妙一尼御前御返事』に「夫れ、信心と申すは別にはこれなく候。妻のおとこをおしむがごとく、おとこの妻に命をすつるがごとく、親の子をすてざるがごとく、子の母にはなれざるがごとくに、法華経、釈迦・多宝、十方の諸の仏菩薩、諸天善神等に信を入れ奉って、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、信心とは申し候なり」とあるように、日蓮上人は、『法華玄義』の教義に基づく実践は誰でも行なうことのできるものであり、それは諸仏諸菩薩諸天神そして祖師たちを信仰し、南無妙法蓮華経と唱えることなのだ、としたのである。現在では、その題目を唱えることばかりが強調されているが、実はそうではなく、その題目と共に、諸仏諸菩薩諸天神そして祖師たちの信心が重要なのである。

そして、日蓮上人は、どの書にもはっきり記していないようであるが、実行不可能となっている天台止観の実践という面を、この本尊と題目を唱えるということに置き換えていると私は確信する。もちろん、これは『立正安国論』以降のことである。

また、日蓮上人は、『法華経』以外のすべての信仰はすべて否定したと思われているが、それは佐渡で記された『開目抄』以降のことである。『開目抄』で、自分は『法華経』の行者であるという確信を得た日蓮上人は、とにかく『法華経』を第一としないすべての宗派やその教えに対して批判を繰り返すようになった。しかし、『立正安国論』の時点では、批判したのは法然上人の選択の思想であり、阿弥陀仏の信仰そのものでもないのである。阿弥陀仏の信仰も、『法華経』の教えによって、究極的には一つとされるのであり、『法華玄義』ではこのことを「相待妙・絶待妙」の教理として明らかにされている。純粋に『法華玄義』の教理に立てば、『法華経』の開会(かいえ)の思想によって、すべては一つとされるものであり、本質的に排除されるものではないはずである。

日蓮上人は、池上の地で亡くなる直前まで、この『立正安国論』を講義していたという。それほど、布教活動としては初期に記されたこの書が、日蓮上人の一生においては、非常に重要な書であったことがわかるのである。