大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 155

『法華玄義』現代語訳 155

 

(3)本国土妙

法華経』に「それ以来、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化し、また他の国においても衆生を導き利益を与えた」とある。この娑婆とはすなわち本時の凡聖同居土である。「他の国」とはすなわち本時の方便有余土と実報無障礙土と常寂光土の三土である。これは本時の真実の応身の住むところである。迹門の中の国土ではない。

迹門の中の国土について述べると、それは一つではない。あるいは「この三千百億の歳月を統括するのは、凡聖同居土である」という(注:この文も出典不明。創作された文か)。あるいは『涅槃経』に「西方に国土があり、無勝と名付ける。この国土のあらゆる荘厳については、なお安養国(極楽浄土のこと)のようである」とあるのは、凡聖同居土の浄土である。

あるいは「華王世界蓮華蔵海」(注:『華厳経』の蓮華蔵世界のこと)というのは、実報無障礙土である。

あるいは『観普賢菩薩行法経』に「この仏の住むところを常寂光と名付ける」とあるのは、すなわち究極的な国土である。「寂光」とは、理法が鏡や器のように通じていることである。他のあらゆる国土はそれぞれ、鏡に映る像のように、器に盛られる飯のように、それぞれ異なっている。業の力に隔てられ、感じ見ることが同じではない。『維摩経』に「私の国土は清いけれども、あなたは見ることができない」とある。これは衆生の感じ見るところは違いがあって、仏国土に関係することができないためである。

法華経』に「今、この三界はみな私の所有である」とあるようなことは、あらゆる国土の清らかなところや汚れたところ、調伏すること、受け入れることなどは、みな仏の行ないであるということである。たとえば、多くの民は土地に住んでいるけれど、その土地は彼らの所有物ではなく、父が家を建てて、その父が去っても、その家は残っているようなものである。如来も同じである。衆生のために国土を作る。教化し終わって滅度する。仏が去ってもその国土は残る。これは仏の国土であって、衆生は関係しないのである。

また次に、三変土田(さんぺんどでん・『法華経』の「見宝塔品」において、釈迦が国土を3度清めたこと)とは、凡聖同居土の汚れを変じて、凡聖同居土の清浄を見せ、あるいは方便有余土の清浄を見せることである。たとえば、『法華経』の「如来寿量品」に「もし深く信じて理解する者がいれば、仏は常に『法華経』を説いた耆闍崛山(ぎじゃくっせん)にあって、大いなる菩薩たちや声聞などの多くの僧侶と共にいるのを見る」とあるようなことは、これを指すのである。あるいは、実報無障礙土の清浄を見る。たとえば、娑婆国土はみな紺色の瑠璃であり、純粋にあらゆる菩薩たちだけがいるのを見るようなことである。あるいは常寂光土と見るのである。法華三昧(ほっけざんまい・『法華経』に基づく観法)の力をもって、あらゆる見え方をさせるのである。

次の三つの意義があるために、他の国土はすべて迹の国土であることを知る。一つは、今の仏の住む所であるためである。二つは最初から最後まで、あらゆる国土を作るからである。三つは中間を権として排除するからである。もしこの本土が今の仏の住む所でなければ、今の仏の住む所はすなわち迹の国土である。もし本土が一つの国土であり、同時にすべての国土であるならば、最初から最後まで、あらゆる国土を作って、深浅の違いがあるはずである。今の国土以前と本土以後をみな中間(ちゅうげん)と名付ける。中間をすべて方便とする。どうして、今の国土は迹でないことがあろうか。

本より迹を出し、迹に執着して本とするならば、迹門も本門も知らないことになる。今、迹を排除して本を指す。本時に住むところの凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土とは、本国土妙である。迹の本は本ではない。本の迹は迹ではない。迹と本が異なっているといっても、不思議であり一つである。

 

(4)本感応妙

法華経』に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、その信心などの能力の高低を観じる」とある。「衆生が来る」ということは、法身に働きかけることである。「私は仏の眼をもって観じる」とは、慈悲をもって行って応じることである。「能力の高低」とは、十法界の目に見るものや目に見えないものの善悪の不同を指す。これは本時に二十五三昧を証する感応を指す。迹の中の感応ではない。迹の応は多種である。あるいは「一日三回に禅定に入って、導くべき衆生を観じる」という(注:これも出典不明。以下同じ)。これは三蔵の仏であり、分段穢国の九法界の衆生を照らす析空観の感応である。

あるいは「俗に同化してしかも真であるならば、出入りすることを用いず、自然とよく知ることができる」という。これは通教の仏が、分段浄国の九法界の衆生を照らす体空観の感応である。

あるいは「王三昧を用いて、歴別に十法界の衆生を照らす」という。これは別教の仏が方便有余土を照らす次第の感応である。

あるいは「王三昧を用いて、一度に十法界の衆生を照らす」という。これは円教の仏が十法界の常寂光土の衆生を照らす円融の感応である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる感応はすべて迹であり本でないことを知る。一つは、今の世で成就したためである。二つは不同であるからである。三つは権として排除するからである。寂滅道場の菩提樹の下で、初めて偏りのあるものと円満なものが成就するので、権であることを知る。あるいは、前に修行し後に学び、深浅の違いがある。このために権であることを知る。中間をすべて方便として排除する。どうして、迹でないことがあろうか。本より迹を出す。どうして迹に執着して本とするのだろうか。迹を排除して本を顕わす。迹を捨てて本を指すべきである。本の迹、迹の本であるために、不思議であり一つである。

また次に、あるいは本の感は麁であり、迹の感は妙である。あるいは本の感は妙であり、迹の感は麁である。共に妙であり、共に麁である。応もまた同様である。また本の感は広く、迹の感は狭い。あるいは迹の感は広く、本の感は狭い。共に狭く、共に広い。応もまた同様である。また今と昔を取って、本と迹を判断するのみである。麁と妙と広と狭について述べているのではない。

 

(5)本神通妙

法華経』に「如来の秘密の神通の力」とある。また「あるいは自らの身を示し、また他の身を示し、自らのこと、他のことを示す」とある。「自らの身、自らの身を示す」とは、円融の神通力である。「他の身、他のことを示す」とは、偏った神通力である。「秘密」とは、妙である。偏ったものも円融のものも、みな妙である。これは本時の神通力を指す。迹の神通力ではない。

迹の神通力は多種である。あるいは、「八背捨、八勝処、十四変化(八背捨、八勝処、十一切処によって得られる十四の報いのこと)によって、六神通を得る。外道以上であり、二乗に勝る」という(注:これも出典不明。以下同じ)。これは三蔵教の仏の神通力である。

あるいは「体空観の無漏の智慧によって、六神通を得る。八背捨による者に勝る」という。これは通教の仏の神通力である。

あるいは「前の六神通をまとめて五とし、中道によって無漏の神通を発する」という。この六神通は別教の仏の神通力である。

あるいは「中道の無記化化禅に六神通とすべての変化(へんげ)を備える。滅尽定を起こさず、あらゆる威儀を現わし、語るも黙るも妨げなく、動静の二つの理法はない」という。また『法華経』の中の六瑞(ろくずい・『法華経』の「序品」にある六つの瑞相)と変土(へんど・『法華経』における場面の変化)などのようなものは、円教の仏の神通力である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる神通力は迹であり本でない。一つは、今の世で得たものであり、二つは近い時期に修したものであり、三つは疑いを払うためのものだからである。上に説いた通りである。また四句において考察することも先に説いた通りである。しかし、本より迹を出すのであれば、迹はすなわち本ではない。迹を排除して本を顕わせば、迹を捨てて本を指すべきである。本の迹、迹の本であるために、不思議の次元で一つである。

 

(6)本説法妙

法華経』に「彼らは私が教化した者たちであり、大いなる悟りを求める心を起こさせた。今、みな退かない位に住んでいる」とある。「私が教化した者たち」とは、まさしく説法である。「大いなる悟りを求める心を起こさせた」とは、小乗の説法ではないことがわかる。これは本時の権を捨てて実を説くことを指す。迹の説法ではない。

