大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その16

問う:何をもってこのことを信じるか。

答える:『最勝王経』に「悪人を敬愛し、善人を罰するために、天体の運行や気候が正常ではなくなる」とある。この経文の意味は、国に悪人がいるにもかかわらず、王や大臣がこの悪人に帰依するということに間違いない。また、国に智慧者がいるにもかかわらず、国主がこの智慧者を憎むということに間違いない。また、「帝釈天に仕える天の神々が、みな忿怒の心を生じさせたため、不思議な流星が流れ、太陽が二つ同時に出て、他の国の怨賊が来て国の人々が乱される」とある。すでにこの国に天変地異あって、他国が攻めて来ている。天の神々が怒っていることは疑いない。

『仁王経』に「多くの悪しき僧侶たちが多く名利を求め、国王や太子や王子の前で、自ら仏の教えを破る教えと国を破る教えを説く。その王は分別がなく信じてその言葉を聞く」とある。また「太陽や月は規則性を失い、時節が狂って、赤い太陽が出たり黒い太陽が出たり、また二つ三つ四つ五つの太陽が出たり、あるいは日食で光がなくなり、あるいは日輪が一重二重、また四重五重の輪が現われたりする」とある。その文の意味は、悪しき僧侶たちが国に充満して国王や太子や王子たちを騙し、仏の教えを破る教えや国を破る教えを説けば、その国の王たちはこの人に騙されて、この教えこそ、仏の正しい教えであり、国を守る教えだとして、この言葉を受け入れて用いるならば、太陽や月に異変が起こり、大風と大雨と大火などが起こり、次いで内賊と言って、親類から大兵乱が起こって、自分に味方する者たちをみな撃ち殺して、さらに他の国に攻められ、あるいは自殺し、あるいは生け捕られ、あるいは人質となるであろう。これは、仏の教えを滅ぼし、国を滅ぼしたためである。

『守護経』に「釈迦如来の教えは、すべての天魔や外道や悪人や神通力を持つ神仙などであっても、少しも破ることはできない。しかし、名ばかりの多くの悪しき僧侶は、これを残すところなく滅ぼしてしまう。須弥山(しゅみせん・仏教の世界観の中で、世界の中心にある最も高い山)を、かりに世界中の草木を集めて薪として、長時間燃やしたとしても、須弥山は全く損傷することはない。しかし、この世の終わりの火が起こって、その火に焼かれるならば、すべてが焼かれて灰さえ残らないのだ」とある。

『蓮華面経』に「仏は阿難に告げた。たとえば、師子が死ぬと、空や地や水や陸の生き物はその死体は食べず、ただ師子の体の中にいた虫が、その死体を食べるように、阿難よ。私の説いた仏の教えは破ることはできないが、仏の教えを受けた者たちの流れの中の悪しき僧侶たちが、私が測ることもできないほど長い間に積み重ねてきた教えを破るであろう」とある。

経文の意味は、過去の仏の一人である迦葉仏(かしょうぶつ)が、釈迦如来の仏の教えが末法の時代にどのようになるかについて、訖哩枳王(きりきおう)に語ったところによると、大族王という王が、インドの寺院を焼き払い、十六の大国の僧尼を殺すであろう、ということであり、また、中国の武宗皇帝が、九国の寺塔の四千六百所あまりを打ち壊し、僧尼二十六万五百人を還俗させるということである。しかし、これほどの悪人であっても、釈迦の仏の教えを消滅させることはできない。僧衣を身にまとい、一鉢を首にかけ、八万の教えを胸にうかべ、あらゆる経典を口にする僧侶が、釈迦の教えを滅ぼすのである。たとえば、須弥山は金の山である。すべての世界の草木をもって、この世のすべての空間に押し込めて満たし、一年二年そして百千万億年間焼き続けたとしても、まったく損なわれることはない。しかし、この世の終わりの火が来るとき、須弥山の麓から豆ほどの火が出て、その火が須弥山を焼くばかりではなく、すべての世界を焼き尽くしてしまう。もし仏の言葉通りならば、十宗、八宗の僧侶たちが、仏教という須弥山を焼き払うのであろう。小乗の倶舎宗成実宗律宗の僧侶たちが、大乗をそねむ胸の瞋恚は炎のようである。真言宗の善無畏や禅宗の三階教などや浄土宗の善導などは、仏教の師子の肉を食べるうじ虫の僧侶たちである。伝教大師三論宗法相宗や華厳などの日本の学者たちを六虫と述べている。日蓮真言宗禅宗や浄土宗などの祖師たちを三虫と名付ける。また、天台宗の慈覚大師や安然や慧心僧都たちは、法華経伝教大師の師子の身の中の三虫である。

正しい教えを非難する根源を正す日蓮を攻撃すれば、天神地祇も怒って、災いが大いに起こるのである。したがって、よく知るべきである。この世において第一の大事を述べているのであるから、最も第一の兆候が起こるのである。何と哀れなことか、何と嘆かわしいことか。このままでは日本の人々はみな、地獄の底に堕ちるのだ。しかし嬉しいことだ、喜ばしいことだ。このような愚かな身であっても、この世において仏の教えを受け入れられた。

今に見よ。大蒙古国が数万艘の兵船を浮かべて日本を攻めれば、上より下の万民に至るまで、すべての仏寺すべての神寺を投げ捨てて、それぞれ声を合わせて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱え、掌を合せて「助けたまえ日蓮の御房、日蓮の御房」と叫ぶことであろう。

たとえば、月支国の大族王は幻日王に掌を合わせ、源平の合戦で敗れた平宗盛梶原景時に命乞いをしたようなものである。『法華経』の高慢な僧侶たちは、最初は常不軽菩薩を杖や棒で打ったけれども、後には掌を合わせて行ないを悔いた。提婆達多は釈迦の体を傷つけたが、臨終の時には「南無」と唱えた。「南無仏」と言えば地獄には堕ちなかったものを、悪しき業が深く、ただ「南無」とだけ唱えて「仏」とは言わず、今の日本の高僧たちも、「南無日蓮聖人」と唱えようとする時が来ても、「南無」とだけ唱えるかも知れない。何と不憫なことだ。

外典(げてん・仏教以外の典籍)に、「未来を予見する人を聖人と言う」とある。仏典には、「過去現在未来を知る人を聖人と言う」とある。日蓮に三つの功名がある。一つは、文応元年七月十六日に『立正安国論』を最明寺殿(=北条時頼)に奏上した時、宿谷の入道(=宿屋光則(やどやみつのり)・鎌倉幕府の役人。『立正安国論』を奏上した時の取次役なども行なう。後に日蓮の弟子となる)に向って「禅宗念仏宗とを排除することを忠告して下さい。そのようになさらない場合は、幕府の一門から事件が起こり、他国から攻められるでしょう」と言ったことである。

二つには、文永八年九月十二日(龍の口法難の日)に、平左衛門尉(=平頼綱(たいらのよりつな)。執権北条時宗と時貞の二代にわたって執事となる。日蓮を迫害した中心人物。龍の口法難の日においても、松葉が谷の日蓮を襲い捕えて龍の口刑場まで引いて行った。しかし、頼綱は後に時貞の命令によって殺害される)に向って、「日蓮は日本の棟梁である。私を失うことは日本の柱を倒すことだ。間もなく『自界反逆難』と言って、同族の中で反逆が起こり、『他国侵逼難』と言って、この国の人々は他の国に打ち殺されるのみならず、多く生け捕りにされるであろう。建長寺寿福寺極楽寺や大仏や長楽寺などのすべての念仏者や禅僧たちの寺塔を焼き払って、彼らの首を由比ガ浜で切らなければ、日本は必ず滅びるであろう」と言ったことである。

