大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 173

『法華玄義』現代語訳 173

 

B.2.5.喩えについて

ここで、三つの喩えをもって、「体」についての正しい見解と誤った見解を明らかにする。そしてそれに兼ねて「開合」「破会」などの意義についても述べる。

まず、三種の獣がいたとする。その獣たちが河を渡る際、同じく水に入る。この三種の獣は強いものと弱いものの区別がある。河には底がある。三種の獣のうち、兎と馬は力が弱いので、向こう岸に渡ることができるといっても、浮いてしまって深く水の底まで足はつかない。一方、大きい象は力が強いので、河底を歩いて渡ることができる。この三種の獣は、声聞と縁覚と菩薩の三人を喩え、水は「即空」を喩え、底は「不空」を喩える。声聞と縁覚の「二乗」は「智慧」が少ないので、深く究めることができない。たとえば、兎や馬のようである。菩薩は「智慧」が深い。たとえば大きな象のようである。水の軟らかさは「空」を喩える。声聞と縁覚は同じように「空」を見ても、「不空」を見ない。底は「実相」を喩える。菩薩だけが一人「実相」を究める。そして智者は「空」及び「不空」を見る。

さらに、河底に足が到達するということにおいても、二種ある。小さな象はただ底に足がつくのみであり、大きな象は深く河底の土の中まで根差す。このように、「別教」の「智慧」は「不空」を見るといっても、段階を経て見るのであって、真実ではない。「円教」は「不空」を見て、究竟して真実を顕わす。このような喩えは、ただ兎や馬の「二乗」が真実ではないことを論破するのみでなく、また小さな象が「不空」の真実に至っていないことを指摘し、大きな象の「不空」を取って、この『法華経』の「体」とするのである。これは、「空」と「中」が合わさって、「真諦」とすることについて、このような指摘をするのである。

二つめの喩えは、水晶と如意珠の二つの珠を用いたものである。形は同じであっても、水晶は「空」だけを見て「不空」を見ない「但空(たんくう)」に喩えられ、それは宝を降らすことはできない。如意珠は「空」を見て、また宝の雨を降らすことができる。水晶は宝がなく、これによって「偏空=(但空)」を喩える。如意珠はよく宝を降らし、これによって「中道」を喩える。これは、「有」と「無」が合わさって、「俗諦」とすることについて、誤りを指摘して真実を顕わすのである。この『法華経』の「体」は、如意珠と同じである。

また、同じ如意珠をもって喩えとすることができる。如意珠を得てもその力の働きを知らなければ、ただの珠に過ぎない。智者はこれを得て、多く用いることができる。「二乗」は「空」を得て、「空」を証してそれに留まってしまう。菩薩は「空」を得て、「方便」をもって他を利益し、遍く多くの人々を悟りに導く。これは「中」を含んだ「真諦」とすることにおいて、その得失を指摘するのである。この『法華経』は、智者が如意珠を得るようなものであり、それを「体」とする。

二つめの喩えは、鉱石の中に金があるようなものである。愚かな人はそれを知らず、ただの石だと思って、汚れたごみの中に投げ捨て、振り返って取ることもしない。商人はこれを取って、溶かして金を取り出し、尊く保管する。金細工職人は、これを得て、あらゆるかんざしや首飾りや指輪や耳輪などを作り、仙人はこれを得て、練って不老不死の薬とし、天を飛び地の下に入り、太陽や月をつかみ、変通自在である。

ここでの愚かな人は凡夫の喩えである。「実相」を備えていても、修習することを知らない。商人は「二乗」を喩える。ただ「煩悩」の鉱石を断じて、「即空」の金を保つが、それ以上、何もしない。金細工職人は「別教」の菩薩を喩える。巧みな「方便」をもって、「空」「非空」を知って、この世に出て衆生を教化し、仏国土を荘厳し、衆生を悟りに導く。仙人は「円教」の菩薩を喩える。事象がそのまま真理であることを悟り、初発心の時に、すでに「正覚」を成就し、「一身無量身」を得て、遍くすべてに応じる。『法華経』はただ金で作られた不老不死のような「実相」をもって、経の「体」とする。

また、同じ金をもって別の喩えとすることができる。最初から最後まで、同じ金を用いているので、凡夫と「円教」は共に「実相」である。異なっていることを用いて喩えれば、最初の鉱石は金とは異なっており、次の金は細工品とは異なり、細工品は不老不死の薬と異なる。不老不死の薬は透き通った色であり、油のようになめらかである。どうして細工品と同じであろうか。色も形も別であるので同種ではない。これは、金を取り出して、最終的にすばらしいものにすることを用いて、誤った教えと正しい教えを指摘するものである。以上の三種の喩えを述べることは、前の喩えは、「根性」を喩える。「根性」に浅深がある。浅いものは「空」を得て、深いものはその「仮」を得て、さらに「中」を得るのである。

次に、三種の情を用いて喩える。最初の情は、ただ「苦」を出るだけであり、仏の道を求めない。真理を見て、それで終わる。次の情は段階的であり、「円教」の修行ではない。その次は広く大きく、「法界」に遍く求める。

第三番目として、「方便」を喩える。「二乗」は「方便」が少ない。金を取って保つだけである。「別教」は「方便」が弱く、ただよく飾って生計を立てるだけである。「円教」は「方便」が深い。このために、雲を吞み天の川を渡る。

ここで『法華経』の「実相」の「体」を明らかにすれば、河底に足をつけている大きな象のようであり、硬くて破ることができない。これをもって「体妙」を喩える。如意珠が宝の雨を降らせるのは、経の「用妙」を喩え、巧妙な智慧によって仙人となるのは、その「宗妙」を喩える。このような三つの喩えは、「三徳」である。不縦不横であることを大乗とする。大乗の中において、分別して「真性」を指して、この経の「体」とする。

 

B.2.6.悟りについて

「法相」が真実で正しいことは、誠に上に説いた通りである。「行」がまだ理法と一致しなければ、どうして「諦(=真理)」と名付けることができようか。いらずらに労して四説(しせつ・続いてその説明となる)すれば、かえって迷いを生じさせてしまうようなものである。目の見えない人に、乳を説明するにあたって、粥のようなものだと言えば、軟らかいものだと思い、雪と言えば冷たいものだと思い、貝と言えば硬いものだと思い、白鳥と言えば動くものだと思い、ついに乳の本当の色を知ることができない。心が迷って夜遊びをしては、どうして「諦」に至るだろうか。食べ物を叫んで求めても、食べ飽きるほどのものが得られるという道理はない。自己の見解に執着してそれを真実とし、他はすべて妄語とする。ここにあり、ここになし、是と非が互いに起こり、さらに流動を増す。これをどうして「諦」と名付けようか。