迹の説法は種類が多い。もし『涅槃経』によるならば、始めと最後の乳味と醍醐味は、牛から出るものであると明らかにしている。もしこの意義によって考察するならば、中間の酪味・生蘇味・熟蘇味もまた牛より出たものである。なぜなら、普通の牛が普通の草を食べれば、ただよく乳味の乳を出すだけである。特別な草を食べないために、他の四つの味の乳は出さない。良い牛は健康であり、高地にも湿地にもいない。酒粕や麦の殻などは食べない。五つの味が円満に出せる要素は牛に本来備わっている。食べ物によってそれらは出るのである。

もし普通の草を食べるならば、絞れば乳を出す。下の特別な草を食べるならば、絞れば酪を出す。中の特別な草を食べるならば、絞れば生蘇を出す。上の特別な草を食べるならば、絞れば熟蘇を出す。上上の特別な草を食べるならば、絞れば醍醐を出す。

牛より五味を出すことは、漸法を喩えているのである。牛より醍醐味を出すことは、頓法を喩えているのである。牛より酪味・生蘇味・熟蘇味の三味を出すことは、不定法を喩えているのである。仏もまた同じである。偏っていることや円満なことが満足され、仏の心の中にある。衆生が仏を動かすことを許すならば、その説法は同じではない。善の衆生が動かせば、人天の教えを出し、析空観の衆生が動かせば、声聞と縁覚の二乗の教えを出し、体空観の衆生が動かせば、巧みな教えを出し、歴別の衆生が動かせば、漸次(段階的であること)の教えを出し、円頓の衆生が動かせば、無作の教えを出す。

また、二種の衆生が仏を動かせば、熟蘇味と醍醐味の教えを出し、一種の衆生が仏を動かせば、酪味の教えを出し、また四種の衆生が動かせば酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の四味を出して乳味を除き、また三種の衆生が動かせば生蘇味・熟蘇味・醍醐味を出して、乳味・酪味を除き、また一種の衆生が動かせば醍醐味を出して他の四つの味を除く。

また次に三蔵教の道場で得るところの法は、乳が牛にあるように、道場を立って乳味の教えを説く。通教の仏の道場で得るところの法は、酪が牛にあるように、道場を立って酪味の教えを説く。別教の仏の道場で得るところの法は、五味が共に牛にあるように、道場を立って、次第の五味の教えを説く。円教の仏の道場で得るところの法は、醍醐が牛にあるように、道場を立って、醍醐味の教えを説く。

問う:『涅槃経』に「乳がゆを食べてそれ以上することがないようなものである」とある。まさにこれは乳味の教えのことであろう。

答える:乳には種類が多い。麁の牛が出す乳は、害をなす。善の牛が出す乳は、最も良い乳である。

問う:乳に多種あるならば、醍醐も一つではないだろう。

答える:経典に、阿羅漢や縁覚をもって醍醐としているものもある。このために優劣を知る。この中に大いに意義がある。よくこれを熟慮すべきである。

次の三つの意義があるために、考察するならば、以上のあらゆる説法は、迹であり本でない。一つは、今の世で完成されたものであり、二つは初めて説かれたものであり、三つは中間を権として排除する。中間に完成され、中間に説かれるものは、なお方便である。ならばどうして今の世で完成され、今の世で説かれたものが、迹でないことがあろうか。迹に執着すれば共に失い、迹を排除すれば共に理解できる。迹ではなく本ではなく、不思議の次元で一つである。

まあ次に、すでに説かれたものを迹とし、今説くものを本とする。すでに説かれたものは本、今説くものは迹、また共に迹共に本である。あるいは実が本であり権は迹の四句。本体の働きから事象と理法の四句(注:この最後の箇所は未完成と思われる)。

法華玄義 現代語訳 154

『法華玄義』現代語訳 154

 

⑤.広釈

本門の十妙の解釈における第五は、広釈である。本門の十妙の各項目について詳しく述べる。本がなければ迹が下されることはない。もし、よく迹を理解すれば、すなわちまた本も知る。しかしまだ理解できない者のために、さらに重ねて分別して説く。ただ本の極みにある法身は、微妙深遠である。仏がもしそれを説かなければ、弥勒菩薩でさえ理解できない。どうして下の世界にいる者たちが理解できようか。どうして凡夫が理解できようか。しかし、父母が亡くなることは見届けねばならないと同様に、妙来の功徳は知らなければならない。ここで概略的に経典の趣旨によって、その功徳に思いを寄せて述べる。

 

(1)本因妙

法華経』に「私が昔、菩薩の道を行じていた時に成就した寿命」とあるのは、慧命のことであり、すなわち本時の智妙のことである。「私が昔行じていた」とある「行」とは進むことであり、本因妙のことである。「菩薩の道の時」とは、菩薩は修行中の人であるので、位妙を表わす。この経文全体でこの智妙・行妙・位妙の三妙を証する。この三妙は、すなわち本時の因妙であり、迹門の因ではない。

迹門の十妙における因は多種である。あるいは『大智度論』に「昔、(今の釈迦は)陶師となって、前の釈迦仏に会い、草、燃えている灯火、砂糖水の三つをもって供養した。そして将来、父母の名前、弟子の名前、侍人の名前までも、すべて釈迦仏と同じ名前の仏となる」という誓願を立てた。すなわち、これは測ることができないほど昔の初発心である。煩悩を断じることについて明らかにされていないので、三蔵教の行の因の相である。

あるいは、ある文に「昔、婆羅門の学生となって、然燈仏に会い、五華を散じて供養し、髪の毛を敷いて足の泥をぬぐい、身を虚空に踊らして、無生法忍を得た。仏はそのため授記を与え、釈迦文と名付けた」とある。また『大品般若経』に「華厳城の中で授記を得る」とある。意義は同じである。煩悩を断じることを説いているので、通教の仏の因の相である。

あるいは、『悲華経』に「昔、宝海梵志(ほうかいぼんじ)となって、刪提嵐国(せんだいらんこく)の宝蔵仏の所で、大いに精進し、あらゆる方角の仏に華を送って供養した」とある。そして宝海梵志の子が出家して悟りを開いた。また宝海梵志は国王に勧めて出家させ、宝蔵仏はその国王に授記を与えた。それが阿弥陀仏であり、宝蔵仏はその師である。この功徳は不可思議である。このために、これは別教と円教の修行の因の相である。

次の三義のために、このあらゆる因は、すべて迹門の因であることがわかる。すなわち、第一に昔と言っても近い過去である。第二に浅深の違いがある。第三に退けられるからである。今の世の前、そして本が成就した後、すなわち中間の修行はすべて方便である。このために、迹門の因であることを知る。もし迹門の因を本門の因としてしまえば、迹門も本門も知らないことになる。天にある月を知らずに、池に映った光、月に生えているとされる桂、もしくはその輪を見ているだけのようなものである。光は智妙を喩え、桂は行妙を喩え、輪は位妙を喩える。もし迹門の中のこの三妙を知って、迹門を退けて本門を顕わせば、すなわち本地の因妙は、影から目を離して天を指し示すようなものであると知る。どうして盆の水に映った星だけを見て、天の川を仰がないのか。ああ、愚かな者にどうして道を論じられようか。

もしこの意義を得れば、迹門の本は本ではなく、本の迹は迹ではないことを知る。本と迹は異なっているといっても、不思議であり一つである。

問う:『法華経』に「昔(=本)、菩薩の道を行じた時」とあるのは、まさにこれは初住の位において真実の道を得る時のことであろう。中間はまさに他の行の位における道を進め、煩悩を断つ段階であるはずである。『法華経』の寂滅道場は、まさに最高の位の妙覚である。したがって、妙覚の本を顕わすならば、まさに昔の初住を指すべきではないか。これ以外にないのではないか。

答える:経文においても意義の上においても、それは言えない。『法華経』に「すべての諸仏のあらゆる道の法を行じる」とある。また「具足してあらゆる道を行じる」となる。すべての因を具足して備えているので、本因である。初住の位はすべてを備えているとは言えない。このために本因ではない。また中間の果はすべて権である。ましてや今の寂滅道場の果は、どうして実とすることができようか。また中間の果も権として結局退けられるならば、中間の因はなぜ実の因であろうか。このために、この問いの内容は不可である。

 

(2)本果妙

法華経』に「私が成仏してから今まで、非常に大いに久遠である」とある。「私」とはすなわち真性軌である。「仏」とは悟りの義であり、すなわち観照軌である。「今まで」とは、如実の道に乗じて、それによって悟りを成就する。すなわち応を起こすのであり、資成軌である。この三軌は成就して非常に長い期間が経過している。すなわち本果妙である。

