大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 155

『法華玄義』現代語訳 155

 

③本国土妙

法華経』に「それ以来、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化し、また他の国においても衆生を導き利益を与えた」とある。この「娑婆」とはすなわち「本時」の「凡聖同居土」である。「他の国」とはすなわち「本時」の「方便有余土」と「実報無障礙土」と「常寂光土」の「三土」である。これは「本時」の真実の「応身」の住むところである。「迹門」の中の国土ではない。

「迹門」の中の国土について述べると、それは一つではない。あるいは「この三千百億の歳月を統括するのは、凡聖同居土である」という。あるいは「西方に国土があり、無勝と名付ける。この国土のあらゆる荘厳については、なお安養国(極楽浄土のこと)のようである」とあるのは、「凡聖同居土」の浄土である。

あるいは「華王世界蓮華蔵海」(蓮華蔵世界のこと)というのは、「実報無障礙土」である。

あるいは『観普賢菩薩行法経』に「この仏の住むところを常寂光と名付ける」とあるのは、すなわち究極的な国土である。「寂光」とは、理法が鏡や器のように通じていることである。他のあらゆる国土はそれぞれ、鏡に映る像のように、器に盛られる飯のように、それぞれ異なっている。「業」の力に隔てられ、感じ見ることが同じではない。『維摩経』に「私の国土は清いけれども、あなたは見ることができない」とある。これは衆生の感じ見るところは違いがあって、仏国土に関係することができないためである。

法華経』に「今、この三界はみな私の所有である」とあるようなことは、あらゆる国土の清らかなところや汚れたところ、調伏すること、受け入れることなどは、みな仏の行ないであるということである。たとえば、多くの民は土地に住んでいるけれど、その土地は彼らの所有物ではなく、父が家を建てて、その父が去っても、その家は残っているようなものである。如来も同じである。衆生のために国土を作る。教化し終わって滅度する。仏が去ってもその国土は残る。これは仏の国土であって、衆生は関係しないのである。

また次に、「三変土田(さんぺんどでん)」とは、「凡聖同居土」の汚れを変じて、「凡聖同居土」の清浄を見せ、あるいは「方便有余土」の清浄を見せる。たとえば、『法華経』の「如来寿量品」に「もし深く信じて理解する者がいれば、仏は常に『法華経』を説いた耆闍崛山(ぎじゃくっせん)にあって、大いなる菩薩たちや声聞などの多くの僧侶と共にいるのを見る」とあるようなことは、これを指すのである。あるいは、「実報無障礙土」の清浄を見る。たとえば、娑婆国土はみな紺色の瑠璃であり、純粋にあらゆる菩薩たちだけがいるのを見るようなことである。あるいは「常寂光土」と見るのである。「法華三昧」の力をもって、あらゆる見え方をさせるのである。

次の三つの意義があるために、他の国土はすべて「迹」の国土であることを知る。一つは、今の仏の住む所であるためである。二つは最初から最後まで、あらゆる国土を作るからである。三つは中間を「権」として排除するからである。もしこの「本土」は今の仏の住む所でなければ、今の仏の住む所はすなわち「迹」の国土である。もし「本土」は一つの国土であり同時にすべての国土であるならば、最初から最後まで、あらゆる国土を作って、深浅の違いがあるはずである。今の国土以前と「本土」以後をみな中間と名付ける。中間をすべて「方便」とする。どうして、今の国土は「迹」でないことがあろうか。

「本」より「迹」を出し、「迹」に執着して「本」とするならば、「迹門」も「本門」も知らないことになる。今、「迹」を排除して「本」を指す。「本時」に住むところの「凡聖同居土」「方便有余土」「実報無障礙土」「常寂光土」の「四土」とは、「本国土妙」である。「迹」の「本」は「本」ではない。「本」の「迹」は「迹」ではない。「迹」と「本」が異なっているといっても、不思議の次元で一つである。

 

④本感応妙

法華経』に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、その信心などの能力の高低を観じる」とある。「衆生が来る」ということは、「法身」に働きかけることである。「私は仏の眼をもって観じる」とは、「慈悲」をもって行って応じることである。「能力の高低」とは、「十法界」の目に見るものや目に見えないものの善悪の不同を指す。これは「本時」に「二十五三昧」を証する「感応」を指す。「迹」の中の「感応」ではない。「迹」の「応」は多種である。あるいは「一日三回に禅定に入って、導くべき衆生を観じる」とある。これは「三蔵」の仏であり、「分段穢国」の「九法界」の衆生を照らす「析空観」の「感応」である。

あるいは「俗に同化してしかも真であるならば、出入りすることを用いず、自然とよく知ることができる」とある。これは「通教」の仏が、「分段浄国」の「九法界」の衆生を照らす「体空観」の「感応」である。

あるいは「王三昧を用いて、歴別に十法界の衆生を照らす」とある。これは「別教」の仏が「方便有余土」を照らす次第の「感応」である。

あるいは「王三昧を用いて、一度に十法界の衆生を照らす」とある。これは「円教」の仏が「十法界」の「常寂光土」の衆生を照らす円融の「感応」である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる「感応」はすべて「迹」であり「本」でないことを知る。一つは、今の世で成就したためである。二つは不同であるからである。三つは「権」として排除するからである。「寂滅道場」の菩提樹の下で、初めて偏りのあるものと円満なものが成就するので、「権」であることを知る。あるいは、前に修行し後に学び、深浅の違いがある。このために「権」であることを知る。中間をすべて「方便」として排除する。どうして、「迹」でないことがあろうか。「本」より「迹」を出す。どうして「迹」に執着して「本」とするのだろうか。「迹」を排除して「本」を顕わす。「迹」を捨てて「本」を指すべきである。「本」の「迹」、「迹」の「本」であるために、不思議の次元で一つである。

また次に、あるいは「本」の「感」は「麁」であり、「迹」の「感」は「妙」である。あるいは「本」の「感」は「妙」であり、「迹」の「感」は「麁」である。共に「妙」であり、共に「麁」である。「応」もまた同様である。また「本」の「感」は広く、「迹」の「感」は狭い。あるいは「迹」の「感」は広く、「本」の「感」は狭い。共に狭く、共に広い。「応」もまた同様である。また今と昔を取って、「本」と「迹」を判断するのみである。「麁」と「妙」と「広」と「狭」について述べているのではない。

 

⑤本神通妙

法華経』に「如来の秘密の神通の力」とある。また「あるいは自らの身を示し、また他の身を示し、自らのこと、他のことを示す」とある。「自らの身、自らの身を示す」とは、円融の「神通力」である。「他の身、他のことを示す」とは、偏った「神通力」である。「秘密」とは、「妙」である。偏ったものも円融のものも、みな「妙」である。これは「本時」の「神通力」を指す。「迹」の「神通力」ではない。

「迹」の「神通力」は多種である。あるいは、「八背捨、八勝処、十四変化(八背捨、八勝処、十一切処によって得られる十四の報いのこと)によって、六神通を得る。外道以上であり、二乗に勝る」とある。これは「三蔵教」の仏の「神通力」である。

あるいは「体空観の無漏の智慧によって、六神通を得る。八背捨による者に勝る」とある。これは「通教」の仏の「神通力」である。

あるいは「前の六神通をまとめて五とし、中道によって無漏の神通を発する」とある。この六神通は「別教」の仏の「神通力」である。

あるいは「中道の無記化化禅に六神通とすべての変化(へんげ)を備える。滅尽定を起こさず、あらゆる威儀を現わし、語るも黙るも妨げなく、動静の二つの理法はない」とある。また『法華経』の中の六瑞(ろくずい・『法華経』の「序品」にある六つの瑞相)と変土(へんど・『法華経』における場面の変化)などのようなものは、「円教」の仏の「神通力」である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる「神通力」は「迹」であり「本」でない。一つは、今の世で得たものであり、二つは近い時期に修したものであり、三つは疑いを払うためのものだからである。上に説いた通りである。また四句において考察することも先に説いた通りである。しかし、「本」より「迹」を出すのであれば、「迹」はすなわち「本」ではない。「迹」を排除して「本」を顕わせば、「迹」を捨てて「本」を指すべきである。「本」の「迹」、「迹」の「本」であるために、不思議の次元で一つである。

 

⑥本説法妙

法華経』に「彼らは私が教化した者たちであり、大いなる悟りを求める心を起こさせた。今、みな退かない位に住んでいる」とある。「私が教化した者たち」とは、まさしく説法である。「大いなる悟りを求める心を起こさせた」とは、小乗の説法ではないことがわかる。これは「本時」の「権」を捨てて「実」を説くことを指す。「迹」の説法ではない。

「迹」の説法は種類が多い。もし『涅槃経』によるならば、始めと最後の「乳味」と「醍醐味」は、牛から出るものであると明らかにしている。もしこの意義によって考察するならば、中間の「酪味」「生蘇味」「熟蘇味」もまた牛より出たものである。なぜなら、普通の牛が普通の草を食べれば、ただよく「乳味」の乳を出すだけである。特別な草を食べないために、他の四つの「味」の乳は出さない。良い牛は健康であり、高地にも湿地にもいない。酒粕や麦の殻などは食べない。五つの「味」が円満に出せる要素は牛に本来備わっている。食べ物によってそれらは出るのである。

