大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 148

『法華玄義』現代語訳 148

 

◎問答

(注:原文には「問答」という段落分けはされていないが、明らかにここから問答をもって、以上の内容をまとめる箇所となる)。

麁と妙の衆生の感と、別教と円教の応、そして清浄の国土と汚れている国土、浅深の利益は、この十益を出ない。法界を包み込んで利益はあまねく行き渡っている。その概略的な意義はわかるであろう。多くの文を必要としない。これが大通智勝如来の所で打たれた毒の太鼓が生死を減らすにあたって、それを聞くことに遠近の違いがあり、生死を減らすことに遅早の違いがあり、また天の太鼓が道を増し加えるにあたって、それを聞くことに遠近の違いがあることである。このために、利益に深浅の違いがあり、業生と神通生と願生と応生の眷属の利益の違いがあるのである。

問う:最初に二十五有を破って利益を得れば、もはや有の破るところはないはずであり、さらに利益を論じるまでもなくなる。なぜ十益を論じる必要があるのか。

答える:最初に二十五有の果報の苦を破って、果報の利益を得させる。次に二十五有の因の苦を破って、因を修す利益を得させる。次に二十五有の見思惑の苦を破って、真諦三昧の利益を得させる。次に二十五有の空を破って、二十五有の仮に出て俗諦三昧の利益を得させる。次に二十五有の有と空の二極端を破って、中道王三昧の利益を顕わす。次に方便有余土を破って、二十五有の仮に出て、俗諦三昧と中道王三昧の二つの三昧の利益を得させる。次に実報土を破って、ただ深く中道王三昧の利益を顕わす。三諦がまだ明確に満足されていなければ、利益の意義は終わらない。そのために十益があるのである。

問う:三諦はただ究極的な境地にあるのか、あるいは凡人にも通じるのか。

答える:『大品般若経』に「衆生の色・受・想・行・識」とある。また「無等等の色・受・想・行・識」とある。また『仁王般若経』に「法性の色、法性の受・想・行・識」とある。『涅槃経』に「この色を滅することにより、常にある色を獲得する。受・想・行・識もまた同じである」とある。これはすなわち凡人から聖人に至るまで通じているということである。これは俗諦である。

維摩経』に「衆生の如と弥勒の如と賢聖の如は、一如であり二如はない」とある。『大品般若経』に「色も空であり、受・想・行・識も空である。もし涅槃以上のものがあれば、それは幻化のようなものである」とある。これはすなわち凡人から聖人に至るまでみな空であるということである。これは真諦である。

『涅槃経』に「二十五有に我があるのか。答える。我はあると。我とはすなわち仏性であり、仏性は中道である。因縁によって生じるすべては、一つの色、一つの香も中道でないものはない」とある。これはすなわち、凡人から聖人に至るまでみな中道第一義諦であるということである。

問う:遠い過去の利益を論じることにあたって、『法華経』に遠い過去について述べていることがさまざまである。第一は「久遠劫より今まで、涅槃の道を讃嘆して示し、生死の苦が永遠に尽きている。私は常にこのことを説いている」とある。第二は「私は昔、二万億の仏の所において、この上ない道を教えた」とある。第三は「前世からの因縁によって私は今まさに説くべきである」とある。これらのうち、どの経文を根拠として論じるのか。

答える:第一の文は「久遠劫より今まで」といっている。久遠という言葉は、実にはるか遠い昔ということであり、まだ本地を顕わしていない。これは中間ということを表現している。第二の文は「私は昔、二万億の仏の所において」とある。劫数が明らかにされていないので、どれくらいの過去か判別できない。次の文と比較すると、それほど遠い過去ではないようである。

ここで過去の利益について論じる場合、第三の文を取る。三千世界を墨として、東に千の世界を過ぎて墨を一点記す。その墨が尽きれば、その一点を記した世界と記さなかった世界を合わせて塵として、その一つの塵を一劫とする。それでも、その劫数を過ぎて、さらに無量無辺百千万億阿僧祇劫を過ぎている。このような経文を用いて、第二の文の「二万億の仏の所」という文と比較すると、それは昨日のようなものとなる。これを大乗の教えの初めとする。大通智勝如来は八千劫の間『法華経』を説き、その十六王子は八万四千劫にわたって『法華経』を講義したのである。

その経論は、文は広く時が深い。その時に聴衆は、すぐに悟る者もいれば、中間に教化を受け、あるいは近く教化を受ける。そのすべてが宝のある場所に至って、法性の身を受け、応生の眷属となる。内に秘めて外に現わして、さまざまに衆生を成熟させ、仏の働きをする。『維摩経』に「悟りを開いて教えを説くといっても、菩薩の道を行じる」とある。これはこの意味である。その時に聴衆は、まだ真実の利益を得ない。もし相似即位の利益は、生まれ変わっても忘れることはない。名字即位・観行即位の利益は、生まれ変われば忘れたり、忘れなかったりする。忘れた者は、もし善知識(ぜんちしき・仏の道に導いてくれる人)に会えば、過去世の善が再び生じる。もし悪友に会ってしまえば、その本心を失ってしまう。このために、その中間の時にさまざまに備える。あるいは多く大乗をもって成熟させ、あるいは多く小乗をもって成熟させる。

方便有余土に生じる者は、あらゆる道を説くとしても、その実は一乗のためである。またみな宝のある場所に至らせるのである。法性の身を受けて、その国において、第九、第十の利益を与えられる。千世界の微塵の数ほどの菩薩は、みなこれである。

これらの遠い過去にすでに悟りを究めていることを、久遠の利益と名付ける。その中の衆生は、今は声聞の位に留まる者がいる。このことについては、改めて近益を論じる項目で説く。

法華玄義 現代語訳 147

『法華玄義』現代語訳 147

 

○声聞の利益

声聞の利益とは、もし人が生死にとらわれるならば、死んでさらにこの世に生を受け、さらにまた死んで、それによって精神的に病んで、生まれ変わり死に変わりが際限なく続く。貪欲に覆われ、ヤクが自分の尾を追うように、そこから解き放たれることがない。このために『法華経』に「もし人が苦しみにあい、老病死から離れたいと思うならば、仏はそのために涅槃を説き、あらゆる苦しみを滅ぼし尽くさせる」とある。苦しみから離れたいと決心すれば、出家を求める。そのために、声聞の道を修行するのである。

