大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その12

弘法大師は、同じ延暦年中に唐に渡り、青竜寺の慧果に師事して真言宗を学んだ。帰国後、釈迦の説かれたすべての経典の優劣を判断して、第一に真言、第二に華厳、第三に法華と説いた。この大師は世間の人々も大変尊敬する人である。ただし、仏教における功績は大きく、いろいろ言うことは遠慮を感じるが、とんでもないことも言っているのである。

このことをいろいろ考えるわけであるが、中国に渡って、ひたすら真言の理論ではなく、目に見える儀式的な印や真言を学んで、教理的なことを思索しないうちに、日本に帰って来た。その後に、世間では天台宗が広まっており、自分が重んじている真言宗は広められない状態だったので、中国に行く前に学んでいた華厳宗を取り出して、『法華経』に勝っているとしたのである。それも華厳宗が普通に言っているように言ったのなら、人々は信じないだろうと思ったのだろうか、少し雰囲気を変えて、華厳宗の教理を取り出してきているにもかかわらず、これは『大日経』や竜猛菩薩の『菩提心論』や善無畏等の教義であると大きな嘘を言ったのである。しかし、天台宗の人々はそれを批判しなかった。

問う:弘法大師が著した『十住心論(じゅうじゅうしんろん・天皇の要請を受けて、すべての仏教および東洋の教えをランク付けしたもので、密教の教えが最高とする。空海の代表作の一つ)』や『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく・『十住心論』を要約したもの)』や『二教論(にきょうろん・顕教密教の区別を明らかにしたもの)』に、「各教えが、自らが釈迦の教えだと主張しているが、これらを今になって冷静に見れば、ただのたわ言である」、また「単なる迷いの範囲内であって、悟りの位には至っていない」、また「究極的な教えではない」、また「中国の学者や僧侶たちは、他の究極的な教えを盗んで、自らの宗派の教えとしている」などと言っているが、このような解釈はどうであろうか。

答える:自分もこの解釈に驚いて、すべての経典および密教の『大日経』などの代表的な三つの経典を読んでみたが、『華厳経』と『大日経』に対すれば、『法華経』はたわ言であり、『六波羅蜜経(ろくはらみっきょう)』に対すれば、『法華経』は盗人であり、『守護経(しゅごきょう)』に対すれば、『法華経』は迷いの範囲内だという経典の言葉は、一字一句も見当たらなかった。

(注:大乗経典は、どれも釈迦の説いた言葉ではないので、実に様々なことが書かれている。これらを一人の釈迦の言葉だと解釈すること自体が無理なのであるが、明治以前の僧侶たちは、この経典の内容の違いを、釈迦に違いがあるのではなく、聞く側の能力の違いの結果であり、釈迦は聞く相手の能力に応じて説いたので、各教典の教えに違いがあるのだ、ということを基に、教判、つまり経典のランク付けによって経典の内容の違いを理解してきた。そしてもちろん、統一的見解などあるわけがなく、それぞれの僧侶や学者によって、さまざまな意見が出され、その違いによって宗派が分かれていった。各宗派の立場からすれば、他の宗派の重んじる経典は程度が低いわけであり、確かにそのように見ようと思えば、いくらでもそう見えるのである。

たとえば、日蓮上人が言っているように、『大日経』などの密教経典は、手に結ぶ印の形と、唱える真言や儀式のやり方などばかり書かれて、教理的内容がないように見える。また、これは私の言葉で表現するが、『阿弥陀経』などの浄土経典は、やたらに阿弥陀仏の描写や極楽浄土の様子ばかり詳しく書かれているだけである。また、『般若経』などの般若経典には、「これはあると見えるがない、それもあると見えるがないのだ」というような言葉ばかりが繰り返されていて、読んでいる方が馬鹿にされたような気持になる。さらに『法華経』は、深い教理的な言葉はなく、まるでひと昔前のSF小説のような場面の連続、あるいは想像力を豊かにしなければついて行けない童話のような内容のみで、まさに「ざれ言」と言われても仕方がないように見える。

真理は表現したとたんに真理ではなくなる。真理とは言葉では表現できないものなのである。そのため、各教典はすべて真理を表現しようとしてはいるのだが、表現したとたんに真理ではなくなるので、その真理を見極める目のない者にとっては、「ざれ言」に見えてしまうのである。

日蓮上人は、『法華経』を通して真理を見る目を持つ人物であった。そのため、他の経典はすべて『法華経』以下のものとして見えていたのであり、日蓮上人の信奉する天台教学が、まさにそのことを説いているのである。)

このことは、大変根拠のない空しいことであるけれども、この三四百年あまり、日本じゅうの学者や僧侶たちが受け入れてきたことなので、かなり定着してしまったのも無理はない。そこで、いくつかわかりやすい事例をあげて、他のことも空しいことなのだということを知らせよう。

法華経』を最高の教えであるとしたのは、中国の陳から隋の時代のことである。『六波羅蜜経』は唐の中ごろに般若三蔵がこれを翻訳した。『六波羅蜜経』の中心的な教理が、陳から隋の時代に世に出ていたのなら、天台大師は、その経典に記されている真言の重要教理を盗むこともできたであろう。

同じようなことは日本にもある。日本の得一(とくいつ・平安時代法相宗の僧侶である徳一のこと。最澄との論争は有名。日蓮上人は、音が同じなら気にせず漢字を入れ替えて使用することが多くある)が、「天台大師は『深密経(じんみつきょう・法相宗の重要経典)』の三時教(さんじきょう・法相宗の教判で、すべての経典を三段階に分けて解釈する)を破っている。それは三寸の短い舌をもつて五尺の身を断つようなものだ」と罵ったが、伝教大師はこれを批判して、「『深密経』は唐の初期に、玄奘がインドから伝えて翻訳したものだ。天台大師は陳から隋の人ではないか。天台智者大師が亡くなった後、数年して『深密経』は伝わったのだ。死んだ後に伝わった経典を、どうやって破ったのか」と責めた。すると、得一は言葉に詰まるばかりか、舌が八つに割けて死んでしまった(注:もちろん徳一はこのような死に方はしていない)。

弘法大師のこれらの言葉は、徳一よりもひどい悪口である。華厳宗の法蔵や三論宗の嘉祥や法相宗玄奘や天台大師など、および南北の諸師や後漢以降の学者や僧侶たちを、みな一様に盗人と言っている。その上、また『法華経』が究極的な教えであるということは、天台大師の私見ではない。

釈迦は『涅槃経』に、『法華経』は究極的な教えだと述べられた。天親菩薩(=世親・大乗仏教の思想家。菩薩は人物に対する最高の尊称)は、『法華経』と『涅槃経』を究極的な教えだと述べている。そして、竜樹菩薩は『法華経』を妙薬と名付けている。

したがって、『法華経』などを究極的な教えであると言う者が盗人ならば、釈迦や多宝仏や十方の諸仏、および竜樹や天親たちは盗人なのであろうか。弘法大師の弟子たち、および日本の東寺の真言宗の諸師は、自分の目で判断がつかないようならば、他の鏡を用いてまで、自分の誤りを知らねばならない。

この他、『法華経』をたわ言の教えだと言うならば、『大日経』や『金剛頂経』などから、その証拠となる経文を出してみよ。たとえ、それぞれの経典に、『法華経』をたわ言だと書いてあったとしても、それは訳者の誤訳である可能性もある。よく調べてもらいたいものだ。

孔子は九度考えて一言を発し、周公旦(しゅうこうたん)は、いつ尊い人物が来てもいいように、沐浴中に人が来れば髪を握ったまま、食事中なら口に入れた物を三度吐いてまで出迎えたという。仏教以外の世間の浅い事を習う知識人でさえこうなのである。このようにしていれば、浅はかなことは起こり得ないのである。

このような誤りの教えの末に位置する者であるが、伝法院の本願と呼ばれる聖覚房(しょうかくぼう・平安時代末期の真言宗の僧侶。覚鑁(かくばん)の名で知られる。後に高野山から追放され、根来寺(ねごろじ)に移る。新義真言宗の開祖であり、興教大師という諡号を送られる)が、仏の骨である舎利を供養する法会において、「高く尊い方は、並ぶ者のない尊高なる大日如来である。驢馬や牛の三身の仏は、その車を引く資格さえない。秘められた奥義は、両部漫陀羅(仏の世界を表わした曼荼羅に二つある。金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)と胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)の二つ)の教えである。顕教の四法は履物を取る資格さえない」と言っている。顕教の四法とは、法相宗三論宗華厳宗法華宗(=天台宗)の四つであり、驢馬や牛の三身とは、『法華経』と『華厳経』と『般若経』と『深密経』の教主となっている四仏であり、これらの教えを保つ仏と僧侶は、真言宗の聖覚房や弘法大師の牛飼にも履物を持つ者にも足らない、と言っているのである。