三つには、去年の文永十一年四月八日(佐渡流罪が許され、鎌倉に帰って来て平頼綱と会見した日)に、左衛門尉に次のように語った。「幕府の支配する地に生まれたのだから、身は幕府に従っているようだが、心まで従っているわけではない。念仏は人を地獄の底に落とすわざ、禅は天魔のなすわざであることは疑いようがない。特に、真言宗がこの国の大きな災いである。大蒙古を調伏することを、真言宗の僧侶に命じてはならない。もし、そのような大事を真言宗の僧侶に委ねて調伏させようとするならば、いよいよこの国は亡びるであろう」と言ったが、頼綱は「それはいつごろ起きるであろうか」と質問してきたので、「経文にはそのような予言はないけれども、天の怒りは少なからず、それは逼迫していると見える。今年を越すことはないであろう」と答えた。

この三つの大事は、日蓮が言ったのではない。ひとえに、釈迦如来の御魂が私の体に入ったことによるのであろう。

(注:日蓮上人が佐渡流罪を許されて鎌倉に入ったのは、1274年3月のことである。最初の元寇である「文永の役」は、この年の10月である。『撰時抄』は、この翌年の1275年に記されている。なお、二度目の元寇である「弘安の役(1281年)」は日蓮上人が亡くなる前年である)

自分でも喜びが身にあまる。『法華経』の一念三千という大事の法門はこれである。『法華経』に、「いわゆる諸法の是くの如き相」という意味は何か。十如是(じゅうにぜ)の最初の「是くの如き相」が第一の大事であるから、仏は世に出現されたのである。「智人は原因を知り、蛇は自ら蛇を知る」とはこれである。多くの川の水が集まって大海となる。塵が積もって須弥山となる。日蓮が『法華経』を信じ始めた時は、日本においては微細な塵のようであったが、『法華経』を二人、三人、十人、百千万億人が唱え伝えるほどになれば、妙なる悟りの須弥山となり、大いなる涅槃の大海ともなるであろう。仏になる道は、これより他に求めてはならない。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

撰時抄 その15

亡国の悲しさと亡身の嘆かわしさに、身命を捨ててこのことを表わしてきた。そして、これからも表わそうではないか。国主ならば、世を保つために私の指摘に驚いて、もっと詳しく聞きに来なければならないはずなのに、ただ、他人を貶める言葉だと受け取って、さまざまな迫害を加えて来た。しかし、『法華経』を守護する梵天帝釈天や日天子月天子、四天王、地神たちは、昔からの正しい教えに対する非難を異常だと思っておられるが、これを知っている者がないので、一人の子の悪さのように赦してしまい、偽りを言い、愚かなことをする時は、少し懲らしめる時もあった。

しかし、今は正しい教えを非難する者を用いることだけでも異常なことなのに、日蓮のように、それを指摘する者をさらに迫害するのだ。それも一日二日、一月、二月、一年、二年にとどまらず、数年に及んでいる。『法華経』に記されている常不軽菩薩が、杖や木の棒でたたかれたという災難よりもひどく、悪を指摘して殺されそうになった覚徳比丘のことをも超えている。その間、梵天帝釈天の二王、日天子月天子、四天王、衆星地神などが怒って、度々いさめられたけれども、さらに悪を行なうために、天の御計いとして、隣国の聖人に命じられてこれを戒め、大鬼神を国に入れて人の心をたぶらかし、内乱を起こさせたのである。

吉凶につけて、兆候が大きければ災難も多いということが道理であり、釈迦の死後、二千二百三十年あまりの間、今まで出たこともない大きな彗星が現われ、今までなかったような大地震が起こった。中国や日本に、智慧が優れ、偉大な才能を持つ聖人はたびたび出現したけれども、今までに日蓮ほど『法華経』の信奉者であるということで、国中に強敵を多く作った者もない。何よりも、眼前の事実をもつて、日蓮はこの世で第一の者と知るべきである。

仏教が日本に伝わって、七百年あまりたった。すべての経典は五千巻も七千巻もあり、宗派は八宗十宗、智者は稲や麻のように多く、教えの広まりは竹や葦が生えるようである。しかし、仏は阿弥陀仏であり、他の諸仏の名号は阿弥陀仏の名号ほど広まってはいない。

この阿弥陀仏の名号はどのように広まったかと言うと、まずは恵心僧都源信が『往生要集』を著わし、それによって日本の三分の一がみな念仏者になった。さらに、永観は『往生拾因(おうじょうじゅういん)』と『往生講式(おうじょうこうしき)』を著わし、それによって日本の三分の二がみな念仏者となった。そして、法然は『選択本願念仏集』を著わし、日本のすべての人々が念仏者となった。したがって今、阿弥陀仏の名号を唱える人々は、一人の弟子ではない。

この念仏というものは、『無量寿経』と『観無量寿経』と『阿弥陀経』の題名である。権大乗経(ごんだいじょうきょう・仮の大乗経という意味)の題目が広まっていることは、実大乗経(じつだいじょうきょう・真実の大乗経という意味)の題目が広まる序のようなものではないか。心ある人はこれを考えるべきである。権経が広まれば、実経も広まるであろう。権経の題目が広まれば、実経の題目も広まるであろう。

仏教が伝わった欽明天皇より今の天皇の時代に至るまで七百年あまり、「南無妙法蓮華経」と唱えよと他人にも勧め、自らも唱えた智慧者はいない。太陽が昇れば星は隠れる。賢王が現われれば愚王は滅ぶ。実経が広まれば権経の広まりは止まる。智慧が「南無妙法蓮華経」と唱えれば、愚人がこれに従うことは、身に影がつくように、声に響きが伴うようになるであろう。日蓮は日本第一の『法華経』の行者であることは疑いようがない。この事実によって考えよ。中国にもインドにも、この世のどこにおいても、これに肩を並べる者はいないのである。

問う:正嘉の大地震や文永の大彗星は、なぜ起こったのだろうか。

答える:天台大師は、「智慧者は理由を知り、蛇は自ら蛇を知る」と言っている。

問う:どういう意味か。

答える:『法華経』にある、上行菩薩が大地より出現したことについて、迷いの深いところまで断じていた弥勒菩薩文殊師利菩薩や観世音菩薩や薬王菩薩なども、その理由がわからなかった。それは、「如来寿量品」の真理である「南無妙法蓮華経」を末法の世に伝えるために、仏がこの上行菩薩を召し出されたのである。弥勒菩薩たちは、やはり仏ではないので、この理由を知らなかったということにおいては、愚人扱いされたのである。

問う:日本や中国やインドで、このことを知っている人はいるのだろうか。

答える:迷いを断じ尽くしていた大菩薩でさえも、このことを知らなかった。ましてや、迷いをまったく断じてもいない者たちが、このことを知ることができるだろうか。

問う:智慧者がいなければ、どうしてこのことに対処することができるだろうか。たとえば、病気の原因がわからない者が、病人を治療しようとすれば、必ず死んでしまう。この災いの根源を知らない人々が祈るならば、国はまさに亡びること疑いない。本当にあさましいことである。

