大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 175

『法華玄義』現代語訳 175

 

第四節 実相に入る門を明らかにする

実相は幽玄であり微妙であり、その理法は深い淵のようである。断崖絶壁に登る時、非常に長い梯子を使うように、真実の源に一致しようと願うならば、必ず教えと修行による。このために、教えと修行をもって門とする。『法華経』には「仏の教えの門をもって、三界の苦から出る」とある。また「仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏になることができる」とある。門は良く通じるという意味による。ここに、概略的に四つの項目を立てる。一つめは、概略的に門の相を示し、二つめは、門に入る観法を示し、三つめは、麁妙を示し、四つめは、開顕を示す。

 

第一項 概略的に門の相を示す

そもそも仏法は言葉に表現することはできない。対する人に合わせて説けば、必ず四句をもって理法を説き、修行する人を通して、真実の境地に入らせる。『大智度論』に「このような法において、第一義悉檀を説く。いわゆる一切実、一切不実、一切亦実亦不実、一切非実非不実である。このようなものを諸法実相と名付ける」とある。実相はなお一つではない。なぜ四ということができようか。まさに知るべきである。四は実相に入る門に過ぎない。また「四門より清涼地に入る。この門は無礙である。ただ能力の高い者だけが入るのではなく、鈍い者もまた入る。ただ心の定まった者だけではなく、心が散っているままで、志を確かなものとして精進する者も、また入ることができる」とある。また「般若に四種の相がある。いわゆる有相、無相、そして非有非無相である」とある。般若は一つの相ではない。どうして四相であろうか。まさに知るべきである。これもまた般若に入る門である。また「般若波羅蜜は、たとえば大火の炎はどこからも取ることができないようなものである。邪見の火が焼くからである」とある。もし火に触れなければ、身を暖めることもでき、食物を料理することができる。もし火に触れてしまえば、身を焼く。身が焼かれれば、身を暖めることも食物も意味がない。四門は般若に通じ、煩悩を除いて、偉大な事実を明らかにする。もしそれを取って執着するならば、「邪見」を作り、法身を焼く。法身が焼かれれば、四門にどうして入ることができようか。もし火に触れなければ、よく門に入ることができる。

もし仏の教えをもって門とすれば、その教えを四とする。もし一つの教えにおいて、四句をもって理法を述べれば、すなわち四門となる。一つの教えに四門があるならば、四つの教えにおいては合計十六門となる。もし修行をもって門とすれば、教えを受けて観法を修し、思惟によって入ることができる。すなわち修行をもって門とする。教えによって真理を発するならば、教えをもって門とする。もし最初に教えを聞いて、優れた馬が鞭の影を見ただけで正しい道を進むようであるならば、観法を修する必要はない。もし最初に観法を修し、夜に雷の光を見て、その場で道を見ることができるようであるならば、さらに教えは必要ない。いすれも、前世からの善根が成熟するのである。ここでは、教門において通じることができることを信行として、観門において通じることができることを法行と名付ける。

もし聞いて悟らなければ、まさに観法を修すべきである。観法において悟るならば、それは法行となる。もし観法を修して悟ることがなければ、まさに教えを聞くべきである。教えを聞いて悟ることができるなら、それは信行と名付けられる。教えは即ち観法の門であり、観法はすなわち教えの門である。教えを聞いてしかも観法を修し、教えを観じてしかも聞き、教えと観法が互いに補い合うならば、すなわち通入して門を成就する。

教えと観法を合わせて論じれば、三十二門がある。これは、その門の数の多さを表わすのみの数字である。詳細に門について求めれば、実際に無量である。五百の身因(五百人の僧侶たちがそれぞれこの世に身を受けた原因を語ったが、釈迦はすべてそれらを正しいと認めたということ)、三十二の不二門(空の法門である不二門に入るためにはどうしたらいいか、という質問に対して、三十二人の菩薩がそれぞれ違った答えをしたという維摩経の記述による)がある。善財童子は法界に遊戯して、無量の善知識(教えに導いてくれる人)に会い、無量の法門、無量の観行を説くのを聞いた。帝釈天の喜見城には千二百もの門がある。実相の教えの城だけがどうして門が一つだけであろうか。『法華経』には「あらゆる法門を説いて、仏の道を説く」とある。

ここではしばらく、蔵教・通教・別教・円教の四教について、十六門の相を明らかにする。

三蔵教の四門の第一は有門である。生死の法は、この世の性質によるものでもなく、原子的な物質によるものでもなく、父母の行為によるものでもない。すなわちこれは、無明が十二因縁の法則に従って働き、あらゆる事柄を生じさせたのである。煩悩・業・苦の三道はすべてみな有である。すべての有為は、無常・苦・空・無我である。修行者はよく煗法・頂法・世第一法を発得し、真無漏の因を発して、真理に従って道を修す。このように、道諦もまた有である。子縛(しばく・煩悩の縛り)と果縛(かばく・煩悩の結果による縛り)はすでに断じているので、有余と無余の涅槃を得る。このために『大集経』に「大変深い真理は、説くことができない。第一実義は声なく文字もない。憍陳如(きょうじんにょ)比丘は、すべての実在に対する真実の知見を獲得した」とある。これはすなわち煩悩を滅ぼすことにより真理を得たということである。真理もまた有である。このようなことは、あらゆる『阿毘曇論』に説くところであり、有を見て道を得れば、すなわち有門である。