月氏国に大慢婆羅門というバラモン教の者がいた。生まれながらに博学で、仏教の顕教密教の二つも究め、仏教の内外の典籍も手の中に握っているようなものだった。そのため、王や大臣までも頭を下げ、多くの民が師と仰いだので、大慢婆羅門は慢心を起こし、世間の人々に拝まれている者は大自在天(だいじざいてん・ヒンズー教シヴァ神のこと)と婆籔天(ばすてん・仏教の守り神の仙人)と那羅延天(ならえんてん・ヒンズー教ヴィシュヌ神のこと)と釈迦であるから、この四人の聖人を自分の椅子の四つの足にしようと、そのような椅子を作って、それに座って教えを説いた。

これはまるで、現在の真言宗の僧侶たちが、釈迦仏をはじめ、すべての仏をかき集めて曼荼羅を描き、灌頂の儀式をする時、その曼荼羅を敷いて儀式を行なうようなものである。また、禅宗の法師たちが、この宗派の教えは、仏の頭を踏むほどの大いなる教えであると言っているようなものである。

さて、賢愛論師(けんあいろんじ)という僧侶がいて、大慢婆羅門を批判したが、王や大臣をはじめ、すべての民は耳を貸さなかった。最後は、大慢婆羅門は弟子や檀家たちに命じて、彼に悪口を言ったり打ったりしたが、彼は少しも命を惜しまず批判を続けたので、王は賢愛論師を憎んで、論議を通して退けようとしたが、かえって大慢婆羅門が論破されてしまった。そこで王は天に仰ぎ地に伏して嘆き、「私は目の当たりに真実を知り、間違った考えを晴らした。先王は大慢婆羅門に騙されて、地獄の底にいることだろう」と、賢愛論師の足に取り付いて泣いた。王は大慢婆羅門を殺そうとしたが、賢愛論師はそれを止めた。結局、大慢婆羅門は驢に乗せられインド中を引き回されたので、大慢婆羅門はさらに悪心が盛んになり、生きたまま地獄の底に堕ちた。現在の真言宗禅宗の僧侶たちはこのようではないか。

中国の三階禅師(さんがいぜんじ・三階教という中国における仏教系新興宗教の開祖である信行(しんぎょう)のこと。正法を第一階、像法を第二階、末法を第三階とする教え)は、次のように言っている。「『法華経』は第一階と第二階の正法と像法の教えである。末法のためには三階教の教えが必要である。『法華経』を今の世に行なう者は地獄に落ちるであろう。『法華経』は末代の人々にはふさわしくないからである」と言って、一日六度の礼拝、四度の座禅などを行ない、生き仏のように人々に崇められ、弟子も一万人あまりに及んだ。しかし、幼い少女が『法華経』を読む声に責められ、即時に声を失い、やがて大蛇になって、檀家や弟子や少女や処女を食べた。今の善導や法然たちが、「念仏でなければ千人いても一人も悟りを得られない」という悪い教えもこれである。この三つの事例はすでに昔のことであるので、あえて非難することもないのであるが、言わなければ信じてしまう人もいるであろう。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

撰時抄 その11

真言宗という宗派は、上の二つに比べ物にならないくらい、大きな誤りのある宗派である。これからそれについて述べよう。

いわゆる中国唐の玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵は、『大日経』や『金剛頂経』や『蘇悉地経(そしつじきょう・いずれも密教の中心的な経典)』を、月支国よりもたらした。この三つの経典の説くところは明らかである。その究極的な教えを見れば、仏になる教えだけを説いていて、各教典に見られる声聞(しょうもん・釈迦の弟子の教えという意味で、大乗仏教から見れば小乗仏教)や縁覚(えんがく・自分一人で悟り、弟子も作らずこの世を去る人)の存在などは触れない。そしてその目に見える実践方法は、ただ手に印を結び、真言を唱えるだけである。それらは、『華厳経』や『般若経』の、声聞や縁覚を仏になる菩薩と比べて、仏になる道を説いている教えにも及ばない。また、天台宗で説く、『法華経』以前の段階での高度な教えほどの深みもない。ただ、非常に初歩的な教えを表面的に繕っているだけである。

善無畏三蔵は次のように思った。「この経文を人々に明らかにしてしまうと、華厳宗法相宗に馬鹿にされ、天台宗にも笑われるであろう」。こう思ったが、せっかく大切に月支国から持ってきた経典であるから、ただ持ち帰ってはもったいないと思ったのであろうか。天台宗の中に一行禅師(いちぎょうぜんし)というひねくれ者が一人いた。

(注:以前にも述べたが、この時点では真言宗という宗派はなく、密教という大乗仏教のひとつの流れが、善無畏や金剛智や不空たちによって、インドから中国に伝わっていた状態である。そして、これから善無畏とその弟子の一行の記述になる。一行については、日蓮上人は天台宗の人と言っているが、そうではなく、ありとあらゆる仏教の教えを学んだ僧侶であり、また皇帝に用いられた天文学者でもある。一行は密教を善無畏と金剛智から学び、善無畏と共に『大日経』の注釈書である『大日経疏(だいにちきょうしょ)』を著わした。この『大日経疏』は後の日本における真言宗天台宗に非常に大きな影響を与えることになる。日蓮上人は、日本の天台宗が、天台大師の教学のみを中心とせずに、特に密教を受け入れたことを非常に批判しているため、日蓮上人にとって一行は目の敵である)。

善無畏はこの一行に中国にすでにある教理を語らせた。一行阿闍梨あじゃり・修行を達成した人に与えられる称号のひとつ)は騙されて、三論宗法相宗華厳宗などを詳しく語ったのみならず、天台宗の教理を語ったところ、善無畏は「天台宗はインドで聞いていた以上に優れていて、とても太刀打ちできない」と思い、一行を騙して「あなたは中国にあってはとても尊い僧侶である。天台宗は神妙なる教えの宗派であるが、今、真言宗天台宗より優れているところは、印と真言である」と言った。

一行もそうかもしれないと思った。善無畏三蔵は一行に「天台大師が『法華経』の注釈書を著わしたように、『大日経』の注釈書を作って、真言の教えを広めようと思うが、あなたが書いてくれないか」と言ったので、一行は次のように言った。「書くことはたやすいことです。ただし、どのように書いたらいいでしょうか。天台宗は憎い宗派です。諸宗派はわれもわれもと戦いを挑んでいますが、太刀打ちできないことがひとつあります。『法華経』が説かれる直前に説かれたとされる『無量義経(むりょうぎきょう)』という経典をもって、『法華経』以前の四十年あまりの期間に説かれた経典は、すべて『法華経』から見れば、仮の教えだと定めてしまっています。

(注:『無量義経』は短い経典であるが、この経典の中に、釈迦の言葉として、今までの四十年間の説法では真実を明らかにして来なかった、という記述があり、いかにも『法華経』の前座的な内容となっている。さらに『法華経』の序の箇所に、「無量義という教えが説かれた」という記述がある。このため、『法華経』の「開経(かいきょう)」と呼ばれている)。

そして、『法華経』の『法師品(ほっしほん)』や『神力品(じんりきほん)』をもつて、『法華経』の後に、『法華経』以上の経典は説かれなかったとしています。また、『法華経』と肩を並べるほどの内容だと思われる経典は、『法師品』の『私の説いた経典は、無量千万億あって、すでに説き、今説き、まさにこれから説こう。そしてその中で、この『法華経』は最も信じることが難しく、理解することが難しい』という文をもつて片付けられてしまいます。このようなわけですから、『大日経』は、この『すでに説き、今説き、まさにこれから説こう』の中で、どこに当たる経典だとすればよいのでしょうか」と質問した。