もし普通の草を食べるならば、絞れば「乳」を出す。「下」の特別な草を食べるならば、絞れば「酪」を出す。「中」の特別な草を食べるならば、絞れば「生蘇」を出す。「上」の特別な草を食べるならば、絞れば「熟蘇」を出す。「上上」の特別な草を食べるならば、絞れば「醍醐」を出す。

牛より「五味」を出すことは、「漸法」を喩えているのである。牛より「醍醐味」を出すことは、「頓法」を喩えているのである。牛より「酪味」「生蘇味」「熟蘇味」の「三味」を出すことは、「不定法」を喩えているのである。仏もまた同じである。偏っていることや円満なことが満足され、仏の心の中にある。衆生が仏を動かすことを許すならば、その説法は同じではない。善の衆生が動かせば、人天の教えを出し、「析空観」の衆生が動かせば、声聞と縁覚の「二乗」の教えを出し、「体空観」の衆生が動かせば、巧みな教えを出し、歴別の衆生が動かせば、「漸次(段階的であること)」の教えを出し、「円頓」の衆生が動かせば、「無作」の教えを出す。

また、二種の衆生が仏を動かせば、「熟蘇味」と「醍醐味」の教えを出し、一種の衆生が仏を動かせば、「酪味」の教えを出し、また四種の衆生が動かせば「酪味」「生蘇味」「熟蘇味」「醍醐味」の四味を出して「乳味」を除き、また三種の衆生が動かせば「生蘇味」「熟蘇味」「醍醐味」を出して、「乳味」「酪味」を除き、また一種の衆生が動かせば「醍醐味」を出して他の四つの味を除く。

また次に「三蔵教」の道場で得るところの法は、「乳」が牛にあるように、道場を立って「乳味」の教えを説く。「通教」の仏の道場で得るところの法は、「酪」が牛にあるように、道場を立って「酪味」の教えを説く。「別教」の仏の道場で得るところの法は、「五味」が共に牛にあるように、道場を立って、次第の「五味」の教えを説く。「円教」の仏の道場で得るところの法は、「醍醐」が牛にあるように、道場を立って、「醍醐味」の教えを説く。

問う:『涅槃経』に「乳がゆを食べてそれ以上することがないようなものである」とある。まさにこれは「乳味」の教えのことであろう。

答える:乳には種類が多い。「麁」の牛が出す乳は、害をなす。「善」の牛が出す乳は、最も良い乳である。

問う:乳に多種あるならば、醍醐も一つではないだろう。

答える:経典に、阿羅漢や縁覚をもって「醍醐」としているものもある。このために優劣を知る。この中に大いに意義がある。よくこれを熟慮すべきである。

次の三つの意義があるために、考察するならば、以上のあらゆる説法は、「迹」であり「本」でない。一つは、今の世で完成されたものであり、二つは初めて説かれたものであり、三つは中間を「権」として排除する。中間に完成され、中間に説かれるものは、なお「方便」である。ならばどうして今の世で完成され、今の世で説かれたものが、「迹」でないことがあろうか。「迹」に執着すれば共に失い、「迹」を排除すれば共に理解できる。「迹」ではなく「本」ではなく、不思議の次元で一つである。

まあ次に、すでに説かれたものを「迹」とし、今説くものを「本」とする。すでに説かれたものは「本」、今説くものは「迹」、また共に「迹」共に「本」である。あるいは「実」が「本」であり「権」は「迹」の四句。本体の働きから事象と理法の四句(注:この最後の箇所は未完成と思われる)。

法華玄義 現代語訳 154

『法華玄義』現代語訳 154

 

第五.広釈

「本門の十妙」の解釈における第五は、「広釈」である。「本門の十妙」の各項目について詳しく述べる。「本」がなければ「迹」が下されることはない。もしよく「迹」を理解すれば、すなわちまた「本」も知る。しかしまだ理解できない者のために、さらに重ねて分別して説く。ただ「本」の極みにある「法身」は、微妙深遠である。仏がもしそれを説かなければ、弥勒菩薩でさえ理解できない。どうして下の世界にいる者たちが理解できようか。どうして凡夫が理解できようか。しかし、父母が亡くなることは見届けねばならないと同様に、妙来の功徳は知らなければならない。ここで概略的に経典の趣旨によって、その功徳に思いを寄せて述べる。

 

①本因妙

「本因妙」とは、『法華経』に「私が昔、菩薩の道を行じていた時に成就した寿命」とあるのは、「慧命」のことであり、すなわち「本時」の「智妙」のことである。「私が昔行じていた」とあるのは、「行」とは進むことで「本因妙」のことである。「菩薩の道の時」とは、菩薩は修行中の人であるので、「位妙」を表わす。この経文全体でこの「智妙」「行妙」「位妙」の「三妙」を証する。「三妙」はすなわち「本時」の「因妙」であり、「迹門」の「因」ではない。

「迹門の十妙」における「因」は多種である。あるいは『大智度論』に「昔、(今の釈迦は)陶師となって、前の釈迦仏に会い、草、燃えている灯火、砂糖水の三つをもって供養した。そして将来、父母の名前、弟子の名前、侍人の名前までも、すべて釈迦仏と同じ名前の仏となる」という誓願を立てた。すなわち、これは測ることができないほど昔の初めての発心である。煩悩を断じることについて明らかにされていないので、「三蔵教」の行の「因」の相と知る。

あるいは、ある文に「昔、婆羅門の学生となって、然燈仏に会い、五華を散じて供養し、髪の毛を敷いて足の泥をぬぐい、身を虚空に踊らして、無生法忍を得た。仏はそのため授記を与え、釈迦文と名付けた」とある。また『大品般若経』に「華厳城の中で授記を得る」とある。意義は同じである。「煩悩」を断じることを説いているので「通教」の仏の「因」の相である。

あるいは、『悲華経』に「昔、宝海梵志(ほうかいぼんじ)となって、刪提嵐国(せんだいらんこく)の宝蔵仏の所で、大いに精進し、あらゆる方角の仏に華を送って供養した」とある。そして宝海梵志の子が出家して悟りを開いた。また宝海梵志は国王に勧めて出家させ、宝蔵仏はその国王に授記を与えた。それが阿弥陀仏であり、宝蔵仏はその師である。この功徳は不可思議である。このために、これは「別教」と「円教」の修行の「因」の相である。

次の「三義」のために、このあらゆる「因」はすべて「迹門」の「因」であることを知る。すなわち、第一に昔と言っても近い過去である。第二に浅深の違いがある。第三に退けられるからである。今の世の前、そして「本成」の後、すなわち中間の修行はすべて「方便」である。このために、「迹門」の「因」であることを知る。もし「迹門」の「因」を「本門」の「因」としてしまえば、「迹門」も「本門」も知らないことになる。天にある月を知らずに、池に映った光、月に生えているとされる桂、もしくはその輪を見ているだけのようなものである。光は「智妙」を喩え、桂は「行妙」を喩え、輪は「位妙」を喩える。もし「迹門」の中のこの「三妙」を知って、「迹門」を退けて「本門」を顕わせば、すなわち「本地」の「因妙」は、影から目を離して天を指し示すようなものであると知る。どうして盆の水に映った星だけを見て、天の川を仰がないのか。ああ、愚かな者にどうして道を論じられようか。

もしこの意義を得れば、「迹門」の「本」は「本」ではなく、「本」の「迹」は「迹」ではないことを知る。「本」と「迹」は異なっているといっても、不思議な次元で一つである。

問う:『法華経』に「昔(=本)、菩薩の道を行じた時」とあるのは、まさにこれは「初住」の「位」において真実の道を得る時のことであろう。中間はまさに他の行の「位」における道を進め煩悩を断つ段階であるはずである。『法華経』の「寂滅道場」はまさに最高の「位」である「妙覚」である。したがって、「妙覚」の「本」を顕わすならば、まさに昔の「初住」を指すべきではないか。これしかないのではないか。

答える:経文においても意義の上においても、それは言えない。『法華経』に「すべての諸仏のあらゆる道の法を行じる」とある。また「具足してあらゆる道を行じる」となる。すべての「因」を具足して備えているので、「本因」である。「初住」の「位」はすべてを備えているとは言えない。このために「本因」ではない。また中間の「果」はすべて「権」である。ましてや今の「寂滅道場」の「果」は、どうして「実」とすることができようか。また中間の「果」も「権」として結局退けられるならば、中間の「因」はなぜ「実」の「因」であろうか。このために、この問いの内容は不可である。

 

②本果妙

法華経』に「私が成仏してから今まで、非常に大いに久遠である」とある。「私」とはすなわち「真性軌」である。「仏」とは悟りの義であり、すなわち「観照軌」である。「今まで」とは、「如実」の道に乗じて、それによって悟りを成就する。すなわち「応」を起こすのであり、「資成軌」である。この「三軌」は成就して非常に長い期間が経過している。すなわち「本果妙」である。