三蔵教の四門の第二は空門である。この教えにおいては、十二因縁の無明から老死と、四諦の苦諦・集諦の二諦を分析する。因成仮(いんじょうけ・因縁によって生じた仮)・相続仮(そうぞくけ・仮が連続して存在すること)・相待仮(そうだいけ・相対関係を生じさせる仮)の三仮は浮いては消えるようなものであり、仮実を破り、すべて平等の空にはいって、真無漏を発する。空によって真理を見る。空はすなわち第一義門である。このために、須菩提(しゅぼだい)は石室にあって生滅無常を観じて空に入る。空によって道を得て、仏の法身を見る。おそらくこれは『成実論』の説くところである。

三蔵教の四門の第三は有空門である。この教えにおいては、十二因縁の生滅を明らかにする。亦有亦空である。もしこの教えを受ければ、よく有と無に執着する誤った見解を破る。因縁の有・空を見て、真無漏を発し、有・無によって真理を見る。有・無はすなわち第一義門である。これは、迦旃延(かせんねん)がこの門から入った。このために『昆勒論(こんろくろん・現存せず)』を作り、この門について述べている。

三蔵教の四門の第四は非有非無門である。この教えにおいては、十二因縁の生滅を明らかにする。非有非無の理法である。もしこの教えを受ければ、よく有と無の二辺に執着する誤った見解を破り、因縁の非有非無を見て、真無漏を発す。非有非無によって真理を見る。非有非無はすなわち第一義門である。悪口車匿(あっくしゃのく・釈迦が出家する時の従者であり後に出家したが、釈迦の従者であったという高慢からたびたび他の比丘たちに悪口を言うなどした。しかし、釈迦の入滅後、心を入れ替え悟りを開いた)はこの門によって道に入った。まだその論は見ない。ある人は「犢子(とうし)の『阿毘曇』にこの意義が述べられている」という。その論に、我は第五の不可説蔵の中にあると述べている。我は過去現在未来の三世と離れているので有我ではなく、無為ではないので無我ではないという。これは恐らく用いるべきではない。

次に通教の四門の相を明らかにする。これは大乗の門である。大乗は通教に通じ、別教に通じるので、偏って取るべきではない。ここで通教に通じることについて四門を述べる。先に述べた三蔵教の四門は、みな色(しき・認識の対象)を滅して空に入る。実際の人を頭、胴、両手、両足の六分割として見てしまえば、そのどこにも人を見ることができないので空と名付けるようなものである。通教の四門は、みな色をそのまま見て、これを空とすることであり、鏡に映った像を観じて、人体の六つの部分がそのまま空であると見るようなものである。分割して空と見るのではない。『大智度論』に「仏が比丘に告げて『空を観じればそれは絨毯であり、絨毯を観じればそれはそのまま空である』と」とある。これは体門であり、析門とは異なる。

三蔵教は生空(しょうくう・自我がないということ)を観じて道を得る。三蔵教は生空を観じて道を得終わって、またさらに法空(ほうくう・理法的な空)を観じる。したがって、生空と法空の二つは融合しない。この通教の門は、生空はすなわち法空、法空はすなわち生空であり、二つではなく別ではないと説く。『大品般若経』に「色性は我性のようであり、我性は色性のようである。この二つはみな幻の現われのようである」とある。

ある人は「三蔵教は真実の本性についての誤った見解を破る。実在に我を求めても得られないとする。ただこれは性空を観じるのみである。大乗は、相の自性は空であることを明らかにし、分析して空とするのではない」という。これは一理ある言葉である。『大品般若経』に「常に性空であり、性空でない時はない。あらゆる実在を明瞭に見れば、幻によって現われたもの、水に映った月、鏡の像のようである。どうして目に見える相だけが空であろうか」とある。ただこの幻によって現われたものについて、四門を判断するのみである。『大智度論』に「一切実、一切不実、一切亦実亦不実、一切非実非不実」とある。仏はこの四句によって、広く第一悉檀を説く。

一切実を有門とするということは次の通りである。業・果の善悪などの法から始まって涅槃に至るまで、すべては幻の現われと見る。たとえば、鏡の中の像は実性がないといっても、幻が現わした人体には六つの部分があるということを有門とする。あらゆる実在はすでに幻のようであるならば、幻の現われは本来自らの実性はない。実性がないために空である。それは涅槃に至るまで同じく幻の現われである。鏡の中の像に仮の形や色があっても、それを求めても得ることができないようなものである。これを空門とする。あらゆる実在はすでに幻のようであるので、有と名付ける。幻は得ることができないので空と名付ける。鏡の中の像は見えるけれども見ることができず、見ることができないけれども見えるようなものである。これは亦空亦有門である。幻の有は得ることができない。ましてや幻の空はどうして得ることができようか。すなわち、この両方を捨てることを門とする。これは通教の即空の四門である。

もし三乗共に教えを受けても、その能力は異なっているので、それぞれ四句において第一義に入る。そのために、この四句をみな門と名付ける。このために青目(しょうもく)は『中論』を注釈して「諸法実相に三種ある」と言っている。今、この三乗の人は同じくこの門に入って第一義を見るということは、即空の一種である。

次に別教の四門の相を明らかにする。もし『中論』の偈を用いれば、「また名付けて仮名とする」とある。さらに四門を述べることは、すなわち『大智度論』の四句と同じである。またこれはこの四句の意義である。