答える:蛇は七日のうちに大雨が来るのを知り、烏は一年の間の吉凶を知る。これは、大竜に従って学んでいるせいだろうか。日蓮は凡夫である。このことを知らないとは言え、だいたいのことでもあなたに知らせよう。

周の平王の時、禿で裸な者が現われたのを見て、辛有という者が占ったところ、百年の内に世が滅びるだろうと言った。また同じく幽王の時、大地震が起こって山川が崩れたが、白陽という者が推察して、十二年の内に大王は大きな事件に見舞われるであろうと言った。今の大地震や大彗星などのことは、国王が日蓮を憎んで、国を亡ぼす教えである禅宗と念仏者と真言の僧侶たちに味方するので、天が怒って下した災難である。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

撰時抄 その14

質問して言う:『法華経』が真言より勝るとする人は、この解釈をどうすべきか。用いるべきか。あるいは捨てるべきか。

答える:釈迦は、これからの僧侶の姿勢について、「教えによるのであり、人によるのではない」と言っている。竜樹菩薩は、「経典によれば正しい解釈となり、経典によらなければ誤った解釈となる」と言っている。天台大師は、「また経典に合致しているならば、これを記してこれを用いる。合致している文がなければ信じ受け入れてはならない」と言っている。伝教大師は、「仏の教えによるのであり、人の口伝を信じてはならない」と言っている。

これらの経典の解釈は、夢を根拠としてはならない。『法華経』と『大日経』との勝劣を分明に説いている経典や論書の文こそ大切なのである。ただ、印や真言がなければ、仏像や仏画の開眼の儀式ができないということであるが、真言がなかった時代は、仏像や仏画の開眼の儀式はなかったのであろうか。インドや中国や日本では、真言以前の仏像や仏画が歩き、説法し、言葉を語った、ということが伝えられているが、かえって、印や真言をもって仏を供養してから後は、このような功徳も失われているのである。これは常に言われていることである。

以上述べてきたことについては、日蓮はその証拠になる経典や文献などを引用する必要はない。慈覚大師の解釈を直接読んで確信しているところである。

問う:どうしてそのように確信するのか。

答える:そもそも、その夢は、真言は『法華経』に勝るという内容である。もしその夢が吉夢ならば、慈覚大師が言っているように、真言が勝るであろう。ただ、太陽を射抜くという夢は、吉夢と言うべきであろうか。仏典五千七千巻あまり、仏教以外の典籍三千巻あまりの中に、太陽を射抜いたという夢が、吉夢である証拠があるであろうか。少々、このことを述べてみよう。

阿闍世王(あじゃせおう・釈迦に帰依した王)は、天から月が落ちる夢を見て、耆婆大臣(ぎばだいじん)に尋ねてみると、大臣は、釈迦が亡くなられたのだと言った。須抜多羅(すばったら)は天より太陽が落ちる夢を見て、釈迦が亡くなったと言った。阿修羅は、帝釈天と戦う時、まず太陽と月を弓矢で射たとう。中国の夏の桀(けつ)や殷の紂(ちゅう)という悪王は、常に太陽を射て、身と国を滅ぼしたという。

また、その反対に、釈迦の母親である摩耶夫人は、太陽をはらむという夢を見て、悉達太子(しったたいし・釈迦の幼名)を産んだ。そのために、釈迦は太陽の種族の末裔だと言われる。日本という国の名は、天照太神の日天という意味である。

したがって、慈覚大師の見た夢は、天照太神伝教大師や釈迦や『法華経』を射抜いた矢であって、その二部の論書はそうなのである。日蓮は愚か者であって、経典や論書もわからないが、ただこの夢の話を聞いただけでも、『法華経』よりも真言が優れているとする者は、今の生涯においては国を滅ぼし家を失い、死後においては、地獄の底に堕ちるとことは知っている。

さらに今、現に証拠がある。日本と蒙古との合戦において、すべての真言宗の僧侶がその調伏を行なって、日本が勝てば、真言は偉大だと思うであろう。しかし、承久の合戦の時、多くの真言宗の僧侶たちが祈り、調伏を行なったにもかかわらず、結局、幕府の北条義時が勝って、後鳥羽院隠岐の国へ、御子の天子は佐渡の島に流され、調伏されたのは真言で祈った側だった。

狐は、自分が鳴くために敵に見つかって食べられてしまうように、『法華経』に「かえって災いが本人に降りかかる」とあるように、比叡山の三千人の僧侶たちも、鎌倉幕府に攻められて、すべて従属させられてしまった。しかし、今は鎌倉幕府が盛んになっているので、東寺や天台宗園城寺や奈良の七寺の真言の僧侶たち、さらに自立を忘れてしまったような天台宗の中にいる、正しい教えを非難する者たちは、関東に下って行って、頭を下げ膝をかがめて、武士の心に取り入って、諸寺や諸山の別当(べっとう・寺院の職務の監督)や長吏に任命されて、朝廷の権威を失墜させてしまった。

悪法をもって国土安穏を祈っているのである。将軍家ならびに所従の侍以下の人々は、国土安穏が成就するだろうと思っているだろうが、『法華経』を捨てた大罪の僧侶たちを用いるならば、国は間違いなく滅びるのである。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その13

これよりも百千万億倍、信じられないような最大の悪事がある。慈覚大師(じかくだいし・円仁(えんにん)。伝教大師最澄の弟子。唐に渡り、その9年間の旅の記録を『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』として記し、その書物は世界三大旅行記の一つに数えられている。日本で「大師」という諡号を朝廷から下されたのは、円仁が最初である)は、伝教大師の第三の弟子である。しかし、上は王より下は万民に至るまで、慈覚大師は伝教大師より優れていると思っているほどの人である。

この人は、真言宗法華宗の真実の教えを学び極め、その結果、真言は『法華経』より優れていると文に記している。そしてこのことを、比叡山の三千人の大衆および日本じゅうの学者たちが受け入れてしまったのである。弘法大師の門人たちは、大師が『法華経』は『華厳経』に劣ると書いているのを見て、私たちの師であるけれども、少し言い過ぎではないか、と思ったが、慈覚大師の解釈もそうであるから、やはりそれは真実だと信じ込んでしまった。

日本において、真言宗は『法華経』に勝るという者がいれば、何よりも比叡山こそ、それに対抗すべきであるのに、比叡山の慈覚大師が三千人の口をふさいでしまったので、真言宗の思う通りになってしまったのだ。したがって、真言宗の東寺の第一の味方は、まさに慈覚大師よりすぐれた者はいないということだ。

たとえば、浄土宗や禅宗は、他の国ではいくらでも広まるとしても、日本においては、比叡山延暦寺が許さなければ、自由に広まることはできない。しかし、安然和尚いう比叡山第一の古徳は、『教時諍論(きょうじじょうろん)』という書物を記し、その中に、九宗の優劣を立てている中に、第一は真言宗、第二は禅宗、第三は天台法華宗、第四は華厳宗などとある。この大いなる誤りによって、ついに禅宗は日本に充満して、日本は滅びようとしている。法然念仏宗が流行って、それによっても、日本が滅びようとしているが、その始まりは、比叡山の恵心僧都の『往生要集』の序より始まっている。「師子の身の中の虫が師子を食う」という仏の言葉は本当である。

伝教大師は日本において十五年間、天台や真言などを一人で学ばれ、生まれながらの智慧をもって、師匠がなくても悟られたが、世間の疑いを晴らそうと、自ら中国の唐に渡って、天台や真言の二宗を伝えたのである。