本果が円満して、久遠の昔にある。今の迹が成就して本果となるのではない。迹が成就すれば、一種ではない。あるいは「菩提樹の下に坐って、三十四心(四教の蔵教の八忍・八智・九無碍・九解脱を合わせて三十四心という)に見惑と思惑を断じ、明らかに大いに悟り、世間と出世間のすべての諸法を覚知する。これを仏と名付ける。ただこの仏のみ存在し、あらゆる方角の仏はない。過去現在未来の三世の仏は、すべて他の仏であり、私の分身ではない」という。これは三蔵教の仏果である(注:この箇所は経典の引用のように見えるが、このような内容の経文は存在しない。これは三蔵教の仏果を説明するために創作された文である。以下も同じである)。

あるいは「菩提樹の下で天衣を座として、悟りを開く瞬間の智慧をもって、他の習気を断じて成仏することができた」という。『大品般若経』では、共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る智慧)を説く時、あらゆる方角に千の仏が現われ、質問する人は須菩提帝釈天などとする。これは他仏であって、「私」の分身ではない。これはすなわち通教の仏の果が成就した相である。

あるいは「寂滅道場で七宝華を座として、身は蓮台にふさわしく、千の葉の上にいる各菩薩たちに、さらに百億の菩薩がいる。すなわち全部で千百億の菩薩たちがいる。あらゆる方角に仏の眉間の白毫と分身の仏の白毫から光を放つ。白毫は蓮台の菩薩の頂に入り、分身の仏の光は華葉の菩薩の頂に入る。これは法王の職位を得ることである。諸仏の法の底まで究め、成仏することができる」という。華台を報仏と名付け、華葉の上にいる仏を応仏と名付ける。報仏・応仏は、ただ関係性があるだけであり、相即することはできない。これは別教の仏の果が成就した相である。

あるいは、「道場において虚空をもって座とし、一つが成就することはすべてが成就することである。毘盧遮那仏はすべての場所に遍く存在し、廬舎那仏と釈迦の成仏もまたすべての場所に遍く存在する。法身である毘盧遮那仏と、報身である廬舎那仏と、応身である釈迦仏の三仏が具足して欠けたところはなく、三仏相即して一つとなり異なるところはない。『法華経』において、八つの各方角に、それぞれ四百億那由他の国土に釈迦を安置することは、すべてこれは毘盧遮那仏である」という。『観普賢菩薩行法経』に「釈迦牟尼毘盧遮那仏と名付ける」とある。これはすなわちこれは円教の仏の果が成就した相である。

次の三つの意義があるために、このあらゆる果はみな迹門の果であることがわかる。一つは今の世に初めて成就するためであり、二つは浅深の違いがあるためであり、三つは中間を権として排除するためである。

もしこれが本果であるなら、なぜ今日、初めて成就するのだろうか。本果においては、一つの果はすべての果である。なぜ前後に差別があって、不同なのだろうか。今の世より前の本が成就した後、百千万億に因となる修行を通して果を得て、何度も生まれ変わることを現わすことがすべて中間であるならば、方便として排除する。釈迦が悟りを開いた寂滅道場の菩提樹も、なぜ迹でないことがあろうか。もし迹の果に執着してそれを本果とすれば、迹も本も知らないことになる。本から迹が現わされることは、月が水に映るようなものであり、迹を排除して本を顕わすことは、影から目を離して天を仰ぐようなものである。まさに今成就した果はみな迹の果であるとして排除し、久遠の昔に成就した果が本果であるとするべきである。このように理解すれば、中間の果についての疑いはたちまちなくなる。仏の寿命が非常に長いということに対する信心は、その意義も明らかである。迹の本は本ではない。本の迹は迹ではない。迹と本が異なっているといっても、不思議であり一つである。

法華玄義 現代語訳 153

『法華玄義』現代語訳 153

 

B.本門の十妙について

 

第二に、本門の十妙とは、本因妙・本果妙・本国土妙・本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙・本涅槃妙・本寿命妙・本利益妙の十種類である。

そして、この本門の十妙の解釈において、また十の項目を立てる。第一に略釈、第二に生起の次第、第三に本迹の開合を明らかにする、第四に引証、第五に広釈、第六に料簡、第七に麁妙、第八に権実、第九に利益、第十に観心である。

 

①.略釈

本門の十妙の解釈における第一は、略釈である。本門の十妙の各項目について概略的に述べる。

第一の本因妙とは、本初(ほんじょ・仏が悟りを求めようとした最も初めの時を指す。これは実際、人の智慧では理解できないほどの昔のことである。それが釈迦の生涯に具体的に人の智慧で理解できる形で表現されているとする)において、悟りを求める心である菩提心を発して、菩薩の道を行じて修したところの因のことである。十六王子が大通智勝仏の時に『法華経』を広めて結縁するようなことは、これは中間(注:本初から現在に至るまでの間という意味)の所作であって、本因とは言わない。本因は、娑婆世界を擦って墨とし、東に進みながら千の世界を過ぎた時に一点を下し、下した世界と下さない世界をすべて粉々にして塵として、その一つの塵を一劫として数えた歳月に、さらに百千万億那由他劫を過ぎた遠い昔のことである。二度とこの世に生まれ変わらない段階まで進んだ弥勒菩薩は、すべての実在について知り尽くす道種智をもって、ただすべての世界の数を数えても知ることができない。ましてや、その世界を結局は塵にした数など、どうして知ることができるだろうか。ただ如来だけが、巧みな喩えを用いて、その非常に遠い過去の相を顕わす。まして、この世の智慧をもって、巧みに計算できるだろうか。『法華経』に「私が仏の眼をもって、その久遠(くおん・この非常に長い時間を指す言葉)を見ると、なお今のようである」とある。ただ仏だけがよくこの久遠を知ることができる。その他のことはすべて迹の因であって、本因ではないのである。

もし中間の因に留まってしまえば、後に信じることが難しくなる。このために『法華経』において迹を除いて疑いを排除している。それは権であって実ではない。「私がもと菩薩の道を行じる時」とある時は中間の時ではない。これ以上に遠い昔に行じる道のことを本とするのである。これがすなわち本因妙である。

次の本果妙とは、本初に行じるところの円妙の因をもって、常・楽・我・浄を悟り得て究めることを本果という。寂滅道場の廬舎那仏の成仏を指して本果とはしない。また、中間の果を指して本果とはしない。ましてや、廬舎那仏が初めて成仏することをどうして本果とするだろうか。ただ成仏してから今まで、非常に遠く昔の成仏の果を指して、本果妙というのである。

第三の本国土妙とは、本初にすでに果を成就していれば、必ずその仏の国土がある。今、迹仏(しゃくぶつ・仏が相対的な次元に現われた姿)は浄土と穢土が同時にある凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)にある。あるいは、方便有余土と実報無障礙土と常寂光土の三土にある。中間にはまた以上挙げた合計四土がある。本仏(ほんぶつ・本初において悟りを開いた仏)にもまた国土があるはずである。ではどこにあるのだろうか。『法華経』に「成仏してから今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している」とある。この経文によれば、実に今日の迹仏の娑婆世界ではなく、また中間の権の迹の国土でもない。すなわちこれは本の娑婆世界であり、これが本国土妙である。

第四の本感応妙とは、すでに果を成就していれば、その本の時に証する二十五三昧・慈悲・四弘誓願」など、機と感が互いに関係し合うことにおいて、寂滅のようで、よく照らす。そのため本感応妙というのである。

第五の本神通妙とは、また昔の時に得た無記化化禅と、同じく本因の時のあらゆる慈悲が合わさって、施し教化するところの神通のことである。最初に悟りに導きやすい衆生を動かすために本神通妙というのである。

第六の本説法妙とは、すなわち昔に初めて道場に坐し、初めて悟りを成就し、初めて教えを施した四無礙弁(しむげべん・仏が何ら妨げなく教えを語る四つの能力のこと。言語を理解する①法無礙弁、教義内容を理解する②義無礙弁、あらゆる言語に精通する③詞無礙弁、巧みに教えを説く④弁無礙弁=楽説無礙弁)をもって説くところの教えを本説法妙というのである。