そして戒律だけを保とうとしても、愛(あい・情緒的な煩悩)や見(けん・知的な煩悩)が、まるで煩悩の大海を渡り切ろうとする者が持つ浮袋を鬼が破るように、その戒律が清らかでなくなる。戒律が清らかでないなら、三昧(さんまい・この場合は禅定を指す)は成就しない。戒律と禅定がなければ、無漏は発しない。このために、一心に戒律と禅定と智慧を修すのである。前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界を破る無垢三昧などの四三昧の力が加わり、それらの世界に堕ちないようにさせ、戒律も清浄とさせる。

もし等しく禅定と智慧を修し、智慧に禅定が加われば、智慧は狂うことはない。もし禅定に智慧が加われば、禅定は愚かになることはない。これを賢(けん)と名付ける。賢は聖と隣り合う言葉である。この禅定と智慧を修すならば、頭が燃えていることを救おうとするように一心に精進して、飢え乾いた者が水を求めるように禅定の智慧を願い求めるようになる。しかし、二十一有(注:二十五有から地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣を除いた世界)の有漏の業に乱される。もしあらゆる三昧の力をこれに加えれば、禅定の観心が明確となり、四善根が成就し、煩悩を抑制することが成就する。瞬間的に真実の無漏を発して、須陀洹(しゅだおん・声聞の位の第一)を成就し、二十五有の見諦(けんたい・須陀洹のこと=預流果)の八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする)の煩悩を破る。これは、二十五三昧を共通して加え、見諦の煩悩を断じ、また兼ねて四悪趣の思惑を断じる。このために、「第十六心に修道に入る(「位妙」の「中の薬草」を参照)」とあるのは、この意味である。

(注:修行者の利益とは、修行の結果のことであり、それは位のことに通じる。そのため、ここで再び位妙で述べられたことが繰り返されることは当然である。さらにこれもすでに述べられている二十五有を破る二十五三昧の結果が、利益として表現される内容が続く。『法華玄義』の中には、このような理由で、同じことが繰り返し記されることが多い)。

次に修道に入る。もし超果(ちょうか・向と果を順番に上るのではなく飛び越えて進むこと)の人ならば、同時に十種の三昧の力をこれに加えれば、五下分結(ごげぶんけつ・欲界の煩悩の五つの縛りのこと。有身見結(自分の認識を自我だとする煩悩)、戒禁取結(誤った戒律に対する執着)、疑結、欲貪結、瞋恚結)の思惑を破る。もし能力の劣った人ならば、段階的に「思惑」を断じ、段階的に三昧を用いて、三界の煩悩を断じ尽くして真諦三昧の利益を究める。これは中草の利益である。

これを総合的に述べれば、凡人と聖人の慈善根の力による。個別的に述べれば、本来の慈悲による。初めに十法界の析空観による認識対象を滅ぼす善を感じ、それによって四弘誓願を起こし、王三昧を行じ、衆生を捨てず、中草の利益を得る。『涅槃経』に「二十五三昧をもって二十五有を破る」とあることである。以上、十益の中の第三を概略的に述べれば以上である。

○縁覚の利益

もし人が前世からの因縁が深く良いものであるならば、仏のいない世に生まれても、自ら生死を嫌い、一人で静かな良い環境を好み、深く因縁を感じるようになる。『法華経』に「昔、仏を供養し、優れた教えを求める者には縁覚を説く」とある。この人は大きい福徳があって、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き、対し、応じ、自然の道理を通して、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得て、縁覚の道を悟らせる。これはなお中草の利益に属する。

○蔵教の菩薩の利益

四諦を観じ、六波羅蜜を行じる。もし檀那波羅蜜(=布施波羅蜜)を行じても、人から自分の頭、眼、そして国や妻子を求められた時、心が動揺してしまうようならば、檀那波羅蜜は成就しない。そのようなことは悪であると知って、檀那波羅蜜において善を成就しようとするならば、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働き、三昧の力を受けて、六波羅蜜を妨げるものを除く。これは餓鬼の有を破ることである。妨げがすでに除かれれば、甘露を飲むように喜んで布施をする。そして有為(うい・因縁によって生じている無常な存在)の存在は危うく無常であると知るのである。これは心楽三昧(しんらくざんまい)の目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得ることである。

尸羅波羅蜜(=持戒波羅蜜)が成就すれば、戒律を破る妨げが除かれ、地獄の有を破る。これは無垢三昧の利益である。

忍辱波羅蜜が成就すれば、瞋恚の妨げが除かれ、畜生の有を破る。これは不退三昧の利益である。

禅定波羅蜜が成就すれば、心が乱れる妨げが除かれ、人の有を破る。これは四種(日光、月光、熱炎、如幻)の三昧の利益である。

精進波羅蜜が成就すれば、怠惰の妨げが除かれ、阿修羅の有を破る。これは歓喜三昧の利益である。

般若波羅蜜(=智慧波羅蜜)が成就すれば、愚痴の妨げが除かれ、天の有を破る。これは三界のそれぞれの天に対する十七種類の三昧(注:行妙の二十五三昧の段落参照)の利益である。

六波羅蜜を妨害する六つの妨げは六道の業である。詳しくは『菩薩戒本』に記されている。六道の業を除くために、あらゆる妨げに悩まされることはなく、五神通を得て六道に遊戯(ゆげ)して、六波羅蜜の行を成就する。これは上草の利益である。

共通して述べれば以上の通りである。個別に述べれば、本来の十法界の事象的な善悪を観じて、四弘誓願を起こし、三昧を行じ、衆生を捨てないことである。

○通教の利益

これは三乗の共学の人である。乾慧地・性地・八人地・見地の位においては二十五三昧を用いて利益を得る。薄地から十地に至るまでは、二十一三昧を用いて思惑を破る。また無知を排除する。これは小樹の利益と名付ける。総合的および個別的な慈悲は前に述べたことと同じである。

○別教の利益

これは段階的に修行を進めることにおいて、認識の対象を法界に広げ、法界全体を念じることである。十住に入って真諦三昧の利益を得て、十行・十廻向に入って俗諦三昧の利益を得て、十地に入って中諦三昧の利益を得る。これは大樹の利益である。総合的および個別的な慈悲は前に述べたことと同じである。