(注:これも誤りである。最澄が出家して学んでいた時点では、日本には密教は伝わっておらず、天台の書籍もじゅうぶんではなかった。最澄は世間の疑いを晴らそうとしたのではなく、自ら天台教学をしっかりと学び、天台教学の典籍を伝えるために唐に渡り、それに付属する形で、密教も伝えようとしたのである。)

当時の中国においては、さまざまの教えがあったが、伝教大師は、法華の教えは真言より優れていると考えたために、真言宗の「宗」の字を削って、天台宗の止観・真言というように書いたのである。

(注:これも誤りである。真言宗とは、弘法大師空海以降の宗派に名付けられた名称であり、最澄当時は、真言宗という名称はなかった。当時は、真言密教の意味で使用されていたのであり、そのため、天台教学の「顕教」に対する「密教」という意味で、「真言」という言葉を使用していたのである。)

比叡山の出家者は、十二年間勉学をするのであるが、その年分得度者(ねんぶんどしゃ・毎年の出家者の数。当時は毎年の出家者の人数を朝廷が管理していた)は二人である。そして、止観院に『法華経』と『金光明経』と『仁王経』(この三つの経典は国を守る護国経典とも言われる)の三部を鎮護国家の三部と定めて読誦させた。天皇からこの宣旨申し下され、永く末代まで、日本国の第一の重宝、いわゆる神璽や宝剣や内侍所と同じように崇めさせたのである。このことは、比叡山の第一の座主(ざす)である義真(ぎしん)和尚そして、第二の座主である円澄(えんちょう)大師まではこの通りであった。

第三の座主となった慈覚大師は、中国の唐に渡って十年間、顕教密教の二道の勝劣を八宗の大徳に学んで伝えた。また、天台宗は、広修(こうしゅ)や惟蠲(ゆいけん)などに学んだ。しかし、心の中では、「真言宗天台宗に勝っている。わが師である伝教大師は、このことを学んでおられなかったのだ。長く中国にはおられなかったので、この法門については、ご存じなかったのだ」と思って、日本に帰国し、比叡山の東塔の止観院の西に総持院という大講堂を建て、本尊は密教金剛界大日如来を安置し、この前で、『大日経』について善無畏が記した論書を基に、『金剛頂経』の解説書七巻と『蘇悉地経』の解説書七巻、以上の十四巻を記した。

その論書には次のように記されている。

「教えに二種がある。ひとつは顕示教(=顕教)、つまり声聞と縁覚と菩薩の教えを別々に説く三乗教である。世俗の教えと悟りの教えとが、まだひとつとなっていないのである。もうひとつは秘密教(=密教)、つまり声聞も縁覚も菩薩もすべての人々が仏になるという一乗教である。世俗の教えと悟りの教えが一体となっているからである。さらに、秘密教の中にまた二種ある。ひとつは悟りの秘密を理論で説く『華厳経』や『般若経』や『維摩経』や『法華経』や『涅槃経』などである。ただ、世俗の教えと悟りの教えがひとつであると説くだけで、まだ真言の秘密である印を説かない。ふたつは、目に見える実践的修行と理論がともに秘密であることを説く教えである。これは、『大日経』や『金剛頂経』や『蘇悉地経』などである。世俗の教えと悟りの教えが一つになっていることを説き、さらに真言の秘密の印を説くのである」と言っている。

この解釈の核心部分は、『法華経』と真言の三部の経典との勝劣を定めているのである。真言の三部経と『法華経』とは、理論的には同じく一念三千の法門である。しかし、秘密の印と真言などの実践的修行のことは、『法華経』には書いておらず、『法華経』は理論の秘密を説き、真言の三部経は理論も説き、実践的修行のことも説くので、その違いは天地雲泥の差であると書いているのである。しかも、このことは、自分勝手な解釈ではなく、善無畏三蔵の『大日経疏』の核心なのであるとあるので、自分でもなお、二宗の勝劣に対して疑問を持っていたのであろうか。あるいは、他人の疑問を解決しようとしたのであろうか。

慈覚大師の伝記に次のようにある。

「大師は二経の解説書を書かれて功をなし、さらに心の中で『この解釈が仏の心に通じるであろうか。もし仏の心に通じないのであれば、世に広めることはしない』。こうして、仏像の前に安置し七日七夜、誠を尽くして勤行した。すると、五日目の夜明け前に夢を見た。正午ごろの太陽に向かって弓矢を射ると、その矢は太陽に当たって、太陽は動いて回った。この夢から覚めて、自分の解釈は仏の心に通じているので、後世に伝えることにした」とある。

慈覚大師は日本においては、伝教大師弘法大師の両家の教えを習い極めて、中国に渡っては、八宗の大徳ならびに南インドの宝月三蔵などに十年間、最も重要な秘法を極めたのである。そのうえで、二経の解説書を著わし、さらに本尊に祈祷したところ、智慧の矢は昼間の太陽に命中し、その喜びのあまり仁明天皇に宣旨を申し上げ、天台の座主を真言の官主のようにして、真言の三部経を鎮護国家の三部経として今に至り、この四百年あまり、慈覚大師の弟子たちは稲や麻のように多く、大師を慕う人々は、竹や葦のように多い。

このようにして、桓武天皇伝教大師が建てた日本の寺院はすべて真言の寺となり、公家も武家も一同に真言宗の僧侶を召して師匠と仰ぎ、官位をあげて寺を与えている。仏事の仏像や仏画の開眼供養は八宗すべて、みな同じく密教の印と真言によって行なわれている。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

撰時抄 その12

弘法大師は、同じ延暦年中に唐に渡り、青竜寺の慧果に師事して真言宗を学んだ。帰国後、釈迦の説かれたすべての経典の優劣を判断して、第一に真言、第二に華厳、第三に法華と説いた。この大師は世間の人々も大変尊敬する人である。ただし、仏教における功績は大きく、いろいろ言うことは遠慮を感じるが、とんでもないことも言っているのである。

このことをいろいろ考えるわけであるが、中国に渡って、ひたすら真言の理論ではなく、目に見える儀式的な印や真言を学んで、教理的なことを思索しないうちに、日本に帰って来た。その後に、世間では天台宗が広まっており、自分が重んじている真言宗は広められない状態だったので、中国に行く前に学んでいた華厳宗を取り出して、『法華経』に勝っているとしたのである。それも華厳宗が普通に言っているように言ったのなら、人々は信じないだろうと思ったのだろうか、少し雰囲気を変えて、華厳宗の教理を取り出してきているにもかかわらず、これは『大日経』や竜猛菩薩の『菩提心論』や善無畏等の教義であると大きな嘘を言ったのである。しかし、天台宗の人々はそれを批判しなかった。

問う:弘法大師が著した『十住心論(じゅうじゅうしんろん・天皇の要請を受けて、すべての仏教および東洋の教えをランク付けしたもので、密教の教えが最高とする。空海の代表作の一つ)』や『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく・『十住心論』を要約したもの)』や『二教論(にきょうろん・顕教密教の区別を明らかにしたもの)』に、「各教えが、自らが釈迦の教えだと主張しているが、これらを今になって冷静に見れば、ただのたわ言である」、また「単なる迷いの範囲内であって、悟りの位には至っていない」、また「究極的な教えではない」、また「中国の学者や僧侶たちは、他の究極的な教えを盗んで、自らの宗派の教えとしている」などと言っているが、このような解釈はどうであろうか。