第七の本眷属妙とは、本時の説法にあずかった人々のことである。『法華経』に記されているところの、弥勒菩薩でさえ知ることのできない下方の世界にいる菩薩たちは、まさにこの本眷属である。

第八の本涅槃とは、本時に証するところの断徳涅槃(だんとくねはん・煩悩を断じ尽くした涅槃)のことである。またこれは本時の応が、凡聖同居土と方便有余土の二土にあって、縁があれば悟りに導き、そして滅度に入るということは本涅槃妙である。

第九の本寿命とは、すでに滅度に入ったという以上、本仏にも寿命の長短、遠い過去や近い過去というものがあるわけであり、それを本寿命妙という。

第十の本利益妙とは、本仏の業生・願生・神通生・応生の眷属で、最終的に得る利益が本利益妙である。

 

②.生起の次第

本門の十妙の解釈における第二は、生起の次第である。この十種の意義は、衆生の縁に応じて説かれており、経典の各文に散見できる。したがって、この十種を上記の順序で説く理由をここに述べる。

本因妙を最初に置く理由は、必ず因によって果が生じるからである。そして果が生じれば、国土がある。その国土に究極の果があるために、衆生を照らす。それによって衆生が動けば、教化を与える。教化を与える時、神通がある。神通によって道が開かれれば説法をする。説法を与える対象は眷属である。眷属が悟りを開けばそれは涅槃である。涅槃が成就する時、寿命の長短が現われる。長短の寿命が生じさせる利益については、仏の滅度の後の正法・像法などの利益がある。

このような意義は無量であるが、本門の十妙の十種としてまとめるために、次第を設けたのである。

 

③.本迹の開合

本門の十妙の解釈における第三は、迹門の十妙と本門の十妙の関係性について述べる。迹門の十妙の中では、因は境妙・智妙・行妙・位妙と開いて、果は三法妙として合わさる。習果の本果妙、報果の本国土妙・本涅槃妙・本寿命妙が合わさって三法妙となるのである。本門の十妙の中では、因の境妙・智妙・行妙・位妙は本因妙として合わさり、果は本果妙・本国土妙・本涅槃妙・本寿命妙と開く。習果の本果妙が開いて、報果の本国土妙を明らかにするのである。このように同異を述べるのは、意義の便宜によって、互いに取捨することがあるからである。

迹門の十妙の中では、詳しく境妙・智妙・行妙・位妙を明らかにする。本門の十妙の中では、概略的に述べて、みな本因妙としている。意義を理解すれば、その開合を知るであろう。本果妙とは、すなわち迹門の十妙の中の三軌妙である。本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙は、名称的には迹門の十妙と同じである。本門の十妙に本涅槃妙・本寿命妙として開くのは、久遠の諸仏の燈明仏、迦葉仏などの仏は、みな『法華経』において涅槃に入っているからである。その意義を考えると、本仏は必ず浄土におり、衆生も清浄である。また過去の事柄は成就したので、涅槃において本涅槃妙・本寿命妙として開くのである。迹門の十妙の中にこの二つの妙がないのは、釈迦は『法華経』において涅槃を説くといっても、『法華経』の中では滅度していない。このことは『涅槃経』に記されている。そのために迹門の十妙の中に説かないのである。本利益妙は迹門の十妙と同じである。

 

④.引証

本門の十妙の解釈における第四は、経文を引用して証する。経文と言っても、他の経典や同じ部類の経典の経文は引用しない。ただ『法華経』の本門の経文を引用して、この十種を証する。

しかし、『法華経』の「薬王菩薩本事品」には、昔、『法華経』には大河の砂の数をさらに数千兆倍したほどの偈があったと記されている。今の『法華経』の仏は、霊鷲山において、八年間にわたって説法したことが記されている。インドの原典のことは、どうして完全に知ることができるだろうか。この中国の辺鄙な場所では、その大意を知るだけである。人は『法華経』の七巻(注:現在流通している『法華経』は八巻である)を「小経」としている。インドの原典は膨大である。どうして語ることができるだろうか。しかし、それに比べれば数紙に過ぎない中であっても、この十種の証明は備わっている。経文に「私は昔、菩薩の道を行じる時、成就した寿命はまだ尽きていない」とある。これはすなわち本因妙を行ずることである。

経文に「私が実に成仏してから数えきれないほどの年月が経過している」とある。また「私が実に成仏してから今まで、久遠であることはこのようである。ただ方便をもって衆生を教化して、この説法をした」とある。これはすなわち本果妙である。

経文に「私は娑婆世界において、最高の悟りを得て、このあらゆる菩薩を教化し導いた」とある。また「その時から今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している。また他の場所においても衆生を導き利益を与えている」とある。この国土はまた今の娑婆世界ではない。これはすなわち本国土妙である。

経文に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、彼らの信心などの能力の高低を観じる」とある。これはすなわち本時に衆生を照らす智慧である。これは本感応妙である。

経文に「如来の秘密の神通力」とある。また中間(注:本からすでに時が経過している期間、あるいはその期間についての文のこと)の文に「あるいは自身の身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは自分のことを示し、あるいは他人のことを示す」とある。すなわちこれは形を十法界に現わして、あらゆる姿となることである。本においても同様である。これは本神通妙である。

経文に「この多くの菩薩たちは、すべて私が教化した者たちであり、仏道に対する大いなる心を起こさせたのである。今、すべては退くことのない位にあり、私の道の教えを修学している」とある。また中間の文に「あるいは自分のことを説き、あるいは他人のことを説く」とある。本においても同様である。これは本説法妙である。

経文に「この多くの菩薩たちは、身体はみな金色であり、下方の空中に住む。これらは私の子である。私は久遠の昔から今まで、彼らを教化した」とある。これは本眷属妙である。

経文に「またこれを涅槃に入ると言う。このようなことはみな方便によって分別する」とある。また「今、本当に滅度することではないが、まさに滅度すると説く」とある。過去からの仏と衆生の縁が尽きれば、滅度すると説く。中間にすでに涅槃を称えるのであれば、本もまた同様である。すなわち本涅槃妙である。

経文に「あらゆる所に自分の名前の不同、年齢の大小を説く」とある。「年齢」とは寿命のことであり、「大小」とは長短、常、無常のことである。中間にすでにこのことがあれば、本の寿命もまた同じである。すなわち本寿命妙である。

経文に「また方便をもって微妙の教えを説き、よく衆生歓喜の心を起こさせる」とある。これは中間の利益である。また「仏の寿命の劫数が非常に長いことはこのようなことであると説くことを聞いて、数えきれないほどの衆生は大いに利益を得た」とある。これは迹門の中の利益である。迹門と中間とすでにこのようであるならば、本もまた同様である。すなわちこれは本利益妙である。

このように、十種の根拠は経典によることであり、人によって造られたものではない。

法華玄義 現代語訳 152

『法華玄義』現代語訳 152

 

Ⅱ.本門の十妙

 

妙について詳しく述べるにあたっての第二は、本門における十妙を明らかにすることである。ここで二つある。第一に、本と迹について解釈し、第二に、本門の十妙を明らかにする。

 

A.本と迹について

そもそも、次の六種(①~⑥)のように、本と迹という言葉の用いられ方はさまざまである。①本とは「理本」のことである。すなわち「実相一究竟」の道である。迹とは、あらゆる実在の実相を表現する理法的なことを除いて、その他の事象的なことをすべて迹と名付ける。また、②理法と事象をすべて本とし、理法や事象を言葉として説くことをみな「教迹(きょうしゃく)」と名付けるのである。また、③理法と事象の教えをみな本とし、その教えを受けて修行することを迹とする。人が訪れた場所には必ず足跡があり、その足跡をたどれば、その場所に到達するようなものである。また、④修行においては体験的に証が立てられるので、その体験を本とする。その体験によって働きを起こせば、その働きを迹とする。また、⑤実際に体験的に得た働きを本とし、それによって他の者たちを教化する働きを迹とする。また、⑥現在に顕わされた事柄を本とし、過去にすでに説かれた事柄を迹とする。この六つの意義をもって、以下、本と迹について説明をする(注:ここでは、まず本と迹について、広く言葉の意味から解釈している。本は根源という意味であり、迹とは、その根源から派生したものをいう。しかし、『法華経』における本、つまり本門は絶対的真理そのものを指し、迹は、絶対的真理は相対的言葉では表現できないことを知ったうえで、人々に伝えるため、この世に表わすために、言葉や行動で表現したものである。したがって、迹がなければ、本があるということが表現されないので、本も無きに等しくなってしまう。この後、本即迹ということが述べられるが、その意味はこれである。本門と迹門は、本来、そのような関係であるが、まずは言葉の意味から、広く各経典に記されている六通りのパターンがこれからあげられる)。

