大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 173

『法華玄義』現代語訳 173

 

第五項 喩えについて

ここで、三つの喩えをもって、体についての正しい見解と誤った見解を明らかにする。そしてそれに兼ねて、開合・破会などの意義についても述べる。

まず、三種の獣がいたとする。その獣たちが河を渡る際、同じく水に入る。この三種の獣は強いものと弱いものの区別がある。河には底がある。三種の獣のうち、兎と馬は力が弱いので、向こう岸に渡ることができるといっても、浮いてしまって深く水の底まで足はつかない。一方、大きい象は力が強いので、河底を歩いて渡ることができる。この三種の獣は、声聞と縁覚と菩薩の三人を喩え、水は即空を喩え、底は不空を喩える。声聞と縁覚の二乗は智慧が少ないので、深く究めることができない。たとえば、兎や馬のようである。菩薩は智慧が深い。たとえば大きな象のようである。水の軟らかさは空を喩える。声聞と縁覚は同じように空を見ても、不空を見ない。底は実相を喩える。菩薩だけが一人実相を究める。そして智者は空及び不空を見る。

さらに、河底に足が到達するということにおいても、二種ある。小さな象はただ底に足がつくのみであり、大きな象は深く河底の土の中まで根差す。このように、別教の智慧は不空を見るといっても、段階を経て見るのであって、真実ではない。円教は不空を見て、究竟して真実を顕わす。このような喩えは、ただ兎や馬の二乗が真実ではないことを論破するのみでなく、また小さな象が不空の真実に至っていないことを指摘し、大きな象の不空を取って、この『法華経』の体とするのである。これは、空と中が合わさって、真諦とすることについて、このような指摘をするのである。

二つめの喩えは、水晶と如意珠の二つの珠を用いたものである。形は同じであっても、水晶は空だけを見て不空を見ない但空(たんくう)に喩えられ、それは宝を降らすことはできない。如意珠は空を見て、また宝の雨を降らすことができる。水晶は宝がなく、これによって偏空=(但空)を喩える。如意珠はよく宝を降らし、これによって中道を喩える。これは、有と無が合わさって俗諦とすることについて、誤りを指摘して真実を顕わすのである。この『法華経』の体は、如意珠と同じである。

また、同じ如意珠をもって喩えとすることができる。如意珠を得てもその力の働きを知らなければ、ただの珠に過ぎない。智者はこれを得て、多く用いることができる。二乗は空を得て、空を証してそれに留まってしまう。菩薩は空を得て、方便をもって他を利益し、遍く多くの人々を悟りに導く。これは中を含んだ真諦とすることにおいて、その得失を指摘するのである。この『法華経』は、智者が如意珠を得るようなものであり、それを体とする。

二つめの喩えは、鉱石の中に金があるようなものである。愚かな人はそれを知らず、ただの石だと思って、汚れたごみの中に投げ捨て、振り返って取ることもしない。商人はこれを取って、溶かして金を取り出し、尊く保管する。金細工職人は、これを得て、あらゆるかんざしや首飾りや指輪や耳輪などを作り、仙人はこれを得て、練って不老不死の薬とし、天を飛び地の下に入り、太陽や月をつかみ、変通自在である。

ここでの愚かな人は凡夫の喩えである。実相を備えていても、修習することを知らない。商人は二乗を喩える。ただ煩悩の鉱石を断じて、即空の金を保つが、それ以上、何もしない。金細工職人は別教の菩薩を喩える。巧みな方便をもって、空・非空を知って、この世に出て衆生を教化し、仏国土を荘厳し、衆生を悟りに導く。仙人は円教の菩薩を喩える。事象がそのまま真理であることを悟り、初発心の時に、すでに正覚を成就し、一身無量身を得て、遍くすべてに応じる。『法華経』はただ金で作られた不老不死のような実相をもって、経の体とする。

また、同じ金をもって別の喩えとすることができる。最初から最後まで、同じ金を用いているので、凡夫と円教は共に実相である。異なっていることを用いて喩えれば、最初の鉱石は金とは異なっており、次の金は細工品とは異なり、細工品は不老不死の薬と異なる。不老不死の薬は透き通った色であり、油のようになめらかである。どうして細工品と同じであろうか。色も形も別であるので同種ではない。これは、金を取り出して、最終的にすばらしいものにすることを用いて、誤った教えと正しい教えを指摘するものである。以上の三種の喩えを述べることは、前の喩えは根性を喩える。根性に浅深がある。浅いものは空を得て、深いものはその仮を得て、さらに中を得るのである。

次に、三種の情を用いて喩える。最初の情は、ただ苦を出るだけであり、仏の道を求めない。真理を見て、それで終わる。次の情は段階的であり、円教の修行ではない。その次は広く大きく、法界に遍く求める。

第三番目として、方便を喩える。二乗は方便が少ない。金を取って保つだけである。別教は方便が弱く、ただよく飾って生計を立てるだけである。円教は方便が深い。このために、雲を吞み天の川を渡る。

ここで『法華経』の実相の体を明らかにすれば、河底に足をつけている大きな象のようであり、硬くて破ることができない。これをもって体妙を喩える。如意珠が宝の雨を降らせるのは、経の用妙を喩え、巧妙な智慧によって仙人となるのは、その宗妙を喩える。このような三つの喩えは三徳である。不縦不横であることを大乗とする。大乗の中において、分別して真性を指して、この経の体とする。

 

第六項 悟りについて

法相が真実で正しいことは、誠に上に説いた通りである。行がまだ理法と一致しなければ、どうして諦(=真理)と名付けることができようか。いらずらに労して四説(しせつ・続いてその説明となる)すれば、かえって迷いを生じさせてしまうようなものである。目の見えない人に、乳を説明するにあたって、粥のようなものだと言えば、軟らかいものだと思い、雪と言えば冷たいものだと思い、貝と言えば硬いものだと思い、白鳥と言えば動くものだと思い、ついに乳の本当の色を知ることができない。心が迷って夜遊びをしては、どうして諦に至るだろうか。食べ物を叫んで求めても、食べ飽きるほどのものが得られるという道理はない。自己の見解に執着してそれを真実とし、他はすべて妄語とする。ここにあり、ここになし、是と非が互いに起こり、さらに流動を増す。これをどうして諦と名付けようか。