答える:自分もこの解釈に驚いて、すべての経典および密教の『大日経』などの代表的な三つの経典を読んでみたが、『華厳経』と『大日経』に対すれば、『法華経』はたわ言であり、『六波羅蜜経(ろくはらみっきょう)』に対すれば、『法華経』は盗人であり、『守護経(しゅごきょう)』に対すれば、『法華経』は迷いの範囲内だという経典の言葉は、一字一句も見当たらなかった。

(注:大乗経典は、どれも釈迦の説いた言葉ではないので、実に様々なことが書かれている。これらを一人の釈迦の言葉だと解釈すること自体が無理なのであるが、明治以前の僧侶たちは、この経典の内容の違いを、釈迦に違いがあるのではなく、聞く側の能力の違いの結果であり、釈迦は聞く相手の能力に応じて説いたので、各教典の教えに違いがあるのだ、ということを基に、教判、つまり経典のランク付けによって経典の内容の違いを理解してきた。そしてもちろん、統一的見解などあるわけがなく、それぞれの僧侶や学者によって、さまざまな意見が出され、その違いによって宗派が分かれていった。各宗派の立場からすれば、他の宗派の重んじる経典は程度が低いわけであり、確かにそのように見ようと思えば、いくらでもそう見えるのである。

たとえば、日蓮上人が言っているように、『大日経』などの密教経典は、手に結ぶ印の形と、唱える真言や儀式のやり方などばかり書かれて、教理的内容がないように見える。また、これは私の言葉で表現するが、『阿弥陀経』などの浄土経典は、やたらに阿弥陀仏の描写や極楽浄土の様子ばかり詳しく書かれているだけである。また、『般若経』などの般若経典には、「これはあると見えるがない、それもあると見えるがないのだ」というような言葉ばかりが繰り返されていて、読んでいる方が馬鹿にされたような気持になる。さらに『法華経』は、深い教理的な言葉はなく、まるでひと昔前のSF小説のような場面の連続、あるいは想像力を豊かにしなければついて行けない童話のような内容のみで、まさに「ざれ言」と言われても仕方がないように見える。

真理は表現したとたんに真理ではなくなる。真理とは言葉では表現できないものなのである。そのため、各教典はすべて真理を表現しようとしてはいるのだが、表現したとたんに真理ではなくなるので、その真理を見極める目のない者にとっては、「ざれ言」に見えてしまうのである。

日蓮上人は、『法華経』を通して真理を見る目を持つ人物であった。そのため、他の経典はすべて『法華経』以下のものとして見えていたのであり、日蓮上人の信奉する天台教学が、まさにそのことを説いているのである。)

このことは、大変根拠のない空しいことであるけれども、この三四百年あまり、日本じゅうの学者や僧侶たちが受け入れてきたことなので、かなり定着してしまったのも無理はない。そこで、いくつかわかりやすい事例をあげて、他のことも空しいことなのだということを知らせよう。

法華経』を最高の教えであるとしたのは、中国の陳から隋の時代のことである。『六波羅蜜経』は唐の中ごろに般若三蔵がこれを翻訳した。『六波羅蜜経』の中心的な教理が、陳から隋の時代に世に出ていたのなら、天台大師は、その経典に記されている真言の重要教理を盗むこともできたであろう。

同じようなことは日本にもある。日本の得一(とくいつ・平安時代法相宗の僧侶である徳一のこと。最澄との論争は有名。日蓮上人は、音が同じなら気にせず漢字を入れ替えて使用することが多くある)が、「天台大師は『深密経(じんみつきょう・法相宗の重要経典)』の三時教(さんじきょう・法相宗の教判で、すべての経典を三段階に分けて解釈する)を破っている。それは三寸の短い舌をもつて五尺の身を断つようなものだ」と罵ったが、伝教大師はこれを批判して、「『深密経』は唐の初期に、玄奘がインドから伝えて翻訳したものだ。天台大師は陳から隋の人ではないか。天台智者大師が亡くなった後、数年して『深密経』は伝わったのだ。死んだ後に伝わった経典を、どうやって破ったのか」と責めた。すると、得一は言葉に詰まるばかりか、舌が八つに割けて死んでしまった(注:もちろん徳一はこのような死に方はしていない)。

弘法大師のこれらの言葉は、徳一よりもひどい悪口である。華厳宗の法蔵や三論宗の嘉祥や法相宗玄奘や天台大師など、および南北の諸師や後漢以降の学者や僧侶たちを、みな一様に盗人と言っている。その上、また『法華経』が究極的な教えであるということは、天台大師の私見ではない。

釈迦は『涅槃経』に、『法華経』は究極的な教えだと述べられた。天親菩薩(=世親・大乗仏教の思想家。菩薩は人物に対する最高の尊称)は、『法華経』と『涅槃経』を究極的な教えだと述べている。そして、竜樹菩薩は『法華経』を妙薬と名付けている。

したがって、『法華経』などを究極的な教えであると言う者が盗人ならば、釈迦や多宝仏や十方の諸仏、および竜樹や天親たちは盗人なのであろうか。弘法大師の弟子たち、および日本の東寺の真言宗の諸師は、自分の目で判断がつかないようならば、他の鏡を用いてまで、自分の誤りを知らねばならない。

この他、『法華経』をたわ言の教えだと言うならば、『大日経』や『金剛頂経』などから、その証拠となる経文を出してみよ。たとえ、それぞれの経典に、『法華経』をたわ言だと書いてあったとしても、それは訳者の誤訳である可能性もある。よく調べてもらいたいものだ。

孔子は九度考えて一言を発し、周公旦(しゅうこうたん)は、いつ尊い人物が来てもいいように、沐浴中に人が来れば髪を握ったまま、食事中なら口に入れた物を三度吐いてまで出迎えたという。仏教以外の世間の浅い事を習う知識人でさえこうなのである。このようにしていれば、浅はかなことは起こり得ないのである。

このような誤りの教えの末に位置する者であるが、伝法院の本願と呼ばれる聖覚房(しょうかくぼう・平安時代末期の真言宗の僧侶。覚鑁(かくばん)の名で知られる。後に高野山から追放され、根来寺(ねごろじ)に移る。新義真言宗の開祖であり、興教大師という諡号を送られる)が、仏の骨である舎利を供養する法会において、「高く尊い方は、並ぶ者のない尊高なる大日如来である。驢馬や牛の三身の仏は、その車を引く資格さえない。秘められた奥義は、両部漫陀羅(仏の世界を表わした曼荼羅に二つある。金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)と胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)の二つ)の教えである。顕教の四法は履物を取る資格さえない」と言っている。顕教の四法とは、法相宗三論宗華厳宗法華宗(=天台宗)の四つであり、驢馬や牛の三身とは、『法華経』と『華厳経』と『般若経』と『深密経』の教主となっている四仏であり、これらの教えを保つ仏と僧侶は、真言宗の聖覚房や弘法大師の牛飼にも履物を持つ者にも足らない、と言っているのである。

月氏国に大慢婆羅門というバラモン教の者がいた。生まれながらに博学で、仏教の顕教密教の二つも究め、仏教の内外の典籍も手の中に握っているようなものだった。そのため、王や大臣までも頭を下げ、多くの民が師と仰いだので、大慢婆羅門は慢心を起こし、世間の人々に拝まれている者は大自在天(だいじざいてん・ヒンズー教シヴァ神のこと)と婆籔天(ばすてん・仏教の守り神の仙人)と那羅延天(ならえんてん・ヒンズー教ヴィシュヌ神のこと)と釈迦であるから、この四人の聖人を自分の椅子の四つの足にしようと、そのような椅子を作って、それに座って教えを説いた。