①.理法的なことと事象的なことについて本と迹を明らかにする

維摩経』に「無住の本からすべての実在が立つ」とある。無住の理法は、すなわち本時(ほんじ・仏に関する最初の時という意味)の実相真諦である。すべての実在は、この本時の真諦があらゆる現象となって現わされた俗諦である。実相の真実の本によって俗諦が現わされ、この俗諦である迹を通して、真実の本が顕わされるのである。本と迹が異なっているといっても、不思議(注:現在では不思議と言えば、わけがわからない、という意味で使われているが、本来は、言葉で表現できず、人間的な思考で理解することができない、という意味である。真理はまさに言葉で表現できず、人間的に理解できないので、不思議=真理である)であり一つである。このために、『法華経』に「すべての実在を観じれば、空であり実相である。ただ因縁をもって事象的に存在するように見え、真理を知らない見解が生じているように見せているのである」とある。

②.理法の教えにおいて本と迹を明らかにする

本時の次元において照らされる真諦と俗諦の二諦は、共に言葉で表現することができないので、みな本と名付けるのである。昔、仏は方便をもってこれを説き明かした。すなわち二諦の教えである。この教えを迹と名付ける。もし二諦の本がなければ、この二種の教えはない。もし教えという迹がなければ、どうして二諦の本を顕わすことができようか。本と迹が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「この教えは示すべきではない。言葉の相は寂滅している。方便の力をもって、五人の僧侶に説いたのである」とある。

③.教えと修行について本と迹を明らかにする

最初に昔の仏の教えを受けてこれを本とすれば、因である修行を実践して、悟りである果を得る。教えによって理法が明らかとなり、行を起こすのである。行によって教えに合致し、また理法を顕わすことができる。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「諸法は本来、常に自ら寂滅の相である。仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏となることができる」とある。

④.体験的証と働きについて本と迹を明らかにする

昔、最初に修行して理法に合致することによって、法身を証することを本とする。初めて法身の本を得るために、身体に合わせて応身の働きを起こす。こうして応身によって、法身を顕わすことができる。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「私は仏となってから今まで、非常に長い年月を経過していることは、ここに説いた通りである。ただ方便をもって衆生を教化して、このような教えを説いているのみである」とある。

⑤.働きと教化について本と迹を明らかにする

最初の本時の次元を実とし、その実において法身と応身の二身を得ることを本とする。その後の時間において、数多くの生まれ変わりを現わし、その法身と応身をさまざまな形で施すことを迹と名付ける。最初に法身と応身の本を得なければ、その後において法身と応身の迹はない。迹によって本を顕わす。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「これが私の方便である。諸仏も同じである」とある。

⑥.現在と過去において本と迹を明らかにする

法華経』が説かれる以前の経典において、すでに事象と理法そして権と実が説かれていることは、みな迹である。『法華経』に説かれる本時の事象と理法そして権と実は本と名付ける。『法華経』で明らかにされることが、本時の本でなければ、すでに説かれた経典の迹が下されることはない。すでに説かれたものが迹でなければ、どうして『法華経』の本が顕わされるだろうか。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「諸仏の教えは長い時間の後、必ず真実の教えとなるであろう」とある。

もし『法華経』以前と『法華経』が説かれた今について本と迹を述べれば、以前の経典を指して迹とし、釈迦が悟りを開いた寂滅道場からの十麁・十妙をまとめてすべて迹と名付ける。『法華経』が説かれた今を指して本とするならば、総合的に遠く大通智勝如来の『法華経』の時のあらゆる麁とあらゆる妙もまとめてみな本とする。

もし権と実について本と迹を述べれば、権を指して迹とし、個別的に中間のあらゆる異なる名を持つ仏の十麁・十妙をまとめてみな権とする。実を指して本とし、最初の十麁・十妙をまとめてみな実とする。

もし『法華経』の本体とその働きについて本と迹を述べれば、働きを指して迹とし、最初の感応・神通・説法・眷属・利益の五妙をまとめる。『法華経』の本体を指して本として、最初からの三法妙をこれとする。

もし『法華経』の教えと修行について本と迹を述べれば、修行を指して迹とし、最初の行妙・位妙をまとめる。教えを指して本として、最初の智妙をこれとする。

もし理法と教えを本と迹とすれば、理法を指して本とし、最初からの境妙をそれとする。教えを指して迹とするならば、『法華経』を説いた本師の説法妙をそれとし、兼ねて本師の十妙をそれとする。

もし理法と事象を本と迹とするならば、事象を指して迹とし、『法華経』を説いたあらゆる麁の境をまとめる。理法を指して本とするならば、『法華経』を説いたあらゆる妙の境をまとめる。

最初の本を本とするならば、ただ本であって、迹ではない。最後に説かれた説法は、ただ迹であって本ではない。中間は迹であり、また本である。もし本の時がなければ、中間と最後の迹を下されることはない。もしすでに説かれた説法の迹がなければ、今説かれる『法華経』の本を顕わして得ることはできない。本と迹は異なっていても、不思議であり一つである。

法華玄義 現代語訳 151

『法華玄義』現代語訳 151

 

d.観心の利益について明らかにする

小乗は、心に生じたことでも、まだ身も口も動いていなければ、業とはしないことが明らかである。しかし、大乗は、一瞬の罪を作ることでも、それによって無間地獄に堕ちることを明らかにする。無間地獄は、大きな苦しみの報いの世界であり、さらに一瞬のことでも業を起こしてしまう場所である。心がわずかに動いてしまうと、重い業が作られてしまう。ましてや、九法界にそれが備わっていないわけがない。

もしよく心を清めれば、あらゆる業は清められる。浄心観とは、あらゆる心を観じ、すべての因縁によって生じた存在は、即空・即仮・即中の一心三観である。この観心をもって、心も心ではないと知り、心はただ名称に過ぎないと悟る。法は法ではないと知れば、法に主体である我(が)があるわけがない。名称に名称がないと知れば、名称に我があるわけがない。法に法がないと知れば、すなわち涅槃となる。この理解が起こる時、我も我のある所も雲の如く幻の如しと知る。すなわちこれが「その地において清涼を得る利益」である。信じ敬い懺悔し、あらゆる善心が生じて、空・仮・中において、心に勇ましさがあることは、因の利益である。一念一念が即空と相応することは、中草・上草・小樹などの利益である。一念一念が即仮と相応することは、大樹の利益である。一念一念が即中と相応することは、最実事の利益である。一念の利益の心において、七種に分別される。

ひたすら無生観の人は、ただ自分の心の利益だけを信じて、外部から仏の威力によって利益が加えられることを信じない。これは自性の愚痴に堕ちる。また、ひたすら外部からの仏から利益が加えられることを信じて、内心に利益を求めないことは、他性の愚痴に堕ちる。自他の共性の愚痴と無因の愚痴も、またわかるであろう。

自性の愚痴の人は、重い荷物を引く時に進まなければ、傍らから力をもらって助けられて進むことを、この世で見ているはずである。罪と垢が重い者であっても、仏の威力が働き、観心の智慧をもって利益が与えられることをなぜ信じないのか。またあなたはどこで無生の内観を得たのか。師に従ったからか。経典に従ったからか。自ら悟ったからか。師と経典はあなたにとって外部の条件である。もし自ら悟ったならば、必ず目に見えない次元からの働きかけを受けたからだ。あなたはその恩恵を知らないのであり、それはまるで樹木が太陽や月や風や雨の恩恵を知らないようなものだ。またあなたは次の三つのことを知らない。一つめは教えを信じない。二つめは自ら行じてばかりいて、外部から与えられることを求めない。三つめは人を教えない。ただこれはあなたの不信心が原因であり、外部から与える力がないからではない。ある経典に「内ではなく外ではなく、しかも内であり外である」とある。内であるために、諸仏の解脱は心の中に求めるべきであり、同時に外であるために、諸仏はその念を守護するのである。どうして外部からの利益を信じないのか。他性の愚痴と、自他の共性の愚痴と、無因の愚痴についても、またわかるであろう。即仮であるために自性なく、即空であるために他性なく、即中であるために共性なく、自他共に照らされるために無因性はない。