○円教の利益

これは三諦が一つであるという真理を修し、認識の対象を法界に広げ、法界全体を念じることである。もし一つ一つの相対的な事象を対象とするならば、足の上げ下げも修行道場でないことはない。この心は一念一念に六波羅蜜と相応する。常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を修し、十境界(「行妙」の「円教の行」の項目を参照)を観じる。前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、瞬時に悟りを開き、あるいは相似即に、あるいは分真即に、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得させる。これは完全に二十五三昧を用いて完全に働かせ、二十五有を破り、自我の本性を明らかにして、究竟実事の利益を得るのである。

○変易生死の利益

これは方便有余土(ほうべんゆよど)の人の利益である。前に第一から第八の利益まで述べた中、四つの場所がある。あるいは九つの場所がある。つまり、声聞、縁覚、通教の菩薩、別教の十住・十行・十廻向の三十心、円教の相似即である(注:四つの場所とは、①蔵教の声聞と縁覚、②通教の声聞と縁覚と菩薩、③別教の十住と十行と十廻向の菩薩、④円教の菩薩であり、九つの場所とは、これらを別々にして、蔵教の①声聞と②縁覚、通教の③声聞と④縁覚と⑤菩薩、別教の⑥十住と⑦十行と⑧十廻向の菩薩、⑨円教の菩薩のことである)。ただ見惑と思惑を破っただけで、まだ無明惑を除いていない。無明は無漏に浸透して、方便の生を受けさせるのである。

このために『法華経』に「私は他の国土において仏となり、さらに異なった名前を持っていた。そしてその国土において仏の智慧を求め、この法華経を聞くことができた」とある。これはすなわち、その国土において一乗に入ったことである。『勝鬘経』に「三人は変易の国土に生まれる。つまり、大いなる力のある阿羅漢、辟支仏、菩薩などである」とある。『楞伽経』に「三種の意生身(いしょうしん・意識的にその生を得た身)」とあるのは、第一に安楽法意生身である。これは、二乗の人が涅槃の安楽に入る意義を表わした言葉である。第二に三昧意生身である。これは、通教の人が衆生を教化するために世俗に出て、神通三昧を行なう意義を表わした言葉である。第三に自性意生身である。これは、別教の人が中道を修す自性の意義を表わした言葉である。すべて意という言葉があるのは、安楽法意生身は空の意義であり、三昧意生身は仮の意義であり、自性意生身は中の意義を表わすのである。別教と円教の相似位は、まだ真理を発していないので、みな意識的に行なわれたものである。このために『大智度論』に「この時、意地を過ぎて、智の業の中に住む」とある。もし真理を発するならば、これは智慧の業である。まだ真理を発していなければ、なお意地である。

ここに生じて、析空観の者は能力の劣った者であり、体空観の者は能力の高い者である。別教の人はすでに仮を習っているので、少し能力が高い。円教の人は、最初から即中であるので、最も能力が高い。すでに能力の高い低いの違いがあるので、そこにおいて修学する場合、段階的に進むことと段階を超越して進むことの二つの利益がある。また、段階的に進むことと段階を超越して進むことのぞれぞれに応が用いられる。この九人は、方便有余土に生じ、それぞれの有の自らの本性を見て、最も真実の利益を得るのである。

もし個別的に言えば、方便有余土は三界の外にあるのである。もし事象的なことにおいて真理を言うならば、必ずしも遠いところにあるのではない。『法華経』に「もし深く心に信じ理解するならば、仏は常に耆闍崛山(ぎしゃくつせん・法華経が説かれたとされる山。霊鷲山(りょうじゅせん)ともいう)にいて、大いなる菩薩、声聞などの僧侶に囲まれて説法しているところを見るのである」とある。すなわちこれは方便有余土のことである。

○実報土の利益

これは実報土の人の利益である。前に第一から第八の利益まで述べた中、別教の十住・十行・十廻向の三十心の人と、円教の相似即の人は、まだ生まれ変わる。この人たちは、方便有余土にもまた生まれる。そしてすべて無明を破り、実相を見る者は、この実報土に生まれることができるのである。

ただ無明惑の数は大変多い。十住・十行・十廻向の三賢と、十地の十聖は、実報土に立脚するが、果報がまだ尽きていないので、なお残りの惑がある。さらに王三昧をもって最後にこれに利益を与え、妙覚位に至って、時間的に究め、空間的に遍くして、不生不滅となる。不生不滅とは、無明惑が永遠に尽き、智慧が完全に満たされることである。このために不生不滅という。また衆生の感が満足され、利益が究竟する。このために不生不滅という。

もし分別して述べれば、実報土は方便の外にある。もし事象的なことにおいて真理を言うならば、必ずしも遠いところにあるのではない。『法華経』に「娑婆世界を観じ見ると、地面が瑠璃であり、ただすべて平らである。あらゆる高い建物や楼台は、あらゆる宝で飾られていて、ただ菩薩たちだけその中にいる」とある。これは実報土のことである。

法華玄義 現代語訳 146

『法華玄義』現代語訳 146

 

○因の利益

因の利益とは、二十五有の修行の利益である。そもそも自分の利益のため、あるいは他人の利益のための因果は、それぞれの意義に従って、両極端をあげて述べれば容易である。しかし、前に述べた果報の利益については、その場所や時節が異なっているので、一人の人物にまとめて利益を語ることは難しい。しかし、修行をする人の利益を明らかにする場合、一人の人を想定して、その一人の人の心に無量のわざが起こるとすれば、その意義は解き明かしやすい。このために、一人の人における場合として、二十五有の修行の因を明らかにする。

二十五有の因の利益とはどのようなものであろうか。二十五有の最初の地獄、餓鬼、畜生、修羅の四つの因は、それが破られれば利益となり、その他の二十一有の因は成就すれば利益となるものである。言い換えれば、二十五有の最初の地獄の因は破られれば利益であり、二十五有の最後の非想非非想処天の因は成就すれば利益であり、その中間の二十三有の因は破られれば利益であるものと、成就すれば利益であるものの二つである。