これはまるで、現在の真言宗の僧侶たちが、釈迦仏をはじめ、すべての仏をかき集めて曼荼羅を描き、灌頂の儀式をする時、その曼荼羅を敷いて儀式を行なうようなものである。また、禅宗の法師たちが、この宗派の教えは、仏の頭を踏むほどの大いなる教えであると言っているようなものである。

さて、賢愛論師(けんあいろんじ)という僧侶がいて、大慢婆羅門を批判したが、王や大臣をはじめ、すべての民は耳を貸さなかった。最後は、大慢婆羅門は弟子や檀家たちに命じて、彼に悪口を言ったり打ったりしたが、彼は少しも命を惜しまず批判を続けたので、王は賢愛論師を憎んで、論議を通して退けようとしたが、かえって大慢婆羅門が論破されてしまった。そこで王は天に仰ぎ地に伏して嘆き、「私は目の当たりに真実を知り、間違った考えを晴らした。先王は大慢婆羅門に騙されて、地獄の底にいることだろう」と、賢愛論師の足に取り付いて泣いた。王は大慢婆羅門を殺そうとしたが、賢愛論師はそれを止めた。結局、大慢婆羅門は驢に乗せられインド中を引き回されたので、大慢婆羅門はさらに悪心が盛んになり、生きたまま地獄の底に堕ちた。現在の真言宗禅宗の僧侶たちはこのようではないか。

中国の三階禅師(さんがいぜんじ・三階教という中国における仏教系新興宗教の開祖である信行(しんぎょう)のこと。正法を第一階、像法を第二階、末法を第三階とする教え)は、次のように言っている。「『法華経』は第一階と第二階の正法と像法の教えである。末法のためには三階教の教えが必要である。『法華経』を今の世に行なう者は地獄に落ちるであろう。『法華経』は末代の人々にはふさわしくないからである」と言って、一日六度の礼拝、四度の座禅などを行ない、生き仏のように人々に崇められ、弟子も一万人あまりに及んだ。しかし、幼い少女が『法華経』を読む声に責められ、即時に声を失い、やがて大蛇になって、檀家や弟子や少女や処女を食べた。今の善導や法然たちが、「念仏でなければ千人いても一人も悟りを得られない」という悪い教えもこれである。この三つの事例はすでに昔のことであるので、あえて非難することもないのであるが、言わなければ信じてしまう人もいるであろう。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

撰時抄 その11

真言宗という宗派は、上の二つに比べ物にならないくらい、大きな誤りのある宗派である。これからそれについて述べよう。

いわゆる中国唐の玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵は、『大日経』や『金剛頂経』や『蘇悉地経(そしつじきょう・いずれも密教の中心的な経典)』を、月支国よりもたらした。この三つの経典の説くところは明らかである。その究極的な教えを見れば、仏になる教えだけを説いていて、各教典に見られる声聞(しょうもん・釈迦の弟子の教えという意味で、大乗仏教から見れば小乗仏教)や縁覚(えんがく・自分一人で悟り、弟子も作らずこの世を去る人)の存在などは触れない。そしてその目に見える実践方法は、ただ手に印を結び、真言を唱えるだけである。それらは、『華厳経』や『般若経』の、声聞や縁覚を仏になる菩薩と比べて、仏になる道を説いている教えにも及ばない。また、天台宗で説く、『法華経』以前の段階での高度な教えほどの深みもない。ただ、非常に初歩的な教えを表面的に繕っているだけである。

善無畏三蔵は次のように思った。「この経文を人々に明らかにしてしまうと、華厳宗法相宗に馬鹿にされ、天台宗にも笑われるであろう」。こう思ったが、せっかく大切に月支国から持ってきた経典であるから、ただ持ち帰ってはもったいないと思ったのであろうか。天台宗の中に一行禅師(いちぎょうぜんし)というひねくれ者が一人いた。

(注:以前にも述べたが、この時点では真言宗という宗派はなく、密教という大乗仏教のひとつの流れが、善無畏や金剛智や不空たちによって、インドから中国に伝わっていた状態である。そして、これから善無畏とその弟子の一行の記述になる。一行については、日蓮上人は天台宗の人と言っているが、そうではなく、ありとあらゆる仏教の教えを学んだ僧侶であり、また皇帝に用いられた天文学者でもある。一行は密教を善無畏と金剛智から学び、善無畏と共に『大日経』の注釈書である『大日経疏(だいにちきょうしょ)』を著わした。この『大日経疏』は後の日本における真言宗天台宗に非常に大きな影響を与えることになる。日蓮上人は、日本の天台宗が、天台大師の教学のみを中心とせずに、特に密教を受け入れたことを非常に批判しているため、日蓮上人にとって一行は目の敵である)。

善無畏はこの一行に中国にすでにある教理を語らせた。一行阿闍梨あじゃり・修行を達成した人に与えられる称号のひとつ)は騙されて、三論宗法相宗華厳宗などを詳しく語ったのみならず、天台宗の教理を語ったところ、善無畏は「天台宗はインドで聞いていた以上に優れていて、とても太刀打ちできない」と思い、一行を騙して「あなたは中国にあってはとても尊い僧侶である。天台宗は神妙なる教えの宗派であるが、今、真言宗天台宗より優れているところは、印と真言である」と言った。

一行もそうかもしれないと思った。善無畏三蔵は一行に「天台大師が『法華経』の注釈書を著わしたように、『大日経』の注釈書を作って、真言の教えを広めようと思うが、あなたが書いてくれないか」と言ったので、一行は次のように言った。「書くことはたやすいことです。ただし、どのように書いたらいいでしょうか。天台宗は憎い宗派です。諸宗派はわれもわれもと戦いを挑んでいますが、太刀打ちできないことがひとつあります。『法華経』が説かれる直前に説かれたとされる『無量義経(むりょうぎきょう)』という経典をもって、『法華経』以前の四十年あまりの期間に説かれた経典は、すべて『法華経』から見れば、仮の教えだと定めてしまっています。

(注:『無量義経』は短い経典であるが、この経典の中に、釈迦の言葉として、今までの四十年間の説法では真実を明らかにして来なかった、という記述があり、いかにも『法華経』の前座的な内容となっている。さらに『法華経』の序の箇所に、「無量義という教えが説かれた」という記述がある。このため、『法華経』の「開経(かいきょう)」と呼ばれている)。

そして、『法華経』の『法師品(ほっしほん)』や『神力品(じんりきほん)』をもつて、『法華経』の後に、『法華経』以上の経典は説かれなかったとしています。また、『法華経』と肩を並べるほどの内容だと思われる経典は、『法師品』の『私の説いた経典は、無量千万億あって、すでに説き、今説き、まさにこれから説こう。そしてその中で、この『法華経』は最も信じることが難しく、理解することが難しい』という文をもつて片付けられてしまいます。このようなわけですから、『大日経』は、この『すでに説き、今説き、まさにこれから説こう』の中で、どこに当たる経典だとすればよいのでしょうか」と質問した。