もし「諦」を見ようとすれば、まず慚愧(ざんき)して恥ずるところがあることを知るべきである。さらに深く懺悔すれば、悟りに向かう種は諸仏を感じて、「禅定」の「智慧」が開き、「観心」が明らかに清浄となり、信心と理解が互いに一つとなる。そのような時点を、暗闇に枯れ木を見て、まだ明らかに見えない状態という。それが人か木か虫か塵か明らかではない。さらによく平安の中で忍耐をすれば、法に対する執着を生じることなく、「無明」を明らかに破る。清らかな鏡が動かず、清浄な水に波がなければ、魚や石の姿は自然と明らかになるようなものである。このような尊く妙を得た人は、よく「般若」を見る。メスをもって目を手術すれば、指の一本、二本、三本が明らかに見える。その時、姿形を見て、「有」とすることもまた正しく、「無」とすることもまた正しい。どうして「有」が正しいのか。明白な姿形は眼に相応し、正しい理法は「智慧」にかなう。これを「有」と名付ける。どうして「無」が正しいのか。そこに、軟らかいものだ、冷たいものだ、硬いものだ、動くものだという相がなければ、これを「無」と名付ける。『大智度論』に「一切実、一切非実、亦実亦不実、非実非不実、このようなことをみな諸法の実相と名付ける」とある。舎利弗のような者は、真実の「智慧」に安住して、「私はまさに仏となり、天と人とが敬うところとなるであろう」と言った。その時、すなわち「永遠に煩悩を滅ぼし尽くし、余ることはない」ということができる。これを真実に「体」を見ると名付ける。このために『涅槃経』に「八千人の声聞が法華の中において如来の性を見ることは、まるで秋に収穫して冬に蔵に納め、さらにすることがないようなものである」とある。「理」においてすることがないことを明らかにするものは、究竟の理法である。「教」においてすることがないとは、その教えを聞いて、さらに他に聞くことがないことである。「行」においてすることがないとは、その修行を行じ終わって、さらに得たところを改めないことである。このようなことが、それ以上することがないという意義である。

概略的にこれを述べれば、「随智」の妙なる悟りは、経の「体」を見ることができる。まさに「随智」の妙なる悟りの意をもって、あらゆる「諦」の「境」の中には、「随情(ずいじょう・相手の感情に合わせて教えを説く智慧)」「随智(ずいち・ただ真理によって教えを説く智慧)」「随情智(ずいじょうち・相手の感情と相手の智慧に合わせて教えを説く智慧)」のさまざまな分別がある。他の迷いの心を退け、ただ「随智」を取ることをもって、経の「体」を見ることを明らかにするのである。

法華玄義 現代語訳 172

『法華玄義』現代語訳 172

 

B.2.4.偏った教えについて

あらゆる大乗経典において、声聞と縁覚の「二乗」の人と同じように、「方便」を帯びて説く者の言葉が記されているが、それは名称が同じであるので、その意義についての解釈は注意して分別しなければならない。『大智度論』に「三乗の人は、同じように言葉にならない教えによって煩悩を断じる」とある通りである(注:つまり声聞も縁覚も菩薩も、苦を断じることにおいては同じ教えによる、ということ)。『中論』に「諸法の実相は、三人共に得る」とあるのは、「二乗」の人は、共に言葉にならない教えを受けて、自ら「苦」から出ることを求めるといっても、大いなる「慈悲」がないので、「空」を悟っただけで終わりである。能力の劣った菩薩も同じである。能力の高い菩薩は、大いなる「慈悲」を他の人のために行ない、深く「実相」を求める。これらの人に共通する「実相」は、その「智慧」が蛍の光のようである。そのために「実」ではない。そして共通しない「実相」は、その「智慧」が日光のようである。このために「実」とする。

『涅槃経』に「第一義空を智慧と名付ける」とある。「二乗」の「但空(たんくう・空の理法のみに留まること)」は、「空」であって「智慧」はない。菩薩は「不但空」を得るので、「中道」の「智慧」である。この「智慧」は、寂(じゃく・苦から解放されている状態)であって同時に常に照らす。「二乗」はただこの寂を得るのみであり、寂であって照らすことを得ないので、「実相」ではない。菩薩は寂を得て、また寂であって照らすことをするので、「実相」である。

「不空」を見ることにおいては、また多種がある。一つめは、「不空」を見て、次第に煩悩を断じて、浅い状態から深い状態に至る。これは「相似」の「位」の「実」であり、正しく「実」ではない。二つめは、「不空」を見て、すべての法を備える。最初の「阿字門(あじもん・ここでは最も大切な教えという意味)」は、すなわちすべての意義を理解する。「即中」「即仮」「即空」は、一つではなく異なっているのでもなく、三でもなく一でもない。「二乗(=通教)」はただ一つの「即」だけであり、「別教」はただ二つの「即」であり、「円教」は三つの「即」を備える。三つの「即」は真の「実相」である。

大智度論』に「何が実相であろうか。菩薩は一つの相にはいって無量の相を知り、無量の相をしって、また一つの相に入る。二乗はただ一つの相に入るだけであり、無量の相を知ることができない」とある。「別教」は一つの相に入り、また無量の相に入るといっても、さらに一つの相に入ることはできない。能力の高い菩薩は「即空」であるために一つの相に入り、「即仮」であるために無量の相を知り、「即中」であるためにさらに一つの相に入る。

このような菩薩は、深く最高の「智慧」の大海を求めて、その「一心」は、「即空」「即仮」「即中」である。これが真実の「実相」である。

華厳経』は二乗に共通せず、ただ菩薩に対応するのみである。「一切智」「道種智」「一切種智」の「三智」を順番に得るので、正しい「実」ではない。順番を経ないで得るものが、正しい「実」である。「方等教」において「蔵教」「通教」「別教」「円教」それぞれが「三智」を得ることは、「蔵教」「通教」「別教」を虚妄として、「円教」を「実」とする。『大品般若経』に「一切智」「道種智」「一切種智」の「三智」が説かれているが、それは「通教」「別教」「円教」(注:般若は大乗のみの教えであるので「蔵教」は除外する)に属する。前の「通教」「別教」は深く求めない。浅く、「実」ではない。後の「円教」は深く「一心」の「三智」を求める。このために「実」である。『法華経』は「あなたは私の子である」とあり、四つとか三つなどの差別はない。あらゆるところに求めても、他の「乗」はなく、ただ「一実相」の「智慧」があるのみである。声聞の教えを完全に超越して、ただこの上ない道を説くのみである。これが純粋な「一実」の「体」である。

『涅槃経』に「一実諦とは、二つはない。二つはないために、一実諦と名付ける」とある。また「一実諦」は「無虚偽」と名付ける。また「一実諦」は、「顛倒(てんどう・真理とは真逆であることをひっくり返っているということで表現する)」することはない。また「一実諦」は、悪魔の説くものではない。また「一実諦」は、「常・楽・我・浄」と名付ける。「常・楽・我・浄」は「空・仮・中」と異なることはない。