もし戒律をもって自らを制することなく、その身と口を放縦にして地獄、餓鬼、畜生、修羅の業を作ってしまうならば、地獄の人と名付ける。もし、悪を捨てて戒律を保つならば、天人を見る人と名付ける。最初は戒律を厳しく保っていたとしても、条件が変わって退いてしまうならば、悪業はかえって起こってしまう。あるいは、四つの重い戒律を破り、五つの仏に対する反逆をし、塔寺を焼き滅ぼす。このような心が生じる時、悪が起こり、戒律が消えてしまう。この業が熟すと、必ず悪道に堕ちる。この心を離れて、良き戒律を成就しようとする時、そこに善根が発し、関連付けられ、適宜に働く者となり、聖人は無垢三昧をもってこれに赴き対し応じることを感じる。悪い心は破られ、地獄の因は止んで、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得る。しかし、道場に入って懺悔するとしても、悪い心が破られず、悪業が破られなければ、自分にまとわりついているものは断ち切られず、罪を消滅させることはできない。

もし貪欲であり、人に媚びへつらい、名誉を追い求め、内面に真実の徳がなく、人から称賛されることを願うならば、この悪が起こって戒めが消え、餓鬼の世界に堕ちる。もし懺悔することなく、負債を負っても返さず、敬う心なく、思い上って怒りに満ち、欲深くあるならば、この悪が起こって戒めが消え、畜生の世界に堕ちる。もし人の賢さを妬み、能力を妬み、他人より優れるためという理由のみで福徳の力を修し、蛆虫のような悪しき心をもって相手を引きずり下ろし、他人を驚かせ恐れさせるならば、この悪が起こって戒めが消え、阿修羅の世界に堕ちる。

この三つの悪しき心を離れて良い戒めを成就しようとするならば、善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、良い戒めが完全に備わる。このことを地獄、餓鬼、畜生、修羅の四つの因が壊れ、人天の因が成就し、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得ることと名付ける。これは人の世界での因を修することについて解釈したまでのことである。もし他の世界について述べるならば、地獄を出て畜生の世界に入ろうとし、畜生の世界を出て餓鬼に入ろうとし、餓鬼を出て修羅に入ろうとし(注:餓鬼と畜生の順番が違うが原文のまま訳した)、修羅を出て人の世界に入ろうとするならば、みなそれぞれに因があり、その因が成就して業が転じられる。これは同様に知ることができるであろう。

もし堅く五戒を保ち、同時に仁義を行ない、父母に孝行し従って、信心を持ち、仏を敬い懺悔する心を持つならば、これは人の業となる。人の業に四種ある。上、中、下、下下である。もし果報について述べれば、南閻浮提を下下とする。もし人の世界について述べれば、人の住まいを下下とする。ある時は良心さえなくなり、悪しき念のみが強くなる。善が成就することもあれば、悪が成就することもある。善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、四種の善が成就して、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

もし十善(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見)を修し保ち、自然と絶え間なく善心が成就し熟するならば、これは天の業である。このために「完全に悪しき心で良い念さえ混じることがなければ、悪道の業である。果報の時は苦しみのみである。善と悪が混じり合って起こることは、人の業である。人の中の果報は、苦と楽が混じるためである。十善が自然と成就するのは、天の業である。天の中の果報は、自然と起こるからである」と言われるのである。

もし十善を修し、同時に仏法を守る心を起こすならば、これは四天王の業である。もし十善を修し、同時に慈悲をもって人を教化すれば、三十三天の業である。もし十善を修し、その心の繊細さが自然と成就し、行住坐臥に衆生を悩ますことなく、善が巧みで純粋な状態が継続するならば、これは焔摩天の業である。もし十善を修し、その心の繊細さが自然と成就し、行住坐臥に衆生を悩ますことなく、善が巧みで純粋な状態が継続するならば、これは焔摩天の業である。もし十善を修し、同時に禅定を修して、荒い心や細かい心も共に収めるならば、これは兜率天の業である。欲界定は、化楽天の業である。未到定によって事象的な妨げを破ることは、他化自在天の業である。四禅は色界の業である。慈・悲・喜・捨の四無量心を兼ね、心が動いているままに禅定を得ることは、梵天王の業である。心を滅して無心定を修することは、無想天の業である。

問う:無想天は邪見の天である。どうして聖人の応を引き出す感なのであろうか。

答える:『大集経』に「菩薩は衆生を調伏することにおいて多種である。あるいは邪、あるいは正である。非道を行じて仏道に到達する」とある。あるいは古くから言われることで「聖人は両端の無漏をもって挟んで一つの有漏を練って無漏とする」とある。

ここでは、「九次第定(くしだいじょう・熟練した禅定であり、最初の浅い段階から後の深い段階まで究めることができる)」は有漏に働きかけ無漏とする。これは阿那含天の業である。四空定は無色界の業である。このような二十一有は、自分の世界の苦しみの数々を憂え、そこから出るための修行をしようとするが、求めるものは得られず、捨てようとするものは離れない。その時、善根が発し、関連付けられ、適宜に働くとするのである。二十一有に対する三昧の慈悲の力を感じ、そこから出るための修行をさせ、捨てようとするものを捨てさせ、求めるものを得させる。苦を抜き、楽を与え、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益がある。これは『法華経』に「小さな草、小さな根、小さな茎、小さな枝、小さな葉、これらが成長することができる」とあるようなものである。これがこの利益である。

総合的に述べれば、ただ凡人と聖人の慈悲の善根の力による。個別に述べれば、もともと菩薩が最初から二百五十戒を保ち、根本禅などの禅定を修し、悪を防ぐ善法の中において慈悲を起こし、その慈悲と誓願をもって王三昧に入って衆生を捨てず、関連付けられ、適宜に働き、それに赴き、対し、利益を獲得させることによる。『涅槃経』に「二十五三昧をもって二十五有を破る」とある。

十益の第二の因の利益の意義は概略的には以上である。

法華玄義 現代語訳 145

『法華玄義』現代語訳 145

 

◎十益

次に個別に説けば十種の利益となる。第一は果の利益、第二は因の利益、第三は声聞の利益、第四は縁覚の利益、第五は蔵教の菩薩の利益、第六は通教の利益、第七は別教の利益、第八は円教の利益、第九は変易生死の利益、第十は実報土の利益である。