もし諦を見ようとすれば、まず慚愧(ざんき)して恥ずるところがあることを知るべきである。さらに深く懺悔すれば、悟りに向かう種は諸仏を感じて、禅定の智慧が開き、観心が明らかに清浄となり、信心と理解が互いに一つとなる。そのような時点を、暗闇に枯れ木を見て、まだ明らかに見えない状態という。それが人か木か虫か塵か明らかではない。さらによく平安の中で忍耐をすれば、法に対する執着を生じることなく、無明を明らかに破る。清らかな鏡が動かず、清浄な水に波がなければ、魚や石の姿は自然と明らかになるようなものである。このような尊く妙を得た人は、よく般若を見る。メスをもって目を手術すれば、指の一本、二本、三本が明らかに見える。その時、姿形を見て、有とすることもまた正しく、無とすることもまた正しい。どうして有が正しいのか。明白な姿形は眼に相応し、正しい理法は智慧にかなう。これを有と名付ける。どうして無が正しいのか。そこに、軟らかいものだ、冷たいものだ、硬いものだ、動くものだという相がなければ、これを無と名付ける。『大智度論』に「一切実、一切非実、亦実亦不実、非実非不実、このようなことをみな諸法の実相と名付ける」とある。舎利弗のような者は、真実の智慧に安住して、「私はまさに仏となり、天と人とが敬うところとなるであろう」と言った。その時、すなわち「永遠に煩悩を滅ぼし尽くし、余ることはない」ということができる。これを真実に体を見ると名付ける。このために『涅槃経』に「八千人の声聞が法華の中において如来の性を見ることは、まるで秋に収穫して冬に蔵に納め、さらにすることがないようなものである」とある。理においてすることがないことを明らかにするものは、究竟の理法である。教においてすることがないとは、その教えを聞いて、さらに他に聞くことがないことである。行においてすることがないとは、その修行を行じ終わって、さらに得たところを改めないことである。このようなことが、それ以上することがないという意義である。

概略的にこれを述べれば、随智の妙なる悟りは、経の体を見ることができる。まさに随智の妙なる悟りの意をもって、あらゆる諦の境の中には、随情(ずいじょう・相手の感情に合わせて教えを説く智慧)・随智(ずいち・ただ真理によって教えを説く智慧)・随情智(ずいじょうち・相手の感情と相手の智慧に合わせて教えを説く智慧)のさまざまな分別がある。他の迷いの心を退け、ただ随智を取ることをもって、経の体を見ることを明らかにするのである。

法華玄義 現代語訳 172

『法華玄義』現代語訳 172

 

第四項 偏った教えについて

あらゆる大乗経典において、声聞と縁覚の二乗の人と同じように、方便を帯びて説く者の言葉が記されているが、それは名称が同じであるので、その意義についての解釈は注意して分別しなければならない。『大智度論』に「三乗の人は、同じように言葉にならない教えによって煩悩を断じる」とある通りである(注:つまり声聞も縁覚も菩薩も、苦を断じることにおいては同じ教えによる、ということ)。『中論』に「諸法の実相は、三人共に得る」とあるのは、二乗の人は、共に言葉にならない教えを受けて、自ら苦から出ることを求めるといっても、大いなる慈悲がないので、空を悟っただけで終わりである。能力の劣った菩薩も同じである。能力の高い菩薩は、大いなる慈悲を他の人のために行ない、深く実相を求める。これらの人に共通する実相は、その智慧蛍の光のようである。そのために実ではない。そして共通しない実相は、その智慧が日光のようである。このために実とする。

『涅槃経』に「第一義空を智慧と名付ける」とある。二乗の但空(たんくう・空の理法のみに留まること)は、空であって智慧はない。菩薩は不但空を得るので、中道の智慧である。この智慧は、寂(じゃく・苦から解放されている状態)であって同時に常に照らす。二乗はただこの寂を得るのみであり、寂であって照らすことを得ないので、実相ではない。菩薩は寂を得て、また寂であって照らすことをするので、実相である。

不空を見ることにおいては、また多種がある。一つめは、不空を見て、次第に煩悩を断じて、浅い状態から深い状態に至る。これは相似の位の実であり、正しく実ではない。二つめは、不空を見て、すべての法を備える。最初の阿字門(あじもん・ここでは最も大切な教えという意味)は、すなわちすべての意義を理解する。即中・即仮・即空は、一つではなく異なっているのでもなく、三でもなく一でもない。二乗(=通教)はただ一つの即(即空)だけであり、別教はただ二つの即(即空・即仮)であり、円教は三つの即(即空・即仮・即中)を備える。三つの即は真の実相である。

大智度論』に「何が実相であろうか。菩薩は一つの相にはいって無量の相を知り、無量の相を知って、また一つの相に入る。二乗はただ一つの相に入るだけであり、無量の相を知ることができない」とある。別教は一つの相に入り、また無量の相に入るといっても、さらに一つの相に入ることはできない。能力の高い菩薩は即空であるために一つの相に入り、即仮であるために無量の相を知り、即中であるために、さらに一つの相に入る。

このような菩薩は、深く最高の智慧の大海を求めて、その一心は、即空・即仮・即中である。これが真実の実相である。

華厳経』は二乗に共通せず、ただ菩薩に対応するのみである。「一切智・道種智・一切種智の三智を順番に得るので、正しい実ではない。順番を経ないで得るものが、正しい実である。方等教において蔵教・通教・別教・円教それぞれが三智を得ることは、蔵教・通教・別教を虚妄として、円教を実とする。『大品般若経』に一切智・道種智・一切種智の三智が説かれているが、それは通教・別教・円教(注:般若は大乗のみの教えであるので「蔵教」は除外する)に属する。前の通教・別教は深く求めない。浅く、実ではない。後の円教は深く、一心の三智を求める。このために実である。『法華経』は「あなたは私の子である」とあり、四つとか三つなどの差別はない。あらゆるところに求めても、他の乗はなく、ただ一実相の智慧があるのみである。声聞の教えを完全に超越して、ただこの上ない道を説くのみである。これが純粋な一実の体である。

『涅槃経』に「一実諦とは、二つはない。二つはないために、一実諦と名付ける」とある。また、一実諦は無虚偽と名付ける。また、一実諦は顛倒(てんどう・真理とは真逆であることをひっくり返っているということで表現する)」することはない。また、一実諦は、悪魔の説くものではない。また、一実諦は、常・楽・我・浄と名付ける。常・楽・我・浄は、空・仮・中と異なることはない。

異なるならば二つとしなければならない。二つならば一実諦ではない。一実諦は、即空・即仮・即中であって、異なることはなく二つでないために、一実諦と名付ける。もし隔歴三諦(かくりゃくのさんたい・三諦を順番に観じること)であれば、すなわちそれは虚偽としなければならない。虚偽の法は、一実諦とは名付けない。三つではないので、一実諦である。もし異なるならば、すなわち顛倒が破られていないことであるので、一実諦ではない。三つではないので顛倒」はなく、顛倒がないために、一実諦と名付ける。異なるならば、一乗とは名づけない。空・仮・中の三つの法が異ならず、具足して円満であることを一乗と名付ける。この乗は高く広く、あらゆる宝をもって飾られている。このために一実諦と名付ける。悪魔は、別であって異なる空・仮など悟れるわけがないにもかかわらず、別であって異なる空・仮を説く。もし空・仮・中が異なっていなければ、悪魔はそれを説くことができない。悪魔の説くことができないものを、一実諦と名付ける。もし空・仮・中が異なっていれば、顛倒と名付け、異なっていないならば、不顛倒と名付ける。不顛倒であるために煩悩はなく、煩悩がないために浄と名付ける。煩悩がなければ、すなわち業がなく、業がなければ我と名付ける。業がないために報がなく、報がないために楽と名付ける。報がなければ生死はなく、生死がなければ常と名付ける。このように、常・楽・我・浄を一実諦と名付ける。