異なるならば、二つとしなければならない。二つであるため、「一実諦」ではない。「一実諦」は、「即空」「即仮」「即中」であって、異なることはなく二つでないために、「一実諦」と名付ける。もし「隔歴三諦(かくりゃくのさんたい・三諦を順番に観じること)」であれば、すなわちそれは「虚偽」としなければならない。「虚偽」の法は、「一実諦」とは名づけない。三つではないので、「一実諦」である。もし異なるならば、すなわち「顛倒」が破られていないことであるので、「一実諦」ではない。三つではないので、「顛倒」はなく、「顛倒」がないために、「一実諦」と名付ける。異なるならば、「一乗」とは名づけない。「空・仮・中」の三つの法が異ならず、具足して円満であることを、「一乗」と名付ける。この「乗」は高く広く、あらゆる宝をもって飾られている。このために「一実諦」と名付ける。悪魔は、別であって異なる「空」「仮」など悟れるわけがないにもかかわらず、別であって異なる「空」「仮」を説く。もし「空・仮・中」が異なっていなければ、悪魔はそれを説くことができない。悪魔の説くことができないものを、「一実諦」と名付ける。もし「空・仮・中」が異なっていれば、「顛倒」と名付け、異なっていないならば、「不顛倒」と名付ける。「不顛倒」であるために、「煩悩」はなく、「煩悩」がないために、「浄」と名付ける。「煩悩」がなければ、すなわち「業」がなく、「業」がなければ、「我」と名付ける。「業」がないために「報」がなく、「報」がないために「楽」と名付ける。「報」がなければ、生死はなく、生死がなければ「常」と名付ける。このように、「常・楽・我・浄」を「一実諦」と名付ける。

「一実諦」とは、すなわち「実相」である。「実相」とは、すなわち経の正しい「体」である。この「実相」は、すなわち「空・仮・中」である。「即空」であるために、すべての凡夫の執着による言論を破り、すべての外道の誤った見解による言論を破る。「即仮」であるために、「三蔵教」の「有門」「無門」「亦有亦無門」「非有非無門」の「四門」の小乗の「実相」を破り、「通教」の声聞と縁覚と菩薩が共に見る小乗の「実相」を破る。「即中」であるために、段階的に観じる偏った「実相」を破る。

また「実相」には、あらゆる「顛倒」「小乗」「偏」の「因果」「四諦」の法はなく、また「小乗」「偏」などの「三宝」の名称はない。ただ「実相」の「因果」があるのみであり、「四諦」「三宝」は自然と具足している。またあらゆる「方便」の「因果」「四諦」「三宝」を具足している。なぜなら、「実相」は海のような「法界」であるからである。ただこの「三諦」は真実の「実相」である。

また、「別教」の段階的に観じる「実相」を開けば、すなわち「円教」の「実相」である。証しする道が同じであるからである。また「通教」の声聞と縁覚と菩薩が共に得る「実相」を開いて深く求めるならば、底に至るためである。また「三蔵教」の「実相」を開き、声聞の法を究める。またあらゆる見解の言論の「実相」を開く。見解において動じることなく、そのまま「三十七道品」を修すためである。またあらゆる執着による言論を開く。「魔界」はそのまま「仏界」であるからである。道でない道を修して仏の道に通じる。すべての実在の中に、あらゆる安楽の「性」がある。以上は「絶待妙」をもって「実相」を明かした。これこそ、経の「体」である。

法華玄義 現代語訳 171

『法華玄義』現代語訳 171

 

B.2.広く誤った解釈をあげる

経典の正しい「体」は玄妙を絶しており、容易に知ることはできない。また、誤った教えや未熟な教えは、正しく完全な教えを乱す。たとえば、魚の目が真珠の中に入ったら紛らわしくなるようなものである。このため、ここでは誤った解釈を指摘しなければならない。そのために、六つの項目を立てる。一つめは、凡夫の典籍についてであり、二つめは、外道の典籍についてであり、三つめは、小乗においてであり、四つめは、偏った教えについてであり、五つめは、喩えについてであり、六つめは、悟りについてである。

 

B.2.1.凡夫の典籍について

大智度論』に「世の典籍において実とするものは、国を護り家を治めることを実とするのである。また外道で実とするものは、誤った知恵や偏った解釈を実とするのである。小乗に実とするものは、苦を厭い安楽を求め、偏った真理を実とするのである」とある。

これらは、ただ「実」という名称はあるが、その意義はない。なぜなら、世間の妖幻道術(ようげんどうじゅつ)もまた「実」と称されるが、その多くは鬼神の人を惑わす術である。これが心に入れば、迷酔狂乱して、自らの好みに従って優れたもの良いものなどを判断し、異議を立てて人々を動かして、特異な奇跡の相を示す。あるいは、髑髏にくそを盛り、多くの人の前でそれを飲み、生魚、臭肉などの汚らわしい物を食べる。あるいは、裸やぼろをまとい、規則に従わず、放逸であり礼を用いない。また問うこともなく答えることもなく、あらゆる欺きを行ない、無知な者たちを惑わし、信じさせ惑わす。そのようなものに捕らわれてから脱することを求めても得難い。内には病を得、その身を害し、外には家人を殺し一族を滅ぼす。その災いは故郷に及び、現世ではあらゆる苦しみを受け、後に地獄に堕ちて長く苦しむ。生まれ変わりを繰り返して真実の道を妨げ、解脱する機会はない。このようなことは実際に見られることである。そこに何の真実があろうか。愚かであり執着に基づく主張である「愛論」の範囲内である。

周公(しゅうこう)や孔子(こうし)の経の典籍などは、治法、礼法、兵法、医法、天文、地理、八卦(はちか=占い)、五行(ごぎょう・存在の生成を説いた教え)、世間の三皇五帝(神話伝説時代の八人の帝王)の典籍である。孝は家を治め、忠は国を治める。それぞれの親を親とし、その子を子とし、上を敬い下を愛し、仁義謙遜温和を徳として人民を安楽に生活させ、人々を統率して国を建てる。もしその法が失われれば、強い者は弱いものを虐げ、天下が乱れ、人民は平安を失い、鳥は住むことに余裕がなく、獣は休む余裕がない。この法によれば、天下泰平であり、牛や馬は家畜舎に戻る。まさに知るべきである。この法は民を愛し、国を治めるものであり、これを実と称する。『金光明最勝王経』に「釈提桓因(帝釈天のこと)のあらゆる勝論」というのは、この意義である。しかしこれは「十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見)」に過ぎない。「十善」を行なうことにより、天の心にかなう。そのため諸天は喜んで、天然の報いを求める。そしてこの法を優れているとする。このため「勝論」というのである。また大梵天王は「出欲論」を説くのは、「禅定」を修して、欲望の泥沼から出るためである。またこれも「愛論」の範囲内である。また世には占いや医術がある。薬を服用して長生きし、体を鍛えて身体を整える。仙人や魔術を使う者は、このような薬は秘要であり真実だという。これもまた「愛論」の範囲内の煩悩に過ぎない。

 

B.2.2.外道の典籍について

外道の典籍については次の通りである。もし薬を服用して知を求め(注:ここでは典籍を読むことを薬の服用に喩えている)、聡明利発であり道理を探求し、この薬の調合法を優れているとするならば、薬の力は多少知ったとしても、その結果を見ることはできない。薬の副作用に触れれば得たものも失い。薬をやめても失う。これもまた真実ではない。