これに対して善無畏三蔵は、大いにたくらんで次のように言った。

「『大日経』に『住心品』という品(ほん=章)がある。『無量義経』の『今までの四十年間の説法では真実を明らかにして来なかった』という文のように、これも他の経典を打ち払ってしまう内容である。『大日経』の『入漫陀羅品』以下の諸品は、中国では『法華経』と『大日経』という二つの経典となっているけれども、インドでは一つの経典である。釈迦は、弟子の舎利弗弥勒菩薩に向っては、『大日経』を『法華経』と名付けて、内容も印と真言とを省いて、ただ教理的なことだけを説かれた経典を、鳩摩羅什三蔵はこれを翻訳したのだ。そして天台大師はこれを読んだのだ。一方、大日如来は『法華経』を『大日経』となづけて金剛薩埵(こんごうさった)に説かれた。これを『大日経』と名付ける。私はこの目でインドでそれを見た。このようなわけで、あなたは『大日経』と『法華経』とを水と乳とのように、同じ味とするべきである。そうすれば、『大日経』は『私の説いた経典は、無量千万億あって、すでに説き、今説き、まさにこれから説こう』という言葉を、『法華経』が一番であるということの証拠とするように、『大日経』を第一とすることができる。さて、天台宗で説く一念三千(一瞬の心の中にすべてが含まれるということ)とは、心の悟りの状態を意味する。密教の印と真言は、まさに心を一念三千の状態に高めることであるから、これこそ三密相応(さんみつそうおう)の秘法である。

(注:三密の三とは、身(しん)口(く)意(い)の三つを指す。体と言葉と心のことである。この三つが仏の体と言葉と心とに一致することを三密相応といい、身口意それぞれを身密、口密、意密という。これが密教の目指す悟りの境地である)。

三密相応するならば天台宗は心を相応させることであるから、意密である。したがって、真言宗は、ある将軍が甲鎧に身を固めて弓矢を持ち、太刀を腰につけているようなものであり、天台宗は意密だけなので、ある将軍が裸でいるようなものである」と言ったので、一行阿闍梨はそのように書いたのである。

(注:善無畏が、このように一行をそそのかして、彼に『大日経疏』を書かせた、とあるが、もちろん、このようなことは事実ではない)。

中国の三百六十カ国には、この事を知る人がいない。最初は、どちらが優れているかと論争もしたが、善無畏たちは身分が高く、天台宗の人々は身分が低く、また天台大師ほどの智慧のある者もなかった。そのため、次第に真言宗に押し切られていき、それも長い年月となったので、いよいよ真言宗の災いが根深くなってしまった。

日本の伝教大師は、中国に渡って天台宗を伝えた。そしてついでに真言宗も伝えた。

(注:繰り返すが、あくまでも真言宗という宗派は、日本の弘法大師空海からの宗派である。最澄は、真言宗を伝えたのではなく、密教を伝えたのである。空海密教を日本に伝えるという目的で唐に渡り、帰国後、密教を宗旨とする真言宗を、高野山を中心に開いたのである。最澄天台宗を日本に伝えるために唐に渡ったが、彼は天台教学を中心として、当時あったすべての仏教形態を日本に伝えることも目的とした)。

最澄は、天台宗を日本の皇帝に授け、真言宗を奈良六宗の大徳に習わせた。ただし最澄は、奈良の六宗と天台宗の優劣は、唐に渡る前にしっかりと定めていたのである。唐からの帰国後は、比叡山大乗仏教の戒律を授ける円頓の戒壇を設立しようとしたが、反対する敵が多く、戒壇設立は成就することが困難だと思われたのであろうか、また、末法の世において責めさせればよいと思われたのであろうか、天皇の前でも真言宗と論争することもなく、弟子たちにも明確には語らなかった。ただし最澄に『依憑集(えびょうしゅう・最澄が、天台教学と他の宗派の教学の一致を示す他の宗派の文献を引用してまとめた書物。日蓮上人は、他の人々が天台宗に屈服したことを表わすとしているが、そのようなことはない)』という一巻の秘められた書があり、他の七宗の人々が天台宗に屈服したことが書かれてある。その文の序に、真言宗の誤りを指摘する一文を見ることができる。

(注:すでに述べたように、最澄は天台教学ばかりではなく、密教を含めたすべての仏教形態を日本に伝えようとしたのである。しかし、短い留学期間ではとても足りず、当時の唐の中心地である長安にも最澄は行けず、彼が伝えた密教は傍系のものであった。そのため、最澄は帰国後、善無畏から始まる密教の正統を伝える長安の恵果(けいか)に師事した空海に弟子入りし、また自分の弟子である泰範(たいはん)たちを空海のもとに送り(この中で泰範はそのまま空海の弟子となって帰らなかった)、何とかして密教比叡山にもたらそうとした。そのような最澄が、どうして真言宗と論争するのであろうか。事実はその真逆である)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その10

問う:それでは、その秘めた教えとは何か。まずその名を聞き、次にその意味を聞こうと思う。このことがもし事実なら、釈迦が再びこの世に現われるのだろうか。『法華経』で説かれる上行菩薩が、再び地より涌き出るのであろうか。早々に慈悲を下されたい。玄奘三蔵は、六度死にかけて、まるで六度生まれ変わったような困難の後、月氏国に入って十九年間学んで再び唐に帰り、それで出した結論が、『法華経』の誰もが仏になれるという一乗の教えは方便の教えであって、小乗の『阿含経(あごんきょう)』の方が真実の教えだと言い、不空三蔵もインドに帰って、『法華経』の「寿量品」の仏を阿弥陀仏だなどと書いたりしている。これらは、東を西と言い、太陽と月を取り違えるようなものである。これでは、命の危険を冒して教えを求めても何ら意味がない。幸い私たちは末法の世に生まれて、一歩も歩まなくても長い歳月修行したことになり、釈迦の前世のように、自分の身を虎に与えなくても、仏の姿を得ることができるであろう。

答える:この法門を述べようとするなら、経文を見れば容易にわかるのである。ただし、この法門には先ず三つの大切なことがある。海は広いけれども死骸を海に留めることはない。大地は厚いけれども不孝の者を地の上には生かさない。仏の教えは、たとえ重い罪を犯した者でも助け、不孝者も救う。ただし、正しい教えを非難する者と、戒律を保っていることだけを第一とする者は赦されず仏とはなれない。

この三つの災いとは、念仏宗禅宗真言宗である。まず念仏宗は日本に広まって、すべての人の口遊びになっているほどである。

次に禅宗は、見た目には質素な僧侶の姿をしていても、その心は高慢である僧侶が四海に満ちていて、自分は天下の導師だと思っている。

さらに真言宗は、前の二宗に比べ物にならないくらいである。比叡山、東寺、奈良の七大寺、園城寺、そして上は貫主や皇室の住持はじめ、下々の役人に至るまで、すべてである。例えば、宮中にあった神鏡が燃えてしまったので、大日如来の宝印を仏鏡として祀っているという。また、宝剣は西の海に沈んでしまったので、密教の五大尊をもつて国の敵を破ろうと思っているという。これらの誤った信心は非常に堅固なので、たとえ一劫という非常に長い歳月が流れようとも揺らぐとは思えず、大地がひっくり返っても疑うとは思えない。天台大師が南北の諸宗派と論議をして破った時も、この真言宗密教は伝わっておらず、伝教大師が奈良の六宗を虐げた時も、真言宗はその対象ではなかった。天台大師や伝教大師という強敵を免れているので、かえって大いなる教えを消そうとしている。その上、伝教大師の弟子である慈覚大師は、この宗を取り立てて比叡山天台宗と取り換えてしまったので、比叡山真言宗となってしまった。もはや慈覚大師には敵はなくなってしまったわけである。このような誤りが力を得てしまったので、弘法大師の邪悪な教えを咎める者もない。安然(あんねん)和尚は少し弘法大師を非難したかと思ったが、ただ華厳宗を非難したのみで、かえって『法華経』を『大日経』に対して下と見てしまった。これでは、単なる侵入者のようなものである。

(注:伝教大師最澄は、唐からすべての仏教の教えをもたらし、比叡山を日本の仏教の中心としようとした。したがって、最澄密教も伝えようとしたが、あまりにも唐に滞在した期間は短く、特に密教においては十分なものは得られず、帰国せざるを得なかった。そのため、これも有名なことであるが、帰国後、同じ遣唐使船で唐に渡った弘法大師空海に弟子入りしてまで、密教を学ぼうとしたほどである。最澄真言宗を論破するわけがない。それどころか、学んでいたのである。