別教という意味は、これまでの蔵教と通教とは異なるということである。七義(理、智、断、行、位、因、果)があるために別である。そしてこの次の円教とも異なる。また、段階的(歴別)に中道に入るために別である。この意義については『涅槃経』にある。ただそこでも多く分散して説かれている。今、乳の生成過程の喩えをもって、別教の四門を明らかにする。

『涅槃経』に「仏性は乳に酪あり、石の中に金あり、力士の額の珠のようである」とある。すなわち有門である。石には金の性質はなく、乳に酪の性質なく、衆生の仏性はなお虚空のようであり、大般涅槃も空であり、迦毘羅城も空であると明らかにすることは、すなわち空門である。また「仏性は亦有亦無である。なぜ有とするのだろうか。すべての衆生はみな有であるためである。なぜ無とするのだろうか。巧みな方便にしたがって見ることができるからである」とある。またたとえば、乳の中にまた酪の性質があり、また酪の性質がないようなものである。すなわちこれは亦有亦無門である。仏性はすなわち中道だとすることは、どちらも否定して捨てる。またたとえば、乳の中に酪の性質があるのではなく、酪の性質がないことでもないようなものである。すなわちこれは非空非有門である。

別教の菩薩は、この四門の教えを受け、仏性を見ることにより、大涅槃に住む。このためにこの四句は、すなわち別教の四門である。一応、もちいて別教の門とする。経文においては、ある時は円教の門とする。この意義については後に考察する。

円教の四門の相については、この門は仏性第一義に入ることを明らかにする。一応は別教の門と名と義が同じであるが、細かく意趣を尋ねれば、別に多くの教えがある。その同異を分別することは、後に詳しく論じることにする。

法華玄義 現代語訳 174

『法華玄義』現代語訳 174

 

第三節 一法の異名

一法(=一実諦)の異名について述べるにあたって、四つの項目を立てる。一つめは、異名を挙げ、二つめは、異名を解釈し、三つめは、喩えによって述べ、四つめは、四随について述べる。

 

第一項 異名を挙げる

実相の体は一法のみであるが、仏はさまざまな名称としてそれを説いている。たとえば、妙有(みょうう)・真善妙色・実際・畢竟空・如如・涅槃・虚空仏性・如来蔵・中実理心・非有非無・中道・第一義諦・微妙寂滅(みみょうじゃくめつ)などと名付けられる。このような無量の異なる名称は、すべて実相の別名である。実相もまたこれらの異名のひとつである。迷う者はこの名称に違いに陥ってしまい、名称に執着して、かえって誤った解釈をしてしまう。『法華経』に「無智の疑いは長い間失うことである」とある。

小乗の論師は、もっぱら名称の相において論争をして、教えを失い人を退ける。またそのようなことを世代を超えて継承してしまい、正しい教えの敵となる。大乗の学者も、また同じようなものである。妙有を学ぶ者は、それ自らを至極と称して、畢竟空という言葉を聞いてそれを批判し、その教えを受けず、その人を退ける。また畢竟空を学ぶ者は、同じ仲間を集めて、正しいことを引き寄せて、その他のことは他に押し付ける。

みな、天主である帝釈天の千の異名を知らず、釈提桓因(しゃくだいかんいん・帝釈天の別名)を聞いて喜び、舎脂夫(しゃしふ・舎脂は帝釈天の妻の名。その夫であるので、これも帝釈天の別名となる)と聞いて怒る。帝釈天を恭敬し、拘翼(くよく・帝釈天の別名)を侮辱する。恭敬する福は侮辱する過失を補わないではないか。実相も同じである。同じように一法であるので、どうして一方を謗り、一方を信じることができるだろうか。

 

第二項 異名を解釈する

小乗の名と体は分別しやすいので、ここでは論じない。ここで分別するところは、ただ別教の四門と円教の四門の合計八門について述べるのみである。さらに四つの項目を立てる。一つめは、a.名・義・体が同じものであり、二つめは、b.名・義・体がそれぞれ異なっているものであり、三つめは、c.名・義が同じであり体が異なっているものであり、四つめは、d.名・義が異なっていて体が同じものである。

 

第一目 名義体が同じもの

妙有を名とし、真善妙色を義とし、実際を体とする。次に、畢竟空を名とし、如如を義とし、涅槃を体とする。次に、虚空仏性を名とし、如来蔵を義とし、中実理心を体とする。次に、非有非無の中道を名とし、第一義諦を義とし、微妙寂滅を体とする。このような名字は、名付けられた理由と内容は異なっているといっても、同じく一門を用いているので、別の意義があるのではない。そのために、名義体が同じという。

第二目 名義体が異なっているもの

妙有を名とし、畢竟空を義とし、如来蔵を体とする。また空を名とし、如来蔵を義とし、中道を体とする。また如来蔵を名とし、中道を義とし、妙有を体とする。また中道を名とし、妙有を義とし、空を体とする。このような四門は、互いに同じではない。名義体はそれぞれ別である。そのために、名義体がそれぞれ異なっているという。

第三目 名義が同じで体が異なっているもの

妙有を名とし、妙色を義とし、畢竟空を体とする。これはすなわち名と義の二つは同じであり、体は異なっている。また空を名とし、如如を義とし、妙有を体とする。これもまた名と義の二つは同じであり、体は異なっている。他の二つの門もまたこのようである。このために、名と義が同じであり体が異なっているという。