このような荘子老子の教えのようなものは、無為無欲、天真虚静にして、あらゆる大言をやめ、聖人と呼ばれることもなく、智慧も絶することである。ただ胸の内を空しくするだけであり、「四見(しけん・有、無、亦有亦無、非有非無の四種の誤った見解)」の外に出ることはない。どうして聖なる教えに関わることがあろうか。たとえ「四見」の外に出たとしても、なお「複四見(ふくしけん・有の有と有の無、無の有と無の無、亦有亦無の有と亦有亦無の無、非有非無の有と非有非無の無の四種の誤った見解)に堕ちる。あくまでも人間の見解の中のことであり、解脱の道ではない(注:一見、言葉の遊びのように見えるが、あくまでも人間の思考というものは、自分が先ずいて、自分の周りに認識の対象があり、自分がその対象を認識しているという次元であるので、そのような認識を駆使しても、堂々巡りに言葉の泥沼にはまるのみである、ということである)。

外国の論理学のようなものについては、梨昌(りしょう)族が募集をかけて、五百の論理的な質問を集めた。その第一に梨昌の人は「瞿曇(くどん・釈迦の姓)よ、一つの究極的な道があるのか。多くの究極的な道があるのか」と言った。それに対して仏は「ただ一つの究極的な道があるのみである」と答えた。続いてその人は「どうして多くの師がただそれぞれ究極的な道を説くのか」と言った。仏は鹿頭(ろくず・弟子の一人)を指して、「あなたはこの人が誰であるか知っているか」と言った。その人は「知っている。究極的な道について論じさせれば第一の人である」と答えた。仏は「究極的な道を得たのであれば、どうして、その道を捨てて、私の弟子となったのであろうか」と言った。その人はたちまち悟って、仏の教えの中の唯一の究極的な道を讃嘆した。

また、長爪(ちょうそう・弟子の一人)が次のように言っている。「すべての論は破りやすく、すべての言葉は転じやすい。諸法の実相を観じれば、長く、一つの法も心の中に入ることはない」。『大智度論』に「長爪は亦有亦無の見解に執着している」とある。また「また不可説の見解をめぐらしている」とある。

このようなものは、百千万種である。虚妄の戯論は、煩悩に流転させられる。誤った見解の網が広く、誤った知恵が盛んである。「境」に触れれば執着を起こす。ある時は有または無を繰り返し、有の無を有とし、無の有、無の無を無とし、有の非有非無を有とし、無の非有非無を無とし、百千回繰り返しても、すべてみな誤った見解である。生死の隅であり、真実ではない。『涅槃経』に「無明の枷(かせ)をかけられ、生死の柱につながれている。二十五有を廻って、解脱を得ることができない」とあるのは、この意義である。

 

B.2.3.小乗において

声聞の教えの中に「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」とある。『大集経』に「憍陳如(きょうちんにょ・釈迦の一番弟子)沙門は、最初に真実の知見を得た」とある」。

しかし、小乗は大いなる「慈悲」を用いない。衆生を救わず、功徳の力は薄く、仏になることを求めず、深く実相を究めることがなく、智慧は劣っていて弱い。「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」といっても、すなわち、「断」と「常」を二つの対照的な見解とし、「真諦」を「中道」とする。「真無漏」の「智慧」を「見」と名付け、「涅槃」の法を証することを「知」と名付ける。「見思の惑」を断じて、「分断生死」を除くといっても、草庵に住めば、究極的な理法とは言わない。前の生死の有に対照的な無に過ぎない。有も無も破るべきであり、破られやすい。これは真実の道ではないので、「実相」と名付けることはできない。

法華玄義 現代語訳 170

『法華玄義』現代語訳 170

 

B.1.2.体を述べる意義について

そもそも、「体」を述べる意義とは何か。『大智度論』に、「あらゆる小乗の経典は、もし無常、無我、涅槃の三つの項目をあげて小乗の印とするならば、すなわちそれは仏の教えである。そしてこれにそって修行すれば、道を得て、逆に、この三つの教えの印がなければ、悪魔の教えとなる。一方、大乗の経典は、ただ一つの教えの印があるのみである。それは諸法実相である。そのような教えを記す経典をみな了義経と名付け、それによって大いなる道を得る。もしこの実相の印がなければ、悪魔の教えである」とある。このために舎利弗は「世尊は実道を説き、悪魔にはこれがない」と言っている。ではなぜ小乗は三つであり、大乗は一つなのであろうか。小乗では「生死」と「涅槃」は異なるとしている。「生死」については、「無常」をもって最初の印として、「無我」をもって後の印として、この二つの印をもって「生死」を説く。「涅槃」はただ一つの寂滅の印とする。このために、三つを用いる。一方、大乗では、「生死」はすなわち「涅槃」、「涅槃」はすなわち「生死」であり、不二不異である。『維摩経』に「すべての衆生は常に寂滅の相である。すなわち大涅槃である」とある。また「本(もと)自ら生じることなく、今すなわち滅することもない」とある。「本生ぜず」とは、すなわち、「無常」「無我」の相ではない。「今すなわち滅することもない」とは、すなわち小乗の寂滅の相ではない。ただこれは「一実相」であるのみである。「実相」であるために、「常に寂滅の相」なのである。「すなわち大涅槃」であり、ただ一つの印を用いるのである。

この大乗と小乗の印をもって、「半(不完全な教えという意味)」と「満(完全な教えという意味)」の経典とするならば、外道も乱すことはできない。天の魔も破ることはできない。世間の公文書に印が押されていれば、信じるべきであることと同じである。まさに知るべきである。あらゆる経典は、最終的には「実相」の印を得ることをもって、完全な教えの大乗とすることができるのである。

 

B.1.3.正しく体を明らかにする

「体」とはすなわち「一実相」の印である。「三軌」においては「真性軌」のことである。「十法界」においては「仏法界」のことである。「仏法界」の「十如是」においては、「如是体」のことである。四種の「十二因縁」においては、「不思議不生不滅の十二因縁」のことである。「不思議不生不滅の十二因縁」においては、「十二支」の「苦道」はすなわち「法身」であるということである。四種の「四諦」においては、「無作の四諦」のことである。「無作の四諦」においては、ただ「滅諦」のことである。七種の「二諦」においては、五種の「二諦」のことである。五種の「二諦」においては、ただ「真諦」のことである。五種の「三諦」においては、五種の「中道第一義諦」のことである。あらゆる「一諦」においては、「中道」の「一実諦」のことである。あらゆる「無諦」においては、「中道」の「無諦」のことである。

もしこの意義を知るならば、「智妙」において、および「十妙」の一つ一つに、正しく「体」について知ることは可能である。

もし譬喩をもって、この意義を明らかにすれば、次の通りである。梁や柱をもって家を建てても、家そのものは、梁でもなければ柱でもない。すなわち、屋内の空間が家である。この場合、柱や梁は「因果」の喩えであり、家は柱でもなく梁でもないということは、「実相」の喩えである。「実相」を「体」とするのであって、梁や柱ではないのである。もし屋内に空間がなければ、入る所がない家となり、そもそも家とは言わない。同じように、「因果」に「実相」がなければ、何も成就しない。『大智度論』に「もしこの空がなければ、すべて何も起こらない」とある。またたとえば、太陽や月は天を天とする役割があって、それは公の大臣などが主を助けるようなものである。太陽と月は二つであるが、大いなる虚空である天は二つはない。大臣などはたくさんいてもよいが、主は多くはない。この意義のために、正しく「体」について知る必要がある。