しかし、書物ばかりで学ぼうとする最澄に対して、密教は書物では伝わらないと、最後は空海の方から最澄との縁を切ってしまった。このように、最澄は課題を残して亡くなったわけであるが、師が課題を残すと、その弟子たちはその課題を解決しようと努力し、かえって偉大な人物が出る、ということは法則のようで、慈覚大師円仁や智証大師円珍、そして五大院安然などによって、やがて比叡山密教の教えが確立されていく。特に安然は、空海真言密教に肩を並べるほどに天台密教の教学を確立した人物であり、これを日蓮上人は、安然は少し弘法大師を非難した、と表現していると思われる。しかし、これらはあくまでも日本の天台宗の流れであって、決して間違った方向に行ってしまったわけではないが、日蓮上人は、天台宗と言えば、『法華経』を中心とした天台教学以外に考えられないので、その視点から、比叡山が横道にそれたと非難しているのである)。

問う:この念仏宗禅宗真言宗の三宗の誤りとは何か。

答える:念仏宗、いわゆる浄土宗は、まず、中国の斉の時代に、曇鸞(どんらん)法師という者がいた。三論宗の人である竜樹菩薩(確かに、三論宗は竜樹の三つの論書を基にしているが、竜樹自身は三論宗とは全く関係がない)の『十住毘婆娑論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を読んで、仏の道には、難行道(なんぎょうどう・自分の力で修行をして悟りを開こうとする方法)と易行道(いぎょうどう・阿弥陀仏の力によって極楽に往生しようとする方法)を立てた。そして、唐の時代に道綽(どうしゃく)禅師という者がいて、最初は『涅槃経』を講義するほどの学者であったが、曇鸞法師が浄土の信心に移ったという文を見て、『涅槃経』を捨てて浄土の教えに移り、聖道門(=難行道)と浄土門(=易行道)の二門を立てた。また道綽の弟子に善導(ぜんどう)という者がいて、雑行(ざつぎょう・念仏以外の行を指す)と正行(しょうぎょう・念仏を指す)を立てた。

末法の時代に入って二百年あまり、日本の後鳥羽院の時代に、法然という者がいた。すべての道俗に勧めて次のように言った。

「仏の教えにおいては、時と人の能力が基本である。『法華経』や『大日経』や天台宗真言宗などの八宗九宗で説かれる釈迦の教えにおける大乗小乗、顕教密教、大乗の仮の教えや真実の教えなどいろいろあるが、それらは、正法と像法の時代を合わせた二千年間の、能力が優れていて智慧もある人々のために説かれた教えである。今は末法に入っており、どのように努力して修行したとしても、何ら益となるところはない。その上、これらの教えを阿弥陀仏の信心と合わせて行なっても、そのような念仏で往生することはできない。これは私が勝手に言っているのではない。これらの教えを、竜樹菩薩や曇鸞法師は難行道と名付け、道綽は誰も悟りを得ることができない道であると明らかにし、善導は、千人の中で一人も悟りを得る者はいないと定めたのである。しかし、これらはもともと他宗の人であるから疑問も生じるであろう。そうならば、先徳である恵心僧都源信(えしんそうずげんしん・平安時代後期の天台宗の僧侶)を超える天台真言の智者は、この末代にいるだろうか。彼の著わした『往生要集(おうじょうようしゅう)』には、「顕教密教の教えは私が死生の苦しみから離れる教えではない」とある。また、三論宗の永観(えいかん・平安時代後期の三論宗の僧侶。阿弥陀仏を一緒に念仏を唱えながら歩いて、阿弥陀仏から「永観遅し」と言われたというエピソードは有名)の著わした『往生拾因(おうじょうじゅういん)』などを見なさい。法華(=天台宗)や真言などを捨てて、ひたすら念仏すれば、十人いれば十人すべて往生し、百人いれば百人すべて往生する」と勧めた。

すると、これに対して、比叡山や東寺や園城寺や奈良の七大寺などは、最初は非難したようだけれども、『往生要集』の序の言葉が道理だと見て、顕真(けんしん・平安時代後期の天台宗の僧侶。天台座主になる。比叡山の麓の大原に法然を招き、他宗派の僧侶たちと論議させ(大原談義)、これによって法然の名は一躍有名となった)は念仏を受け入れ、法然の弟子となった。その上、たとえ法然の弟子とならなくても、人々は阿弥陀仏の念仏を、他の仏とは比較にならないほど口ずさみ心を寄せるようになり、これによって、日本の人々はみな、法然の弟子に見えるほどである。この五十年間、天下すべての人々が、一人も漏れず、法然の弟子となったのである。

法然の弟子となったということは、日本中の人々が、正しい教えを謗る者となったのである。たとえば、千人の子が一同に一人の親を殺害すれば、千人共に最も重い罪を犯した者となり、その一人が地獄の底に堕ちるならば、他の人たちは堕ちないだろうか。

結局、法然流罪になったことを恨み、悪霊となって自分および自分の弟子たちを非難した国主や比叡山園城寺の僧たちの中に入って、謀反を起こし、あるいは悪事をなしたので、みな鎌倉幕府に滅ぼされたのである。わずかに残った比叡山や東寺などの僧侶たちは、一般人たちに侮られていることは、まるで猿に人が笑われ、浮浪人が子供に侮辱されるようなものである。

禅宗は、このような状況に乗じて、いかにも清らかな姿をもって人の目をごまかし、尊い雰囲気をかもし出しているので、どのような誤った教えを言っても人々はわからない。「禅宗の教えは、教外別伝(きょうがいべつでん・究極的な真理は経典などには記されておらず、別の伝承によって伝えられているとする立場)と言って、釈迦の説いたすべての経典の他に、摩訶迦葉尊者に密かに伝えられていた教えなのである。したがって、禅宗を知らないで経典を学ぶ者は、犬が雷に噛み付くようなものであり、猿が月の影を取ろうとしているようなものである」と言っている。

このため、親不孝のために父母に捨てられたように、礼を欠いたために主君に追放されたように、あるいは、若い僧侶は学問を嫌う傾向にあるように、遊女がもの狂わしいように、日本において禅宗は、その本性通りの悪しき教えなのである。禅宗の僧侶たちは、みな一同に清らかそうな姿をして、農家を食い尽くすイナゴのようになっている。このため、天は天眼を怒らせ、地神は身を震わせているのである。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

撰時抄 その9

問う:伝教大師は日本国の人である。桓武天皇の御世に現われて、欽明天皇より二百年あまりの間の誤った教えを破り、天台大師の完全な智慧と完全な禅定を広めるばかりではなく、鑑真和尚の広めた日本の小乗の三所(奈良東大寺太宰府観世音寺、下野薬師寺)の戒壇を破り、比叡山に円頓の大乗戒壇を建立された。この大いなる業績は釈迦の死後一千八百年の間のインド、中国、日本および世界の第一の尊い出来事である。悟りの内容は、竜樹や天台大師などにはあるいは劣るか、あるいは同じくらいかも知れないが、仏の教えをひとつの教えに統一したことは、竜樹や天親も超え、南岳慧思や天台大師よりも優れていると思う。総合的に見れば、釈迦の死後一千八百年の間、この天台大師と伝教大師の二人こそ、まさに『法華経』の行者である。このために、『法華秀句(ほっけしゅうく・最澄の著作)に次のようにある。「『法華経』には、『もし須弥山を取って、他の無数の仏国土に投げたとしても、これはまだ容易である。仏の滅度の後の悪世の中において、よくこの経を説くことこそ困難なことだ』とある。この言葉を解釈するならば、浅いことは容易であり、深いことは困難であるということは、『法華経』における釈迦の判断である。これを受けて、浅いことを捨てて、深いことを取ることは、正しいことを実行すべき人間の心である。天台大師は釈迦に信順して『法華経』の教えをもって中国に広め、比叡山の一宗は天台の教えを受け継ぎ、『法華経』の教えを日本に広めるのである」と言っている。

この文の意味は次の通りである。次第にこの世が悪くなっていき、人間の寿命が百歳になった時より釈迦が悟りを開かれて世におられた五十年、そして釈迦の死後一千八百年あまり過ぎた中ごろの時代に、高さも広さも測り知れないほどの大きさの金でできた山(須弥山・しゅみせん)を、五尺の小身の人間が、手をもって、まるで一寸二寸の瓦礫を握って、一丁二丁くらい投げるように、雀などの鳥の飛ぶよりも早く、この世の果てにあると言われる鉄囲山(てっしせん)の外へ投げる者があったとしても、『法華経』を釈迦が説いたように説く者は、末法には非常に少ない。天台大師と伝教大師こそ、仏が説いたように説く人である、ということである。