これに対して善無畏三蔵は、大いにたくらんで次のように言った。

「『大日経』に『住心品』という品(ほん=章)がある。『無量義経』の『今までの四十年間の説法では真実を明らかにして来なかった』という文のように、これも他の経典を打ち払ってしまう内容である。『大日経』の『入漫陀羅品』以下の諸品は、中国では『法華経』と『大日経』という二つの経典となっているけれども、インドでは一つの経典である。釈迦は、弟子の舎利弗弥勒菩薩に向っては、『大日経』を『法華経』と名付けて、内容も印と真言とを省いて、ただ教理的なことだけを説かれた経典を、鳩摩羅什三蔵はこれを翻訳したのだ。そして天台大師はこれを読んだのだ。一方、大日如来は『法華経』を『大日経』となづけて金剛薩埵(こんごうさった)に説かれた。これを『大日経』と名付ける。私はこの目でインドでそれを見た。このようなわけで、あなたは『大日経』と『法華経』とを水と乳とのように、同じ味とするべきである。そうすれば、『大日経』は『私の説いた経典は、無量千万億あって、すでに説き、今説き、まさにこれから説こう』という言葉を、『法華経』が一番であるということの証拠とするように、『大日経』を第一とすることができる。さて、天台宗で説く一念三千(一瞬の心の中にすべてが含まれるということ)とは、心の悟りの状態を意味する。密教の印と真言は、まさに心を一念三千の状態に高めることであるから、これこそ三密相応(さんみつそうおう)の秘法である。

(注:三密の三とは、身(しん)口(く)意(い)の三つを指す。体と言葉と心のことである。この三つが仏の体と言葉と心とに一致することを三密相応といい、身口意それぞれを身密、口密、意密という。これが密教の目指す悟りの境地である)。

三密相応するならば天台宗は心を相応させることであるから、意密である。したがって、真言宗は、ある将軍が甲鎧に身を固めて弓矢を持ち、太刀を腰につけているようなものであり、天台宗は意密だけなので、ある将軍が裸でいるようなものである」と言ったので、一行阿闍梨はそのように書いたのである。

(注:善無畏が、このように一行をそそのかして、彼に『大日経疏』を書かせた、とあるが、もちろん、このようなことは事実ではない)。

中国の三百六十カ国には、この事を知る人がいない。最初は、どちらが優れているかと論争もしたが、善無畏たちは身分が高く、天台宗の人々は身分が低く、また天台大師ほどの智慧のある者もなかった。そのため、次第に真言宗に押し切られていき、それも長い年月となったので、いよいよ真言宗の災いが根深くなってしまった。

日本の伝教大師は、中国に渡って天台宗を伝えた。そしてついでに真言宗も伝えた。

(注:繰り返すが、あくまでも真言宗という宗派は、日本の弘法大師空海からの宗派である。最澄は、真言宗を伝えたのではなく、密教を伝えたのである。空海密教を日本に伝えるという目的で唐に渡り、帰国後、密教を宗旨とする真言宗を、高野山を中心に開いたのである。最澄天台宗を日本に伝えるために唐に渡ったが、彼は天台教学を中心として、当時あったすべての仏教形態を日本に伝えることも目的とした)。

最澄は、天台宗を日本の皇帝に授け、真言宗を奈良六宗の大徳に習わせた。ただし最澄は、奈良の六宗と天台宗の優劣は、唐に渡る前にしっかりと定めていたのである。唐からの帰国後は、比叡山大乗仏教の戒律を授ける円頓の戒壇を設立しようとしたが、反対する敵が多く、戒壇設立は成就することが困難だと思われたのであろうか、また、末法の世において責めさせればよいと思われたのであろうか、天皇の前でも真言宗と論争することもなく、弟子たちにも明確には語らなかった。ただし最澄に『依憑集(えびょうしゅう・最澄が、天台教学と他の宗派の教学の一致を示す他の宗派の文献を引用してまとめた書物。日蓮上人は、他の人々が天台宗に屈服したことを表わすとしているが、そのようなことはない)』という一巻の秘められた書があり、他の七宗の人々が天台宗に屈服したことが書かれてある。その文の序に、真言宗の誤りを指摘する一文を見ることができる。

(注:すでに述べたように、最澄は天台教学ばかりではなく、密教を含めたすべての仏教形態を日本に伝えようとしたのである。しかし、短い留学期間ではとても足りず、当時の唐の中心地である長安にも最澄は行けず、彼が伝えた密教は傍系のものであった。そのため、最澄は帰国後、善無畏から始まる密教の正統を伝える長安の恵果(けいか)に師事した空海に弟子入りし、また自分の弟子である泰範(たいはん)たちを空海のもとに送り(この中で泰範はそのまま空海の弟子となって帰らなかった)、何とかして密教比叡山にもたらそうとした。そのような最澄が、どうして真言宗と論争するのであろうか。事実はその真逆である)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その10

問う:それでは、その秘めた教えとは何か。まずその名を聞き、次にその意味を聞こうと思う。このことがもし事実なら、釈迦が再びこの世に現われるのだろうか。『法華経』で説かれる上行菩薩が、再び地より涌き出るのであろうか。早々に慈悲を下されたい。玄奘三蔵は、六度死にかけて、まるで六度生まれ変わったような困難の後、月氏国に入って十九年間学んで再び唐に帰り、それで出した結論が、『法華経』の誰もが仏になれるという一乗の教えは方便の教えであって、小乗の『阿含経(あごんきょう)』の方が真実の教えだと言い、不空三蔵もインドに帰って、『法華経』の「寿量品」の仏を阿弥陀仏だなどと書いたりしている。これらは、東を西と言い、太陽と月を取り違えるようなものである。これでは、命の危険を冒して教えを求めても何ら意味がない。幸い私たちは末法の世に生まれて、一歩も歩まなくても長い歳月修行したことになり、釈迦の前世のように、自分の身を虎に与えなくても、仏の姿を得ることができるであろう。

答える:この法門を述べようとするなら、経文を見れば容易にわかるのである。ただし、この法門には先ず三つの大切なことがある。海は広いけれども死骸を海に留めることはない。大地は厚いけれども不孝の者を地の上には生かさない。仏の教えは、たとえ重い罪を犯した者でも助け、不孝者も救う。ただし、正しい教えを非難する者と、戒律を保っていることだけを第一とする者は赦されず仏とはなれない。

この三つの災いとは、念仏宗禅宗真言宗である。まず念仏宗は日本に広まって、すべての人の口遊びになっているほどである。

次に禅宗は、見た目には質素な僧侶の姿をしていても、その心は高慢である僧侶が四海に満ちていて、自分は天下の導師だと思っている。

さらに真言宗は、前の二宗に比べ物にならないくらいである。比叡山、東寺、奈良の七大寺、園城寺、そして上は貫主や皇室の住持はじめ、下々の役人に至るまで、すべてである。例えば、宮中にあった神鏡が燃えてしまったので、大日如来の宝印を仏鏡として祀っているという。また、宝剣は西の海に沈んでしまったので、密教の五大尊をもつて国の敵を破ろうと思っているという。これらの誤った信心は非常に堅固なので、たとえ一劫という非常に長い歳月が流れようとも揺らぐとは思えず、大地がひっくり返っても疑うとは思えない。天台大師が南北の諸宗派と論議をして破った時も、この真言宗密教は伝わっておらず、伝教大師が奈良の六宗を虐げた時も、真言宗はその対象ではなかった。天台大師や伝教大師という強敵を免れているので、かえって大いなる教えを消そうとしている。その上、伝教大師の弟子である慈覚大師は、この宗を取り立てて比叡山天台宗と取り換えてしまったので、比叡山真言宗となってしまった。もはや慈覚大師には敵はなくなってしまったわけである。このような誤りが力を得てしまったので、弘法大師の邪悪な教えを咎める者もない。安然(あんねん)和尚は少し弘法大師を非難したかと思ったが、ただ華厳宗を非難したのみで、かえって『法華経』を『大日経』に対して下と見てしまった。これでは、単なる侵入者のようなものである。