第四目 名義が異なり体が同じもの

妙有などの名は、その名称は同じではない。真善妙色などの義は、その意義に異なりはあるが、同じくひとつの体に帰して、さらに二つの意義はないために、名と義が異なっていて体が同じのものという。他の三つの門もまた同様である。

この「a.」「b.」「c.」の三つは、名と義がみな融合していない。最初の「a.」は、一つの名を求めて一つの義を得、一つの体を得て、すべて円融し、他のものには関わらない。第二の「b.」は、異なっている名を求めて、異なっている義と異なっている体を知る。体と義と名は全く融合しない。これはわかりやすい。第三の「c.」は、体が融合していないので、名と義が同じであっても、最後まで融合しない。これらは別教において意義を明らかにする。

これらの意義を得ていない者は、争いを起こす。あるいは小乗が大乗を押しのけ、あるいは大乗が小乗の座を奪う。なぜならば、小乗においては、生死の転生を断じようとするならば、畢竟不但空(ひっきょうふたんくう・究極的な真理はただ空ということではないということ)の教えを聞いて、人間的な情や求めに当てはめてしまい、これを但空だといって、これに執着して争いを起こす。小乗においては、生死の転生を断じようとするために有ではなく、涅槃に執着する病を破るために無ではない。このような中道の非有非無を聞いて、この小乗の情を増して、自分の教えが非有非無だという。このために、この二つの立場で多くの争いを起こす。もし中実理心を聞いて、小乗から離れれば、争いは起こらない。なぜなら、声聞と縁覚の二乗は空に慣れ親しんでいるが、ここで有を聞き、二乗は灰身滅智(けしんめっち・身もなくなり智慧もなくなること)し、さらにここで心智を聞いて、その情から離れるために、執着による争いは起こらない。これは小乗が大乗を押しのけるための争いである。

大乗が小乗の座を奪うとは、大乗の学者は、声聞と縁覚と菩薩が共に修す共三乗の人の空門と非空非有門の名が二乗に同じであることを見て、その深い意義を見ず、推論によって真実の妙有を説かないのだと決めつける。ただ妙有と亦空亦有の二つの立場を取って、これこそ円満常住の教えだと主張する。大乗は小乗に対して空門と非空非有門の二つを与えるだけで、妙有と亦空亦有は与えない。この争いは多少はあり得ることである。

もし空は不但空であり、非有非無は有と無の二辺から離れることであると知れば、すなわち空門・非空非有門・妙有・亦空亦有が共に奪い合い、しかも小乗はさらに空門と非空非有門の二つを争う。また大乗の空門・非空非有門・妙有・亦空亦有の四つは、名と義が融合しない。それぞれ争って、自から相手を飲み込もうとする。ましてや、小乗はなおさらである。野犬が獅子を襲う場合、どうしてあなたたちが食べられないことがあろうか。

前に述べた「a.」「b.」「c.」の三つは、争いを起こすので、『法華経』の体ではない。「d.」は名と義が異なっていて体が同じである。体にさまざまな義があって、その働きも多い。空門・非空非有門・妙有・亦空亦有の四つは、聞く相手に従って、さまざまに名称が異なるが、体が融合するので、円満にあらゆる名に応じる。教えの体がすでに同じであるので、名が異なり義がことなっていても、争いは起こらない。

その相とは何か。ここで概略的に説く。『無量義経』に「無量義とは、一法から生じる」とある。その一法とはいわゆる実相である。実相の相は、相として相でないものはなく、相でない相はない。これを名付けて実相という。これは真実は破られることがないことによって名を得ている。またこの実相は、諸仏が得た教えであるので、妙有という。妙有は見ることができないといっても、諸仏はよく見るために、真善妙色という。実相は二辺に執着する有ではないので、畢竟空と名付ける。空の理法は自然であり、一つでもなく異なってもいないので、如如と名付ける。実相は寂滅であるので、涅槃と名付ける。その悟りは変わることがないので、虚空仏性と名付ける。そこに含まれることは多いので、如来蔵と名付ける。寂にして照らし、霊によって知るので、中実理心と名付ける。有によらず、また無に陥らないので、中道と名付ける。最上でありそれに過ぎるものはないので、第一義諦と名付ける。

このようなさまざまな異なる名称は、共に実相に名付けられたものである。あらゆる名称があるのは、共に実相の働きの故である。この体はすでに円満であるので、名と義が隔たることはない。これが『法華経』の正しい体である。

また次に、あらゆる実在はすでに実相の異名であり、しかも実相の当体である。また、実相もまたあらゆる実在の異名であり、しかもあらゆる実在の当体である。妙有は破られないので、実相と名付ける。諸仏はよく見るために、真善妙色と名付ける。他の者が混じっていないので、畢竟空と名付ける。二つではなく別ではないので、如如と名付ける。悟りが変わることがないので、仏性と名付ける。あらゆる実在を含むので、如来蔵と名付ける。寂にして照らし、霊によって知るので、中実理心と名付ける。有と無に陥らないので、中道と名付ける。最上でありそれに過ぎるものはないので、第一義諦と名付ける。したがって、一法の当体をもって、働きに従って名称を立てる。これによって他も知るべきである。『涅槃経』に「解脱の法は、あらゆる名字が多い。百句の解脱は、ただ一つの解脱に過ぎない」とある。『大智度論』に「もし法に従って観じれば、仏と般若と涅槃と、この三つは同じ一つの相である。その実は異なることはない」とある。もしこの意義を得れば、あらゆる名称は、みな実相と名付け、また般若と名付け、また解脱と名付けられることを知る。この三つはまたあらゆる実在の名称であり、あらゆる実在はまたこの三つの体である。