インドの論師は『法華経』へは行き着けず、中国の天台以前の人師は、あるいは行き過ぎ、あるいは足らず、慈恩大師や法蔵や善無畏などは、東を西と言い天を地と言う人たちである。彼らを伝教大師は讃嘆してはいない。

延暦二十一年正月十九日に、高雄山に桓武皇帝の行幸を仰ぎ、奈良の六宗七大寺の碩徳である善議、勝猷、奉基、寵忍、賢玉、安福、勤操、修円、慈誥、玄耀、歳光、道証、光証、観敏などの十人あまり、最澄論議をし、あるいは一言で舌を巻いて二言三言に及ばず、みな一同に頭を抱え腕を組んでしまった。三論宗法相宗華厳宗の教義や教判の解釈など、すべて最澄に破られてしまった。たとえば、大きな屋敷の梁が折れたようなものである。十人の大徳の高慢も倒れてしまった。

(注:この記述は、延暦21年(802)の最澄36歳の時に行なわれた、高雄山寺における「法華会(ほっけえ)」の講師の一人として、最澄が招かれた時のことである。これに先立って、一年前の延暦20年には、最澄比叡山において、これも奈良の僧侶たちに依頼して、『法華経』の講義を10回にわたって行なっている。これを「法華十講(ほっけじゅっこう)」と言うが、この高雄山寺の法華会も、その延長のようなもので、この奈良の僧侶たちを招いて行われた法会は、もちろん論議なのではない。最澄は、高雄山寺における「法華会」で、天台大師の三大部を講義し、奈良の僧侶たちはその講義を通して感動したということは確かである。しかし、それは論議ではないので、「破られた」わけではない。

この高雄山寺には、道教事件で活躍した和気清麻呂(わけのきよまろ)の墓がある寺で、この寺での「法華会」は、清麻呂の息子の和気弘世(ひろよ)と真綱(まつな)が催したものである。さらに、この「法華会」には、桓武天皇行幸していない。天皇は、この「法華会」の成功を聞き、大いに喜んで賛辞を送っているのである。また奈良の僧侶たちからも、主催者である和気弘世に対して感謝の意を伝える謝辞が送られている。その謝辞の中に、奈良の仏教界で問題となっていた、三論宗法相宗の衝突が解決された、という記録がある。すなわち、この次の段落で日蓮上人が記している「帰伏状」は、帰伏状などではなく、この謝辞である。

そしてこの「法華会」を通して、最澄はさらに桓武天皇のところとなり、この直後、最澄は唐の留学僧の一人として選ばれることとなるのである)。

その時、天皇は大いに驚かれ、同二十九日に和気広世と大伴国道の二人を勅使として再び奈良七寺の六宗に遣わすと、次のような帰伏の状を奉った。

「天台の奥深い論書を見ると、釈迦のすべての教えを総括して、ことごとくその意味を明らかにして余すところなく、天台の教えは諸宗を超え、真理の一道を示している。その中の教えは実に深く、妙なる教理である。七大寺六宗の学生たちも今まで聞いたことがなく見たことがないほどである。これによって、三論宗法相宗の長年の争いも氷の如く解け、すでに雲や霧が晴れて光を見るようなものである。聖徳太子以降、今に至るまでの二百年あまりの間、講じられて来た経論は数多く、それぞれの教えの優劣を争って来たが、それらは未だに解けてはいない。しかし、この天台の完全な教えはまだ世には広められていなかった。この間は、人々はこの完全な教えを聞くにふさわしくなかったのであろうか。伏して思えば、日本の国は、ようやく如来の委託を受けて、深くこの完全な機会を結び、唯一の妙なる教えと真理が初めて明らかにされ、六宗の学者初めて至極を悟るのである。これによって、この世の人々はこれから妙なる完全な教えの船に乗り、いち早く悟りの彼岸に至ることができるようになったと言うべきである。善議(ぜんぎ・唐に渡って三論宗を学ぶ。奈良の大安寺の僧侶)たちは、幸いなる運命によって優れた教えにあうことができた。これは深い宿縁によってでなければ、このような教えのある聖なる世に生まれることはできなかった」。

中国の嘉祥大師(かしょうだいし・中国の隋から唐にかけての三論宗の僧侶で、三論教学の大成者。天台大師と交際があった。吉蔵(きちぞう)という名の方が知られている)などは、百人あまりを集めて、天台大師を聖人と定めている。今、日本の奈良の七寺の二百人あまりは、伝教大師を聖人と呼んでいる。釈迦の死後二千余年に及んで中国と日本に聖人が二人出現している。その上伝教大師は、天台大師がまだ広めていなかった円頓大戒を比叡山に建立した。これこそ、像法の末期に『法華経』が広まった証拠ではないか。

答える:摩訶迦葉(まかかしょう)や阿難(あなん・この二人は釈迦の後継者とされる弟子)たちが広めていない大いなる教えを馬鳴や竜樹や提婆や天親たちが広めたといことは、先の問答で明らかにした。また、竜樹や天親たちが広め残した大いなる教えを、天台大師が広めたということも、やはり前の問答で明らかにした。また、天台智者大師が広めなかった円頓の大戒を伝教大師が建立されたということも明らかである。ただし、不思議に思うことは、すでに釈迦はすべて説き尽くされたけれども、釈迦の死後に、摩訶迦葉や阿難や馬鳴や竜樹や無著や天親および天台大師や伝教大師がまだ広めていない最大にして深密の教えが、『法華経』の文面に現われている。この教えは、今の末法の二千五百年の始めの時に広めるべきであるか、不思議の極みである。

(注:繰り返して述べているが、日蓮上人当時は、大乗仏教の経典はすべて釈迦が説いた教えであるとされていたが、今ではそれは覆され、すべての大乗仏教の経典は、紀元直後に起こった大乗仏教という、仏教の宗教改革の中で創作されていったものであることが明らかである。したがって、上に記されている釈迦の弟子の時期には、もちろん大乗経典の教えなどない。しかし日蓮上人はそのことを、すでに釈迦が説いたすべての教えの中で、弟子たちが広めていなかった教えがあった、と解釈している。では、広められなかった教えが、どうして約500年間も存在し続けられたのであろうか。その方が不思議の極みである。同じように、馬鳴や竜樹や提婆や天親たちは、大乗仏教の初期のインドでの論師たちであり、ようやく大乗仏教思想が深められ始めた時代であった。そのため、大乗仏教経典もほぼすべて翻訳され、その思想も総括的に知ることができるようになった中国の天台大師のころから見ると、彼ら論師たちが説き残した釈迦の教えを、天台大師たちが広めたように見えるのであり、そのように見えるのも当然である。さらにここで日蓮上人は、それでもまだ説き尽くされていない釈迦の教えが、『法華経』にあるのだと宣言し、結局、それを説くのが日蓮上人自身だということを言おうとするのである。さらにその当時は、すでに末法は始まっており、それも釈迦の死後の二千五百年に近づきつつあると考えられていたので、時期も自分の時代に当てはまっていると信じていたのである。そのため、ここまでの記述の中でも、『法華経』は釈迦の死後二千五百年たってから、本格的にこの世に広まるべき経典なのだ、と力説しているのである。日蓮上人こそ、今まで明らかにされてこなかった『法華経』の教えを説き広める『法華経』の行者であり、そして「時」もその「時」であり、そのことを証明しようとして、ここまでもそしてこれからも、多くの経典や論書を引用しながら記述を進めているのである)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その8

質問して言う:(注:この質問の内容は非常に長いので、どこまで質問なのか、見誤らないように注意が必要)。正法一千年間の論師たちは、内心では『法華経』で明らかにされている真理が、顕教密教の諸経典に超過していることを知っていながら、外には説かず、ただ、『法華経』以前の仮(権)の大乗仏教の教えばかりを伝えていた、ということ、そうだとは思えないけれども、少しわかった気がする。

像法一千年間の中間ごろに、天台智者大師が現われて、題目の妙法蓮華経の五文字の一字一字に含まれた深い真理を『法華玄義(ほっけげんぎ・天台大師の『法華経』の講義を弟子が筆記した天台教学の代表的文献)』十巻一千枚に書き尽くし、『法華文句(ほっけもんぐ・これも同じく天台大師の『法華経』の講義を弟子が筆記した文献)』十巻には、『法華経』の最初の一文字から始まって最後の一文字まで、その一字一句を四つの方向(四種釈という)から解釈を加えて、一千枚を尽くして説かれた。以上の『法華玄義』と『法華文句』の二十巻には、すべての経典の心を江河とし、『法華経』を大海にたとえて、あらゆる世界の仏の教えの一滴も漏らさず、妙法蓮華経の大海に流れ込ませているのである。その上、インドの論書のあらゆる解釈や、中国の南北の多くの学者たちの解釈を、少しも漏らさず、破るべきは破り、取るべきは取って用いている。さらに、『摩訶止観(まかしかん・これも『法華玄義』などと同じく天台大師の講説である)』十巻を著わして、釈迦が説いた観心(かんじん・心を観察すること。いわゆる瞑想)の教えを一念に総括させ、すべての世界やそこに存在する者のあり方すべてを、三千のあり方にまとめたのである。この書は、遠くは月支国の一千年の間の論師も超え、近くは中国の五百年の学者たちの解釈よりも優れている。