(注:「七益」の第三である「声聞と縁覚」を二つに分け、「変易生死」と「実報土」を加えて十としている)。

○果の利益

果の利益とは、すなわち二十五有の果報の利益である。まず地獄には八大地獄がある。阿鼻、想、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱である。各それぞれに十六の小獄があって、地獄の眷属となる。合わせて百三十六箇所となる。この地獄の本体は、地下二万由旬(ゆじゅん・測ることのできないほどの膨大な距離を表わす単位)にある。付随的な地獄は、あるいは地上にあり、あるいはこの世の端にある鉄囲山(てっしせん)の間にある。この付随的な地獄に行く者の罪は軽く、地獄本体に行く者の罪は重い。重い者は、地獄の百三十六箇所をすべて遍歴し、中程度の者はすべて回らず、下の者はさらに減る。この中の衆生は、常に熱の苦しみを受ける。詳しくは説くことができない。聞く者は恐れおののいてしまう。『四解脱経』には、それを火塗(かず)と呼んでいる。地獄に初めて入る時と出る時に教えを受けることができる。その教えを受けた罪人は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、、あるいは光が照らされ、あるいは雨を注いで火を減らし、あるいは、仙人でありながら殺生の罪で地獄に堕ちたとされる婆藪(ばす)や、仏の身から血を流させた提婆達多(だいばだった)のような者に教えを示し説法すれば、熱の苦しみから離れ、体が清涼となる。目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得て、あらゆる苦しみが止む。八つの寒氷(かんぴょう)は阿波波地獄(あははじごく)などであるが、また百三十六箇所ある。ここに堕ちた者も利益を被れば、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得て、温かさが身をまとう。これを地獄の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

畜生には三種ある。水と陸と空である。また陸に三種ある。罪が重い者は土の中で光を見ない。中程度の者は山林で、軽い者は人に家畜として飼われる。弱肉強食の世界であり、常に恐れ警戒していなければならない。『四解脱経』には、血塗と表現されている。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、無所畏(むしょい・恐れがない状態)を得させるなど、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。これが、畜生の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

餓鬼とは、あるいは海岸に住み、あるいは人里や山林に住む。あるいは人の形に似て、あるいは獣の形に似る。罪が重い者はいつも激しく飢え乾いて、水の名前さえ聞くことができない。中程度の者は膿や血や糞などの汚物を食べ、軽い者はそれらで一時は満腹する。人が刀杖をもって追い出そうとすれば、かえって迫って海や川をふさいでしまう。『四解脱経』には刀塗(とうず)と表現されている。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、手から香り高い乳を出して与え、腹を満たさせるなど、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。これが、餓鬼の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

阿修羅とは、あるいは須弥山の中腹に岩窟、あるいは海のほとり、あるいは海の底に住み、諸天に対して恨みを抱き、常に恐れを抱き、雷鳴を自分に攻めて来る天の軍隊の太鼓だと思い込み、大雨は刀剣となる。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、優しい言葉で調伏などし、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。これが、阿修羅の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

四天下(してんげ・須弥山を中心とした海の四方にある四つの大陸。その中の一つが南閻浮提(なんえんぶだい)であり、私たちが住む地を指す)の人は、その果報に違いがあるとはいえ、すべてに生老病死がある。これは軽い罪の地獄の果報である。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、教えを説いて離れるべきものを離れさせ、求めるべきものを求めさせるなどし、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

六欲天(ろくよくてん・欲界にある六つの天界)とは、その中の下の二つの天には、阿修羅から戦いを挑まれるという困難があり、共通しては死に至る五つの苦しみがあり、その苦しみは地獄に等しい。その中の諸天は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

四禅天、梵天、無想天、阿那含天などの色界の諸天は、下界のあらゆる苦しみはないとしても、自分が認識の対象に囲まれていることになる。命尽きる時は、禅定に入って安楽に浸ることを願うこともなくなり、身に風が当たると、眼識以外の感覚器官からの苦しみがある。その中の諸天は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

四空(しくう・無色界の四つの天界)は、欲界・色界の苦しみがないとしても、微細な煩悩が、体を蝕むでき物や皮膚病や矢のように悩ませて来る。その中の諸天は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

これらの「清涼を得る利益」は、総合的に述べれば、凡人や聖人の慈悲という善根の力による。個別的に述べれば、本来、菩薩の働きに基づくものである。すなわち、最初に二十五有の存在が受ける悪を観じて哀れみ(悲)を起こし、二十五有の存在の行なう善を観じて慈しみ(慈)を起こし、その慈悲をもって王三昧に入って衆生を捨てず、関連付けられ、適宜に働き、それに赴き、対し、利益を獲得させる。『涅槃経』に、二十五三昧をもって二十五有を破ることを明らかにしている通りである。果の利益を概略的に述べれば以上である。

法華玄義 現代語訳 144

『法華玄義』現代語訳 144

 

⑩.功徳利益妙

 

迹門の十妙の第十に、功徳利益妙(くどくりやくみょう)について述べる。功徳と利益は一つであり、異なることはない。もし分別すれば、自らを益とすることを功徳と名付け、他の人を益とすることを利益と名付ける。これについては四項目を立てる。利益について述べることの来意を明らかにし、正説(しょうせつ)の利益について明らかにし、流通(るつう)の利益について明らかにし、観心の利益について明らかにする。

 

a.来意を明らかにする

功徳利益妙について述べるにあたっての一つめは、「利益について述べることの来意を明らかにする」である。諸仏の行なうわざは、何一つとして空しく過ぎることはない。『大智度論』に「仏は王三昧に入り、前に光を放って前の者を悟りに導き、後ろに光を放って後ろの者を悟りに導く。たとえば、漁で網を打てば前後の魚を捕るようなものである。光を見て、教えを聞く時、すべて空しくなることはない」とある。『維摩経』には「法の宝があまねく照らして甘露を降らせるとは、すなわち身口の二つの利益である」とある。『華厳経』と『思益経』の両方に「光を放つことは物質に対する執着を破り、怒りを破り、愚かさを破る」とある。具体的には各箇所に説いている通りである。

法華経』に記されている須菩提(しゅぼだい)、摩訶迦旃延(まかかせんねん)、摩訶迦葉(まかかしょう)・摩訶目犍連(もくけんれん)の四大弟子(注:この四人は「信解品」において、釈迦の説法を深く理解した内容を語った弟子であるので四大弟子と呼ばれる。弟子の中では舎利弗が最も有名であるが、この理由から舎利弗は入っていない)は、仏の開三顕一の利益を理解した。仏は「如来にまた無量の功徳がある。あなたたちは理解したことを語るが、それでも語り尽くすことはできない。たとえば、この世で大きな雲が沸き起こるようなものである」と言っている。これは感応妙を喩えている。「雷を起こし稲光を輝かす」とは神通妙を喩えている。「この雨はあまねく等しく降らす」とは、説法妙の利益を喩えている。「あらゆる草木は、この雨によってそれぞれ成長することができる」とは、四種の眷属妙を喩えている。みな、次の段落で述べる七つの利益に潤うのである。このために功徳利益妙を明らかにするのである。