 

第三項 喩えによって述べる

たとえば、一人を金師と名付け、その人がよく金を鍛え、その体を黄金にするようなことは、「a.名・義・体が同じもの」を喩える。

たとえば、一人を青と名付け、よく漆を作り、その身は白く清らかである。また一人を烏と名付け、よく朱を研ぎ、その身は紫であるようなものである。このような無量百千の名称や技術や身体が異なっていることは、「b.名・義・体がそれぞれ異なっているもの」を喩える。

たとえば、百人が同姓同名であり、同じく一つの技術を持っていても、その身がそれぞれ異なっていることは、「c.名・義が同じであり体が異なっているもの」を喩える。

たとえば、一人が戦乱に巻き込まれ、災いにあって、あらゆる場所で姓を変え、あらゆる場所で名を変えるようなものである。張儀(ちょうぎ・魏の時代の策士)、范蠡(はんれい・春秋時代の越の人)などは、多くの官職を渡り歩き、その身にあらゆる位を受けた。もし技術が多いことに従って名を得るならば、書画金鉄などの師があげられる。もし文官に従えば、儒学者の儒林(じゅりん)、中散(ちゅうさん)である。もし武官に従えば、熊渠(ゆうきょ)、次飛(じひ)である。場所によって名を変えることは、名が異なることを喩え、技術によって名称を得ることは、義が異なることを喩える。しかも体は一つであれば、異人ではない。『涅槃経』に「王家の力士は、一人で千人に相当する。この人は、まだ必ずしもその力が千人に匹敵しなくても、ただあらゆる技芸が千人に勝ることをもって、千人に相当するという」とある。巧みにしてあらゆる技芸に熟練していれば、技芸において通じないことはない。王に仕えてあらゆる位を受ければ、官職として通用しないことはない。このような丈夫な人、妙なる技術を持った人、体気のある人、病気のない人、あらゆることに通達する人、よく敵を破る人、上族姓の人、財技に富む人、知識の多い人、中庶信直(ちゅうしょうしんじき・意味は不明)の人、傘をかざされる身分の人は、「d.名・義が異なっていて体が同じのもの」を喩える。

喩えをもって表わせば、よく意味は明らかとなる。このために知ることができる。前の三つは別教の意義に属し、最後の一つは円教の意義に属するのである。

 

第四項 四随について述べる

問う:実相は一法である。なぜ名や義が多いのか。

答える:修行者の能力に従って、あらゆる差別がある。その願うところによって、便宜によって、対治によって、悟りに導くのである。たとえば、この世の人が小乗の数が多い阿毘曇(あびどん)を学べば大乗を捨て、大乗を修するならば小乗を捨て、空を習えば有を憎み、『十地経論』を学べば『中論』を批判するようなものである。すでに聞こうという気持ちがないので、それを聞いても喜ばない。心に信じ受け入れることをしないので、煩悩を滅ぼすことはなく、悟りを求める心を起こさない。それぞれが、その典籍において、偏って学び、その性質を作り、それが来世において教えを聞く能力や機縁となる。如来は時に、仏眼をもってこのような信などのあらゆる能力を観じ、数々の言葉をもって、順応して方便をもって、その人のために教えを説く。

有の性質を作っている者のためには、妙有真善妙色を説いて、違わず逆らわず、信心・持戒・忍辱・精進においては、空に対する誤った見解を除いて、よく悟りに入り、実相に一致させる。空の性質を作っている者のためには、畢竟空・如如・涅槃などを説いて、明らかに聴き、明らかに受け、善をもって悪を攻め、最上の無相に導く。亦空亦有の性質を作っている者のためには、虚空仏性・如来蔵・中実理心を説いて、積極的に善を起こし、非を離れて心を清くする。非空非有の性質を作っている者のためには、すなわち非有非無・中道をもって二辺を防ぎ、不来・不去・不断・不常・不一・不異などを説いて、聴聞することを求めさせ、渇いた者が水を喜んで飲むように、信心を求め修習して、あらゆる善を起こし、執着や誤った見解をみな除き、悪をすべて尽くして、第一義諦を徹底して明らかに起こす。

この有・空・亦空亦有・非空非有の四つの性質を作っている者に従うために、四つの異なった門が説かれる。説かれることが異なっているために、その名は異なり、その働きが別々であるために、その義は異なる。理法を悟ることは異なっていないので、体は最後まで一つである。このために、求那跋摩(ぐなばつま・中国における訳経僧)は「諸論それぞれ主張が異なっているが、修行すれば理に二つない。最初は偏った執着があって是非が問われても、悟りに到達すれば異なっていることによる争いはない」とある。このために、有・空・亦空亦有・非空非有」の四随は異なっているが、究極的には一つの実相の異名に過ぎない。

法華玄義 現代語訳 173

『法華玄義』現代語訳 173

 