 

E.権実

(注:この段落を最後に、『法華玄義』の大半の紙面を使って説かれた「迹門の十妙」が終わるが、最後に、「十妙」のすべて対象として、それを「権実」ということをもってまとめる内容が記されている。原文では「第五に権実を結成す」と、いかにも「功徳利益妙」の第五番目の項目のように記された言葉がこの段落の最初に来ているが、内容的には明らかに「十妙」すべてを対象としたまとめの内容である。またその証拠に、「功徳利益妙」の最初の段落分けの箇所には、第四の「観心の利益について」という言葉までしか記されていない。そのため、原文にはないが、「迹門の十妙のまとめ」という見出しを付けた)。

権と実をもって迹門の十妙をまとめると次の通りである。

光宅寺法雲は「声聞、縁覚、菩薩の三教、三機、三人の境を照らすことを権とし、教一、理一、機一、人一の境を照らすことを実とする」と言っている。

しかし、この解釈は用いない。

すでに大乗の果をもって大の理法とするならば、どうして小乗の果をもって小の理法としないのであろうか。

彼は弁明して「小果は真理ではないので、その果をもって理法とはしない」と言っている。

もしそうであるならば、権教および権行の人は、なぜかつて真実ではなかったのか。すでに権教の修行者があるならば、なぜ権理を立てないのか。また権に理法がなければ、俗諦を諦と呼ぶべきではない。すでに俗諦と呼んでいるならば、権もただ三種の境とすべきではない。実に四種の境があるならば、因果は二つの法である。どうしてこの二つの法を理一とするのか。『法華経』に「すべての法を観じれば、そのままで如実の相である。行じることなく分別することもない」とある。どうして因果を分別して理一とするのか。もしそうであるならば、実相はなく、魔の説くところとなる。このために彼の解釈は用いない。

ここで真理を明らかにする。十麁の境を照らすことを権とし、十妙の境を照らすことを実とする。十麁とは、すなわち仏界以前の九法界における蔵教・通教・別教の十二因縁などのあらゆる麁の諦・智慧などから始まって麁の利益に至るまで、みな権とするのである。一方、十妙とは、すなわち理妙(注:原文には理妙とあるが、これは明らかに十妙の第一の境妙のことである)から始まって利益妙のことである。妙であるから実なのである。

また次に、十妙を表わすために、十麁の深い意味が開かれる必要がある。蓮の実のために花びらはあるとしても、花びらに隠れて蓮の実が見えないように、あらゆる教えを示し教え利益を与え随喜して、確かにそれらの教えに実があるのだが、実は顕われない。『法華経』に「如来の方便はその意義を理解することが難しい」とある。また、花びらが開いて蓮の実が現われることは、十麁を開いて十妙を顕わすことであるが、同時に十麁がないことの喩えとなる。ただ真理においては、一大事不可思議の境界から始まって一大事不可思議の利益があるのみである。僧肇(そうじょう)は「維摩経の最初の仏国品から始まって最後の法供養品に至るまで、すべて不可思議が明かされている」と言っている。今述べていることも全く同じである。麁を開いたならば、もはやすべてが妙となる。

また五味の喩えについて述べれば次の通りである(注:これ以降、いわゆる「五時」の分類を用いた内容となるが、それを「五味」の喩えで表現している記述は最初の「乳味」だけであり、それに続いては「三蔵」という言葉が用いられ、続いて「方等」『摩訶般若』『法華』『涅槃』という表記となっている。つまり統一が取れていない。したがって、それらはカッコの中の言葉で統一した)。

乳味(=華厳時)の教えは、十妙のために十麁を明らかにし、十麁を開いて十妙を顕わす。すなわち一権(別教)一実(円教)である。もし四悉檀について述べれば、六権(別教と円教の第一義悉檀以外の六つ)二実(別教と円教の第一義悉檀の二つ)である。もし四門(有門、空門、亦有亦空門、非有非空門)について述べれば、十二権四実(四悉檀のうち、第一義悉檀以外の三つにそれぞれ四門があるので十二の権となり、第一義悉檀に四門があるので、四の実となる)となる。

三蔵(=鹿苑時)について述べれば、最初から最後まで権であり、旅人を休ませるために仮に作られた町のようであり、子供をあやすために差し出された柳の葉のようなものである。また、この教えにおいては、他の人を教化することにおいては権であり、自分の修行においては実である。四悉檀について述べれば三権一実、四門について述べれば十二権四実である(四悉檀それぞれに四門があって合計十六となり、その内、第一義悉檀の四つが実であり、その他の十二は権となる)」。

方等(=方等時)について述べれば、四教すべてが備わっているので、蔵教・通教・別教のそれぞれの十妙で、三十種の権、円教の十種の実である。四悉檀について述べれば十四権二実(四教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十四は権となる)である。「四門」について述べれば五十六権八実(四悉檀の十四権二実それぞれに四門があるので、14×4の権であり、2×4の実となる)」である。

『摩訶般若』(=般若時)について述べれば、すでに三蔵教は廃され、ただ通教・別教・円教を用いるだけとなる。通教の十妙と別教の十妙の二十種を権とし、円教の十妙を実とする。四悉檀について述べれば「十権二実(三教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十は権となる)である。四門について述べれば四十権八実(四悉檀の十権二実それぞれに四門がある)である。

法華経』(=法華涅槃時の中の法華)について述べれば、これまでのすべての教えを廃して、ただ一実を説くのみである。実の中には方便がないわけではないが、ただこれも実相の方便であるので、同じく実とする。ここで四悉檀について述べれば、まだ悟らなければ三権(第一義悉檀以外の三つ)であり、悟れば一実(第一義悉檀)である。四門について述べれば十二権四実(四悉檀の三権一実それぞれに四門がある)である。数としては三蔵教と同じとなるが、意義は天と地の違いである。三蔵教の十二権四実は、すべて権である。『法華経』はすべて実である。方等教と『般若』に異なる点を述べれば(注:ここに文はない)。このため、『法華経』に「ただこの上ない道を説き、真実の相を示すのみである」とある。この意味である。

さらに『涅槃』(=法華涅槃時の中の涅槃)について述べれば、『涅槃』は四教すべてを解釈している。またこれは三十権(蔵教、通教、別教のそれぞれ十妙)と十実(円教の十妙)である。数は、方等に似ているが、意義は全く異なっている。方等においては、別教と円教の二つは実に入り、蔵教と通教の二つは入らない。この『涅槃』は、四教すべてが実に入るのである。因においては三権一実となるが、果においては、四実となり、権はない。もし四悉檀について述べれば、十四権二実である。四門について述べれば、五十六権八実である。さらに因について述べれば五十六権であり、果について述べれば四実である。ただし、これは実のみであり、因に合わせて四実としているだけである(注:つまり因においては方等と同じだが、果においてはすべて実となるというのである)。これはすなわち四門より実に入る。果について述べれば、四実十二権(四教すべてに四悉檀があり十六となるが、その内、四教それぞれの第一義悉檀の四つが実となり、他の十二は権となる)。『法華』の意義も同じである。

このために知ることができる。あらゆる教えには同じく権と実があるが、それぞれの権と実は同じではない。あるいはすべて実であり、あるいはすべて権、またあるいは権と実が兼ね備わっている。これはすべて、相手の能力と情に合わせられているのであって、理法的には完全ではない。そこで、総合的に四教において権と実を判別すると次の通りである。三蔵教・通教・別教の三教について述べれば、これは権であり、円教を実とする。またあらゆる教えの権がまだ完全となっていないことを権とし、すでに完全となって開権顕実となることを実とする。この『法華経』はただひとつの完全な教えであるので実とし、また権を開くので実とするのである。

もし円教について述べれば、前の三教の三十麁を照らすことを権とし、十妙を照らすことを実とする。もし権を開いて完全とすることにおいて述べれば、三十麁を開いてすべて妙とすることを、ただ実とするのみである。このために妙という。もし理法を悟ることについて述べれば、理法自体には、権もなければ実もなく、何ら教えはない。子供を打つ真似をして導くように、権を説いて実を説くのである。これは麁である。理法はすなわち権もなければ実もない。このために妙というのである。