「本果」が円満して、久遠の昔にある。今の「迹」が成就して「本果」となるのではない。「迹」が成就すれば、一種ではない。あるいは「菩提樹の下に坐って、三十四心(四教の蔵教の八忍・八智・九無碍・九解脱を合わせて三十四心という)に見惑と思惑を断じ、明らかに大いに悟り、世間と出世間のすべての諸法を覚知する。これを仏と名付ける。ただこの仏のみ存在し、あらゆる方角の仏はない。過去現在未来の三世の仏は、すべて他の仏であり、私の分身ではない」という。これは「三蔵教」の「仏果」である。

あるいは「菩提樹の下で天衣を座として、悟りを開く瞬間の智慧をもって、他の習気を断じて成仏することができた」とある。『大品般若経』では、「共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る智慧)」を説く時、あらゆる方角に千の仏が現われ、質問する人は須菩提帝釈天などとする。これは他仏であって、私の分身ではない。これはすなわち「通教」の仏の「果」が成就した相である。

あるいは「寂滅道場で七宝華を座として、身は蓮台にふさわしく、千の葉の上にいる各菩薩たちに、さらに百億の菩薩がいる。すなわち全部で千百億の菩薩たちがいる。あらゆる方角に仏の眉間の白毫と分身の仏の白毫から光を放つ。白毫は蓮台の菩薩の頂に入り、分身の仏の光は華葉の菩薩の頂に入る。これは法王の職位を得ることである。諸仏の法の底まで究め、成仏することができる」とある。華台を「報仏」と名付け、華葉の上にいる仏を「応仏」と名付ける。「報仏」「応仏」は、ただ関係性があるだけであり、相即することはできない。これは「別教」の仏の「果」が成就した相である。

あるいは、「道場において虚空をもって座とし、一つが成就することはすべてが成就することである。毘盧遮那仏はすべての場所に遍く存在し、廬舎那仏と釈迦の成仏もまたすべての場所に遍く存在する。法身である毘盧遮那仏と、報身である廬舎那仏と、応身である釈迦仏の三仏が具足して欠けたところはなく、三仏相即して一つとなり異なるところはない。『法華経』において、八つの各方角に、それぞれ四百億那由他の国土に釈迦を安置することは、すべてこれは毘盧遮那仏である」という。『観普賢菩薩行法経』に「釈迦牟尼毘盧遮那仏と名付ける」とある。これはすなわちこれは「円教」の仏の「果」が成就した相である。

次の三つの意義があるために、このあらゆる「果」はみな「迹門」の「果」であることがわかる。一つは今の世に初めて成就するためであり、二つは浅深の違いがあるためであり、三つは中間を「権」として排除するためである。

もしこれが「本果」であるなら、なぜ今日、初めて成就するのだろうか。「本果」においては、一つの果はすべての果である。なぜ前後に差別があって、不同なのだろうか。今の世より前の「本」が成就した後、百千万億に「因」となる修行を通して「果」を得て、何度も生まれ変わることを現わすことがすべて中間であるならば、「方便」として排除する。釈迦が悟りを開いた寂滅道場の菩提樹も、なぜ「迹」でないことがあろうか。もし「迹」の「果」に執着してそれを「本果」とすれば、「迹」も「本」も知らないことになる。「本」から「迹」が現わされることは、月が水に映るようなものであり、「迹」を排除して「本」を顕わすことは、影から目を離して天を仰ぐようなものである。まさに今成就した「果」はみな「迹」の「果」であるとして排除し、久遠の昔に成就した「果」が「本果」であるとするべきである。このように理解すれば、中間の「果」についての疑いはたちまちなくなる。仏の寿命が非常に長いということに対する信心は、その意義も明らかである。「迹」の「本」は「本」ではない。「本」の「迹」は「迹」ではない。「迹」と「本」が異なっているといっても、不思議の次元で一つである。

法華玄義 現代語訳 153

『法華玄義』現代語訳 153

 

A.4.2.b.②.(2).Ⅱ.本門の十妙を明らかにする。

第二に、「本門」の「十妙」とは、「本因妙」「本果妙」「本国土妙」「本感応妙」「本神通妙」「本説法妙」「本眷属妙」「本涅槃妙」「本寿命妙」「本利益妙」の十種類である。

そして、この「本門の十妙」の解釈において、また十の項目を立てる。第一に「略釈」、第二に「生起の次第」、第三に「本迹の開合を明らかにする」、第四に「文を引いて証する」、第五に「広釈」、第六に「料簡」、第七に「麁妙を論じる」、第八に「権実を明らかにする」、第九に「利益」、第十に「観心」である。

 

第一.略釈

「本門の十妙」の解釈における第一は、「略釈」である。「本門の十妙」の各項目について概略的に述べる。

第一の「本因妙」とは、「本初(ほんじょ・仏が悟りを求めようとした最も初めの時を指す。これは実際、人の智慧では理解できないほどの昔のことである。それが釈迦の生涯に具体的に人の智慧で理解できる形で表現されているとする)」において、悟りを求める心である「菩提心」を発して、菩薩の道を行じて修したところの「因」のことである。十六王子が大通智勝仏の時に『法華経』を広めて結縁するようなことは、これは中間の所作であって、「本因」とは言わない。娑婆世界を擦って墨とし、東に進みながら千の世界を過ぎた時に一点を下し、下した世界と下さない世界をすべて粉々にして塵として、その一つの塵を一劫として数えた歳月に、さらに百千万億那由他劫を過ぎた遠い昔のことである。二度とこの世に生まれ変わらない段階まで進んだ弥勒菩薩は、すべての実在について知り尽くす「道種智」をもって、ただすべての世界の数を数えても知ることができない。ましてや、その世界を結局は塵にした数など、どうして知ることができるだろうか。ただ如来だけが、巧みな喩えを用いて、その非常に遠い過去の相を顕わす。まして、この世の「智慧」をもって、巧みに計算できるだろうか。『法華経』に「私が仏の眼をもって、その久遠(くおん・この非常に長い時間を指す言葉)を見ると、なお今のようである」とある。ただ仏だけがよくこの久遠を知ることができる。その他のことはすべて「迹」の「因」であって、「本因」ではないのである。

もし中間の「因」に留まってしまえば、後に信じることが難しくなる。このために『法華経』において「迹」を除いて疑いを排除している。それは「権」であって「実」ではない。「私がもと菩薩の道を行じる時」とある時は中間の時ではない。これ以上に遠い昔に行じる道のことを「本」とするのである。これがすなわち「本因妙」である。

次の「本果妙」とは、「本初」に行じるところの「円妙」の「因」をもって、「常楽我浄」を悟り得て究めることを「本果」という。「寂滅道場」の廬舎那仏の成仏を指して、「本果」とはしない。また、中間の「果」を指して「本果」とはしない。ましてや、廬舎那仏が初めて成仏することをどうして「本果」とするだろうか。ただ成仏してから今まで、非常に遠く昔の成仏の「果」を指して、「本果妙」というのである。

第三の「本国土妙」とは、「本初」にすでに「果」を成就していれば、必ずその仏の国土がある。今、迹仏(しゃくぶつ・仏が相対的な次元に現われた姿)は浄土と穢土が同時にある「凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)」にある。あるいは、「方便有余土」と「実報無障礙土」と「常寂光土」の「三土」にある。中間にはまた以上挙げた合計「四土」がある。本仏(ほんぶつ・絶対的次元にある仏)にもまた国土があるはずである。ではどこにあるのだろうか。『法華経』に「成仏してから今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している」とある。この経文によれば、実に今日の迹仏の娑婆世界ではなく、また中間の「権」の「迹」の国土でもない。すなわちこれは「本」の娑婆世界であり、これが「本国土妙」である。

第四の「本感応妙」とは、すでに「果」を成就していれば、その「本」の時に証する「二十五三昧」、「慈悲」「四弘誓願」など、「機」と「感」が互いに関係し合うことにおいて、「寂滅」のようで、よく照らす。そのため「本感応妙」というのである。

第五の「本神通妙」とは、また昔の時に得た「無記化化禅」と、同じく「本因」の時のあらゆる「慈悲」が合わさって、施し教化するところの「神通」のことである。最初に悟りに導きやすい衆生を動かすために「本神通妙」というのである。

第六の「本説法妙」とは、すなわち昔に初めて道場に坐し、初めて悟りを成就し、初めて教えを施した「四無礙弁(しむげべん・仏が何ら妨げなく教えを語る四つの能力のこと。言語を理解する①法無礙弁、教義内容を理解する②義無礙弁、あらゆる言語に精通する③詞無礙弁、巧みに教えを説く④弁無礙弁=楽説無礙弁)」をもって説くところの教えを「本説法妙」というのである。

第七の「本眷属妙」とは、「本時」の説法にあずかった人々のことである。『法華経』に記されているところの、弥勒菩薩でさえ知ることのできない「下方」の世界にいる菩薩たちは、まさにこの「本眷属」である。