第五項 喩えについて

ここで、三つの喩えをもって、体についての正しい見解と誤った見解を明らかにする。そしてそれに兼ねて、開合・破会などの意義についても述べる。

まず、三種の獣がいたとする。その獣たちが河を渡る際、同じく水に入る。この三種の獣は強いものと弱いものの区別がある。河には底がある。三種の獣のうち、兎と馬は力が弱いので、向こう岸に渡ることができるといっても、浮いてしまって深く水の底まで足はつかない。一方、大きい象は力が強いので、河底を歩いて渡ることができる。この三種の獣は、声聞と縁覚と菩薩の三人を喩え、水は即空を喩え、底は不空を喩える。声聞と縁覚の二乗は智慧が少ないので、深く究めることができない。たとえば、兎や馬のようである。菩薩は智慧が深い。たとえば大きな象のようである。水の軟らかさは空を喩える。声聞と縁覚は同じように空を見ても、不空を見ない。底は実相を喩える。菩薩だけが一人実相を究める。そして智者は空及び不空を見る。

さらに、河底に足が到達するということにおいても、二種ある。小さな象はただ底に足がつくのみであり、大きな象は深く河底の土の中まで根差す。このように、別教の智慧は不空を見るといっても、段階を経て見るのであって、真実ではない。円教は不空を見て、究竟して真実を顕わす。このような喩えは、ただ兎や馬の二乗が真実ではないことを論破するのみでなく、また小さな象が不空の真実に至っていないことを指摘し、大きな象の不空を取って、この『法華経』の体とするのである。これは、空と中が合わさって、真諦とすることについて、このような指摘をするのである。

二つめの喩えは、水晶と如意珠の二つの珠を用いたものである。形は同じであっても、水晶は空だけを見て不空を見ない但空(たんくう)に喩えられ、それは宝を降らすことはできない。如意珠は空を見て、また宝の雨を降らすことができる。水晶は宝がなく、これによって偏空=(但空)を喩える。如意珠はよく宝を降らし、これによって中道を喩える。これは、有と無が合わさって俗諦とすることについて、誤りを指摘して真実を顕わすのである。この『法華経』の体は、如意珠と同じである。

また、同じ如意珠をもって喩えとすることができる。如意珠を得てもその力の働きを知らなければ、ただの珠に過ぎない。智者はこれを得て、多く用いることができる。二乗は空を得て、空を証してそれに留まってしまう。菩薩は空を得て、方便をもって他を利益し、遍く多くの人々を悟りに導く。これは中を含んだ真諦とすることにおいて、その得失を指摘するのである。この『法華経』は、智者が如意珠を得るようなものであり、それを体とする。

二つめの喩えは、鉱石の中に金があるようなものである。愚かな人はそれを知らず、ただの石だと思って、汚れたごみの中に投げ捨て、振り返って取ることもしない。商人はこれを取って、溶かして金を取り出し、尊く保管する。金細工職人は、これを得て、あらゆるかんざしや首飾りや指輪や耳輪などを作り、仙人はこれを得て、練って不老不死の薬とし、天を飛び地の下に入り、太陽や月をつかみ、変通自在である。

ここでの愚かな人は凡夫の喩えである。実相を備えていても、修習することを知らない。商人は二乗を喩える。ただ煩悩の鉱石を断じて、即空の金を保つが、それ以上、何もしない。金細工職人は別教の菩薩を喩える。巧みな方便をもって、空・非空を知って、この世に出て衆生を教化し、仏国土を荘厳し、衆生を悟りに導く。仙人は円教の菩薩を喩える。事象がそのまま真理であることを悟り、初発心の時に、すでに正覚を成就し、一身無量身を得て、遍くすべてに応じる。『法華経』はただ金で作られた不老不死のような実相をもって、経の体とする。

また、同じ金をもって別の喩えとすることができる。最初から最後まで、同じ金を用いているので、凡夫と円教は共に実相である。異なっていることを用いて喩えれば、最初の鉱石は金とは異なっており、次の金は細工品とは異なり、細工品は不老不死の薬と異なる。不老不死の薬は透き通った色であり、油のようになめらかである。どうして細工品と同じであろうか。色も形も別であるので同種ではない。これは、金を取り出して、最終的にすばらしいものにすることを用いて、誤った教えと正しい教えを指摘するものである。以上の三種の喩えを述べることは、前の喩えは根性を喩える。根性に浅深がある。浅いものは空を得て、深いものはその仮を得て、さらに中を得るのである。

次に、三種の情を用いて喩える。最初の情は、ただ苦を出るだけであり、仏の道を求めない。真理を見て、それで終わる。次の情は段階的であり、円教の修行ではない。その次は広く大きく、法界に遍く求める。

第三番目として、方便を喩える。二乗は方便が少ない。金を取って保つだけである。別教は方便が弱く、ただよく飾って生計を立てるだけである。円教は方便が深い。このために、雲を吞み天の川を渡る。

ここで『法華経』の実相の体を明らかにすれば、河底に足をつけている大きな象のようであり、硬くて破ることができない。これをもって体妙を喩える。如意珠が宝の雨を降らせるのは、経の用妙を喩え、巧妙な智慧によって仙人となるのは、その宗妙を喩える。このような三つの喩えは三徳である。不縦不横であることを大乗とする。大乗の中において、分別して真性を指して、この経の体とする。

 