一実諦とは、すなわち実相である。実相とは、すなわち経の正しい体である。この実相は、すなわち空・仮・中である。即空であるために、すべての凡夫の執着による言論を破り、すべての外道の誤った見解による言論を破る。即仮であるために、三蔵教の有門・無門・亦有亦無門・非有非無門の四門の小乗の実相を破り、通教の声聞と縁覚と菩薩が共に見る小乗の実相を破る。即中であるために、段階的に観じる偏った実相を破る。

また実相には、あらゆる顛倒・小乗・偏の因果・四諦の法はなく、また小乗・偏などの三宝の名称はない。ただ実相の因果があるのみであり、四諦三宝は自然と具足している。またあらゆる方便の因果・四諦三宝を具足している。なぜなら、実相は海のような法界であるからである。ただこの三諦は真実の実相である。

また、別教の段階的に観じる実相を開けば、すなわち円教の実相である。証しする道が同じであるからである。また通教の声聞と縁覚と菩薩が共に得る実相を開いて深く求めるならば、底に至るためである。また三蔵教の実相を開き、声聞の法を究める。またあらゆる見解の言論の実相を開く。見解において動じることなく、そのまま三十七道品を修すためである。またあらゆる執着による言論を開く。魔界はそのまま仏界であるからである。道でない道を修して仏の道に通じる。すべての実在の中に、あらゆる安楽の性がある。以上は絶待妙をもって実相を明かした。これこそ、経の体である。

法華玄義 現代語訳 171

『法華玄義』現代語訳 171

 

第二節 広く誤った解釈をあげる

経典の正しい体は玄妙を絶しており、容易に知ることはできない。また、誤った教えや未熟な教えは、正しく完全な教えを乱す。たとえば、魚の目が真珠の中に入ったら紛らわしくなるようなものである。このため、ここでは誤った解釈を指摘しなければならない。そのために、六つの項目を立てる。一つめは、凡夫の典籍についてであり、二つめは、外道の典籍についてであり、三つめは、小乗についてであり、四つめは、偏った教えについてであり、五つめは、喩えについてであり、六つめは、悟りについてである。

 

第一項 凡夫の典籍について

大智度論』に「世の典籍において実(じつ)とするものは、国を護り家を治めることを実とするのである。また外道で実とするものは、誤った知恵や偏った解釈を実とするのである。小乗に実とするものは、苦を厭い安楽を求め、偏った真理を実とするのである」とある。

これらは、ただ実という名称はあるが、その意義はない。なぜなら、世間の妖幻道術(ようげんどうじゅつ)もまた実と称されるが、その多くは鬼神の人を惑わす術である。これが心に入れば、迷酔狂乱して、自らの好みに従って優れたもの良いものなどを判断し、異議を立てて人々を動かして、特異な奇跡の相を示す。あるいは、髑髏にくそを盛り、多くの人の前でそれを飲み、生魚、臭肉などの汚らわしい物を食べる。あるいは、裸やぼろをまとい、規則に従わず、放逸であり礼を用いない。また問うこともなく答えることもなく、あらゆる欺きを行ない、無知な者たちを惑わし、信じさせ惑わす。そのようなものに捕らわれてから脱することを求めても得難い。内には病を得、その身を害し、外には家人を殺し一族を滅ぼす。その災いは故郷に及び、現世ではあらゆる苦しみを受け、後に地獄に堕ちて長く苦しむ。生まれ変わりを繰り返して真実の道を妨げ、解脱する機会はない。このようなことは実際に見られることである。そこに何の真実があろうか。愚かであり執着に基づく主張である「愛論」の範囲内である。

周公(しゅうこう)や孔子(こうし)の経の典籍などは、治法、礼法、兵法、医法、天文、地理、八卦(はちか=占い)、五行(ごぎょう・存在の生成を説いた教え)、世間の三皇五帝(神話伝説時代の八人の帝王)の典籍である。孝は家を治め、忠は国を治める。それぞれの親を親とし、その子を子とし、上を敬い下を愛し、仁義謙遜温和を徳として人民を安楽に生活させ、人々を統率して国を建てる。もしその法が失われれば、強い者は弱いものを虐げ、天下が乱れ、人民は平安を失い、鳥は住むことに余裕がなく、獣は休む余裕がない。この法によれば、天下泰平であり、牛や馬は家畜舎に戻る。まさに知るべきである。この法は民を愛し、国を治めるものであり、これを実と称する。『金光明最勝王経』に「釈提桓因(帝釈天のこと)のあらゆる勝論」というのは、この意義である。しかしこれは十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見)に過ぎない。十善を行なうことにより、天の心にかなう。そのため諸天は喜んで、天然の報いを求める。そしてこの法を優れているとする。このため「勝論」というのである。また大梵天王は「出欲論」を説くのは、禅定を修して、欲望の泥沼から出るためである。またこれも「愛論」の範囲内である。また世には占いや医術がある。薬を服用して長生きし、体を鍛えて身体を整える。仙人や魔術を使う者は、このような薬は秘要であり真実だという。これもまた「愛論」の範囲内の煩悩に過ぎない。

 

第二項 外道の典籍について

外道の典籍については次の通りである。もし薬を服用して知を求め(注:ここでは典籍を読むことを薬の服用に喩えている)、聡明利発であり道理を探求し、この薬の調合法を優れているとするならば、薬の力は多少知ったとしても、その結果を見ることはできない。薬の副作用に触れれば得たものも失い。薬をやめても失う。これもまた真実ではない。

このような荘子老子の教えのようなものは、無為無欲、天真虚静にして、あらゆる大言をやめ、聖人と呼ばれることもなく、智慧も絶することである。ただ胸の内を空しくするだけであり、四見(しけん・有、無、亦有亦無、非有非無の四種の誤った見解)の外に出ることはない。どうして聖なる教えに関わることがあろうか。たとえ四見の外に出たとしても、なお複四見(ふくしけん・有の有と有の無、無の有と無の無、亦有亦無の有と亦有亦無の無、非有非無の有と非有非無の無の四種の誤った見解)に堕ちる。あくまでも人間の見解の中のことであり、解脱の道ではない。