「三軌」の「乗」を成就することは、「不縦不横」「不即不離」であるが、言い表すために便宜が必要である。そのため、「観照軌」は除いて、ただ「真性軌」だけを挙げる。その意義は明瞭である。「三軌」がすでにこのようであるので、他の方も同様である。

 

B.1.4.経文を引用して証する

法華経』の「序品」に「今、仏は光明を放って、実相の義を明らかにする」とある。また「諸法実相の義は、すでにあなたがたのために説く」とある。「方便品」に「ただ仏と仏だけがよく諸法実相を究め尽くす」とある。その偈の中に「諸仏の法は長い時間の後、必ず真実を説くであろう」とある。また「私は仏としての荘厳な身を現わして、実相の印を説く」とある。舎利弗は理解して「世尊は真実の道を説き、悪魔にはできないことです」と言っている。また「真実の智慧の中に安住して、私は必ず仏となるでしょう」と言っている。「法師品」に「方便の門を開いて、真実の相を示す」とある。「安楽行品」に「諸法の如実の相を観じる」とある。「如来寿量品」に「如来は真実の通りに知見する」とある。『観普賢菩薩行法経』には「昔、霊鷲山において、広く唯一の真実の道を説いた」とある。また「一実の境界を観じる」とある。

このために次のように知ることができる。諸仏は大いなるわざの因縁のために世に出現し、ただ衆生が仏の知見を開き、この「一実」の「非因非果」の理法を見せるのである。『法華経』の経文の真意はここにある。明らかな証拠とすべきである。

法華玄義 現代語訳 169

『法華玄義』現代語訳 169

 

B.顕体

 

第二に「顕体(けんたい)」とは(注:最初の「五重玄義」の項目があげられている箇所では、「弁体(べんたい)」となっていたが、ここでは「顕体」となっているので、それに従う)、前の「釈名」では総合的に説いたが、そのため、文義が広く漫然としていた。ここからは、特に要点を絞って、正式に経典の本体を顕わし、直接、「真性軌」を述べる。「真性軌」の他に、「観照軌」と「資成軌」がないわけではないが、理解しやすくするために、「真性軌」のみを説く。後に、「明宗」と「論用」を述べるが、その場合も「真性軌」がないわけではないが、その項目の名前に合った説き方をする。

「顕体」の「体」とは、経典の根本的思想であり、あらゆる意義の集まる所である。このため、これを会得することが難しいばかりではなく、またこれについて説くことも容易ではない。『法華経』に「この法は示すことができない。言葉の相は寂滅している」とある。『涅槃経』には、「不生不生不可説」とある。また「因縁あるがゆえに、また説くことができる」とある。

ここでは、概略的に七つの項目を立てる。一つめは「正しく経典の体を顕わす」、二つめは「広く誤った解釈をあげる」、三つめは「一法の異名」、四つめは「実相に入る門を明らかにする」、五つめは「遍くあらゆる経典の体について述べる」、六つめは「遍くあらゆる修行の体について述べる」、七つめは「遍くすべての法の体について述べる」である。

 

B.1.正しく経典の体を顕わす

正しく経典の体を顕わすことにおいて、さらに四つの意義を明らかにする。一つめは、古い解釈をあげ、二つめは、「体」を述べる意義について、三つめは、正しく「体」を明らかにし、四つめは、経文を引用して証する。

 

B.1.1.古い解釈をあげる

北の地論宗の人は、「一乗」をもって経典の「体」とする。その言葉は漠然としており、要件を絞ることができていない。「一乗」の言葉は通じて「権」と「実」を混同してしまう。「権」の「一乗」は、すべての経典の意義ではない。一方、「実」の「一乗」は、その意義に「真性軌」「観照軌」「資成軌」の「三軌」が欠けている。「体」を顕わすことが明らかでないので、用いることはできない。

また、ある人が解釈して「真諦を経典の体とする」と言っている。これも、また他にも通じる意義を乱用していることである。小乗と大乗は、共にみな「真諦」を明らかにしている。小乗の「真諦」は、もはや言うまでもない。大乗の「真諦」も、また種類が多い。ここでは、何の「真諦」をもって「体」とするのだろうか。このために用いることはできない。

また、ある人が解釈して「一乗の因果を経典の体とする」と言っている。しかしこれもまた用いることはできない。なぜなら、「一乗」の言葉が表わす意味は、すでに前に述べた通りである。また「因果」は「因」と「果」の二法であるので、事象的な範囲を出ていない。どうしてこれが経典の「体」であろうか。事象的なことは、理法の証印がなければ、すなわち悪魔の経典に同じである。どうして用いることができるであろうか。

また、ある人が解釈して「乗(=教え・経典)の体は因果に通じる。果はあらゆる徳をもって体とし、因はあらゆる善をもって体とする」と言っている。そして『十二門論』を引用して、「大いなる諸仏の乗は、文殊菩薩や観世音菩薩が乗である」と述べ、また、『法華経』を引用して、「『仏は自ら大乗に住む』とは、すなわち果である。『あらゆる仏の弟子は、この宝の乗に乗る』とは、因である」と述べている。また『観普賢菩薩行法経』を引用して、「大乗の因果は、みなこれ実相である」と述べている。

私的に問う:「因」の「乗」は、「果」の「乗」に変わるのであろうか、変わらないのであろうか。もし変わるのであるならば、何が能通(=因)であり、何が所通(=果)であろうか。もし変わらないのであれば、「因」と「果」はいつまでも並列的である。それではこの理法はない。もし別の法の「因果」に通じるならば、まさに知るべきである。「因果」は「果」の経体ではない。『十二門論』に、「大いなる諸仏の乗」の「大いなる」という意味は、仏はもはや修行をしないことであり、それを「乗」と名付けている。どうして修行をしないことをもって「因果」の「乗」を証することができようか。『法華経』に「仏は自ら大乗に住む」とあるのは、これは理法に乗って人を導くことである。「果」である徳に住んでいるという意味ではない。『観普賢菩薩行法経』に「因果」を明らかにしていることは、みな「実相」を指すのである。どうして「実相」をもって「因果」を証することができようか。このためここではこれも用いない。

ある人が「因果は般若波羅蜜を本とし、それ以外の五つの波羅蜜を末とする。果の乗は「薩婆若(さつばにゃ・仏の智慧を指す古代インド語の音写語)をもって本とし、他を末とする。また、因果は狭く、果の乗は広い。また、般若に相応する心は一体の乗であり、不相応の心は異体の乗である。また無所得(=空)に相応する修行は近乗であり、仏に対して頭を下げ手を挙げるという有所得は遠乗である。また六波羅蜜において世間と出世間が合わさっているのは遠乗であり、三十七道品がただ出世間であるのは近乗と名付ける。また四句(四通りの言い方①~④)がある。①六波羅蜜と三十七道品はすべて無所得である。また②六波羅蜜と三十七道品は共に有所得である。また、③六波羅蜜は世間と出世間が合わさっており、三十七道品は合わさっていない。また、④三十七道品は世間と出世間が合わさっており、六波羅蜜は合わさっていない」と言っている。