第六項 悟りについて

法相が真実で正しいことは、誠に上に説いた通りである。行がまだ理法と一致しなければ、どうして諦(=真理)と名付けることができようか。いらずらに労して四説(しせつ・続いてその説明となる)すれば、かえって迷いを生じさせてしまうようなものである。目の見えない人に、乳を説明するにあたって、粥のようなものだと言えば、軟らかいものだと思い、雪と言えば冷たいものだと思い、貝と言えば硬いものだと思い、白鳥と言えば動くものだと思い、ついに乳の本当の色を知ることができない。心が迷って夜遊びをしては、どうして諦に至るだろうか。食べ物を叫んで求めても、食べ飽きるほどのものが得られるという道理はない。自己の見解に執着してそれを真実とし、他はすべて妄語とする。ここにあり、ここになし、是と非が互いに起こり、さらに流動を増す。これをどうして諦と名付けようか。

もし諦を見ようとすれば、まず慚愧(ざんき)して恥ずるところがあることを知るべきである。さらに深く懺悔すれば、悟りに向かう種は諸仏を感じて、禅定の智慧が開き、観心が明らかに清浄となり、信心と理解が互いに一つとなる。そのような時点を、暗闇に枯れ木を見て、まだ明らかに見えない状態という。それが人か木か虫か塵か明らかではない。さらによく平安の中で忍耐をすれば、法に対する執着を生じることなく、無明を明らかに破る。清らかな鏡が動かず、清浄な水に波がなければ、魚や石の姿は自然と明らかになるようなものである。このような尊く妙を得た人は、よく般若を見る。メスをもって目を手術すれば、指の一本、二本、三本が明らかに見える。その時、姿形を見て、有とすることもまた正しく、無とすることもまた正しい。どうして有が正しいのか。明白な姿形は眼に相応し、正しい理法は智慧にかなう。これを有と名付ける。どうして無が正しいのか。そこに、軟らかいものだ、冷たいものだ、硬いものだ、動くものだという相がなければ、これを無と名付ける。『大智度論』に「一切実、一切非実、亦実亦不実、非実非不実、このようなことをみな諸法の実相と名付ける」とある。舎利弗のような者は、真実の智慧に安住して、「私はまさに仏となり、天と人とが敬うところとなるであろう」と言った。その時、すなわち「永遠に煩悩を滅ぼし尽くし、余ることはない」ということができる。これを真実に体を見ると名付ける。このために『涅槃経』に「八千人の声聞が法華の中において如来の性を見ることは、まるで秋に収穫して冬に蔵に納め、さらにすることがないようなものである」とある。理においてすることがないことを明らかにするものは、究竟の理法である。教においてすることがないとは、その教えを聞いて、さらに他に聞くことがないことである。行においてすることがないとは、その修行を行じ終わって、さらに得たところを改めないことである。このようなことが、それ以上することがないという意義である。

概略的にこれを述べれば、随智の妙なる悟りは、経の体を見ることができる。まさに随智の妙なる悟りの意をもって、あらゆる諦の境の中には、随情(ずいじょう・相手の感情に合わせて教えを説く智慧)・随智(ずいち・ただ真理によって教えを説く智慧)・随情智(ずいじょうち・相手の感情と相手の智慧に合わせて教えを説く智慧)のさまざまな分別がある。他の迷いの心を退け、ただ随智を取ることをもって、経の体を見ることを明らかにするのである。

法華玄義 現代語訳 172

『法華玄義』現代語訳 172

 

第四項 偏った教えについて

あらゆる大乗経典において、声聞と縁覚の二乗の人と同じように、方便を帯びて説く者の言葉が記されているが、それは名称が同じであるので、その意義についての解釈は注意して分別しなければならない。『大智度論』に「三乗の人は、同じように言葉にならない教えによって煩悩を断じる」とある通りである(注:つまり声聞も縁覚も菩薩も、苦を断じることにおいては同じ教えによる、ということ)。『中論』に「諸法の実相は、三人共に得る」とあるのは、二乗の人は、共に言葉にならない教えを受けて、自ら苦から出ることを求めるといっても、大いなる慈悲がないので、空を悟っただけで終わりである。能力の劣った菩薩も同じである。能力の高い菩薩は、大いなる慈悲を他の人のために行ない、深く実相を求める。これらの人に共通する実相は、その智慧蛍の光のようである。そのために実ではない。そして共通しない実相は、その智慧が日光のようである。このために実とする。

『涅槃経』に「第一義空を智慧と名付ける」とある。二乗の但空(たんくう・空の理法のみに留まること)は、空であって智慧はない。菩薩は不但空を得るので、中道の智慧である。この智慧は、寂(じゃく・苦から解放されている状態)であって同時に常に照らす。二乗はただこの寂を得るのみであり、寂であって照らすことを得ないので、実相ではない。菩薩は寂を得て、また寂であって照らすことをするので、実相である。

不空を見ることにおいては、また多種がある。一つめは、不空を見て、次第に煩悩を断じて、浅い状態から深い状態に至る。これは相似の位の実であり、正しく実ではない。二つめは、不空を見て、すべての法を備える。最初の阿字門(あじもん・ここでは最も大切な教えという意味)は、すなわちすべての意義を理解する。即中・即仮・即空は、一つではなく異なっているのでもなく、三でもなく一でもない。二乗(=通教)はただ一つの即(即空)だけであり、別教はただ二つの即(即空・即仮)であり、円教は三つの即(即空・即仮・即中)を備える。三つの即は真の実相である。

大智度論』に「何が実相であろうか。菩薩は一つの相にはいって無量の相を知り、無量の相を知って、また一つの相に入る。二乗はただ一つの相に入るだけであり、無量の相を知ることができない」とある。別教は一つの相に入り、また無量の相に入るといっても、さらに一つの相に入ることはできない。能力の高い菩薩は即空であるために一つの相に入り、即仮であるために無量の相を知り、即中であるために、さらに一つの相に入る。