 

b.正説の利益について明らかにする

功徳利益妙について述べるにあたっての二つめは、「正説の利益について明らかにする」である。ここでまた三つの項目を立てる。第一は「遠益を論じる」であり、第二は「近益を論じる」であり、第三は「『法華経』の利益を論じる」である。

 

第一.遠益を論じる

遠益(おんやく)とは、この世において『法華経』が説かれることに関しての、遠い昔からの利益についてである。遠い昔の大通智勝如来の十六王子(注:この王子たちの中の一人が釈迦如来の前世であり、またその中の一人が阿弥陀如来の前世である。前世は何代もあり、決して直前の生という意味ではない)は、仏の教化を助けて教えを広め、さらに悪を破る毒の太鼓と善を生じさせる天の太鼓を打った。善が生じることにおいて浅深の異なりがある。煩悩が死ぬことにおいて遅早の異なりがある。人天の位の善から始まって、別教の位に至るまでは浅益である。最初、悟りを求める心を起した時からの最実(さいじつ・円教のこと)から、最終的な段階までは深益である。始めに不善を破り、終わりの段階で塵沙惑を破るのは遅い死である。最初に無明を破り、終わりにまた無明を破るのは早い死である。煩悩が死ぬにあたっての遅早は毒の太鼓の力であり、善が生じることにおいて浅深は天の太鼓の力である。このために『法華経』に「有(う・輪廻の根本となるもの)を破る法王は世に出現して、衆生の求めに応じて教えを説く」とある。これは毒の太鼓と天の太鼓の二つの意義である。有を破る意義は前に説いた通りである。説法の利益については次に説く。

この利益においては、さらに三つの項目がある。一つめは七益であり、二つめは十益であり、三つめは問答である(注:「この利益において」から「問答である」の一文は原文にはないが、これ以降の段落の進展をわかりやすくするため付け加えた)。

◎七益

まず総合的に述べるならば、七つの利益がある(この七つの利益については、次の「十益」の段落でさらに詳しく述べられる)。第一は、二十五有の果報の利益(注:以下、「果の利益」と表現される)である。また、その地において清涼を得る利益と名付ける。第二は、二十五有の因の花が開く利益(注:以下、「因の利益」と表現される)である。また、小草の利益と名付ける。第三は、真諦三昧の析空観の利益である。また、中草の利益と名付ける。第四は、俗諦三昧の五神通の利益である。また、上草の利益と名付ける。第五は、真諦三昧の体空観の利益である。また、小樹の利益と名付ける。第六は、俗諦三昧の六神通の利益である。また、大樹の利益と名付ける。第七は、中道王三昧の利益である。また、最実事の利益と名付ける。

第一と第二の二十五有の因と果の利益は、業生の眷属となることができる。第三と第五の真諦三昧の体空観と析空観の利益は、願生の眷属となることができる。第四と第六の俗諦三昧の五通と六通の利益は、神通の眷属となることができる。中道王三昧の利益は、応生の眷属となることができる。

(注:次の段落で再び詳しく述べられるが、簡単に説明すると次の通りである。第一は、地獄界から修羅界までの流転する存在が得る利益である。本来、非常な苦しみを味わい続けているわけであるが、その中でも利益があるとするならば、まさに苦しみから一時解放される清涼を感じる利益である。そして、この世界に流転することは業の果であるので、業生の眷属となって導かれることが可能である。第二は、人界と天界の存在が得る利益である。さまざまな修行つまり因の果によって得るものである。これも業によることであるので、業生の眷属となって導かれることができる。第三は、流転する二十五有から解脱した声聞と縁覚が得る利益である。まだ神通力によって生まれ変わることができないので、願生の眷属となって導かれることができる。第四は、蔵教の菩薩が得る利益である。六神通から無漏通を除いた五神通(天眼、天耳、他心、宿命、如意身通)の利益であり、その神通力によって眷属となって導かれることができる。第五は、通教の者が得る利益である。これもまだ神通力によって生まれ変わることができないので、願生の眷属となって導かれることができる。第六は、別教の菩薩が得る利益である。六神通(天眼、天耳、他心、宿命、如意身通、無漏)の利益であり、その神通力によって眷属となって導かれることができる。第七は、円教の仏の利益である。衆生を導くために、応生の眷属となるのである)。

私(章安灌頂)が解釈すると、ここに四組の合計八つの利益があるはずである。八つの内の前を開いて後を合わせるために七つの利益となる。もし後を開いて前を合わせれば、また七つの利益となる。前と後を共に開けば、八つの利益となる。いわゆる「中道」の次第の利益、中道の不次第の利益である。もし前と後を共に合わせれば、六つの利益となる。

(注:この章安灌頂の解釈は理解不能である。なくてもよいものと考えられる)。

これで七益を終える。

法華玄義 現代語訳 143

『法華玄義』現代語訳 143

 

d.法門の眷属を明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての四つめは、「法門の眷属を明らかにする」である。これは、『維摩経』において、普現色身菩薩(ふげんしきしんぼさつ)が浄名居士(じょうみょうこじ・『維摩経』の主人公である維摩居士のこと)に質問しているようなことである。すなわち「父母、妻子、親戚、眷属、民と官、友人などは、そもそも理法においては誰であるのか。さらに男女の奴隷、象や馬、車などの乗り物は、そもそも理法においてはどこに存在しているのか」と質問している通りである。浄名は「方便を父とし、智度(ちど・古代インド語のブラジュニャーパーラミターを漢訳した言葉。音写すると般若波羅蜜となる。智慧の完成という意味)を母とする。すべての衆生の導師は、この両親によって生まれないことはない。そして法喜(ほうき)を妻とし、慈悲を娘とし、善心誠実は息子、畢竟空寂(ひっきょうくうじゃく)は家、弟子たちは煩悩であり、それらは心のままに従うのである。さまざまな修行は良き友であり、これによって悟りを成就するのである」と答えている。これは各法門を眷属とすることである。