(注:伝教大師最澄は、唐からすべての仏教の教えをもたらし、比叡山を日本の仏教の中心としようとした。したがって、最澄密教も伝えようとしたが、あまりにも唐に滞在した期間は短く、特に密教においては十分なものは得られず、帰国せざるを得なかった。そのため、これも有名なことであるが、帰国後、同じ遣唐使船で唐に渡った弘法大師空海に弟子入りしてまで、密教を学ぼうとしたほどである。最澄真言宗を論破するわけがない。それどころか、学んでいたのである。

しかし、書物ばかりで学ぼうとする最澄に対して、密教は書物では伝わらないと、最後は空海の方から最澄との縁を切ってしまった。このように、最澄は課題を残して亡くなったわけであるが、師が課題を残すと、その弟子たちはその課題を解決しようと努力し、かえって偉大な人物が出る、ということは法則のようで、慈覚大師円仁や智証大師円珍、そして五大院安然などによって、やがて比叡山密教の教えが確立されていく。特に安然は、空海真言密教に肩を並べるほどに天台密教の教学を確立した人物であり、これを日蓮上人は、安然は少し弘法大師を非難した、と表現していると思われる。しかし、これらはあくまでも日本の天台宗の流れであって、決して間違った方向に行ってしまったわけではないが、日蓮上人は、天台宗と言えば、『法華経』を中心とした天台教学以外に考えられないので、その視点から、比叡山が横道にそれたと非難しているのである)。

問う:この念仏宗禅宗真言宗の三宗の誤りとは何か。

答える:念仏宗、いわゆる浄土宗は、まず、中国の斉の時代に、曇鸞(どんらん)法師という者がいた。三論宗の人である竜樹菩薩(確かに、三論宗は竜樹の三つの論書を基にしているが、竜樹自身は三論宗とは全く関係がない)の『十住毘婆娑論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を読んで、仏の道には、難行道(なんぎょうどう・自分の力で修行をして悟りを開こうとする方法)と易行道(いぎょうどう・阿弥陀仏の力によって極楽に往生しようとする方法)を立てた。そして、唐の時代に道綽(どうしゃく)禅師という者がいて、最初は『涅槃経』を講義するほどの学者であったが、曇鸞法師が浄土の信心に移ったという文を見て、『涅槃経』を捨てて浄土の教えに移り、聖道門(=難行道)と浄土門(=易行道)の二門を立てた。また道綽の弟子に善導(ぜんどう)という者がいて、雑行(ざつぎょう・念仏以外の行を指す)と正行(しょうぎょう・念仏を指す)を立てた。

末法の時代に入って二百年あまり、日本の後鳥羽院の時代に、法然という者がいた。すべての道俗に勧めて次のように言った。

「仏の教えにおいては、時と人の能力が基本である。『法華経』や『大日経』や天台宗真言宗などの八宗九宗で説かれる釈迦の教えにおける大乗小乗、顕教密教、大乗の仮の教えや真実の教えなどいろいろあるが、それらは、正法と像法の時代を合わせた二千年間の、能力が優れていて智慧もある人々のために説かれた教えである。今は末法に入っており、どのように努力して修行したとしても、何ら益となるところはない。その上、これらの教えを阿弥陀仏の信心と合わせて行なっても、そのような念仏で往生することはできない。これは私が勝手に言っているのではない。これらの教えを、竜樹菩薩や曇鸞法師は難行道と名付け、道綽は誰も悟りを得ることができない道であると明らかにし、善導は、千人の中で一人も悟りを得る者はいないと定めたのである。しかし、これらはもともと他宗の人であるから疑問も生じるであろう。そうならば、先徳である恵心僧都源信(えしんそうずげんしん・平安時代後期の天台宗の僧侶)を超える天台真言の智者は、この末代にいるだろうか。彼の著わした『往生要集(おうじょうようしゅう)』には、「顕教密教の教えは私が死生の苦しみから離れる教えではない」とある。また、三論宗の永観(えいかん・平安時代後期の三論宗の僧侶。阿弥陀仏を一緒に念仏を唱えながら歩いて、阿弥陀仏から「永観遅し」と言われたというエピソードは有名)の著わした『往生拾因(おうじょうじゅういん)』などを見なさい。法華(=天台宗)や真言などを捨てて、ひたすら念仏すれば、十人いれば十人すべて往生し、百人いれば百人すべて往生する」と勧めた。

すると、これに対して、比叡山や東寺や園城寺や奈良の七大寺などは、最初は非難したようだけれども、『往生要集』の序の言葉が道理だと見て、顕真(けんしん・平安時代後期の天台宗の僧侶。天台座主になる。比叡山の麓の大原に法然を招き、他宗派の僧侶たちと論議させ(大原談義)、これによって法然の名は一躍有名となった)は念仏を受け入れ、法然の弟子となった。その上、たとえ法然の弟子とならなくても、人々は阿弥陀仏の念仏を、他の仏とは比較にならないほど口ずさみ心を寄せるようになり、これによって、日本の人々はみな、法然の弟子に見えるほどである。この五十年間、天下すべての人々が、一人も漏れず、法然の弟子となったのである。

法然の弟子となったということは、日本中の人々が、正しい教えを謗る者となったのである。たとえば、千人の子が一同に一人の親を殺害すれば、千人共に最も重い罪を犯した者となり、その一人が地獄の底に堕ちるならば、他の人たちは堕ちないだろうか。

結局、法然流罪になったことを恨み、悪霊となって自分および自分の弟子たちを非難した国主や比叡山園城寺の僧たちの中に入って、謀反を起こし、あるいは悪事をなしたので、みな鎌倉幕府に滅ぼされたのである。わずかに残った比叡山や東寺などの僧侶たちは、一般人たちに侮られていることは、まるで猿に人が笑われ、浮浪人が子供に侮辱されるようなものである。

禅宗は、このような状況に乗じて、いかにも清らかな姿をもって人の目をごまかし、尊い雰囲気をかもし出しているので、どのような誤った教えを言っても人々はわからない。「禅宗の教えは、教外別伝(きょうがいべつでん・究極的な真理は経典などには記されておらず、別の伝承によって伝えられているとする立場)と言って、釈迦の説いたすべての経典の他に、摩訶迦葉尊者に密かに伝えられていた教えなのである。したがって、禅宗を知らないで経典を学ぶ者は、犬が雷に噛み付くようなものであり、猿が月の影を取ろうとしているようなものである」と言っている。

このため、親不孝のために父母に捨てられたように、礼を欠いたために主君に追放されたように、あるいは、若い僧侶は学問を嫌う傾向にあるように、遊女がもの狂わしいように、日本において禅宗は、その本性通りの悪しき教えなのである。禅宗の僧侶たちは、みな一同に清らかそうな姿をして、農家を食い尽くすイナゴのようになっている。このため、天は天眼を怒らせ、地神は身を震わせているのである。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