私的に言う:「般若」を「乗」の「本」とすることは、『法華経』においては、白牛の喩えであり、経典の「体」ではない。「薩婆若」を「乗」の「本」とすることは、『法華経』においては、道場において成就するところの「果」である。これもまた「乗」の「体」ではない。「因乗」は狭いとは、時間的な義であり、「果乗」は広いとは、空間的な義である。すべて『法華経』の「乗」の「体」ではない。「般若」相応の心、「無所得」「近遠」などは、『法華経』においてはすべて、経典の「乗」の「体」を喩える大白牛車の飾りや侍従であって、「乗」の「体」ではない。なぜ皮や毛や枝葉のことで論争をするのか。いたずらに争うことは以上のようなことである。誰がこれを止めるのであろうか。

またある人は、『大智度論』を引用して、「六波羅蜜をもって乗の体とする。方便は生死を運び出し、慈悲は衆生を運び取る」と言う。しかし『法華経』においては、「般若波羅蜜」は牛であり、「五波羅蜜」は飾りであり、「方便」は侍従、「慈悲」は家の軒(のき)である。これも「乗」の「体」ではない。

『中辺分別論』に「乗に五つある。一つめは乗の本である。それは真如仏性のことである。二つめは乗の行である。福徳の智慧を指す。三つめは乗の摂取である。慈悲のことである。四つめは乗の障害である。それは煩悩である。これは煩悩障(ぼんのうしょう)であり、修行や理解などは知的煩悩である智障(ちしょう)である。五つめは乗の果である。それは仏果のことである」とある。『唯識論』に「乗は運び出すという意味である。真如仏性によって福徳などの行を出し、この行によって仏果を出し、仏果によって衆生を運び出す」とある。『摂大乗論』に「乗に三つある。一つめは乗の因である。真如仏性を指す。二つめは乗の縁である。すべての修行のことである。三つめは乗の果である。仏果をいう」とある。『法華論』に「乗の体は、如来平等の法身をいう」と明らかにしている。また「如来の大般涅槃である」とある。この二つの文は、法身を隠れた体とし、涅槃を顕かな体としているようである。発心し、仏に対して頭を低くし手を挙げるなどを「乗の縁」と名付ける。『十二門論』に「乗の本は諸法の実相をいう。乗の主は、般若をいう。乗の補助は、すべての修行が補助して成就させることである。乗の到達点は、薩婆若である」とある。

この五つの論は、乗の体を明らかにすることは同じであるが、余計な飾りのようなものがある。『法華経』において「乗」の「体」を明らかにすることは、正しくこれは「実相」であり、飾りはない。もし飾りの方を取ってしまえば、仏の乗るところの「乗」ではなくなってしまう。

法華玄義 現代語訳 168

『法華玄義』現代語訳 168

 

A.4.2.d.⑤観心をもって経を明らかにする

以上述べてきたことに基づいて、四つの項目(第一は無翻の立場において。第二は有翻の立場において。第三は有翻と無翻を融合する立場において。第四は法を経る立場において)において観心を立てる。

⑤.第一.無翻の立場において

「無翻」の立場の観心において、六つの項目(Ⅰ.心に善悪のあらゆる心を含む。Ⅱ.心は法の本である。Ⅲ.心に発せられる過程を含む。Ⅳ.心に泉のように涌き出るという意味を含む。Ⅴ.心に花輪を結ぶことを含む。Ⅵ.墨の縄という意味を含む)を立てる。

⑤.第一.Ⅰ.心に善悪のあらゆる心を含む

まさに知るべきである。この心は「諸法」の都である。どうして一つの意義に決めつけることができようか。もし悪が心であるならば、心に善およびあらゆる種類の心を含まないことになる。もし善が心であるならば、心に悪およびあらゆる種類の心を含まないことになる。何をもって心の名とするかはわからない。したがって、心という名称によって、すべてを含ませるのである。このような略称である心はすべてを含むのである。どうして「スートラ」という言葉の意味であるところの「法の本ということ」「発せられる過程」「泉のように涌き出るという意味」「墨の縄という意味」「花輪を結ぶという意味」の五つの意義を含まないことがあろうか。『華厳経』に「一つの微塵の中にすべての世界の経巻がある」というのは、この意味である。

⑤.第一.Ⅱ.心は法の本である

大智度論』に「すべての世界の中において、心から作られないものはない」とある。心がなければ思いや感覚はなく、思いや感覚がなければ言語はない。まさに知るべきである。心は言葉の本(=「教」の本)である。『大集経』に「心行、大行、偏行」とある。心は思いの作用である。思いの作用は「(五陰の中の)行陰」に属する。あらゆる修行は思いの作用によって成り立つので、心は「行」の本である。もし心がなければ、理法は何と合致するのであろうか。修行の最初の心に理法が研ぎ澄まされると恍惚となって、悟りに似た心境になり、やや「相似」の「位」に入り、真実を証する。これを心は理法の本であるとする。

⑤.第一.Ⅲ.心に発せられる過程を含む

最初の一瞬の心はわずかに生じ、次の心はそのまま持続するか、あるいは消滅し、次にようやく増長し、最後に確定的に心の状態を口に発する。これが、教えが発せられる過程である。最初に行を習う際、その行は微弱であり、次に少し確立され、最後の大いなる修行となる。これが、修行が発せられる過程である。最初に心を観じる際、心の理法は見ない。さらに修する時、理法が髣髴と浮かび上がり、「相似」の「位」に至って真実となる。これは、理法が発せられる過程である。

⑤.第一.Ⅳ.心に泉のように涌き出るという意味を含む

心に「諸法」が備わっていても、煩悩の妨げによって流れ出ない。泉を埋めている土石を取り除けば、泉は涌いて流れ出るようなものである。もし心を観じることをしないなら、心は暗く明らかではない。言うまでもないことである。もし明らかに心を観じるならば、教えは豊かに流れ出て、尽きることはない。これがどうして、教えが泉のように涌き出ることでないことがあろうか。もし心を観じることをしないなら、修行に隔たりが生じる。心を観じることをもって、一念一念が相続して、「六蔽(ろくへい・慳貪(けんどん)、破戒、瞋恚、憐念、散乱・愚痴)」を翻して「六波羅蜜」を成就し、その「六波羅蜜」にすべての行を収める。これは、行が泉のように涌き出ることである。もしよく心を観じるならば、鋭い鍬をもって地面を耕し、石や塩気の土を取り除き、理法の水が清く澄み、滔滔(とうとう)と流れて尽きることがないようなものである。これは、義(=理法)が泉のように涌き出ることである。