このようなことであるから、法門は同じではなく、そこに深浅の違いがある。

三蔵教の法門の眷属は、真諦を観じることを実とし、仮諦を観じることを権とし、この二つの智慧が完全となるなら仏と名付けられる。仏はすなわち導師である。六道に慈悲を持つのは娘である。他の人々を真理に導こうとするのは息子である。この真理を得る時の喜びは妻である。この心の中のあらゆる波羅蜜や修行項目を修することは、良き友である。

通教の法門の眷属は、諸法は「如幻如化」と観じて、即空を体得することを実とし、四門(しもん・悟りを得るための四つの項目のこと。有門(うもん)・空門(くうもん)・亦有亦空門(やくうやっくうもん)・非有非空門(ひうひくうもん))の同異を分別することを権とし、この二つの智慧を理解するなら導師仏と名付けられる。衆生を慈愛するのは娘であり、善にまっすぐ向かう心を生じさせるのは息子であり、六波羅蜜や修行項目を修することは、良き友である。これを通教の中の法門の眷属とする。

別教の法門の数えきれないほどの眷属は、真諦と俗諦を合わせて権智とする。これは父である。中道の真理の理法を母とする。無量の慈善、無量の修行項目、あらゆる波羅蜜などに精通して滞りがない。道種智が明らかであり、相手の状態に応じて薬を知るのは、別教の中の眷属である。このために『無量義経』に「諸仏法王である父、経典の教えである婦人、和合してあらゆる菩薩である息子を生む」とある。『十住毘婆沙論』に「般舟三昧(はんじゅざんまい・あらゆる仏を目の当たりに見る三昧)の父、大慈無生は母であり、すべての如来はこの二つの法から生じる」とある。『宝性論』に「大乗の信心を子とし、般若は母とする。禅定は母胎である。大悲を乳母とする。諸仏は実の子のようである。一闡提は大乗を誹謗する障害であり、外道は自我があると誤って主張する障害、声聞は生死を恐れる障害、縁覚は衆生に利益を与えることに背く障害である。菩薩は次の四つの法を修して煩悩を治める。すなわち信心を修し、般若を修し、虚空定・首楞厳定を修し、大悲を修して、清浄法界を得、悟りの岸に至って如来の本性を見て、如来の家に生まれる。これが仏の子である」とある。すでに如来の本性を見て、如来の家に生じるならば、まさに知るべきである。如来を父とするのである。無量の法門は言葉にすることができない。みなよく仏の子を生じさせる。

円教の法門の眷属は、自らの修行における三諦を一諦とすることを実とし、他を教化することにおいて一諦を三諦とすることを権とする。随情の一諦を三諦とすることを権とし、随智の三諦を一諦とすることを実とする。この不思議により理解する。一つの心にすべての行を備えることを息子とし、無条件の大慈を娘とし、仏の知見を開いて喜びを生じることを妻とし、清くもなく汚れてもいない中道の修行項目や六波羅蜜を良き友とする。このような「実相円極」の法門を眷属とする。十住の初住において悟りを成就し、八相(はっそう・仏が世に下って受胎し悟りを開いて滅度するまでの八つの行程)をもって教化することは導師である。円教以前のあらゆる法門はすでに麁であるので、そこから生じるあらゆる導師も麁である。この円教の法門の眷属はすでに妙であるので、生じる導師もまた妙である。

この意義を用いて五味の教えについて述べると、乳味の教えは一麁一妙、酪味の教えにはただ一つの麁があるのみである。生蘇味の教えは三麁一妙である。熟蘇味の教えは二麁一妙である。醍醐味の教えである『法華経』は麁はなく、ただ妙だけである。これは麁に対して相待妙をもって明かすことである。

諸経の妙であることはただ妙であるだけであり、麁であることはただ麁であるだけである。しかし『法華経』はただ妙を妙とするのみでなく、また麁が存在しない。前に述べたあらゆる麁を、そのまま一つの平等であり大いなる智慧の妙の法門とするのである。これが絶待妙の意義である。

 

e.観心について明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての五つめは、「観心について明らかにする」である。観心の眷属には六種ある。一つめは愛心(あいしん・愛は情意的な執著)」、二つめは見心(けんしん・見は理知的な執著)、そして残りの四つは四教である。

愛心の眷属とは、無明を父とし、癡愛を母とし、煩悩の子孫を生む。憶想に貪り執著して、心の中の法門を得ようとする際、誤った思想の魔鬼がそこに入り法門として支配する。淫らな女の思いは媚びへつらうことによるようなものである。修行者もまた同じである。誤った考えを憶想すれば、有害なものが入ってしまう。魔鬼の力をもって、方便の理解や実の理解が生じる。悪しき理解が生じるために、鬼の導師が生まれる。鬼の慈善を起こし、誤った教えの喜びに執著し、誤った六波羅蜜と修行の項目を行じ、悪しき弁論を得て、心が明晰で口が達者で、あらゆる法門を説くことは、すなわち愛心の眷属である。

次に見心の眷属とは、誤った知的な見解が大きければ四門(注:有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)に執著し、さまざまに心を働かせてあらゆる法門を作り上げる。心に見えるものを実在とし、他の人と共通するものを仮のものとする。心に愛着を起こすことを娘とし、心に分別することを息子とし、このような心の中に六波羅蜜を行じることを修行の項目とする。これを見心の眷属とする。

なぜなら、この愛と見は、自分の心の苦諦と集諦を知らず、みだりに道諦と滅諦を言うのである。正しい教えとそうでない教えの区別がつかず、葉を食べる虫が木を食べるように、たまたま法門の名前を得ても、名前だけがあって意義はない。それがどうして愛と見でないことがあろうか。

もしよく心を観じて、愛と見の心はみな因縁によって生じるものであり、無常であり生滅するものだと知れば、四教の観心の眷属が生じる。『中論』の偈に「因縁によって生じる法は、即空、即仮、即中である」とある通りである。この四教の観心において、それぞれの眷属を明らかにすることは前の通りであり、準じて知るべきである。

以上述べた六種の観心の眷属のうち、前の五種を麁とし、円教の観心を妙とする。

また麁を開いて妙を述べると、人はなお自らの愛と見の心は、因縁によって生じたものであると知らない。それではどうして、因縁によって生じた心が即空・即仮であると知ることができようか。空・仮を知らないままで、魔界はそのまま仏界であり、見は本来不動であることを観じ、三十七道品を修することができるだろうか。愛はそのままで法性であると観じ、見の不動を観じ、三十七道品を修すならば、愛の魔界や見の境界はそのままで仏界である。教えではない中で正しい教えを知り、道ではない中で仏の道に到達する。すべての実在において、妙でないものはない。