第八の「本涅槃」とは、「本時」に証するところの「断徳涅槃(だんとくねはん・煩悩を断じ尽くした涅槃)」のことである。またこれは「本時」の「応」が、「凡聖同居土」と「方便有余土」の二土にあって、縁があれば悟りに導き、そして「滅度」に入ると言うことは「本涅槃妙」である。

第九の「本寿命」とは、すでに「滅度」に入ったと言う以上、「本仏」にも寿命の長短、遠い過去や近い過去というものがあるわけであり、それを「本寿命妙」という。

第十の「本利益妙」とは、「本仏」の「業生」「願生」「神通生」「応生」の「眷属」で、最終的に得る「利益」が「本利益妙」である。

 

第二.生起の次第

「本門の十妙」の解釈における第二は、「生起の次第」である。この十種の意義は、衆生の円に応じて説かれており、経典の各文に散見できる。したがって、この十種を上記の順序で説く理由をここに述べる。

「本因妙」を最初に置く理由は、必ず「因」によって「果」が生じるからである。そして「果」が生じれば、「国土」がある。その国に究極の「果」があるために、衆生を照らす。それによって衆生が動けば、教化を与える。教化を与える時、神通がある。神通によって道が開かれれば説法をする。説法を与える対象は眷属である。眷属が悟りを開けばそれは涅槃である。涅槃が成就する時、寿命の長短が現われる。長短の寿命が生じさせる利益については、仏の滅度の後の「正法」「像法」などの利益がある。

このような意義は無量であるが、「本門の十妙」の十種としてまとめるために、次第を設けたのである。

 

第三.本迹の開合を明らかにする

「本門の十妙」の解釈における第三は、「迹門の十妙」と「本門の十妙」の関係性について述べる。「迹門の十妙」の中では、「因」は「境妙」「智妙」「行妙」「位妙」と開いて、「果」は「三法妙」として合わさる。「習果」の「本果妙」、「報果」の「本国土妙」「本涅槃妙」「本寿命妙」が合わさって「三法妙」となるのである。「本門の十妙」の中では、「因」は「境妙」「智妙」「行妙」「位妙」は「本因妙」として合わさり、「果」は「本果妙」「本国土妙」「本涅槃妙」「本寿命妙」と開く。「習果」の「本果妙」が開いて、「報果」の「本国土妙」を明らかにするのである。このように同異を述べるのは、意義の便宜によって、互いに取捨することがあるからである。

「迹門の十妙」の中では、詳しく「境妙」「智妙」「行妙」「位妙」を明らかにする。「本門の十妙」の中では、概略的に述べて、みな「本因妙」としている。意義を理解すれば、その「開合」を知るであろう。「本果妙」とは、すなわち「迹門の十妙」の中の「三軌妙」である。「本感応妙」「本神通妙」「本説法妙」「本眷属妙」は、名称的には「迹門の十妙」と同じである。「本門の十妙」に「本涅槃妙」「本寿命妙」として開くのは、久遠の諸仏の燈明仏、迦葉仏などの仏は、みな『法華経』において「涅槃」に入っているからである。その意義を考えると、本仏は必ず浄土におり、衆生も清浄である。また過去の事柄は成就したので「涅槃」において「本涅槃妙」「本寿命妙」として開くのである。「迹門の十妙」の中にこの二つの「妙」がないのは、釈迦は『法華経』において「涅槃」を説くといっても、『法華経』の中では滅度していない。このことは『涅槃経』に記されている。そのために「迹門の十妙」の中に説かないのである。「本利益妙」は「迹門の十妙」と同じである。

 

第四.文を引いて証する

「本門の十妙」の解釈における第四は、経文を引用して証する。経文と言っても、他の経典や同じ部類の経典の経文は引用しない。ただ『法華経』の「本門」の経文を引用して、この十種を証する。

しかし、『法華経』の「薬王菩薩本事品」には、昔、『法華経』には大河の砂の数をさらに数千兆倍したほどの偈があったと記されている。今の『法華経』の仏は、霊鷲山において、八年間にわたって説法したことが記されている。インドの原典のことは、どうして完全に知ることができるだろうか。この中国の辺鄙な場所では、その大意を知るだけである。人は『法華経』の七巻(注:現在流通している『法華経』は八巻である)を「小経」としている。インドの原典は膨大である。どうして語ることができるだろうか。しかし、それに比べれば数紙に過ぎない中であっても、この十種の証明は備わっている。経文に「私は昔、菩薩の道を行じる時、成就した寿命はまだ尽きていない」とある。これはすなわち「本因妙」を行ずることである。

経文に「私が実に成仏してから数えきれないほどの年月が経過している」とある。また「私が実に成仏してから今まで、久遠であることはこのようである。ただ方便をもって衆生を教化して、この説法をした」とある。これはすなわち「本果妙」である。

経文に「私は娑婆世界において、最高の悟りを得て、このあらゆる菩薩を教化し導いた」とある。また「その時から今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している。また他の場所においても衆生を導き利益を与えている」とある。この国土はまた今の娑婆世界ではない。これはすなわち「本国土妙」である。

経文に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、彼らの信心などの能力の高低を観じる」とある。これはすなわち「本時」に衆生を照らす「智慧」である。これは「本感応妙」である。

経文に「如来の秘密の神通力」とある。また中間(注:本からすでに派生している期間、あるいはその期間についての文のこと)の文に「あるいは自身の身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは自分のことを示し、あるいは他人のことを示す」とある。すなわちこれは形を「十法界」に現わして、あらゆる姿となることである。「本」においても同様である。これは「本神通妙」である。

経文に「この多くの菩薩たちは、すべて私が教化した者たちであり、仏道に対する大いなる心を起こさせたのである。今、すべては退くことのない位にあり、私の道の教えを修学している」とある。また中間の文に「あるいは自分のことを説き、あるいは他人のことを説く」とある。「本」においても同様である。これは「本説法妙」である。

経文に「この多くの菩薩たちは、身体はみな金色であり、下方の空中に住む。これらは私の子である。私は久遠の昔から今まで、彼らを教化した」とある。これは「本眷属妙」である。

経文に「またこれを涅槃に入ると言う。このようなことはみな方便によって分別する」とある。また「今、本当に滅度することではないが、まさに滅度すると説く」とある。過去からの仏と衆生の縁が尽きれば、滅度すると説く。中間にすでに「涅槃」を称えるのであれば、「本」もまた同様である。すなわち「本涅槃妙」である。

経文に「あらゆる所に自分の名前の不同、年齢の大小を説く」とある。「年齢」とは「寿命」のことであり、「大小」とは長短、常、無常のことである。中間にすでにこのことがあれば、「本」の寿命もまた同じである。すなわち「本寿命妙」である。

経文に「また方便をもって微妙の教えを説き、よく衆生歓喜の心を起こさせる」とある。これは中間の「利益」である。また「仏の寿命の劫数が非常に長いことはこのようなことであると説くことを聞いて、数えきれないほどの衆生は大いに利益を得た」とある。これは「迹門」の中の「利益」である。「迹門」と中間とすでにこのようであるならば、「本」もまた同様である。すなわちこれは「本利益妙」である。

このように、十種の根拠は経典によることであり、人によって造られたものではない。

法華玄義 現代語訳 152

『法華玄義』現代語訳 152

 

A.4.2.b.②.(2)本門の十妙

 

「妙」について詳しく述べるにあたっての第二は、「本門」における「十妙」を明らかにすることである。ここで二つある。まず、Ⅰ.「本」と「迹」について解釈し、第二にⅡ.「本門の十妙」を明らかにする。

 

A.4.2.b.②.(2).Ⅰ.本門と迹門について解釈する

ここにおいて、六つの項目を立てる。そもそも、次の六種(①~⑥)のように、「本」と「迹」という言葉の用いられ方はさまざまである。①「本」とは「理本」のことである。すなわち「実相一究竟」の道である。「迹」とは、あらゆる実在の「実相」を表現する理法的なことを除いて、その他の事象的なことをすべて「迹」と名付ける。また、②理法と事象をすべて「本」とし、理法や事象を言葉として説くことをみな「教迹(きょうしゃく)」と名付けるのである。また③理法と事象の教えをみな「本」とし、その教えを受けて修行することを「迹」とする。人が訪れた場所には必ず足跡があり、その足跡をたどれば、その場所に到達するようなものである。また、④修行においては体験的に証が立てられるので、その体験を「本」とする。その体験によって働きを起こせば、その働きを「迹」とする。また、⑤実際に体験的に得た働きを「本」とし、それによって他の者たちを教化する働きを「迹」とする。また、⑥現在に顕わされた事柄を「本」とし、過去にすでに説かれた事柄を「迹」とする。この六つの意義をもって、「本」と「迹」を明らかにする。

①理法的なことと事象的なことについて「本」と「迹」を明らかにする

維摩経』に「無住の本からすべての実在が立つ」とある。「無住」の理法は、すなわち本時(ほんじ・仏に関する最初の時という意味)の「実相真諦」である。すべての実在は、この本時の「真諦」があらゆる現象となって現わされた「俗諦」である。「実相」の真実の「本」によって、「俗諦」が現わされ、この「俗諦」である「迹」を通して、真実の「本」が顕わされるのである。「本」と「迹」が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。このために、『法華経』に「すべての実在を観じれば、空であり実相である。ただ因縁をもって事象的に存在するように見え、真理を知らない見解によって生じているように見えるのである」とある。