外国の論理学のようなものについては、梨昌(りしょう)族が募集をかけて、五百の論理的な質問を集めた。その第一に梨昌の人は「瞿曇(くどん・釈迦の姓)よ、一つの究極的な道があるのか。多くの究極的な道があるのか」と言った。それに対して仏は「ただ一つの究極的な道があるのみである」と答えた。続いてその人は「どうして多くの師がただそれぞれ究極的な道を説くのか」と言った。仏は鹿頭(ろくず・弟子の一人)を指して、「あなたはこの人が誰であるか知っているか」と言った。その人は「知っている。究極的な道について論じさせれば第一の人である」と答えた。仏は「究極的な道を得たのであれば、どうして、その道を捨てて、私の弟子となったのであろうか」と言った。その人はたちまち悟って、仏の教えの中の唯一の究極的な道を讃嘆した。

また、長爪(ちょうそう・弟子の一人)が次のように言っている。「すべての論は破りやすく、すべての言葉は転じやすい。諸法の実相を観じれば、長く、一つの法も心の中に入ることはない」。『大智度論』に「長爪は亦有亦無の見解に執着している」とある。また「また不可説の見解をめぐらしている」とある。

このようなものは、百千万種である。虚妄の戯論は、煩悩に流転させられる。誤った見解の網が広く、誤った知恵が盛んである。境に触れれば執着を起こす。ある時は有または無を繰り返し、有の無を有とし、無の有、無の無を無とし、有の非有非無を有とし、無の非有非無を無とし、百千回繰り返しても、すべてみな誤った見解である。生死の隅であり、真実ではない。『涅槃経』に「無明の枷(かせ)をかけられ、生死の柱につながれている。二十五有を廻って、解脱を得ることができない」とあるのは、この意義である。

 

第三項 小乗について

声聞の教えの中に「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」とある。『大集経』に「憍陳如(きょうちんにょ・釈迦の一番弟子)沙門は、最初に真実の知見を得た」とある」。

しかし、小乗は大いなる慈悲を用いない。衆生を救わず、功徳の力は薄く、仏になることを求めず、深く実相を究めることがなく、智慧は劣っていて弱い。「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」といっても、すなわち、「断」と「常」を二つの対照的な見解とし、真諦を中道とする。真無漏の智慧を「見」と名付け、涅槃の法を証することを「知」と名付ける。見思の惑を断じて、分断生死を除くといっても、草庵に住めば(注:つまり人と交わらず、慈悲がなければ、という意味)、究極的な理法とは言わない。前の生死の有に対照的な無に過ぎない。有も無も破るべきであり、破られやすい。これは真実の道ではないので、実相と名付けることはできない。

法華玄義 現代語訳 170

『法華玄義』現代語訳 170

 

第二項 体を述べる意義について

そもそも、体を述べる意義とは何か。『大智度論』に、「あらゆる小乗の経典は、もし無常、無我、涅槃の三つの項目をあげて小乗の印とするならば、すなわちそれは仏の教えである。そしてこれにそって修行すれば、道を得て、逆に、この三つの教えの印がなければ、悪魔の教えとなる。一方、大乗の経典は、ただ一つの教えの印があるのみである。それは諸法実相である。そのような教えを記す経典をみな了義経と名付け、それによって大いなる道を得る。もしこの実相の印がなければ、悪魔の教えである」とある。このために舎利弗は「世尊は実道を説き、悪魔にはこれがない」と言っている。ではなぜ小乗は三つであり、大乗は一つなのであろうか。小乗では「生死」と「涅槃」は異なるとしている。生死については、無常をもって最初の印として、無我をもって後の印として、この二つの印をもって生死を説く。涅槃はただ一つの寂滅の印とする。このために、三つを用いる。一方、大乗では、生死即涅槃、涅槃即生死であり、不二不異である。『維摩経』に「すべての衆生は常に寂滅の相である。すなわち大涅槃である」とある。また「本(もと)自ら生じることなく、今すなわち滅することもない」とある。「本生ぜず」とは、すなわち、無常・無我の相ではない。「今すなわち滅することもない」とは、すなわち小乗の寂滅の相ではない。ただこれは一実相であるのみである。実相であるために、「常に寂滅の相」なのである。「すなわち大涅槃」であり、ただ一つの印を用いるのである。

この大乗と小乗の印をもって、「半(不完全な教えという意味)」と「満(完全な教えという意味)」の経典とするならば、外道も乱すことはできない。天の魔も破ることはできない。世間の公文書に印が押されていれば、信じるべきであることと同じである。まさに知るべきである。あらゆる経典は、最終的には「実相の印」を得ることをもって、完全な教えの大乗とすることができるのである。

 

第三項 明確に体を明らかにする

このように、体とはすなわち「一実相の印」である。三軌においては「真性軌」のことである。十法界においては「仏法界」のことである。仏法界の十如是においては、「如是体」のことである。四種の十二因縁においては、「不思議不生不滅の十二因縁」のことである。不思議不生不滅の十二因縁においては、「十二種の苦道はそのまま法身」であるということである。四種の四諦においては、「無作の四諦」のことである。無作の四諦においては、ただ「滅諦」のことである。七種の二諦においては、「五種の二諦」のことである。五種の二諦においては、ただ「真諦」のことである。五種の三諦においては、「五種の中道第一義諦」のことである。あらゆる一諦においては、「中道の一実諦」のことである。あらゆる無諦においては、「中道の無諦」のことである。

もしこの意義を知るならば、智妙において、また十妙の一つ一つに、正しく体について知ることは可能である。

もし譬喩をもって、この意義を明らかにすれば、次の通りである。梁や柱をもって家を建てても、家そのものは、梁でもなければ柱でもない。すなわち、屋内の空間が家である。この場合、柱や梁は因果の喩えであり、家は柱でもなく梁でもないということは、実相の喩えである。実相を体とするのであって、梁や柱ではないのである。もし屋内に空間がなければ、入る所がない家となり、そもそも家とは言わない。同じように、因果に実相がなければ、何も成就しない。『大智度論』に「もしこの空がなければ、すべて何も起こらない」とある。またたとえば、太陽や月は天を天とする役割があって、それは公の大臣などが主を助けるようなものである。太陽と月は二つであるが、大いなる虚空である天は二つはない。大臣などはたくさんいてもよいが、主は多くはない。この意義のために、正しく体について知る必要がある。

三軌の乗を成就することは、不縦不横・不即不離であるが、言い表すために便宜が必要である。そのため、観照軌は除いて、ただ真性軌だけを挙げる。その意義は明瞭である。三軌がすでにこのようであるので、他の方も同様である。

 