(注:以上をもって迹門の十妙が終わる)

法華玄義 現代語訳 150

『法華玄義』現代語訳 150

 

c.流通の利益について明らかにする

功徳利益妙について述べるにあたっての三つめは、「流通(るつう・教えが広められること)の利益について明らかにする」である。ここにおいて三つの項目を立てる。一つめは、師を出す、二つめは、法を出す、三つめは、利益を出す。

◎師を出す

経典を広める人は、凡人と聖人に通じていなければならない。法身の菩薩は、四弘誓願をもってその身を荘厳としている。この国土や他の国土、下の国土や上の国土に対して、権と実の七益・九益・十益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その法身を助けて、悟りの道を進ませる。

生身の菩薩も、この国土や他の国土に経典を広め、他の者たちに権と実の七益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その法身を助けて、生死の苦を減らし、しかし、それより上の国土に利益を与えることはできない。

凡夫の師は、またよくこの国土に経典を広め、他の者たちに権と実の七益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、五品弟子位を進ませる。このために『無量義経』に「病の導師がいる。こちら側の岸にいて、船を作って人をあちら側の岸に渡す」とある。これはこの意味である。

問う:凡夫はただ凡夫のために境を広め、凡夫に対して利益を得させるのだろうか。また聖人にも利益を得させるのだろうか。

答える:聖人に二種ある。一つめは小乗の聖人であり、二つめは大乗の聖人である。『法華経』に「もし真実に阿羅漢の位(=小乗)を得て、さらに滅度(めつど・完全な涅槃)を得たいと思って、余仏(よぶつ・説明は後に述べられる)に会えば、そこでそれを究めることができる」とある。南岳慧思は「初依(しょえ・最初の拠りどころとなる師)を余仏と名付ける。無明がまだ破られていないことを余として、よく如来の秘密の蔵を知り、深く円満な理法を悟っていることを仏と名付ける。仏の滅度の後に、真実に阿羅漢の位を得る者は、権と実に対して理解していない。もし初依に会えば、よく悟りを究めて相似即の利益を成就し、さらに進んで分真即の利益に入る」と言っている。この文は、凡夫の師が小乗の聖人のために経典を広めて利益を得させることを証明するのである。『法華経』に「六根清浄の人が教えを説くと、あらゆる方角の諸仏がみなこれを見ることを願い、説法がされている場所に集まって来る。すべての天龍は、この説法を聞いて、みな大いに歓喜する」とある。これもまた、凡夫の師が、偉大なる聖人のために説法することを証明している。

◎法を出す

経典を広めることは、明らかに聖人の言葉による。『法華経』には「もし衆生が信じ受け入れれば、まさに余の深い教えの中において教示し利益を与え喜ばせるべきである」とある。余とは方便を帯びている。「深い」とは中道を明らかにする。方便を帯びて中道を明らかにする教えは別教である。もしただ方便だけで中道を明らかにしなければ、通教と蔵教などである。『法華経』の文では、別教を用いて円教を助けることを認めている。しかし推測すると、またまさに通教を用いて円教を助けるべきである。また『法華経』に「さらに異なった方便をもって、第一義を助け顕わす」とある。どうして蔵教と通教を排除できようか。

ただ菩薩はすでに真実の智慧を得て、また権の意義を得ている。真実の智慧をもって権と混同せず、権は真実だとは言わない。ただ真実だけを広めても、衆生は信じないので、すべて真実のために権を施し、浅い意義をもって深い意義を助けるので、虚妄とはならない。これは権と実を並べて用いて経典を広めることである。『法華経』の「安楽行品」に「もし難問があれば、小乗の教えをもって答えず。ただ大乗をもって解説して、一切種智を得させるのである」とある。これはすなわちただ真実を用いて経典を広めることである。また「適宜に従って教えを説く」とある。これもまた権を排除しないことである。

今の時代の人は、教えを広める際に、あるいは大乗だけを用い、あるいは小乗だけを用いて、みな仏の真実の意義を得ていない。よく経典を広める者は、適宜に教えを与える。口では権を説くとしても、内心は真実の教えから外れていない。ただ衆生に対して権と実の七益を得させればよいのであるから、経典を広めるにあたってこだわりがない。

◎利益を出す

しかし、流通の利益は、『法華経』を序と正宗と流通の三段に分けた中の流通の段落を待たずに、まさにその利益が明らかにされている。正説の文の中で、すでに未来に経典が広められることにおける利益が示されている。『法華経』の「譬喩品」の後半や、「授記品」の末尾や、「法師品」の中に、みな『法華経』を広める功徳利益を明らかにしている。よく如来の滅度の後に、たった一句の偈でさえ聞く者に対して、最高の悟りを得る約束を与えている。ましてや経典を広める人はなおさらである。密かにたった一人に経典を説く者の功徳は多い。ましてや大衆に広く説く者はなおさらである。

法華経』の一句にでも随喜し、それを人に説き、またそれを聞いた人が人に伝えて、それが五十人めに至った随喜の功徳は、なお二乗の境界ではない。ましてや、最初に聞いて随喜する者の功徳はいかばかりであろうか。常不軽菩薩は『法華経』の一句を広めたために、六根清浄を得た。ましてや、経典のすべてを広める者はなおさらである。

五品弟子位の最初の「随喜品」の功徳は、無量億劫に五波羅蜜を行じた功徳を喩えとすることさえできないほど大きい。ましてや、五品すべてはいかばかりであろうか。あらゆる方角の空間に際限がないとしても、五品弟子位の人が経典を広めた功徳はそれよりも際限がない。『法華経』に「如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐る」とある。如来の教えはみな数えることは不可能である。ましてや、八万人の菩薩や千世界の微塵の数ほどの菩薩であっても、説くことは不可能である。しかも知ることも不可能である。ただ如来を除いて、すべて知る者はいない。

凡夫の師が経典を広めることは、凡夫に七益を与える。『法華経』に「この今日は閻浮提の人の病の良薬である。もしこの経典を聞けば、不老不死の者となる」とある。それは、老死の中において、老死の実相を知ることである。老死は果報の法則である。実相を知ることは、清涼(しょうりょう・この世の状況に影響されない理法的な次元を表わす言葉)の理性の妙の利益を得ることである。また果報の利益である。この『法華経』を保つために、安楽な国土に生まれ、蓮華の中にあって、貪欲に悩まされず、また十種の悩乱から離れることができ、菩薩の道を行じることができる。これをまた名字即の利益と名付ける。また観行即の妙である。また因を修す妙である。陀羅尼(だらに・教えを記憶する力)を得て、よく仮から空に入ることは、下・中・上の薬草の利益である。またこれは小樹の利益である。百千旋陀羅尼(ひゃくせんせんだらに・『法華経』の「普賢菩薩勧発品」で説かれる「三陀羅尼」の第二。教えを百千回説くことのできる力。第三が「法音方便陀羅尼」)」を得るのは、大樹の利益である。法音方便陀羅尼を得るのは、相似即の真実の利益である。もし一瞬でも聞くことができれば、即座に最高の悟りを究めることができる。これが真実の利益である。

また次に、人が水を求めて高原を掘り進めて、まだ乾いた土しか見ないのは、下・中・上の薬草の利益である。湿った泥を見るのは、小樹と大樹の利益である。水を得るのは、最実事の利益である。仏の滅度の後の五百年の間ですらこの利益を得る。ましてや、今の時代に『法華経』を広め、他の者を教化する者に、どうして七益がないことがあろうか。

法華玄義 現代語訳 149

『法華玄義』現代語訳 149

 

第二.近益近益を論じる

近益(ごんやく)とは、仏が悟りを開く寂滅道場に赴き、初めて悟りを成就して、教えを説き、生死の苦を減らす毒の太鼓と、道を増し加える天の太鼓を打って、衆生に利益を与え、『法華経』が説かれる直前までの利益についてである。『法華経』に至る前に限っては、利益もまた浅深の違いがある。煩悩が滅びることにおいても、遅早の違いがある。なぜなら、教えとはもともと聞く相手に合わせるものだからである。聞く相手には、三界の中の能力の高い者、低い者、そして三界の外の能力の高い者、低い者の四種がある。また教える教主にも、蔵教・通教・別教・円教の四種がある。みな法王と称し、王三昧を備え、自ら二十五有を破って、衆生に七益を与えることは、前に述べた通りである。