②理法の教えにおいて「本」と「迹」を明らかにする

本時の次元において照らされる「真諦」と「俗諦」の「二諦」は、共に言葉で表現することができないので、みな「本」と名付けるのである。昔、仏は「方便」をもってこれを説き明かした。すなわち「二諦」の教えである。この教えを「迹」と名付ける。もし「二諦」の「本」がなければ、この二種の教えはない。もし教えという「迹」がなければ、どうして「二諦」の「本」を顕わすことができようか。「本」と「迹」が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「この教えは示すべきではない。言葉の相は寂滅している。方便の力をもって、五人の僧侶に説いたのである」とある。

③教えと修行について「本」と「迹」を明らかにする

最初に昔の仏の教えを受けてこれを「本」とすれば、「因」である修行を実践して、悟りである「果」を得る。教えによって理法が明らかとなり、行を起こすのである。行によって教えに合致し、また理法を顕わすことができる。「本」と「迹」が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「諸法は本来、常に自ら寂滅の相である。仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏となることができる」とある。

④体験的証と働きについて「本」と「迹」を明らかにする

昔、最初に修行して理法に合致することによって、「法身」を証することを「本」とする。初めて「法身」の「本」を得るために、身体に合わせて「応身」の働きを起こす。こうして「応身」によって、「法身」を顕わすことができる。「本」と「迹」が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「私は仏となってから今まで、非常に長い年月を経過していることは、ここに説いた通りである。ただ方便をもって衆生を教化して、このような教えを説いているのみである」とある。

⑤働きと教化について「本」と「迹」を明らかにする

最初の本時の次元を実とし、その実において「法身」と「応身」の「二身」を得ることを「本」とする。その後の時間において、数多くの生まれ変わりを現わし、その「法身」と「応身」をさまざまな形で施すことを「迹」と名付ける。最初に「法身」と「応身」の「本」を得なければ、その後において「法身」と「応身」の「迹」はない。「迹」によって「本」を顕わす。「本」と「迹」が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「これが私の方便である。諸仏も同じである」とある。

⑥現在と過去において「本」と「迹」を明らかにする

法華経』が説かれる以前の経典において、すでに事象と理法そして「権」と「実」が説かれていることは、みな「迹」である。『法華経』に説かれる本時の事象と理法そして「権」と「実」は「本」と名付ける。『法華経』で明らかにされることが、本時の「本」でなければ、すでに説かれた経典の「迹」が下されることはない。すでに説かれたものが「迹」でなければ、どうして『法華経』の「本」が顕わされるだろうか。「本」と「迹」が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「諸仏の教えは長い時間の後、必ず真実の教えとなるであろう」とある。

もし『法華経』以前と『法華経』が説かれた今について「本」と「迹」を述べれば、以前の経典を指して「迹」とし、釈迦が悟りを開いた寂滅道場からの「十麁」「十妙」をまとめてすべて「迹」と名付ける。『法華経』が説かれた今を指して「本」とするならば、総合的に遠く大通智勝如来の『法華経』の時のあらゆる「麁」とあらゆる「妙」もまとめてみな「本」とする。

もし「権」と「実」について「本」と「迹」を述べれば、「権」を指して「迹」とし、個別的に中間のあらゆる異なる名を持つ仏の「十麁」「十妙」をまとめてみな「権」とする。「実」を指して「本」とし、最初の「十麁」「十妙」をまとめてみな「実」とする。

もし『法華経』の本体とその働きについて「本」と「迹」を述べれば、働きを指して「迹」とし、最初の「感応」「神通」「説法」「眷属」「利益」の「五妙」をまとめる。『法華経』の本体を指して「本」として、最初からの「三法妙」をこれとする。

もし『法華経』の教えと修行について「本」と「迹」を述べれば、修行を指して「迹」とし、最初の「行妙」「位妙」をまとめる。教えを指して「本」として、最初の「智妙」をこれとする。

もし理法と教えを「本」と「迹」とすれば、理法を指して「本」とし、最初からの「境妙」をそれとする。教えを指して「迹」とするならば、『法華経』を説いた本師の「説法妙」をそれとし、兼ねて本師の「十妙」をそれとする。

もし理法と事象を「本」と「迹」とするならば、事象を指して「迹」とし、『法華経』を説いたあらゆる「麁」の「境」をまとめる。理法を指して「本」とするならば、『法華経』を説いたあらゆる「妙」の「境」をまとめる。

最初の「本」を「本」とするならば、ただ「本」であって、「迹」ではない。最後に説かれた説法は、ただ「迹」であって「本」ではない。中間は「迹」であり、また「本」である。もし「本」の時がなければ、中間と最後の「迹」を下されることはない。もしすでに説かれた説法の「迹」がなければ、今説かれる『法華経』の「本」を顕わして得ることはできない。「本」と「迹」は異なっていても、不思議の次元で一つである。

法華玄義 現代語訳 151

『法華玄義』現代語訳 151

 

④観心の利益について明らかにする

小乗は、心に生じたことでも、まだ身も口も動いていなければ、「業」とはしないことが明らかである。しかし、大乗は、一瞬の罪を作ることでも、それによって無間地獄に堕ちることを明らかにする。無間地獄は、大きな苦しみの報いの世界であり、さらに一瞬のことでも「業」を起こしてしまう場所である。心がわずかに動いてしまうと、重い「業」が作られてしまう。ましてや、「九法界」にそれが備わっていないわけがない。

もしよく心を清めれば、あらゆる「業」は清められる。「浄心観」とは、あらゆる心を観じ、すべての「因縁」によって生じた存在は、「即空」「即仮」「即中」の「一心三観」である。この「観心」をもって、心も心ではないと知り、心はただ名称に過ぎないと悟る。法は法ではないと知れば、法に主体である我(が)があるわけがない。名称に名称がないと知れば、名称に我があるわけがない。法に法がないと知れば、すなわち涅槃となる。この理解が起こる時、我も我のある所も雲の如く幻の如しと知る。すなわちこれが「その地において清涼を得る利益」である。信じ敬い懺悔し、あらゆる善心が生じて、「空」「仮」「中」において、心に勇ましさがあることは、「因」の「利益」である。一念一念が「即空」と相応することは、「中草」「上草」「小樹」などの「利益」である。一念一念が「即仮」と相応することは、「大樹」の「利益」である。一念一念が「即中」と相応することは、「最実事」の「利益」である。一念の「利益」の心において、七種に分別される。

ひたすら「無生観」の人は、ただ自分の心の「利益」だけを信じて、外部から仏の威力によって「利益」が加えられることを信じない。これは「自性」の愚痴に堕ちる。また、ひたすら外部からの仏から「利益」が加えられることを信じて、内心に「利益」を求めないことは、「他性」の愚痴に堕ちる。自他の「共性」の愚痴と「無因」の愚痴も、またわかるであろう。

「自性」の愚痴の人は、重い荷物を引く時に進まなければ、傍らから力をもらって助けられて進むことを、この世で見ているはずである。罪と垢が重い者であっても、仏の威力が働き、「観心」の「智慧」をもって「利益」が与えられることをなぜ信じないのか。またあなたはどこで「無生」の内観を得たのか。師に従ったからか。経典に従ったからか。自ら悟ったからか。師と経典はあなたにとって外部の条件である。もし自ら悟ったならば、必ず目に見えない次元からの働きかけを受けたからだ。あなたはその恩恵を知らないのであり、それはまるで樹木が太陽や月や風や雨の恩恵を知らないようなものだ。またあなたは次の三つのことを知らない。一つめは教えを信じない。二つめは自ら行じてばかりいて、外部から与えられることを求めない。三つめは人を教えない。ただこれはあなたの不信心が原因であり、外部から与える力がないからではない。ある経典に「内ではなく外ではなく、しかも内であり外である」とある。内であるために、諸仏の解脱は心の中に求めるべきであり、同時に外であるために、諸仏はその念を守護するのである。どうして外部からの「利益」を信じないのか。「他性」の愚痴と、自他の「共性」の愚痴と、「無因」の愚痴についても、またわかるであろう。「即仮」であるために「自性」なく、「即空」であるために「他性」なく、「即中」であるために「共性」なく、自他共に照らされるために「無因性」はない。

 

〇迹門の十妙のまとめ

(注:この段落を最後に、『法華玄義』の大半の紙面を使って説かれた「迹門の十妙」が終わるが、最後に、「十妙」のすべて対象として、それを「権実」ということをもってまとめる内容が記されている。原文では「第五に権実を結成す」と、いかにも「功徳利益妙」の第五番目の項目のように記された言葉がこの段落の最初に来ているが、内容的には明らかに「十妙」すべてを対象としたまとめの内容である。またその証拠に、「功徳利益妙」の最初の段落分けの箇所には、第四の「観心の利益について」という言葉までしか記されていない。そのため、原文にはないが、「迹門の十妙のまとめ」という見出しを付けた)。