第四項 経文を引用して証する

法華経』の「序品」に「今、仏は光明を放って、実相の義を明らかにする」とある。また「諸法実相の義は、すでにあなたがたのために説く」とある。「方便品」に「ただ仏と仏だけがよく諸法実相を究め尽くす」とある。その偈の中に「諸仏の法は長い時間の後、必ず真実を説くであろう」とある。また「私は仏としての荘厳な身を現わして、実相の印を説く」とある。舎利弗は理解して「世尊は真実の道を説き、悪魔にはできないことです」と言っている。また「真実の智慧の中に安住して、私は必ず仏となるでしょう」と言っている。「法師品」に「方便の門を開いて、真実の相を示す」とある。「安楽行品」に「諸法の如実の相を観じる」とある。「如来寿量品」に「如来は真実の通りに知見する」とある。『観普賢菩薩行法経』には「昔、霊鷲山において、広く唯一の真実の道を説いた」とある。また「一実の境界を観じる」とある。

このために次のように知ることができる。諸仏は大いなるわざの因縁のために世に出現し、ただ衆生が仏の知見を開き、この「一実」の非因非果の理法を見せるのである。『法華経』の経文の真意はここにある。明らかな証拠とすべきである。

法華玄義 現代語訳 169

『法華玄義』現代語訳 169

 

第二章 顕体

 

第二に「顕体(けんたい)」とは(注:最初の「五重玄義」の項目があげられている箇所では、「弁体(べんたい)」となっていたが、ここでは「顕体」となっているので、それに従う)、前の「釈名」では総合的に説いたが、そのため、文義が広く漫然としていた。ここからは、特に要点を絞って、明確に経典の本体を顕わし、直接、真性軌を述べる。真性軌の他に、観照軌と資成軌がないわけではないが、理解しやすくするために、真性軌のみを説く。後に、「明宗」と「論用」を述べるが、その場合も真性軌がないわけではないが、その項目の名前に合った説き方をする。

顕体の「体」とは、経典の根本的思想であり、あらゆる意義の集まる所である。このため、これを会得することが難しいばかりではなく、またこれについて説くことも容易ではない。『法華経』に「この法は示すことができない。言葉の相は寂滅している」とある。『涅槃経』には、「不生不生不可説」とある。また「因縁あるがゆえに、また説くことができる」とある。

ここでは、概略的に七つの項目を立てる。一つめは、明確に経典の体を顕わす、二つめは、広く誤った解釈をあげる、三つめは、一法の異名、四つめは、実相に入る門を明らかにする、五つめは、遍く諸経の体について述べる、六つめは、遍く諸行の体について述べる、七つめは、遍く諸法の体について述べるである。

 

第一節 明確に経典の体を顕わす

明確に経典の体を顕わすことにおいて、さらに四つの意義を明らかにする。一つめは、古い解釈をあげ、二つめは、体を述べる意義について、三つめは、明確に体を明らかにし、四つめは、経文を引用して証する。

 

第一項 古い解釈をあげる

北の地論宗の人は、一乗をもって経典の体とする。その言葉は漠然としており、要件を絞ることができていない。一乗の言葉は通じて権と実を混同してしまう。権の一乗は、すべての経典の意義ではない。一方、実の一乗は、その意義に真性軌・観照軌・資成軌の三軌が欠けている。体を顕わすことが明らかでないので、用いることはできない。

また、ある人が解釈して「真諦を経典の体とする」と言っている。これも、また他にも通じる意義を乱用していることである。小乗と大乗は、共にみな真諦を明らかにしている。小乗の真諦は、もはや言うまでもない。大乗の真諦も、また種類が多い。ここでは(注:『法華経』ではという意味)、何の真諦をもって体とするのだろうか。このために用いることはできない。

また、ある人が解釈して「一乗の因果を経典の体とする」と言っている。しかしこれもまた用いることはできない。なぜなら、一乗の言葉が表わす意味は、すでに前に述べた通りである。また因果は因と果の二法であるので、事象的な範囲を出ていない。どうしてこれが経典の体であろうか。事象的なことは、理法の証印がなければ、すなわち悪魔の経典に同じである。どうして用いることができるであろうか。

また、ある人が解釈して「乗(=教え・経典)の体は因果に通じる。果はあらゆる徳をもって体とし、因はあらゆる善をもって体とする」と言っている。そして『十二門論』を引用して、「大いなる諸仏の乗は、文殊菩薩や観世音菩薩が乗である」と述べ、また、『法華経』を引用して、「『仏は自ら大乗に住む』とは、すなわち果である。『あらゆる仏の弟子は、この宝の乗に乗る』とは、因である」と述べている。また『観普賢菩薩行法経』を引用して、「大乗の因果は、みなこれ実相である」と述べている。

私的に問う:因の乗は、果の乗に変わるのであろうか、変わらないのであろうか。もし変わるのであるならば、何が能通(=因)であり、何が所通(=果)であろうか。もし変わらないのであれば、因と果はいつまでも並列的である。それではこの理法はない。もし別の法の因果に通じるならば、まさに知るべきである。因果は果の経体ではない。『十二門論』に、「大いなる諸仏の乗」の「大いなる」という意味は、仏はもはや修行を必要としないことであり、それを乗と名付けている。どうして修行をしないことをもって因果の乗を証することができようか。『法華経』に「仏は自ら大乗に住む」とあるのは、これは理法に乗って人を導くことである。果である徳に住んでいるという意味ではない。『観普賢菩薩行法経』に因果を明らかにしていることは、みな実相を指すのである。どうして実相をもって因果を証することができようか。このためここではこれも用いない。

ある人が「因果は般若波羅蜜を本とし、それ以外の五つの波羅蜜を末とする。果の乗は薩婆若(さつばにゃ・仏の智慧を指す古代インド語の音写語)をもって本とし、他を末とする。また、因果は狭く、果の乗は広い。また、般若に相応する心は一体の乗であり、不相応の心は異体の乗である。また無所得(=空)に相応する修行は近乗であり、仏に対して頭を下げ手を挙げるという有所得は遠乗である。また六波羅蜜において世間と出世間が合わさっているのは遠乗であり、三十七道品がただ出世間であるのは近乗と名付ける。また四句(四通りの言い方①~④)がある。①六波羅蜜と三十七道品はすべて無所得である。また②六波羅蜜と三十七道品は共に有所得である。また、③六波羅蜜は世間と出世間が合わさっており、三十七道品は合わさっていない。また、④三十七道品は世間と出世間が合わさっており、六波羅蜜は合わさっていない」と言っている。