したがって、三論宗の吉蔵大師は、南北の百人あまりの指導者や長者たちに、天台大師の経典の講義を聞けと勧めた書状の中で、「千年、五百年の単位で聖人が出るというが、まさにその聖人が今日おられる。南岳の叡聖(天台大師の師である慧思のこと)と天台の明哲(天台大師のこと)は、昔は『法華経』に生き、今は二人の偉人として現われている。単に尊い教えをこの地にもたらすばかりではなく、その教えはインドにまで響いている。生まれながらにして真理を悟り、魏や晉の時代以来、典籍の解釈においては比類がない。このため、禅宗の百人あまりの僧と共に天台智者大師の教えをいただいている」と記している。

また、修南山(しゅうなんざん)の道宣律師(どうせんりっし・中国唐の律宗の僧侶)は天台大師を讃歎して「『法華経』の真理を照らしていることは、正午の太陽が深い谷の中まで照らすようであり、大乗仏教の教理を説くことは、風が虚空に自由に吹くようなものである。たとえ、学問ばかりしている学者が千人万人いて、彼の妙なる弁論を極めようとしても尽くすことができないであろう。その真理を述べれば、ひとつの極みに至る」と言っている。

華厳宗の法蔵大師は、天台を讃嘆して「慧思禅師や智者大師は、不思議な霊の真理にまで感通して、菩薩の位を登られている。『法華経』の説かれた霊鷲山のその場で教えを聞かれた記憶が現在でもあるのだ」と言っている。真言宗の不空三蔵と、その弟子の含光法師の師弟共に真言宗を捨てて天台大師に帰依する物語として、『高僧伝(こうそうでん・中国の高僧たちの伝記集)』に「不空三蔵と共にインドに留学している時、ある僧侶が次のように言った。『唐に天台の教えがあり、誤ったことを正し、曲がったことと完全なことを明らかにすることにおいて最も優れている。これらを翻訳して、このインドに伝えるべきではないか』」とある。この物語は含光が妙楽大師に語ったことである。妙楽大師はこの物語を聞いて、「これは、インドの地における教えが失われて、それを他の地域に求めていることではないか。その中国においても、それを知っている者は少ない。自分の国に天台というすぐれた教えがあるにもかかわらず、それを知らない中国の地方の国の人のようなものだ」と言った。

もしそのインドに天台大師の三十巻のような大いなる論書があるならば、このように、南インドの僧侶がどうして中国に天台の教えを求めるだろうか。これはまさに、像法の中に『法華経』の真理が明らかにされて、この世に流布している証拠ではないか。

答える:正法一千年と像法の前半の四百年、つまり釈迦が死んでから一千四百年あまり、天台大師は確かにそれまでの論師が到達できなかった偉大で完全な禅定と完全な智慧を中国に広め、そればかりではなく、今引用された文のように、そのうわさはインドまで聞こえていたのである。この事実は『法華経』が広まっていたことのように思えるが、その時点では、まだ円頓(えんどん)の戒壇は建てられておらず、小乗仏教の儀式をもって、大乗の完全な智慧と禅定を規定するということは無理がある。たとえば、日食のようなものであり、月が欠けているようなものである。何よりも天台大師の時は、『大集経』でいうところの、経典はよく読まれ研究が盛んであるという時期であって、まだ『法華経』の広まる時期ではないのである。

(注:「円頓の戒壇」とは、前にも出てきたが、日本の伝教大師最澄が生涯をかけて設立を朝廷に求め、最澄の死後ようやく設立が許された比叡山戒壇のことである。日蓮上人もこの戒壇で受戒して僧侶となったのであり、実はこの私もそうであった。しかし、比叡山戒壇を設立することは、今までの奈良仏教の一大勢力からの独立を意図するものであり、朝廷に訴えるその教義的理由としては、「今まで大乗仏教戒壇はなかった、奈良の戒壇は小乗である」ということであるが、実際はかなり政治的な意図が強い。そしてこれは何よりも、最澄を見出し、中国まで送り届け、帰国後もその命が尽きるまで最澄を支えた桓武天皇の意図なのであり、最澄桓武天皇のためにも、そして日本の仏教の将来のためにも、大乗戒壇設立に文字通り命を懸けたのであった。日蓮上人は、『法華経』が広まることと、この戒壇設立をかなり教義的にも結び付けているが、それはあまりにも無理のある論理の飛躍である。

そしてここで戒壇のことがあがったので、これ以下は、その戒律についての内容となり、まず今まで以上に、非常に長い質問者の言葉が続くことになる)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その7

質問して言う:たとえ正法の時は、仏が世におられた時に比べれば、人々の能力は劣っていると言っても、像法や末法の時に比べれば、最上の能力を人々は持っているということになるではないか。ではなぜ、正法の始めから『法華経』が用いられなかったのか。馬鳴(めみょう)や竜樹(りゅうじゅ)や提婆(だいば)や無著(むじゃく・これらの人物は、大乗仏教初期の仏教思想家)たちも、正法の一千年間の内に世に現われたではないか。天親菩薩(てんじんぼさつ・この人物も同じく仏教思想家。この場合の菩薩は人間に対する最上の敬称。世親(せしん)という呼称が一般的である)は千部の論書の師であると言われ、『法華論』を著わして、この経典が他のあらゆる経典の中で第一であると述べた。真諦三蔵(しんだいさんぞう。三蔵は敬称。インドの僧侶で、中国に渡って多くの論書や経典を翻訳する)が伝えたところによると、月支国(げっしこく・インド北西部の国)には『法華経』を広めた人々は五十人あまりであり、天親はその中の第一の人物であるという。以上は正法の時代のことである。

続いて像法に入っては、天台大師が像法の中間に中国に現われて、『法華玄義(ほっけげんぎ)』と『法華文句(ほっけもんぐ)』と『摩訶止観(まかしかん)』の合わせて三十巻を著わして(厳密には弟子の筆記)、『法華経』の奥義を極めた。さらに像法の末に、伝教大師が日本に現われて、天台大師の完全な智慧と完全な禅定(いわゆる教えと修行)を私たちの国に広められたばかりではなく、『法華経』の精神に基づく大乗戒を授ける戒壇比叡山に建立し(厳密には最澄の死後)、日本中同じく大乗戒の地として、上は王より下は万民まで延暦寺を師範と仰ぐまでになった。まさに、像法の時こそ、『法華経』の広められる時ではなかったのか。

(注:確かに、大乗戒壇比叡山に設けられることによって、その後の仏教の流れが、比叡山中心となっていく。しかしそれがすべてではなく、当初から、高野山真言宗の勢力は比叡山に肩を並べるほどであった)。

答える:如来の教えは、必ず相手の能力に応じて説かれたということは、世間の学者たちが常識的に思っている。しかし実際、釈迦の説法の順番はそうではなかった。能力が豊かで智慧がある者のために、必ず優れた教えを説くというのなら、釈迦が悟りを開いた時に、なぜ『法華経』を説かなかったのであろうか。正法の最初の五百年に大乗仏教の経典を広めるべきではないか。また、仏に縁のある人に優れた教えを説くというのなら、釈迦の父親である浄飯大王(じょうぼんだいおう)や摩耶夫人(まやふじん)に『観仏三昧経』や『摩耶経』という、究極的な経典ではない経を説くべきではない。また、仏に縁のない悪人や教えをそしる者に、秘められた教えを説かない、というのなら、覚徳比丘は多くの破戒の者たちに向かって、『涅槃経』を広めるべきではなかったはずである。さらに、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は教えを罵る人々に向かって、どうして『法華経』を広めたのか。