「権」と「実」をもって「迹門の十妙」をまとめると次の通りである。

光宅寺法雲は「声聞、縁覚、菩薩の三教、三機、三人の境を照らすことを権とし、教一、理一、機一、人一の境を照らすことを実とする」と言っている。

しかし、この解釈は用いない。

すでに大乗の「果」をもって大の理法とするならば、どうして小乗の「果」をもって小の理法としないのであろうか。

彼は弁明して「小果は真理ではないので、その果をもって理法とはしない」と言っている。

もしそうであるならば、「権教」および「権行」の人は、なぜかつて真実ではなかったのか。すでに「権教」の修行者があるならば、なぜ「権理」を立てないのか。また「権」に理法がなければ、「俗諦」を「諦」と呼ぶべきではない。すでに「俗諦」と呼んでいるならば、「権」もただ三種の「境」とすべきではない。「実」に四種の「境」があるならば、「因果」は二つの法である。どうしてこの二つの法を「理一」とするのか。『法華経』に「すべての法を観じれば、そのままで如実の相である。行じることなく分別することもない」とある。どうして「因果」を分別して「理一」とするのか。もしそうであるならば、「実相」はなく、魔の説くところとなる。このために彼の解釈は用いない。

ここで真理を明らかにする。「十麁」の「境」を照らすことを「権」とし、「十妙」の「境」を照らすことを「実」とする。「十麁」とは、すなわち「仏界」以前の「九法界」における「蔵教」「通教」「別教」の「十二因縁」などのあらゆる「麁」の「諦」「智慧」などから始まって「麁」の「利益」に至るまで、みな「権」とするのである。一方、「十妙」とは、すなわち「理妙(注:原文には理妙とあるが、これは明らかに十妙の第一の境妙のことである)」から始まって「利益妙」のことである。「妙」であるから「実」なのである。

また次に、「十妙」を表わすために、「十麁」の深い意味が開かれる必要がある。蓮の実のために花びらはあるとしても、花びらに隠れて蓮の実が見えないように、あらゆる教えを示し教え利益を与え随喜して、確かにそれらの教えに「実」があるのだが、「実」は顕われない。『法華経』に「如来の方便はその意義を理解することが難しい」とある。また、花びらが開いて蓮の実が現われることは、「十麁」を開いて「十妙」を顕わすことであるが、同時に「十麁」がないことの喩えとなる。ただ真理においては、「一大事不可思議」の「境界」から始まって「一大事不可思議」の「利益」があるのみである。僧肇(そうじょう)は「維摩経の最初の仏国品から始まって最後の法供養品に至るまで、すべて不可思議が明かされている」と言っている。今述べていることも全く同じである。「麁」を開いたならば、もはやすべてが「妙」となる。

また「五味」の喩えについて述べれば次の通りである(注:これ以降、いわゆる「五時」の分類を用いた内容となるが、それを「五味」の喩えで表現している記述は最初だけであり、それに続いては「三蔵」という言葉が用いられ、続いて「方等」『摩訶般若』『法華』『涅槃』という表記となっている。つまり統一が取れていない。したがって、それらはカッコの中の言葉で統一した)。

「乳味」(=華厳時)の教えは「十妙」のために「十麁」を明らかにし、「十麁」を開いて「十妙」を顕わす。すなわち「一権(別教)一実(円教)」である。もし「四悉檀」について述べれば、「六権(別教と円教の第一義悉檀以外の六つ)二実(別教と円教の第一義悉檀の二つ)」である。もし「四門(有門、空門、亦有亦空門、非有非空門)」について述べれば、「十二権四実(四悉檀のうち、第一義悉檀以外の三つにそれぞれ四門があるので十二の権となり、第一義悉檀に四門があるので、四の実となる)」となる。

「三蔵」(=鹿苑時)について述べれば、最初から最後まで「権」であり、旅人を休ませるために仮に作られた町のようであり、子供をあやすために差し出された柳の葉のようなものである。また、この教えにおいては、他の人を教化することにおいては「権」であり、自分の修行においては「実」である。「四悉檀」について述べれば「三権一実」、「四門」について述べれば「十二権四実」である。

「方等」(=方等時)について述べれば、「四教」すべてが備わっているので、「蔵教」「通教」「別教」のそれぞれの「十妙」で、三十種の「権」、「円教」の十種の「実」である。「四悉檀」について述べれば「十四権二実(四教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十四は権となる)」である。「四門」について述べれば「五十六権八実(四悉檀の十四権二実それぞれに四門があるので、56×4の権であり、2×4の実となる)」である。

『摩訶般若』(=般若時)について述べれば、すでに「三蔵教」は廃され、ただ「通教」「別教」「円教」を用いるだけとなる。「通教」の「十妙」と「別教」の「十妙」の二十種を「権」とし、「円教」の「十妙」を「実」とする。「四悉檀」について述べれば「十権二実(三教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十は権となる)」である。「四門」について述べれば「四十権八実(四悉檀の十権二実それぞれに四門がある)」である。

法華経』(=法華涅槃時の中の法華)について述べれば、これまでのすべての教えを廃して、ただ「一実」を説くのみである。「実」の中には「方便」がないわけではないが、ただこれも「実相」の「方便」であるので、同じく「実」とする。ここで「四悉檀」について述べれば、まだ悟らなければ「三権(第一義悉檀以外の三つ)」であり、悟れば「一実(第一義悉檀)」である。「四門」について述べれば「十二権四実(四悉檀の三権一実それぞれに四門がある)」である。数としては「三蔵教」と同じとなるが、意義は天と地の違いである。「三蔵教」の「十二権四実」は、すべて「権」である。『法華経』はすべて「実」である。「方等教」と『般若』に異なる点を述べれば(注:ここに文はない)。このため、『法華経』に「ただこの上ない道を説き、真実の相を示すのみである」とある。この意味である。

さらに『涅槃』(=法華涅槃時の中の涅槃)について述べれば、『涅槃』は「四教」すべてを解釈している。またこれは「三十権(蔵教、通教、別教のそれぞれ十妙)」と「十実(円教の十妙)」である。数は、「方等」に似ているが、意義は全く異なっている。「方等」においては、「別教」と「円教」の二つは「実」に入り、「蔵教」と「通教」の二つは入らない。この『涅槃』は、「四教」すべてが「実」に入るのである。「因」においては「三権一実」となるが、「果」においては、「四実」となり、「権」はない。もし「四悉檀」について述べれば、「十四権二実」である。「四門」について述べれば、「五十六権八実」である。さらに「因」について述べれば「五十六権」であり、「果」について述べれば「四実」である。ただし、これは「実」のみであり、「因」に合わせて「四実」としているだけである(注:つまり「因」においては「方等」と同じだが、「果」においてはすべて実となるというのである)。これはすなわち「四門」より「実」に入る。「果」について述べれば、「四実十二権(四教すべてに四悉檀があり十六となるが、その内、四教それぞれの第一義悉檀の四つが実となり、他の十二は権となる)」。『法華』の意義も同じである。

このために知ることができる。あらゆる教えには同じく「権」と「実」があるが、それぞれの「権」と「実」は同じではない。あるいはすべて「実」であり、あるいはすべて「権」、またあるいは「権」と「実」が兼ね備わっている。これはすべて、相手の能力と情に合わせられているのであって、理法的には完全ではない。そこで、総合的に「四教」において「権」と「実」を判別すると次の通りである。「三蔵教」「通教」「別教」の三教について述べれば、これは「権」であり、「円教」を「実」とする。またあらゆる教えの「権」がまだ完全となっていないことを「権」とし、すでに完全となって「開権顕実」となることを「実」とする。この『法華経』はただひとつの完全な教えであるので、「実」とし、また「権」を開くので「実」とするのである。

もし「円教」について述べれば、前の三教の「三十麁」を照らすことを「権」とし、「十妙」を照らすことを「実」とする。もし「権」を開いて完全とすることにおいて述べれば、「三十麁」を開いてすべて「妙」とすることを、ただ「実」とするのみである。このために「妙」という。もし理法を悟ることについて述べれば、理法自体には、「権」もなければ「実」もなく、何ら教えはない。子供を打つ真似をして導くように、「権」を説いて「実」を説くのである。これは「麁」である。理法はすなわち「権」もなければ「実」もない。このために「妙」というのである。

(注:以上をもって「迹門の十妙」が終わる)

法華玄義 現代語訳 150

『法華玄義』現代語訳 150

 

③流通の利益について明らかにする

「功徳利益妙」について述べるにあたっての三つめは、「流通(るつう・教えが広められること)の利益について明らかにする」である。ここにおいて三つの項目を立てる。一つめは「a.師を出す」であり、二つめは「b.法を出す」であり、三つめは「c.利益を出す」である。

③.a.師を出す

経典を広める人は、凡人と聖人に通じていなければならない。「法身」の菩薩は、「四弘誓願」をもってその身を荘厳としている。この国土や他の国土、下の国土や上の国土に対して、「権」と「実」の「七益」「九益」「十益」を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その「法身」を助けて、悟りの道を進ませる。