私的に言う:般若を乗の本とすることは、『法華経』においては、白牛の喩えであり、経典の体ではない。薩婆若を乗の本とすることは、『法華経』においては、道場において成就するところの果である。これもまた乗の体ではない。因乗は狭いとは、時間的な義であり、果乗は広いとは、空間的な義である。すべて『法華経』の乗の体ではない。般若相応の心・無所得・近遠などは、『法華経』においてはすべて、経典の乗の体を喩える大白牛車の飾りや侍従であって、乗の体ではない。なぜ皮や毛や枝葉のことで論争をするのか。いたずらに争うことは以上のようなことである。誰がこれを止めるのであろうか。

またある人は、『大智度論』を引用して、「六波羅蜜をもって乗の体とする。方便は生死を運び出し、慈悲は衆生を運び取る」と言う。しかし『法華経』においては、般若波羅蜜は牛であり、五波羅蜜は飾りであり、方便は侍従、慈悲は家の軒(のき)である。これも乗の体ではない。

『中辺分別論』に「乗に五つある。一つめは乗の本である。それは真如仏性のことである。二つめは乗の行である。福徳の智慧を指す。三つめは乗の摂取である。慈悲のことである。四つめは乗の障害である。それは煩悩である。これは煩悩障(ぼんのうしょう)であり、修行や理解などは知的煩悩である智障(ちしょう)である。五つめは乗の果である。それは仏果のことである」とある。『唯識論』に「乗は運び出すという意味である。真如仏性によって福徳などの行を出し、この行によって仏果を出し、仏果によって衆生を運び出す」とある。『摂大乗論』に「乗に三つある。一つめは乗の因である。真如仏性を指す。二つめは乗の縁である。すべての修行のことである。三つめは乗の果である。仏果をいう」とある。『法華論』に「乗の体は、如来平等の法身をいう」と明らかにしている。また「如来の大般涅槃である」とある。この二つの文は、法身を隠れた体とし、涅槃を顕かな体としているようである。発心し、仏に対して頭を低くし手を挙げるなどを乗の縁と名付ける。『十二門論』に「乗の本は諸法の実相をいう。乗の主は、般若をいう。乗の補助は、すべての修行が補助して成就させることである。乗の到達点は、薩婆若である」とある。

この五つの論は、乗の体を明らかにすることは同じであるが、余計な飾りのようなものがある。『法華経』において乗の体を明らかにすることは、正しくこれは実相であり、飾りはない。もし飾りの方を取ってしまえば、仏の乗るところの乗ではなくなってしまう。

法華玄義 現代語訳 168

『法華玄義』現代語訳 168

 

第五目 観心をもって経を明らかにする

以上述べてきたことに基づいて、四つの項目(第一は無翻の立場において。第二は有翻の立場において。第三は有翻と無翻を融合する立場において。第四は法を経る立場において)において観心を立てる。

⑤.第一.無翻の立場において

無翻の立場の観心において、六つの項目(Ⅰ.心に善悪のあらゆる心を含む。Ⅱ.心は法の本である。Ⅲ.心に発せられる過程を含む。Ⅳ.心に泉のように涌き出るという意味を含む。Ⅴ.心に花輪を結ぶことを含む。Ⅵ.墨の縄という意味を含む)を立てる。

⑤.第一.Ⅰ.心に善悪のあらゆる心を含む

まさに知るべきである。この心は諸法の都である。どうして一つの意義に決めつけることができようか。もし悪が心であるならば、心に善およびあらゆる種類の心を含まないことになる。もし善が心であるならば、心に悪およびあらゆる種類の心を含まないことになる。何をもって心の名とするかはわからない。したがって、心という名称によって、すべてを含ませるのである。このような略称である心はすべてを含むのである。どうして「スートラ」という言葉の意味であるところの「法の本ということ」「発せられる過程」「泉のように涌き出るという意味」「墨の縄という意味」「花輪を結ぶという意味」の五つの意義を含まないことがあろうか。『華厳経』に「一つの微塵の中にすべての世界の経巻がある」というのは、この意味である。

⑤.第一.Ⅱ.心は法の本である

大智度論』に「すべての世界の中において、心から作られないものはない」とある。心がなければ思いや感覚はなく、思いや感覚がなければ言語はない。まさに知るべきである。心は言葉の本(=「教」の本)である。『大集経』に「心行、大行、偏行」とある。心は思いの作用である。思いの作用は(五陰の中の)行陰に属する。あらゆる修行は思いの作用によって成り立つので、心は行の本である。もし心がなければ、理法は何と合致するのであろうか。修行の最初の心に理法が研ぎ澄まされると恍惚となって、悟りに似た心境になり、やや相似位に入り、真実を証する。これを心は理法の本であるとする。

⑤.第一.Ⅲ.心に発せられる過程を含む

最初の一瞬の心はわずかに生じ、次の心はそのまま持続するか、あるいは消滅し、次にようやく増長し、最後に確定的に心の状態を口に発する。これが、教えが発せられる過程である。最初に行を習う際、その行は微弱であり、次に少し確立され、最後の大いなる修行となる。これが、修行が発せられる過程である。最初に心を観じる際、心の理法は見ない。さらに修する時、理法が髣髴と浮かび上がり、相似位に至って真実となる。これは、理法が発せられる過程である。

⑤.第一.Ⅳ.心に泉のように涌き出るという意味を含む

心に諸法が備わっていても、煩悩の妨げによって流れ出ない。泉を埋めている土石を取り除けば、泉は涌いて流れ出るようなものである。もし心を観じることをしないなら、心は暗く明らかではない。言うまでもないことである。もし明らかに心を観じるならば、教えは豊かに流れ出て、尽きることはない。これがどうして、教えが泉のように涌き出ることでないことがあろうか。もし心を観じることをしないなら、修行に隔たりが生じる。心を観じることをもって、一念一念が相続して、六蔽(ろくへい・慳貪(けんどん)、破戒、瞋恚、憐念、散乱・愚痴)を翻して六波羅蜜を成就し、その六波羅蜜にすべての行を収める。これは、行が泉のように涌き出ることである。もしよく心を観じるならば、鋭い鍬をもって地面を耕し、石や塩気の土を取り除き、理法の水が清く澄み、滔滔(とうとう)と流れて尽きることがないようなものである。これは、義(=理法)が泉のように涌き出ることである。

⑤.第一.Ⅴ.心に花輪を結ぶことを含む

観念が正しければ、一つの教えを聞き保ち、経文を読むにあたって誤りはない。心を観じて禅定の力を得れば、行を修するにあたって誤りはなく、心を観じて道共戒(どうぐかい・悟り得た道そのものが戒として働くこと)の力を得れば、義を明らかにするにあたって誤りはない。また心を観じて、禅定の智慧を得れば、法身を荘厳して顕わす。これはみな理解すべきである。

⑤.第一.Ⅵ.墨の縄という意味を含む

もし心を観じて正語を得れば、真理を曲げる誤った教えから離れる。心を観じることが正しければ、誤った修行を免れる。心に見の執着がなければ、正しい理法に入る。事象的な行は縄のようであり、理法的な行は墨のようである。愛・見の木を切って、正しい教えの器を作るのである。