このように、相手の能力に従って教えを説くということは、大きな誤りである。

(注:正確に言うならば、覚徳比丘は『涅槃経』に、常不軽菩薩は『法華経』に記されている物語の人物である)。

問う:竜樹や世親などは、『法華経』の真実の教えは説かなかったのか。

答える:説いていない。

問う:ではどのような教えを説いたのか。

答える:『華厳経』や「方等経(ほうとうきょう・大乗仏教の経典の総称)」や『般若経』や『大日経』などの『法華経』以前の大乗経典、いわゆる顕教密教の多くの経典を説き、『法華経』の教えは説かなかった。

問う:どうしてこのようなことがわかるのか

答える:竜樹菩薩の著わした論書のすべては三十万偈にも及ぶというけれど、それらがすべて中国や日本にもたらされていないので、竜樹の考えが正確に知ることはできないと言っても、中国に伝わった『十住毘婆娑論(じゅうじゅうびばしゃろん)』や『中論(ちゅうろん)』や『大智度論(だいちどろん・これらは竜樹が著した代表的な論書)』を通して、インドに残っている竜樹の論書の内容を推測できるのである。

質問して言う:インドに残っている彼の論書の中には、中国にもたらされた論書よりも優れた論書があるかも知れないではないか。

答える:竜樹菩薩については、私は自分の判断で述べるべきではない。釈迦は、「私が死んだ後、竜樹菩薩という人物が南インドに出るであろう。彼の主張は『中論』という論にある」と述べている(もちろん、このようなことは事実ではなく、日蓮上人がどうしてこのようなことを述べるのか不明である)。したがって、竜樹菩薩の流派はインドに七十人いて、そのすべてが優れた論師である。その七十の人々は、みな『中論』を基としている。そして、『中論』の四巻、合計二十七品(ほん=章)の要点は、「因縁所生法(いんねんしょしょうほう・すべての存在は原因と条件と結果の法則によって成り立っているという教え)の四句の偈(=詩)である。この四句の偈は『華厳経』や『般若経』などが説かれた時の三諦(さんたい・真理を空・仮・中の三つの言葉によって表現する教え。『法華経』以前の教えにおいては、それぞれ三つが別々のものとして認識されているとする)であって、まだ『法華経』が説かれることによって表わされた真実の三諦(円融三諦という。三つがひとつであるといこと)が述べられているのではない。

質問して言う:あなたのように解釈した人はいるのか。

答える:天台大師は、「中論をもって比較することはするな」、「天親や竜樹は内には見抜いていたが、それを説くのは時に従った」などと言っている。また妙楽大師は、「仮の教えを破って真理を明らかにするという観点からすれば、まだ『法華経』には及ばない」などと言っている。従義(じゅうぎ・中国の天台宗の僧侶。神智法師と言われる)は、「竜樹や天親は天台大師には及ばない」などと言っている。

問う:唐の末に不空三蔵が一巻の論書を訳した。その名を『菩提心論(ぼだいしんろん)』という。竜猛菩薩(りゅうみょうぼさつ・真言宗では、大乗思想の大成者である竜樹と同一視するが、別人であるという説もある)の著作である。真言宗弘法大師は、「この論書は竜猛が記した千部の中の第一であり中心的な論書である」と言っている。

答える:この論書はそれほど長い書物ではないが、竜猛の言葉とは思えない箇所が多い。そのため、目録にも竜猛の著作なのか、不空が書いたものなのか、両方共に定まらないとある。その上、この論書は、釈迦の教えに立って記されているわけでもなく、内容も統一されていない。したがって、「ただ真言の教えの中では重要な論書である」ということは誤りである。なぜなら、『法華経』においては、文章としても、また実際にそのような事例をあげて、即身成仏(そくしんじょうぶつ・その体そのままで仏になるという意味)を説いていることを無視して、文章でも事例においても見られない真言宗の経典に即身成仏が述べられているので、「ただ真言の教えの中では重要な論書である」という言葉の中の「ただ」は何よりの誤りである。

このようなことを考えると、不空三蔵が自分で記した書物を、当時の人々に広まるように、竜猛が書いたかのようにしたのではないだろうか。その上、不空三蔵は誤記が多い。たとえば、彼が訳した『観智軌(かんちき・本来の名称は長いので省略する)』には、『法華経』の「寿量品」の仏を阿弥陀仏としている明らかな誤りがあり、同じく「陀羅尼品(だらにほん)」を「神力品(じんりきほん)」の次に来る章として書いており、また同じく「属累品(ぞくるいほん)」を経典の末に記すなど話にならない。そうかと思えば、天台大師の大乗戒を盗んで代宗皇帝からの宣旨として、五台山に五寺を建てている。しかもまた、真言の教相には天台宗の教相を用いるべきだとしたり、人々を迷わすことばかりしている。他人の訳ならば用いることができるが、この人の訳した経論は信じられない。西域の月支国から中国に経論を伝えた人は、古い訳や新しい訳を合わせて、百八十六人である。鳩摩羅什を除いては、どの人も誤りがないことはない。特にその中でも不空三蔵は誤りが多いうえに、人々を迷わせる心が顕著である。

質問して言う:どうしてそのようなことがわかるのか。鳩摩羅什以外の人々は誤りが多いと言うことは、禅宗や念仏や真言宗などの七宗を破るのみならず、中国や日本に伝わった、すべてのわたる訳者が訳した経論を用いないとでも言うのか。

答える:このことは、私にとって秘めた事実であって、詳しくは、あなたと直接会って話したい。しかし、ここで少し申し上げよう。

鳩摩羅什は次のように言った。「中国にすでに伝えられた経典を見ると、すべて原本通りに訳されていないことを知った。その中で、自分の訳だけは正しいことを、どのように現わそうか。自分には大きなひとつの誓願がある。自分はすでに妻をめとって不浄の身ではあるが、舌だけは清らかであり、仏の教えにおいては嘘偽りは言ってはいない。自分が死んだとき、必ず火葬にしてほしい。そしてもし舌まで焼けてしまったならば、自分が訳したすべての経論を捨ててほしい」と常に講壇から言っていた。そこで、上の王から下は万民に至るまで、願わくは鳩摩羅什より後に死にたいものだと言った。ついに鳩摩羅什は死んで火葬にされたが、その不浄だという身体は焼けて灰となったが、舌だけは火の中に生じた青蓮華(しょうれんげ)の上にあって、五色の光明を放って、夜は昼のように、昼は太陽の周りの輪のように光り輝いていた。このようにして、他のすべての人の訳したものは軽くなり、鳩摩羅什三蔵の訳した経論、特に『法華経』は中国に広く流布したのである。

(注:鳩摩羅什が火葬されて舌だけが焼け残ったという話は有名であるが、もちろん、このような話は偉人の伝記によくある作り話である。しかしこのような話を、鳩摩羅什の訳は正しいということの証明に引用するとは、今の感覚ではあり得ない。そしてそもそも、鳩摩羅什の訳には、誤り以上に、原本にはない思想や言葉を付け加えるということが多い。日蓮上人当時は、容易に原本を見ることはできなかった。特に中国は、中国のものが世界の中心であるという中華思想の影響があり、サンスクリット語などの原本から漢訳されると、原本は焼き捨ててしまうということが当たり前のように行なわれていた。そのため現在でも、漢訳はあるが原本がない経論は多い。その中で、『法華経』などのサンスクリット原本は存在し、現在では誰でも容易に手にすることができるようになっている。それらを通して、鳩摩羅什がいかに原本に付け加えることを多く行なっていたかが、読む人ならだれでもわかるほどである。日蓮上人当時はそうではなかった、ということも、「時」のなせるわざである)。

質問して言う:鳩摩羅什以前はそうであっただろうが、それ以後の善無畏や不空などはどうであるか。

答える:鳩摩羅什以降だと言っても、訳者の舌が焼けてしまったということを見て、訳が正しかったか誤っていたかを知ることはある。このため、日本に法相宗が広まっていたころ、伝教大師はこれを責めて、「鳩摩羅什三蔵は舌は焼けず、玄奘やその弟子の慈恩大師の舌は焼けた」と言って、桓武天皇はそれを受け入れ天台法華宗へ移られたのである。

『涅槃経』を見るならば、釈迦の教えは、月支国(この場合はインドを意味する)から他国へ伝わる時、多くの誤謬が生じて、人々が悟りを開きにくくなるであろうと記されている。このため妙楽大師は、「仏の教えを判断することにおける責任は、それを受け入れる人にあるのであり、経典に書いてある言葉に責任があるのではない」とおっしゃっている。今の人々が、いかに経典に書いてあるから、と言って、経典の言葉のままに死後の世界を願ったとしても、誤った経典によっては悟りの道へと至ることはない。しかし、そうだからと言って、仏にその責任があるのではない。仏の教えを学ぶ道には、大乗と小乗があり、大乗にも、仮(権)と真実(実)があり、顕教密教があるが、これらはさておいても、このことが最も大切なことである。