事象的な眷属を明らかにして、教えを聞き文字を学ぶ人を調伏し、法門の眷属を明らかにして、修行者を調伏し、観心の眷属を明らかにして観心座禅の人を調伏する。この三種の法門は見たり聞いたりする次元を超越している。

(注:観心の対象は法門であるので、ここであげられる眷属とは、目に見える人物やその他の存在などではなく、教えである法門である。その面では、厳密には眷属ではないのではないか、と常識の判断が下されそうであるが、上に引用されている『維摩経』にも、理法としてこのような表現がされているため、ここでもそれらを眷属として説いているのである)。

法華玄義 現代語訳 142

『法華玄義』現代語訳 142

 

c.麁妙を明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての三つめは、「麁妙を明らかにする」である。三蔵教の本性を持つ眷属は、その本性は劣っている。昔の結縁における縁もまた浅く小さい。その後、中間において仏法をもって成熟する場合も、成熟する者は少ない。仏の国土に生まれて、内外(注:仏に身近な者と疎遠の者という意味)の眷属・業生・願生・神通生などとなり、また三蔵教の仏のもとに応じて来て仕えるようなことは、みな麁の眷属である。通教と別教の本性、および内外の眷属は、巧といっても、通教と別教に異なりがある。これは他の例をもって知ることができるであろう。みな麁の眷属である。

法華経』には「あらゆる衆生はみな私の子であり、客となった人ではない」とある。この理性を論じるならば、子でない者はないことになる。これは理性の眷属妙と名付ける(注:すべての人々は、理法的にはすでに眷属となっているという意味)。

前世の昔に大通智勝如来の教えを受け、結縁して衣の裏に宝石を縫い付けられたような状態となり、二万億の仏のもとで、この上ない教えを説く。『法華経』に「もし私が衆生に会えば、すべて仏道をもって教える」とある。もし衆生に仏性がなければ、仏道をもって教える場合、その過ちは仏にあることになる。もし衆生にみな仏性があるならば、教えを拒否して受けないことは、その過ちは衆生にあることになる。すべての心ある人間は、みな仏となるのである。一闡提(いっせんだい)も心を断ち切ることはないので、生まれ変わって教えを受ける。一闡提が仏となることがなぜ難しいであろうか。声聞と縁覚の二乗は灰のようにすべて滅び尽くす。智慧も滅びれば心も尽き、身も灰のようになれば、姿形も尽きる。身も心も尽きれば、五欲において何かできることは何もなくなるが、しかし何度も生まれ変わって仏の教えに会い、仏の道を受ける。これは中間の成熟妙である。

今、『法華経』において、すべて仏となることができることは、これは希有(けう)のことである。最も優れた医者の王は、毒を変じて薬とする。よく仏となる可能性が滅んだ者を治し、心のない者も仏となることは、これはすなわち内外の眷属妙である。たとえば、戦において戦功を争うことにおいて、先鋒が第一であるようなものである。仏はあらゆる教えを説いて、衆生を収め取る。しかし、心も灰となった二乗は、他の所に入らずに、ただ『法華経』において突然入ることができるのである。このために『涅槃経』に、遠い未来に八千人の声聞が授記を受けることを指して、秋に収穫して冬に蔵に収め、もうこれ以上やることがなくなったようなものだというのである。もし『法華経』において仏性を悟らなければ、『涅槃経』に遠い未来の授記を指すことはできない。もし衆生にもともと仏性がなければ、昔の結縁の際、仏の道は教えなかったであろう。始めと終わりについて見れば、仏性の義は明らかである。その意義は知るべきである。

(注:『法華経』には仏性という言葉が全くないために、『法華経』は仏性を認めていないという認識に対抗してこのように述べている)。

ここで華厳宗の師に問う。頓教の極みである『華厳経』の教えに、すべての衆生に仏性があると説くのだろうか。もしそれがあれば、二乗はなぜその教えを聞いて、授記を受けて仏とならないのだろうか。なぜただ耳の聞こえない者、言葉を語れない者のようになったのだろうか。もし二乗にもともと仏性があるといえば、早々に小乗の悟りを取ってしまったことは、もともとの能力を覆い隠してしまうようなものである。もともとの能力がすでに押さえつけられていることを治すことができるのだろうか。治すことができないとすべきだろうか。もし治すことができるならば、なぜ治さないのだろうか。もし治すことができなければ、なぜすべての衆生にみな仏性があると言うことができるだろうか。このために知ることができる。『華厳経』において治すことができないということは、それが方便の教えだからである。『法華経』においてよく治すことができるということは、それが如実(=真実)の教えだからである。よく治すことが難しいものを治すのである。これが妙である。いわゆる結縁妙・成熟妙・業生妙・願生妙・応生妙・内眷属妙・外眷属妙である。よく妙の教えを受け、妙の事象に影響を与える。このために妙という。

もしこの意義をもって五味の教えによって述べれば、乳味の教えには別教と円教の二つの眷属があって、一麁一妙である。酪味の教えにはただ一つの麁があるのみである。生蘇味の教えには三麁一妙である。熟蘇味の教えには二麁一妙である。醍醐味の教えである『法華経』には麁はなく、ただ妙だけである。これは相待妙をもって眷属妙明かすことである。

また、開麁顕妙とは、諸経は麁の眷属を明らかにして、みな仏性を見ない。この『法華経』は、天性(てんしょう)を定め、父子を明らかにする。それは子であって客ではない。このために『法華経』に記されている常不軽菩薩は、深くこの意義を得て、すべての衆生の正因(しょういん・本来備わっている仏になる原因)は滅びないことを知って、人々を軽んじない。また『法華経』に「あらゆる過去仏において、あるいは現在、あるいは仏の滅度の後、もしこの法華経の一句でも聞くならば、その者はみな仏道を成就することができる」とあることは、了因(りょういん・仏性を照らし出す智慧)」は滅びないことを表わしている。また、仏に対して少し頭を低くすることや手を挙げることから始まるあらゆる善行によって、仏道が成就されるということは、縁因(えんいん・智慧を発するための条件や行ない)が滅びないことを表わしている。すべての衆生は、この三つの徳を備えていないことはない。すなわちこれは開麁顕妙であり、絶待妙をもって眷属妙を明らかにすることである。