以上が心の「経」に多くの意義を含むことであり、概略的に十五の意義を示した。

⑤.第二.有翻の立場において

有翻の立場の観心において、六つの項目(Ⅰ.心は拠り所である。Ⅱ.心は契である。Ⅲ.心は法の本であり線である。Ⅳ.心は善語教である。Ⅴ.心は軌範である。Ⅵ.心は常である)を立てる。

⑤.第二.Ⅰ.心は拠り所である

教・行・義の三義は心による。すべての教の言葉は粗い心と微細な心により、すべての行は心の思いにより、すべての義は智慧の心による。『維摩経』に「諸仏の解脱は、まさに衆生の心の働きの中に求めるべきである」とある。心は縦糸と横糸である。悟りを縦糸とし、観心を横糸として、教えの言葉を織りなす。また、智慧の行を縦糸とし、行の行を横糸とし、あらゆる修行を織りなす。心の時間的な流れにおいて理法に結び付くことを縦糸とし、心の空間的な範囲において理法と結び付くことを横糸として、義の理法を織りなす。観心の境を縦糸とし、観心の智を横糸とし、観心を巡らせてすべての文章を織りなす。

⑤.第二.Ⅱ.心は契である

観心の境に契(かな)うということは、縁に契うことである。四随(しずい・そのまま「四悉檀」に対応する。「四悉檀」は『大智度論』の中に記されているが、この「四随」は、禅を説く経典に記されているとあるがどの経典か不明である)」の随楽欲(ずいぎょうよく)に契う心を教に契うとし、随便宜(ずいべんぎ)・随対治(ずいたいじ)に契う心を行に契うとし、随第一義(ずいだいいちぎ)に契う心は理法に契う。

⑤.第二.Ⅲ.心は法の本であり線である

前に説いた通りである。

⑤.第二.Ⅳ.心は善語教である

法と教えの言葉は、共に善悪に通じる。ここで、善法・善語をもってこれを定める。心と観心はまた善悪に通じる。ここで、善心・善観をもってこれを定める。すなわち、これは、善語教・善行・善理である。したがって、心に三義を備える。

⑤.第二.Ⅴ.心は軌範である

もし観心がなければ、軌範はない。観心をもって心王(心がすべてを動かすので王に喩えている)を正す。心王が正しければ、心の作用も正しい。行・理も同様である。心王が理法に契えば、心の作用も理法に契う。したがって、規範と名付ける。

⑤.第二.Ⅵ.心は常である

心の本性は常に定まっていて、虚空のようである。誰がこれを破ることができようか。また悪しき悟りは、良い悟りを破ることができない。誤った修行は正しい修行を犯さない。誤った理法は正しい理法を破らない。このために、心を常と名付ける。

以上、あらゆる事象的解釈によって、それぞれ心に向かって観心を修する。観心の智慧がいよいよ成就して、事象において誤ることはない。火に薪を加えるように、事象的なことと理法的なことに誤りがない。文字に即して文字はなく、文字を捨てないままに、しかも別に観心を修する。

⑤.第三.有翻と無翻を融合する立場において

理解すべきである。

⑤.第四.法を経る立場において

小乗は、悪の中に善はなく、善の中に悪がないと説く。事象的なことと理法的なことにおいても同様である。すなわち、悪しき心は経ではないので、義が多く含まれることはない。狭い道では二人が並んで進むことはできない。一方、大乗の観心は、悪しき心を観じれば、それを悪しき心ではないとする。また悪に即して善である。またすなわち、悪でなく善でない。善い心を観じれば、それを善い心ではないとする。また善に即して悪である。また善でなく悪でない。

一心を観じれば、すなわち三心(三諦の心)である。この三心をもってすべての心を経て、すべての法を経る。どの心、どの法が、一つであり三つであろうか。すべての法はこの心に赴き、すべての心はこの法に赴く。

このように心を観じることを、すべての語(=教)の本、行の本、理法の本とする。有翻の五義、無翻の五義は、一つ一つの心において、解釈して滞ることはない。すべての心に遍く行き渡り、これが経でないことはない。大まかな意義は理解すべきである。多く記す必要はない。

(注:以上をもって「釈名」は終わる)

法華玄義 現代語訳 167

『法華玄義』現代語訳 167

 

墨の色が経であることが、法の本とするということは、次の通りである。もし墨の文字において瞋恚を生じれば、他者の寿命を断じる。もし墨の文字において愛(注:あくまでも仏教的意味で執着のこと)を起こして、盗みや姦淫をして、さらに墨の文字において愚痴を起こして邪見を生じれば、まさに知るべきである。墨の文字は、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣の本となる。もし墨の文字において慈悲を起こして、平等な心が生じ、さらに正見が生じれば、まさに知るべきである。墨の文字は、人、天の本となる。もし墨の文字が果報の無記(むき:善でもなく悪でもないこと)であると知れば、無記は苦諦である。果報の色(しき:認識の対象。物質という意味ではない)において煩悩の執着が生じることは、集諦である。文字は因縁によってなるものであり、苦・空・無我であると知ることは、道諦である。すでに文字であって文字ではない、ということを知れば、文字に対して誤った見解は生じることはなく、あらゆる煩悩を滅することができることは、滅諦である。このように、文字において四諦を知る。文字の四諦を知れば、煗法・頂法の位を生じさせる。これは、果に向かう段階、あるいは果、あるいは賢聖の解脱である。まさに知るべきである。このような墨の文字は声聞の本である。

もし文字について理解できなければ、それは無明と名付ける。文字について愛・瞋恚を起こすならば、それはあらゆる行である。文字の好醜を分別することは、識である。文字を知ることを名色と名付ける。文字が目から入ることを六入と名付ける。文字が六塵の六根に対することを触とする。受け入れ、執着を生じさせることは、受である。それを手放さないことは愛である。力を尽くして求めることは取である。取は業を生じさせることであるので有とする。有が果を招くことは、生老病死と名付ける。苦の輪がやむことがないことは、十二因縁の本である。もしよく文字であって文字ではない、ということを知れば、無明は滅して、行には至らず、さらに最後の老死まで至らない。無明が滅びれば、すなわち老死が滅びる。まさに知るべきである。この文字は辟支仏(=縁覚)の本である。

文字は空であって、滅し終わって空となるのではない。文字の本性は本来、空であり、空の中に愛・瞋恚などなく、邪と正もないと知るならば、文字は不可得である。文字を知る者は誰であろうか。どうして衆生はみだりに取ったり捨てたりするのだろうか。慈悲・四弘誓願を起こし、六波羅蜜を行じ、衆生を救い、現実的世界に入れば、また衆生に滅度を得る者はない。まさに知るべきである。この文字は菩薩の本である。