また、大乗小乗の経典に、仏は王三昧に入って、光を放って教えを説き、善道悪道のあらゆる衆生の果報の苦に利益を得させることを明らかにすることは、『阿含経』の中に説く通りである。「仏の光明を見て、仏の手に触れることを受けて、六道の苦患がすべて除かれる」とある。また『大品般若経』に「光を放って地獄の衆生を照らすと、その苦悩は即座に除かれ、他化自在天に生じる」とある。「苦悩は除かれる」とは、果の利益であり、「天に生じる」とは、因の利益である。『大品般若経』では「華葉の益」とある。

また、仏は光を放って、闇に閉ざされていた場所がすべて明らかとなる。その中にいた衆生は、お互いが見えるようになったので、「その中の衆生は瞬間的に生じたのだろうか」と思ったと『法華経』にある。これもまた果の利益である。

この因と果の利益は、四種の教主の仏が共通して施すものである。個別的にその利益を述べるならば、浅深の違いがある。つまり声聞は煩悩の本体を断じ、縁覚は習気を減らすのであり、これを中草と名付ける。

菩薩は煩悩を抑えて、衆生を教化する。このために『法華経』に「世尊と同じ境地を目指して、私も仏となって精進し禅定を行じよう」とある。これは上草と名付ける。またこれは三蔵教の教主の慈善根力の利益の相である。

法華経』に「あらゆる菩薩たちは、智慧が堅固であり、三界に精通して最上の教えを求める」とある。すなわち、声聞と縁覚と菩薩は、同じく無生を感じる。ただ、蔵教の析空観の智慧の利益があるのみではなく、さらに通教の巧みな体空観がある。これは小樹の増長の利益であり、通教の教主の利益の相である。

法華経』に「また禅定に住んで神通力を得る。諸法の空を聞いて、心が大いに歓喜する」とある。「禅定に住む」とは、九種の大いなる禅定に住むことである。「心が大いに歓喜する」とは、歓喜地の位に上ることである。(注:「行妙」の「出世間禅の総論」の項参照)。また「無数億百千の衆生を教化する」とあるのは、大樹の増長の利益である。ただ前の因と果の析空観と体空観の利益があるばかりではなく、分別道種智から一切種智の利益がある。これは別教の教主の利益の相である。

法華経』に、「今、あなたがたのために最も真実な教えを説こう」とある。これは前と同じ利益ではなく、無明を破って、仏性を顕わす究極的な最実事の利益である。これは円教の教主の利益の相である。

また次に、蔵教・通教・別教の利益は、劣っていて優れていない。そして優れているものが劣っているものを兼ねることは理解できるであろう。

また、五味の教えの喩えによれば、乳味の教えは因・果・大樹・最実事の四つの利益のみであり、小草・中草・上草・小樹の三草一木を明らかにしない。大乗の経典は声聞と縁覚の二乗の人の手には入らず、その人たちは、教えを聞いても耳の聞こえない人や口のきけない人のようであるためである。酪味の教えは、ただ果・小草・中草・上草の四つの利益があるのみである。生蘇味の教えは七益のすべてがある。熟蘇味の教えは、析空観の三草がなく、体空観などの七益がある。醍醐味はただ最実事の利益だけがある。前のあらゆる利益はみな麁であり、醍醐味はすなわち妙である。

寂滅道場から『法華経』に至るまでを、生身(しょうしん)の菩薩とし、ただ十益の中の八益までの利益を得て、十益の第九と第十の利益は得ていない。また「得る(=できる)」という意義があるのは、すなわち菩薩が法性身から分断生死に入って、願生・神通生・応生などの眷属となって、進んで無明を破り、残りの煩悩を断じて、すなわち第九と第十の利益を明らかにすることができるのである。このように、寂滅道場から『法華経』に至るまでは、概略的に十益とするのである。

問う:法身の菩薩は、応身仏の説法を聞いて、応身の中の利益にあずかり、また同時に法身の利益にあずかるのか。

答える:たとえば、鏡を磨けば、直ちに鏡が明瞭になって、物がよく映るようなものである。

また問う:応身が教えを聞いて利益を得て、法身も同じように利益を得るというならば、応身は病を表わすわけであり、同じように法身もまた病を表わすことがあるのか。

答える:この病はもし真実であったなら、応身が病めば、教えもまた病む。ただ応身の病は真実の病ではない。真実ではないので、応身に病がないので、法身にもまた病はない。またもし応身が病を現わすことが少ないならば、まさに知るべきである、法身の利益もまた少ない。もし応身が病を現わすことが広ければ、法身の利益もまた広い。ここで、あらゆる言葉をもって考察すれば、果がみずから利益を与えて、因は与えず、また因は利益を与えて、果は与えず、また共に利益を与えて、共に与えないこともある。これは現実の事柄である。理解すべきである。自ら破る利益、成就する利益、破って成就する利益、破らず成就しない利益もある。その破らず成就しない利益とは、前に述べた清涼の利益であり、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣の因は破る利益、最高の天の非想非非想天の因は成就する利益、その中間の世界は破って成就する利益である。

因の利益が自ら果の利益であり、果の利益が因の利益であるものがある。これは変易の因が果に変わる意味である。因の利益であって増道(悟りに進むこと)ではなく、果の利益であって損生(生死の苦を除くこと)ではなく、また因と果の利益であって、また因と果の利益ではないこともある。これは分段生死の果報の因と果である。因の利益であって同時に増道であり、果の利益であって同時に損生であり、因と果の利益になることがなく、因と果の利益になることがある。これは習因(しゅういん・修行して悟りという果を得るための原因となるものを指す)と習果である。真諦の利益であって、俗諦の利益ではないものは、二乗である。俗諦の利益であって、真諦の利益でないものは、蔵教の菩薩である。先に俗諦の利益であって、後に真諦の利益になるものも、蔵教の菩薩である。先に「真諦」の利益であって、後に「俗諦」の利益になるものは、通教の菩薩である。真諦と俗諦の利益であって、中道の利益ではなく、中道の利益であって、真諦と俗諦の利益ではないのは、別教である。真諦の利益がそのまま俗諦の利益であり、また中道の利益になるのが、円教である。

 

第三.法華経の利益を論じる

法華経』について見ると、七益がすべて備わっている。また区別があるようだが、区別はない。たとえば、芽と茎と枝と葉の成長は同じではないが、一つの地から生じているものであるというようなことである。七益は実に浅深の違いがあるが、すべて実相でないものはない。このために、区別があるようで区別はないのである。

あらゆる経典に区別があるのは麁の利益である。同じく『法華経』によれば、区別のない妙の利益である。あるいは、進んでさまざまな妙の利益に入り、あるいは位に立脚して妙の利益を成就する。進み入ることの利益とは、本来「その地において清涼を得る利益」であるが、さらに進んで大乗を発し、心は解けて明らかに清らかとなる。あるいは観行即の妙や相似即・分真即の妙に進む。本来は、人天の因の利益であるが、進んで相似即・分真即の位に入る。本来は小乗の学・無学の利益であるが、進んで無明を破り、分真即の妙の利益となる。たとえば、角笛に声を入れると大きくなるように、小乗を転じて大乗とする。通教別教の進んで入る利益はこれによって知るべきである。

位に立脚する利益とは、本来、麁の果である「その地において清涼を得る利益」であるが、そのままで理即の妙の利益となる。麁の因に立脚して、そのまま観行即の妙の利益となる。麁の学・無学の利益に立脚して、そのまま相似即の妙の利益となる。麁がそのまま妙となれば、進んで入る必要はない。通教・別教の利益はこれによって知るべきである。

進んで入る妙の利益は、すなわち麁の利益に相対して、妙の利益を明らかにすることである(=相待妙)。位に立脚する利益は、すなわち絶待妙の利益である。

あらゆる麁の利益をもって眷属を解釈すれば、果・因の二つの利益は、業生の眷属となる。中草・上草の二草小樹などは、願生・神通生の眷属となる。大樹の仏性を見ること以上の段階は、みな応生の眷属となる。

進んで入る利益と位に立脚する利益については、理即・名字即・観行即の妙は業生の眷属となり、相似即の妙は願生・神通生の眷属となり、分真即の妙は応生の眷属となる。

以上が『法華経』の利益である。