(注:最澄はあくまでも、自分の開いた比叡山に籠って、勉学と修行の日々を送ろうとしていたのである。しかし、新しい仏教をもたらしたいという桓武天皇が、そのような最澄を見出したのであり、最澄の方から桓武天皇を説得したのではない。上の話も、全くの偽りの話である。そして、あくまでも舌が焼ける焼けないで、その人の訳の正しさが証明される、ということは、本当に現在では話にならないことである。また、経典に書いてあっても、それがすべて正しいとは限らない、ということは、すべての経典に平等に言えることであって、上に書いたように、『法華経』を訳した鳩摩羅什の翻訳の方法にも問題がある)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その6

今は、末法に入って二百年あまりが過ぎた。

(注:先にも述べたように、日蓮上人当時の日本では、釈迦が死んだのは、西暦紀元前949年とされていた。したがって、最終的な時代である末法(まっぽう)は、釈迦の死後二千年後に始まるのであるから、平安時代の中期にあたる1052年(永承7年)に始まった、という説が有力であった。日蓮上人は、1222年から1282年の人物であるから、この『撰時抄』が記された時は、220年あまりが過ぎていることとなる。

しかし、実際の釈迦の生没年については、前463~前383、あるいは前566~前486という説があるが、いずれにせよ、もし末法が釈迦の死後二千年から始まるとするならば、まさに現在である)。

『大集経』の「国乱れて正しい教えが隠れてしまう時」に当たる。仏の言葉が真実ならば、必ずこの世が乱れる時である。伝え聞くところによると、中国では、三百六十の国そして六十あまりの州は、蒙古国に打ち破られたという。都はすでに破られて、徽宗(きそう)と欽宗(きんそう)の両帝は、金に連行され、モンゴルで亡くなられたという。徽宗の孫の高宗皇帝は長安を攻め落とされて、田舎の杭州地方に逃れて、数年間、都を見ることができなかったという。高麗や新羅百済などの諸国もみな大蒙古国の皇帝に攻められて、今の日本国の壱岐対馬ならびに九州のようである。国乱れるという仏の言葉は地に落ちず、まるで海の潮の満ち引きが時を違えることがないようなものである。このことをもって考えると、『大集経』がいう、正しい教えが隠れてしまう時に次いで、『法華経』の大いなる正しい教えが日本ならびに世界中に広まることも疑いない。

『大集経』は、釈迦の教えの中では、『法華経』以前の教えであって、真実に生死の繰り返しを離れることにおいては、『法華経』の教えを聞いていない限り力のない経典ではあるが、この世の事柄である迷いの世界のこと、生きとし生けるもののこと、過去現在未来のことについては、少しの誤りもない経典である。

ましてや、『法華経』は釈迦が「まさに真実を説こう」とおっしゃり、多宝仏は「この教えは真実である」と証明され、あらゆる国から来た諸仏は、梵天にまで至る広く長い舌をもって、その教えの正しいことを証しされた。そして釈迦は再び、偽りのないその舌をこの世の最も高い天にまで至らせ、後の五百年にすべての仏の教えが滅んだ時、上行菩薩妙法蓮華経の五字をゆだねて、教えを非難する愚かな者たちへの良い薬としようと、梵天帝釈天や日天子や月天子、そして四天王や竜神たちに語られたその尊い言葉が空しくなるはずがない。大地は覆され、高山はなくなり、春の後に夏が来ず、太陽が東へ沈み、月は地に落ちたとしても、このことは絶対にないのである。

このことが事実であるならば、国が乱れる時において、日本の国の王や大臣ならびに 万民のための仏の使者として、「南無妙法蓮華経」を広めようとする人に対して、罵り、悪口を言い、流罪にして、打ちたたき、その弟子たちをあらゆる困難な目に合わせる人たちが、どうして安穏でいられるであろうか。このようなことを言うと、愚かな者たちは、呪っていると思うであろうが、『法華経』を広める者は、日本のすべての人々に対する父や母のようなものである。章安大師(しょうあんだいし・天台大師の弟子であり、天台大師の講義の多くを記述として残した)は、「彼らのために悪を除く者は、すなわち彼らの親である」と言っている。そうであるなら、日蓮は日本の王の父母であり、念仏する者や禅宗の者や真言の僧侶たちにとっての師範である。また主君である。しかしその日蓮を、上の人から下の万民に至るまで困難にあわせるとは、太陽や月が彼らをどうして照らし続けていようか。地の神がどうして彼らの足を支えていようか。提婆達多(だいばだった)は仏を打って傷つけたので、大地が揺動して火炎が噴出し、檀弥羅王(だんみらおう)は師子尊者(ししそんじゃ)の首を切ったので、右の手が刀と共に落ちたという。徽宗皇帝は法道(ほうどう)の顔に焼き印を押して江南に流したので、半年もたたないうちに敵の手にかかってしまった。

今、日本に蒙古が攻めて来るのもこれと同じである。たとい多くの天の武士を集めて、鉄囲山(てっちせん・この世の最も外側にあるという山)を城としてもかなわないであろう。必ず日本のすべての人々は、その兵によって苦しめられるであろう。そのことを通して、日蓮法華経の行者であるかないかがはっきりするであろう。

釈迦は、「末の世の悪しき世界に『法華経』を広める者に対して、悪口を言い罵倒する者は、仏である私を一劫という長い間呪った者よりも百千万億倍その罪は重いのだ」とおっしゃった。それにもかかわらず、今の日本の国主や万民たちは、自分の思いのままに、父母や長年の敵よりも大いに日蓮を憎み、謀反人や殺人者よりも強く日蓮を責めるとは、今すぐにでも大地が割れて陥り、天の雷がその身を割いても不思議はない。

日蓮法華経の行者ではないのか。もしそうならば、大きな嘆きである。この一生においては万人に責められて片時も安らかにいられず、次の生には悪しき世界に落ちると嘆くばかりである。日蓮が『法華経』の行者でないならば、誰が『法華経』の教えである一乗(すべての人が仏になるという教え)を保つ者であろうか。

法然が「『法華経』を投げ捨てて念仏だけを用いよ」と言い、善導が「念仏以外の道では、千人の中でも一人も仏になれない」と言い、道綽が「念仏以外の道では、未だに一人も悟った者はない」などと言っているが、そのようなことを言う者が『法華経』の行者なのだろうか。また弘法大師は「『法華経』を行ずるなどとはたわ言だ」と言っているが、このような者が『法華経』の行者なのだろうか。『法華経』の文には「この経典をよく保つ」、「この経典をよく説く」と記されているが、「よく説く」とはどのようなことか。それは、この『法華経』があらゆる経典の中で最も上であると言って、『大日経』や『華厳経』や『涅槃経』や『般若経』などよりも、『法華経』は優れているとする者こそ、『法華経』には『法華経』の行者だと説かれているのである。もしその経文の通りならば、日本に仏の教えが伝えられて七百年あまり、伝教大師日蓮以外は、一人も『法華経』の行者はいないことになる。

いろいろ考えてみるならば、『法華経』を罵る者は、頭が七つに割けるとか、口がふさがってしまうとか記されているが、まだそのようなことは起こっていないのも道理である。なぜなら、そのようなことは浅い罰なのであり、あったとしてもただ一人二人のことである。日蓮はこの世において、第一の『法華経』の行者である。それをそしったり恨んだりすることをしきりにする者は、この世で最も大きな災難にあうであろう。これこそ、日本を揺り動かした正嘉の大地震(しょうかのだいじしん・1257年に鎌倉を襲った大地震。ちなみに、日蓮上人が死んで10年後にも鎌倉に大地震があり、その混乱の中、日蓮上人を迫害した中心人物の平頼綱はその子と共に殺害された)であり、また天を罰するかのような文永の大彗星(1265年に現われた大彗星)などである。これらを見るがよい。仏が死んだのちの世において、仏の教えを行なう者が恨まれることはあっても、今のような大いなる災難は一度もなかった。「南無妙法蓮華経」と、すべての人々に勧めた人も一人もいなかった。この徳に対して、この天下に眼を合せ、世界に肩を並べる者がいるだろうか。

 

つづく

 

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