⑤.第一.Ⅴ.心に花輪を結ぶことを含む

「観念」が正しければ、一つの教えを聞き保ち、経文を読むにあたって誤りはない。心を観じて「禅定」の力を得れば、行を修するにあたって誤りはなく、心を観じて「道共戒(どうぐかい・悟り得た道そのものが戒として働くこと)」の力を得れば、義を明らかにするにあたって誤りはない。また心を観じて、「禅定」の「智慧」を得れば、「法身」を荘厳して顕わす。これはみな理解すべきである。

⑤.第一.Ⅵ.墨の縄という意味を含む

もし心を観じて「正語」を得れば、真理を曲げる誤った教えから離れる。心を観じることが正しければ、誤った修行を免れる。心に「見」の執着がなければ、正しい理法に入る。事象的な行は縄のようであり、理法的な行は墨のようである。「愛」「見」の木を切って、正しい教えの器を作るのである。

以上が心の「経」に多くの意義を含むことであり、概略的に十五の意義を示した。

⑤.第二.有翻の立場において

「有翻」の立場の観心において、六つの項目(Ⅰ.心は拠り所である。Ⅱ.心は契である。Ⅲ.心は法の本であり線である。Ⅳ.心は善語教である。Ⅴ.心は軌範である。Ⅵ.心は常である)を立てる。

⑤.第二.Ⅰ.心は拠り所である

「教」「行」「義」の「三義」は心による。すべての「教」の言葉は粗い心と微細な心により、すべての「行」は心の思いにより、すべての「義」は「智慧」の心による。『維摩経』に「諸仏の解脱は、まさに衆生の心の働きの中に求めるべきである」とある。心は縦糸と横糸である。悟りを縦糸とし、観心を横糸として、教えの言葉を織りなす。また、「智慧」の「行」を縦糸とし、「行」の「行」を横糸とし、あらゆる修行を織りなす。心の時間的な流れにおいて理法に結び付くことを縦糸とし、心の空間的な範囲において理法と結び付くことを横糸として、「義」の理法を織りなす。「観心」の「境」を縦糸とし、「観心」の「智」を横糸とし、「観心」を巡らせてすべての文章を織りなす。

⑤.第二.Ⅱ.心は契である

「観心」の「境」に契(かな)うということは、「縁」に契うことである。「四随(しずい・そのまま「四悉檀」に対応する。「四悉檀」は『大智度論』の中に記されているが、この「四随」は、禅を説く経典に記されているとあるがどの経典か不明である)」の「随楽欲(ずいぎょうよく)」に契う心を「教」に契うとし、「随便宜(ずいべんぎ)」「随対治(ずいたいじ)」に契う心を「行」に契うとし、「随第一義(ずいだいいちぎ)」に契う心は理法に契う。

⑤.第二.Ⅲ.心は法の本であり線である

前に説いた通りである。

⑤.第二.Ⅳ.心は善語教である

法と教えの言葉は、共に善悪に通じる。ここで、「善法」「善語」をもってこれを定める。心と「観心」はまた善悪に通じる。ここで、「善心」「善観」をもってこれを定める。すなわち、これは、「善語教」「善行」「善理」である。したがって、心に「三義」を備える。

⑤.第二.Ⅴ.心は軌範である

もし「観心」がなければ、軌範はない。「観心」をもって「心王(心がすべてを動かすので王に喩えている)」を正す。「心王」が正しければ、心の作用も正しい。「行」「理」も同様である。「心王」が理法に契えば、心の作用も理法に契う。したがって、規範と名付ける。

⑤.第二.Ⅵ.心は常である

心の本性は常に定まっていて、虚空のようである。誰がこれを破ることができようか。また悪しき悟りは、良い悟りを破ることができない。誤った修行は正しい修行を犯さない。誤った理法は正しい理法を破らない。このために、心を「常」と名付ける。

以上、あらゆる事象的解釈によって、それぞれ心に向かって「観心」を修する。「観心」の「智慧」がいよいよ成就して、事象において誤ることはない。火に薪を加えるように、事象的なことと理法的なことに誤りがない。文字に即して文字はなく、文字を捨てないままに、しかも別に「観心」を修する。

⑤.第三.有翻と無翻を融合する立場において

理解すべきである。

⑤.第四.法を経る立場において

小乗は、悪の中に善はなく、善の中に悪がないと説く。事象的なことと理法的なことにおいても同様である。すなわち、悪しき心は「経」ではないので、義が多く含まれることはない。狭い道では二人が並んで進むことはできない。一方、大乗の「観心」は、悪しき心を観じれば、それを悪しき心ではないとする。また悪に即して善である。またすなわち、悪でなく善でない。善い心を観じれば、それを善い心ではないとする。また善に即して悪である。また善でなく悪でない。

「一心」を観じれば、すなわち「三心(三諦の心)」である。この「三心」をもってすべての心を経て、すべての法を経る。どの心、どの法が、一つであり三つであろうか。すべての法はこの心に赴き、すべての心はこの法に赴く。

このように心を観じることを、すべての「語(=教)」の本、「行」の本、「理」の本とする。「有翻」の「五義」、「無翻」の「五義」は、一つ一つの心において、解釈して滞ることはない。すべての心に遍く行き渡り、これが「経」でないことはない。大まかな意義は理解すべきである。多く記す必要はない。

(注:以上をもって「釈名」は終わる)

法華玄義 現代語訳 167

『法華玄義』現代語訳 167

 

墨の色が「経」であることが、法の本とするということは、次の通りである。もし墨の文字において「瞋恚」を生じれば、他者の寿命を断じる。もし墨の文字において「愛」を起こして、盗みや姦淫をして、さらに墨の文字において「愚痴」を起こして「邪見」を生じれば、まさに知るべきである。墨の文字は、地獄、餓鬼、畜生、修羅の「四趣」の本となる。もし墨の文字において「慈悲」を起こして、平等な心が生じ、さらに「正見」が生じれば、まさに知るべきである。墨の文字は、人、天の本となる。もし墨の文字が「果報」の「無記(むき:善でもなく悪でもないこと)」であると知れば、「無記」は「苦諦」である。「果報」の「色」において煩悩の執着が生じることは、「集諦」である。文字は因縁によってなるものであり、「苦」「空」「無我」であると知ることは、「道諦」である。すでに文字であって文字ではない、ということを知れば、文字に対して誤った見解は生じることはなく、あらゆる煩悩を滅することができることは、「滅諦」である。このように、文字において「四諦」を知る。文字の「四諦」を知れば、「煗法」「頂法」の「位」を生じさせる。これは、「果」に向かう段階、あるいは「果」、あるいは「賢聖」の「解脱」である。まさに知るべきである。このような墨の文字は声聞の本である。

もし文字について理解できなければ、それは「無明」と名付ける。文字について「愛」「瞋恚」を起こすならば、それはあらゆる「行」である。文字の好醜を分別することは、「識」である。文字を知ることを「名色」と名付ける。文字が目から入ることを「六入」と名付ける。文字が「六塵」の「六根」に対することを「触」とする。受け入れ、執着を生じさせることは、「受」である。それを手放さないことは「愛」である。力を尽くして求めることは「取」である。「取」は「業」を生じさせることであるので「有」とする。「有」が「果」を招くことは、「生老病死」と名付ける。「苦」の輪がやむことがないことは、「十二因縁」の本である。もしよく文字であって文字ではない、ということを知れば、「無明」は滅して、「行」には至らず、さらに最後の「老死」まで至らない。「無明」が滅びれば、すなわち「老死」が滅びる。まさに知るべきである。この文字は辟支仏(=縁覚)の本である。