「生身」の菩薩も、この国土や他の国土に経典を広め、他の者たちに「権」と「実」の「七益」を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その「法身」を助けて、生死の「苦」を減らし、しかし、それより上の国土に「利益」を与えることはできない。

凡夫の師は、またよくこの国土に経典を広め、他の者たちに「権」と「実」の「七益」を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、「五品弟子位」を進ませる。このために『無量義経』に「病の導師がいる。こちら側の岸にいて、船を作って人をあちら側の岸に渡す」とある。これはこの意味である。

問う:凡夫はただ凡夫のために境を広め、凡夫に対して「利益」を得させるのだろうか。また聖人にも「利益」を得させるのだろうか。

答える:聖人に二種ある。一つめは小乗の聖人であり、二つめは大乗の聖人である。『法華経』に「もし真実に阿羅漢の位(=小乗)を得て、さらに滅度(めつど・完全な涅槃)を得たいと思って、余仏(よぶつ・説明は後に述べられる)に会えば、そこでそれを究めることができる」とある。南岳慧思は「初依(しょえ・最初の拠りどころとなる師)を余仏と名付ける。無明がまだ破られていないことを余として、よく如来の秘密の蔵を知り、深く円満な理法を悟っていることを仏と名付ける。仏の滅度の後に、真実に阿羅漢の位を得る者は、権と実に対して理解していない。もし初依に会えば、よく悟りを究めて相似即の利益を成就し、さらに進んで分真即の利益に入る」と言っている。この文は、凡夫の師が小乗の聖人のために経典を広めて「利益」を得させることを証明するのである。『法華経』に「六根清浄の人が教えを説くと、あらゆる方角の諸仏がみなこれを見ることを願い、説法がされている場所に集まって来る。すべての天龍は、この説法を聞いて、みな大いに歓喜する」とある。これもまた、凡夫の師が、偉大なる聖人のために説法することを証明している。

③.b.法を出す

経典を広めることは、明らかに聖人の言葉による。『法華経』には「もし衆生が信じ受け入れれば、まさに余の深い教えの中において教示し利益を与え喜ばせるべきである」とある。「余」とは「方便」を帯びている。「深い」とは「中道」を明らかにする。「方便」を帯びて「中道」を明らかにする教えは「別教」である。もしただ「方便」だけで「中道」を明らかにしなければ、「通教」と「蔵教」などである。『法華経』の文では、「別教」を用いて「円教」を助けることを認めている。しかし推測すると、またまさに「通教」を用いて「円教」を助けるべきである。また『法華経』に「さらに異なった方便をもって、第一義を助け顕わす」とある。どうして「蔵教」と「通教」を排除できようか。

ただ菩薩はすでに真実の「智慧」を得て、また「権」の意義を得ている。真実の「智慧」をもって「権」と混同せず、「権」は真実だとは言わない。ただ真実だけを広めても、衆生は信じないので、すべて真実のために「権」を施し、浅い意義をもって深い意義を助けるので、虚妄とはならない。これは「権」と「実」を並べて用いて経典を広めることである。『法華経』の「安楽行品」に「もし難問があれば、小乗の教えをもって答えず。ただ大乗をもって解説して、一切種智を得させるのである」とある。これはすなわちただ真実を用いて経典を広めることである。また「適宜に従って教えを説く」とある。これもまた「権」を排除しないことである。

今の時代の人は、教えを広める際に、あるいは大乗だけを用い、あるいは小乗だけを用いて、みな仏の真実の意義を得ていない。よく経典を広める者は、適宜に教えを与える。口では「権」を説くとしても、内心は真実の教えから外れていない。ただ衆生に対して「権」と「実」の「七益」を得させればよいのであるから、経典を広めるにあたってこだわりがない。

③.c.利益を出す

しかし、「流通」の「利益」は、『法華経』を「序」と「正宗」と「流通」の三段に分けた中の「流通」の段落を待たずに、まさにその「利益」が明らかにされている。「正説」の文の中で、すでに未来に経典が広められることにおける「利益」が示されている。『法華経』の「譬喩品」の後半や、「授記品」の末尾や、「法師品」の中に、みな『法華経』を広める「功徳利益」を明らかにしている。よく如来の滅度の後に、たった一句の偈でさえ聞く者に対して、最高の悟りを得る約束を与えている。ましてや経典を広める人はなおさらである。密かにたった一人に経典を説く者の功徳は多い。ましてや大衆に広く説く者はなおさらである。

法華経』の一句にでも随喜し、それを人に説き、またそれを聞いた人が人に伝えて、それが五十人めに至った随喜の功徳は、なお「二乗」の境界ではない。ましてや、最初に聞いて随喜する者の功徳はいかばかりであろうか。常不軽菩薩は『法華経』の一句を広めたために、「六根清浄」を得た。ましてや、経典のすべてを広める者はなおさらである。

「五品弟子位」の最初の「随喜品」の功徳は、無量億劫に「五波羅蜜」を行じた功徳を喩えとすることさえできないほど大きい。ましてや、「五品」すべてはいかばかりであろうか。あらゆる方角の空間に際限がないとしても、「五品弟子位」の人が経典を広めた功徳はそれよりも際限がない。『法華経』に「如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐る」とある。如来の教えはみな数えることは不可能である。ましてや、八万人の菩薩や千世界の微塵の数ほどの菩薩であっても、説くことは不可能である。しかも知ることも不可能である。ただ如来を除いて、すべて知る者はいない。

凡夫の師が経典を広めることは、凡夫に「七益」を与える。『法華経』に「この今日は閻浮提の人の病の良薬である。もしこの経典を聞けば、不老不死の者となる」とある。それは、老死の中において、老死の「実相」を知ることである。老死は「果報」の法則である。「実相」を知ることは、清涼(しょうりょう・この世の状況に影響されない理法的な次元を表わす言葉)の理性の「妙」の「利益」を得ることである。また「果報」の「利益」である。この『法華経』を保つために、安楽な国土に生まれ、蓮華の中にあって、貪欲に悩まされず、また十種の悩乱から離れることができ、菩薩の道を行じることができる。これをまた「名字即」の「利益」と名付ける。また「観行即」の「妙」である。また「因」を修す「妙」である。陀羅尼(だらに・教えを記憶する力)を得て、よく「仮」から「空」に入ることは、「下」「中」「上」の薬草の「利益」である。またこれは「小樹」の「利益」である。「百千旋陀羅尼(ひゃくせんせんだらに・『法華経』の「普賢菩薩勧発品」で説かれる「三陀羅尼」の第二。教えを百千回説くことのできる力。第三が「法音方便陀羅尼」)」を得るのは、「大樹」の「利益」である。「法音方便陀羅尼」を得るのは、「相似即」の真実の「利益」である。もし一瞬でも聞くことができれば、即座に最高の悟りを究めることができる。これが真実の「利益」である。

また次に、人が水を求めて高原を掘り進めて、まだ乾いた土しか見ないのは、「下」「中」「上」の薬草の「利益」である。湿った泥を見るのは、「小樹」と「大樹」の「利益」である。水を得るのは、「最実事」の「利益」である。仏の滅度の後の五百年の間ですらこの「利益」を得る。ましてや、今の時代に『法華経』を広め、他の者を教化する者に、どうして「七益」がないことがあろうか。

法華玄義 現代語訳 149

『法華玄義』現代語訳 149

 

②.b.近益を論じる

「近益(ごんやく)」とは、仏が悟りを開く「寂滅道場」に赴き、初めて悟りを成就して、教えを説き、生死の「苦」を減らす毒の太鼓と、道を増し加える天の太鼓を打って、衆生に「利益」を与え、『法華経』が説かれる直前までの「利益」についてである。『法華経』に至る前に限っては、「利益」もまた浅深の違いがある。煩悩が滅びることにおいても、遅早の違いがある。なぜなら、教えとはもともと聞く相手に合わせるものだからである。聞く相手には、「三界」の中の能力の高い者、低い者、そして「三界」の外の能力の高い者、低い者の四種がある。また教える教主にも、「蔵教」「通教」「別教」「円教」の四種がある。みな「法王」と称し、「王三昧」を備え、自ら「二十五有」を破って、衆生に「七益」を与えることは、前に述べた通りである。

また、大乗小乗の経典に、仏は「王三昧」に入って、光を放って教えを説き、善道悪道のあらゆる衆生の「果報」の「苦」に「利益」を得させることを明らかにすることは、『阿含経』の中に説く通りである。「仏の光明を見て、仏の手に触れることを受けて、六道の苦患がすべて除かれる」とある。また『大品般若経』に「光を放って地獄の衆生を照らすと、その苦悩は即座に除かれ、他化自在天に生じる」とある。「苦悩は除かれる」とは、「果」の「利益」であり、「天に生じる」とは、「因」の「利益」である。『大品般若経』では「華葉の益」とある。

また、仏は光を放って、闇に閉ざされていた場所がすべて明らかとなる。その中にいた衆生は、お互いが見えるようになったので、「その中の衆生は瞬間的に生じたのだろうか」と思ったと『法華経』にある。これもまた「果」の「利益」である。