文字は文字ではなく、文字ではなく文字ではないことはないと知れば、あるとないの二辺の顛倒がないことを浄と名付け、浄であるならば、業がないことを我と名付け、我であれば、すなわち苦がないことを楽と名付け、苦がなければ生死がないことを常と名付ける(=常楽我浄)。なぜであろうか。文字は俗諦であり、文字ではないことは真諦であり、文字ではなく文字ではないことはないことは一実諦である。一諦はすなわち三諦、三諦はすなわち一諦であることは、境の本と名付ける(注:これ以降、「迹門の十妙」にそって述べられる)。

墨の文字は、紙と筆と心と手が合わさってできると知れば、一つ一つの文字について、一つの文字も実体として得られない。一つ一つの点もまた、文字の実体として得られないので、対象となることはない。心も手も実体として得られないので、能動的なものとして得られない。能動も所動もない。能と所を知る者は誰であろうか。これは一切智の本である。文字は文字ではないといっても、文字ではないままに文字である。心に従うために点がある。点に従って文字がある。文字に従って句があり、句に従って偈があり、偈に従って行があり、行に従って巻があり、巻に従って巻を包む覆いがあり、覆いに従って部があり、部に従って蔵があり、蔵に従ってあらゆる分類が成り立つ。これは道種智の本である。文字ではなく、文字ではないことはないといっても、文字と文字ではないことを同時に照らすのは、一切種智の本である(=「智妙」・「境妙」。能動と所動が一つとなっている)。雪山童子(せっせんどうじ・釈迦の前世。諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽のうちの最初の半分をまず聞き、残りの半分を聞くために命を捨てようとした説話がある)が、残りの八文字のために、愛する身体を捨てた。これは行の本である(=「行妙」)。私は一句、あるいは半句を理解し、仏性を見ることができ、大涅槃に入る。すなわちこれは位の本である(=「位妙」)。私が最高の悟りを得ることは、みな経を聞き、仏から「善哉(ぜんざい)」と言われることによる。この文字は乗(=三法)の本である(=「三法妙」)。もし句を忘れれば、仏はその者に思い出させ、三昧と陀羅尼を与える。これは感応の本である(=「感応妙」)。文字によって神通を学ぶことは、神通の本である(=「神通妙」)。文字によって語る言葉を得ることは、説法の本である(=「説法妙」)。文字を説いて他の人を教えることは、眷属の本である(=「眷属妙」)。努めて文字を学んでその得た功徳がその中にあることは、「功徳利益」の本である(=「功徳利益妙」)。

このように、文字を理解すれば、実際に手に経巻を取らなくても、常にこの経を読み、口に音声がなくても、遍くあらゆる経典を読誦することになる。仏が説法せずとも、常に梵音(ぼんのん・真理の声)を聞き、心に思惟せずとも、遍く法界を照らす。このような学問は、どうして偉大でないことがあろうか。まさに知るべきである。墨の文字は諸法の本である。その文字が、青であっても、黄色であっても、赤であっても、白であっても同じである。

文字でなく文字でないことはないということは、文字と文字ではないことを同時に照らす。不可説は不可説ではない、不可見は不可見ではない。どうして選ぶものがあるだろうか。どうして選ばないものがあるだろうか。どうして受け入れるものがあるだろうか。どうして受け入れないものがあるだろうか。どうして捨てるものがあるだろうか。どうして捨てないものがあるだろうか。これであれば、同時にこれであり、これでなければすべてこれでない。黒色においてすべての黒色でないものに通じ、すべての黒色でないものにおいてすべての黒色に通じ、すべての黒色でなく黒色ではいことはないものに通じることは、すべての間違った教えであり、すべての正しい教えである。もし黒色においてこのように理解できなければ、文字と文字ではないことを知らないことになる。黄色、白、赤、青、妨げる物があること、妨げる物がないことなども、みな知ることができない。もし黒色において通じれば、他の色を知ることも同様である。

これはすなわち『法華経』の意義である。色をもって経とする。声塵もまた同様である。あるいは、一つの声はすべての教えを明らかにする。

耳根の能力が高い者は、声の愛・見の因縁は、即空・即仮・即中であると理解する。唇、舌、牙、歯も、みな不可得であると知れば、声はすなわち声ではなく、声ではなくまた声であり、声ではなく声ではないことはない。声を教・行・義の本とする。あらゆる意義は、みな上に説いた通りである。すなわちこれは、声経に通じることである。香・味・触などもまた同様である。『法華経』に「すべての世間の政治や産業は、みな実相と異なることはない」とあるのは、この意味である。

六境はみな経であり、法界に遍く行き渡っているので、六根もまた同様であり、六境と六根が相応することも同様である。『大品般若経』に「内観して解脱を得るのではなく、また内観を離れない」とある。これはすなわち、一塵は一切塵に達し、一塵一切塵を見ずに、一塵一切塵に通じる。一識において一切識を分別し、また一識一切識を見ずに、一識一切識に通じる。自在無礙であり、平等の大慧である。何が経であろうか。何が経でないことがあろうか。もし細かく知ろうとすれば、一つ一つの塵と識において、それぞれ理解すべきである。有翻・無翻は、この三つに意義をもってこれを織り、後に三観をもってこれを結ぶ。

あらゆる教えを経て、経を分別することについては次の通りである。文字は経ではない。六塵などはみな経によって明らかにされるものであるが、経そのものではない。これは三蔵教の中の経典に限る。文字を離れて解脱の意義を説くことがないからである。文字の本性を離れることが解脱である。六塵は実相であるので、二つではなく別ではない。このように説くのは、円教の中の経典である。蔵教・通教・別教の三つの方便を帯びてこの説を成り立たせるのは、方等時の中の経典である。通教・別教の二つの方便を帯びてこのように説くのは、般若時の中の経典である。別教の方便を帯びてこのように説くのは、華厳時の中の経典である。

(注:以上で「第四目 法によって経を明らかにする」が終わった。『妙法蓮華経』を対象とした釈名の中で、最も重要なのは、「妙」と「法」である。そして「妙」と「法」を解釈するならば、教理的には、ほぼそれ以外のことは述べる必要がないほどである。しかし、釈名は、「妙」「法」「蓮華」「経」の四つの部門に分けなければならない。そしてそれらの各部門の分量に、かなりの違いがあっては不自然である。このように考えた筆録者である章安は、特に「蓮華」「経」において自らの思考を駆使して、教理的に考えられる限りの文を記したのではないだろうか。その結果、かなりくどいと感じざるを得ない内容となったのではないだろうか。したがって、特にここまで「蓮華」「経」について天台大師は説かれたのだろうかという疑問を持ってしまうのである。もちろんこれはあくまでも文献的証拠もない推測である)。