文字は「空」であって、滅し終わって「空」となるのではない。文字の本性は本来「空」であり、「空」の中に「愛」「瞋恚」などなく、「邪」と「正」もないと知るならば、文字は不可得である。文字を知る者は誰であろうか。どうして衆生はみだりに取ったり捨てたりするのだろうか。「慈悲」「四弘誓願」を起こし、「六波羅蜜」を行じ、衆生を救い、現実的世界に入れば、また衆生に「滅度」を得る者はない。まさに知るべきである。この文字は菩薩の本である。

文字は文字ではなく、文字ではなく文字ではないことはないと知れば、あるとないの二辺の顛倒がないことを「浄」と名付け、「浄」であるならば、「業」がないことを「我」と名付け、「我」であれば、すなわち「苦」がないことを「楽」と名付け、「苦」がなければ「生死」がないことを「常」と名付ける(=常楽我浄)。なぜであろうか。文字は「俗諦」であり、文字ではないことは「真諦」であり、文字ではなく文字ではないことはないことは「一実諦」である。「一諦」はすなわち「三諦」、「三諦」はすなわち「一諦」であることは、「境」の本と名付ける(注:これ以降、「迹門の十妙」にそって述べられる)。

墨の文字は、紙と筆と心と手が合わさってできると知れば、一つ一つの文字について、一つの文字も実体として得られない。一つ一つの点もまた、文字の実体として得られないので、対象となることはない。心も手も実体として得られないので、能動的なものとして得られない。能動も所動もない。能と所を知る者は誰であろうか。これは「一切智」の本である。文字は文字ではないといっても、文字ではないままに文字である。心に従うために点がある。点に従って文字がある。文字に従って句があり、句に従って偈があり、偈に従って行があり、行に従って巻があり、巻に従って巻を包む覆いがあり、覆いに従って部があり、部に従って蔵があり、蔵に従ってあらゆる分類が成り立つ。これは「道種智」の本である。文字ではなく、文字ではないことはないといっても、文字と文字ではないことを同時に照らすのは、「一切種智」の本である(注:以上が「智」である)。雪山童子(せっせんどうじ・釈迦の前世。諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽のうちの最初の半分をまず聞き、残りの半分を聞くために命を捨てようとした説話がある)が、残りの八文字のために、愛する身体を捨てた。これは「行」の本である。私は一句、あるいは半句を理解し、「仏性」を見ることができ、「大涅槃」に入る。すなわちこれは「位」の本である。私が最高の悟りを得ることは、みな「経」を聞き、仏から「善哉(ぜんざい)」と言われることによる。この文字は「乗(=三法)」の本である。もし句を忘れれば、仏はその者に思い出させ、「三昧」と「陀羅尼」を与える。これは「感応」の本である。文字によって「神通」を学ぶことは、「神通」の本である。文字によって語る言葉を得ることは、「説法」の本である。文字を説いて他の人を教えることは、「眷属」の本である。努めて文字を学んでその得た功徳がその中にあることは、「功徳利益」の本である。

このように、文字を理解すれば、実際に手に経巻を取らなくても、常にこの「経」を読み、口に音声がなくても、遍くあらゆる経典を読誦することになる。仏が説法せずとも、常に「梵音(ぼんのん・真理の声)」を聞き、心に思惟せずとも、遍く「法界」を照らす。このような学問は、どうして偉大でないことがあろうか。まさに知るべきである。墨の文字は「諸法」の本である。その文字が、青であっても、黄色であっても、赤であっても、白であっても同じである。

文字でなく文字でないことはないということは、文字と文字ではないことを同時に照らす。不可説は不可説ではない、不可見は不可見ではない。どうして選ぶものがあるだろうか。どうして選ばないものがあるだろうか。どうして受け入れるものがあるだろうか。どうして受け入れないものがあるだろうか。どうして捨てるものがあるだろうか。どうして捨てないものがあるだろうか。これであれば、同時にこれであり、これでなければすべてこれでない。「黒色」においてすべての「黒色」でないものに通じ、すべての「黒色」でないものにおいてすべての「黒色」に通じ、すべての「黒色」でなく「黒色」ではいことはないものに通じることは、すべての間違った教えであり、すべての正しい教えである。もし「黒色」においてこのように理解できなければ、文字と文字ではないことを知らないことになる。黄色、白、赤、青、妨げる物があること、妨げる物がないことなども、みな知ることができない。もし「黒色」において通じれば、他の色を知ることも同様である。

これはすなわち『法華経』の意義である。「色」をもって「経」とする。「声塵」もまた同様である。あるいは、一つの声はすべての教えを明らかにする。

「耳根」の能力が高い者は、声の「愛」「見」の「因縁」は、「即空」「即仮」「即中」であると理解する。唇、舌、牙、歯も、みな不可得であると知れば、声はすなわち声ではなく、声ではなくまた声であり、声ではなく声ではないことはない。声を「教」「行」「義」の本とする。あらゆる意義は、みな上に説いた通りである。すなわちこれは、「声経」に通じることである。「香」、「味」、「触」などもまた同様である。『法華経』に「すべての世間の政治や産業は、みな実相と異なることはない」とあるのは、この意味である。

「六境」はみな「経」であり、「法界」に遍く行き渡っているので、「六根」もまた同様であり、「六境」と「六根」が相応することも同様である。『大品般若経』に「内観して解脱を得るのではなく、また内観を離れない」とある。これはすなわち、「一塵」は「一切塵」に達し、「一塵一切塵」を見ずに、「一塵一切塵」に通じる。「一識」において「一切識」を分別し、また「一識一切識」を見ずに、「一識一切識」に通じる。自在無礙であり、平等の大慧である。何が「経」であろうか。何が「経」でないことがあろうか。もし細かく知ろうとすれば、一つ一つの「塵」と「識」において、それぞれ理解すべきである。「有翻」「無翻」は、この三つに意義をもってこれを織り、後に「三観」をもってこれを結ぶ。

あらゆる教えを経て、「経」を分別することについては次の通りである。文字は「経」ではない。「六塵」などはみな「経」によって明らかにされるものであるが、「経」そのものではない。これは「三蔵教」の中の経典に限る。文字を離れて「解脱」の意義を説くことがないからである。文字の本性を離れることが「解脱」である。「六塵」は「実相」

であるので、二つではなく別ではない。このように説くのは、「円教」の中の経典である。「蔵教」「通教」「別教」の三つの「方便」を帯びてこの説を成り立たせるのは、「方等時」の中の経典である。「通教」「別教」の二つの「方便」を帯びてこのように説くのは、「般若時」の中の経典である。「別教」の「方便」を帯びてこのように説くのは、「華厳時」の中の経典である。

(注:以上で「A.4.2.d.④法によって経を明らかにする」が終わった)