この「因」と「果」の「利益」は、四種の教主の仏が共通して施すものである。個別的にその「利益」を述べるならば、浅深の違いがある。つまり声聞は「煩悩」の本体を断じ、縁覚は「習気」を減らすのであり、これを「中草」と名付ける。

菩薩は「煩悩」を抑えて、衆生を教化する。このために『法華経』に「世尊と同じ境地を目指して、私も仏となって精進し禅定を行じよう」とある。これは「上草」と名付ける。またこれは「三蔵教」の教主の「慈善根力」の「利益」の相である。

法華経』に「あらゆる菩薩たちは、智慧が堅固であり、三界に精通して最上の教えを求める」とある。すなわち、声聞と縁覚と菩薩は、同じく「無生」を感じる。ただ、「蔵教」の「析空観」の「智慧」の「利益」があるのみではなく、さらに「通教」の巧みな「体空観」がある。これは「小樹」の「増長」の「利益」であり、「通教」の教主の「利益」の相である。

法華経』に「また禅定に住んで神通力を得る。諸法の空を聞いて、心が大いに歓喜する」とある。「禅定に住む」とは、九種の大いなる禅定に住むことである。「心が大いに歓喜する」とは、「歓喜地」の「位」に上ることである。(注:「行妙」の「出世間禅の総論」の項参照)。また「無数億百千の衆生を教化する」とあるのは、「大樹」の「増長」の「利益」である。ただ前の「因」と「果」の「析空観」と「体空観」の「利益」があるばかりではなく、「分別道種智」から「一切種智」の「利益」がある。これは「別教」の教主の「利益」の相である。

法華経』に、「今、あなたがたのために最も真実な教えを説こう」とある。これは前と同じ「利益」ではなく、「無明」を破って、「仏性」を顕わす究極的な「最実事」の「利益」である。これは「円教」の教主の「利益」の相である。

また次に、「蔵教」「通教」「別教」の「利益」は、劣っていて優れていない。そして優れているものが劣っているものを兼ねることは理解できるであろう。

また、「五味」の教えの喩えによれば、「乳味」の教えは「因」「果」「大樹」「最実事」の四つの「利益」のみでり、「小草」「中草」「上草」「小樹」の三草一木を明らかにしない。大乗の経典は声聞と縁覚の「二乗」の人の手には入らず、その人たちは、教えを聞いても耳の聞こえない人や口のきけない人のようであるためである。「酪味」の教えは、ただ「果」「小草」「中草」「上草」の四つの「利益」があるのみである。「生蘇味」の教えは「七益」のすべてがある。「熟蘇味」の教えは、「析空観」の「三草」がなく、「体空観」などの「七益」がある。「醍醐味」はただ「最実事」の「利益」だけがある。前のあらゆる「利益」はみな「麁」であり、「醍醐味」はすなわち「妙」である。

「寂滅道場」から『法華経』に至るまでを、生身(しょうしん)の菩薩とし、ただ「十益」の中の「八益」までの「利益」を得て、「十益」の第九と第十の「利益」は得ていない。また「得る(=できる)」という意義があるのは、すなわち菩薩が「法性身」から「分断生死」に入って、「願生」「神通生」「応生」などの「眷属」となって、進んで「無明」を破り、残りの煩悩を断じて、すなわち第九と第十の「利益」を明らかにすることができるのである。このように、「寂滅道場」から『法華経』に至るまでは、概略的に「十益」とするのである。

問う:「法身」の菩薩は、「応身仏」の説法を聞いて、「応身」の中の「利益」にあずかり、また同時に「法身」の「利益」にあずかるのか。

答える:たとえば、鏡を磨けば、直ちに鏡が明瞭になって、物がよく映るようなものである。

また問う:「応身」が教えを聞いて「利益」を得て、「法身」も同じように「利益」を得るというならば、「応身」は病を表わすわけであり、同じように「法身」もまた病を表わすことがあるのか。

答える:この病はもし真実であったなら、「応身」が病めば、教えもまた病む。ただ「応身」の病は真実の病ではない。真実ではないので、「応身」に病がないので、「法身」にもまた病はない。またもし「応身」が病を現わすことが少ないならば、まさに知るべきである、「法身」の「利益」もまた少ない。もし「応身」が病を現わすことが広ければ、「法身」の「利益」もまた広い。ここで、あらゆる言葉をもって考察すれば、「果」がみずから「利益」を与えて、「因」は与えず、また「因」は「利益」を与えて、「果」は与えず、また共に「利益」を与えて、共に与えないこともある。これは現実の事柄である。理解すべきである。自ら破る「利益」、成就する「利益」、破って成就する「利益」、破らず成就しない「利益」もある。その破らず成就しない「利益」とは、前に述べた「清涼」の「利益」であり、地獄、餓鬼、畜生、修羅の「四趣」の「因」は破る「利益」、最高の天の非想非非想天の「因」は成就する「利益」、その中間の世界は破って成就する「利益」である。

「因」の「利益」が自ら「果」の「利益」であり、「果」の「利益」が「因」の「利益」であるものがある。これは「変易」の「因」が「果」に変わる意味である。「因」の「利益」であって「増道(悟りに進むこと)」ではなく、「果」の「利益」であって「損生(生死の苦を除くこと)」ではなく、また「因」と「果」の「利益」であって、また「因」と「果」の「利益」ではないこともある。これは「分段生死」の「果報」の「因」と「果」である。「因」の「利益」であって同時に「増道」であり、「果」の「利益」であって同時に「損生」であり、「因」と「果」の「利益」になることがなく、「因」と「果」の「利益」になることがある。これは「習因(しゅういん・修行して悟りという果を得るための原因となるものを指す)」と「習果」である。「真諦」の「利益」であって、「俗諦」の「利益」ではないものは、「二乗」である。「俗諦」の「利益」であって、「真諦」の「利益」でないものは、「蔵教」の菩薩である。先に「俗諦」の「利益」であって、後に「真諦」の「利益」になるものも、「蔵教」の菩薩である。先に「真諦」の「利益」であって、後に「俗諦」の「利益」になるものは、「通教」の菩薩である。「真諦」と「俗諦」の「利益」であって、「中道」の「利益」ではなく、「中道」の「利益」であって、「真諦」と「俗諦」の「利益」ではないのは、「別教」である。「真諦」の「利益」がそのまま「俗諦」の「利益」であり、また「中道」の「利益」になるのが、「円教」である。

②.c.法華経の利益を論じる

法華経』について見ると、「七益」がすべて備わっている。また区別があるようだが、区別はない。たとえば、芽と茎と枝と葉の成長は同じではないが、一つの地から生じているものであるというようなことである。「七益」は実に浅深の違いがあるが、すべて「実相」でないものはない。このために、区別があるようで区別はないのである。

あらゆる経典に区別があるのは「麁」の「利益」である。同じく『法華経』によれば、区別のない「妙」の「利益」である。あるいは、進んでさまざまな「妙」の「利益」に入り、あるいは「位」に立脚して「妙」の「利益」を成就する。進み入ることの「利益」とは、本来「その地において清涼を得る利益」であるが、さらに進んで大乗を発し、心は解けて明らかに清らかとなる。あるいは「観行即」の「妙」や「相似即」「分真即」の「妙」に進む。本来は、人天の「因」の「利益」であるが、進んで「相似即」「分真即」の「位」に入る。本来は小乗の「学」「無学」の「利益」であるが、進んで「無明」を破り、「分真即」の「妙」の「利益」となる。たとえば、角笛に声を入れると大きくなるように、小乗を転じて大乗とする。「通教」「別教」の進んで入る「利益」はこれによって知るべきである。

「位」に立脚する「利益」とは、本来、「麁」の「果」である「その地において清涼を得る利益」であるが、そのままで「理即」の「妙」の「利益」となる。「麁」の「因」に立脚して、そのまま「観行即」の「妙」の「利益」となる。「麁」の「学」「無学」の「利益」に立脚して、そのまま「相似即」の「妙」の「利益」となる。「麁」がそのまま「妙」となれば、進んで入る必要はない。「通教」「別教」の「利益」はこれによって知るべきである。

進んで入る「妙」の「利益」は、すなわち「麁」の「利益」に相対して、「妙」の「利益」を明らかにすることである(=相待妙)。「位」に立脚する「利益」は、すなわち「絶待妙」の「利益」である。

あらゆる「麁」の「利益」をもって「眷属」を解釈すれば、「果」「因」の二つの「利益」は、「業生」の「眷属」となる。「中草」、「上草」の二草小樹などは、「願生」「神通生」の「眷属」となる。「大樹」の「仏性」を見ること以上の段階は、みな「応生」の「眷属」となる。

進んで入る「利益」と「位」に立脚する「利益」については、「理即」「名字即」「観行即」の「妙」は「業生」の「眷属」となり、「相似即」の「妙」は「願生」「神通生」の「眷属」となり、「分真即」の「妙」は「応生」の「眷属」となる。

以上が『法華経』の「利益」である。