このような菩薩は、深く最高の智慧の大海を求めて、その一心は、即空・即仮・即中である。これが真実の実相である。

華厳経』は二乗に共通せず、ただ菩薩に対応するのみである。「一切智・道種智・一切種智の三智を順番に得るので、正しい実ではない。順番を経ないで得るものが、正しい実である。方等教において蔵教・通教・別教・円教それぞれが三智を得ることは、蔵教・通教・別教を虚妄として、円教を実とする。『大品般若経』に一切智・道種智・一切種智の三智が説かれているが、それは通教・別教・円教(注:般若は大乗のみの教えであるので「蔵教」は除外する)に属する。前の通教・別教は深く求めない。浅く、実ではない。後の円教は深く、一心の三智を求める。このために実である。『法華経』は「あなたは私の子である」とあり、四つとか三つなどの差別はない。あらゆるところに求めても、他の乗はなく、ただ一実相の智慧があるのみである。声聞の教えを完全に超越して、ただこの上ない道を説くのみである。これが純粋な一実の体である。

『涅槃経』に「一実諦とは、二つはない。二つはないために、一実諦と名付ける」とある。また、一実諦は無虚偽と名付ける。また、一実諦は顛倒(てんどう・真理とは真逆であることをひっくり返っているということで表現する)」することはない。また、一実諦は、悪魔の説くものではない。また、一実諦は、常・楽・我・浄と名付ける。常・楽・我・浄は、空・仮・中と異なることはない。

異なるならば二つとしなければならない。二つならば一実諦ではない。一実諦は、即空・即仮・即中であって、異なることはなく二つでないために、一実諦と名付ける。もし隔歴三諦(かくりゃくのさんたい・三諦を順番に観じること)であれば、すなわちそれは虚偽としなければならない。虚偽の法は、一実諦とは名付けない。三つではないので、一実諦である。もし異なるならば、すなわち顛倒が破られていないことであるので、一実諦ではない。三つではないので顛倒」はなく、顛倒がないために、一実諦と名付ける。異なるならば、一乗とは名づけない。空・仮・中の三つの法が異ならず、具足して円満であることを一乗と名付ける。この乗は高く広く、あらゆる宝をもって飾られている。このために一実諦と名付ける。悪魔は、別であって異なる空・仮など悟れるわけがないにもかかわらず、別であって異なる空・仮を説く。もし空・仮・中が異なっていなければ、悪魔はそれを説くことができない。悪魔の説くことができないものを、一実諦と名付ける。もし空・仮・中が異なっていれば、顛倒と名付け、異なっていないならば、不顛倒と名付ける。不顛倒であるために煩悩はなく、煩悩がないために浄と名付ける。煩悩がなければ、すなわち業がなく、業がなければ我と名付ける。業がないために報がなく、報がないために楽と名付ける。報がなければ生死はなく、生死がなければ常と名付ける。このように、常・楽・我・浄を一実諦と名付ける。

一実諦とは、すなわち実相である。実相とは、すなわち経の正しい体である。この実相は、すなわち空・仮・中である。即空であるために、すべての凡夫の執着による言論を破り、すべての外道の誤った見解による言論を破る。即仮であるために、三蔵教の有門・無門・亦有亦無門・非有非無門の四門の小乗の実相を破り、通教の声聞と縁覚と菩薩が共に見る小乗の実相を破る。即中であるために、段階的に観じる偏った実相を破る。

また実相には、あらゆる顛倒・小乗・偏の因果・四諦の法はなく、また小乗・偏などの三宝の名称はない。ただ実相の因果があるのみであり、四諦三宝は自然と具足している。またあらゆる方便の因果・四諦三宝を具足している。なぜなら、実相は海のような法界であるからである。ただこの三諦は真実の実相である。

また、別教の段階的に観じる実相を開けば、すなわち円教の実相である。証しする道が同じであるからである。また通教の声聞と縁覚と菩薩が共に得る実相を開いて深く求めるならば、底に至るためである。また三蔵教の実相を開き、声聞の法を究める。またあらゆる見解の言論の実相を開く。見解において動じることなく、そのまま三十七道品を修すためである。またあらゆる執着による言論を開く。魔界はそのまま仏界であるからである。道でない道を修して仏の道に通じる。すべての実在の中に、あらゆる安楽の性がある。以上は絶待妙をもって実相を明かした。これこそ、経の体である。

法華玄義 現代語訳 171

『法華玄義』現代語訳 171

 

第二節 広く誤った解釈をあげる

経典の正しい体は玄妙を絶しており、容易に知ることはできない。また、誤った教えや未熟な教えは、正しく完全な教えを乱す。たとえば、魚の目が真珠の中に入ったら紛らわしくなるようなものである。このため、ここでは誤った解釈を指摘しなければならない。そのために、六つの項目を立てる。一つめは、凡夫の典籍についてであり、二つめは、外道の典籍についてであり、三つめは、小乗についてであり、四つめは、偏った教えについてであり、五つめは、喩えについてであり、六つめは、悟りについてである。

 

第一項 凡夫の典籍について

大智度論』に「世の典籍において実(じつ)とするものは、国を護り家を治めることを実とするのである。また外道で実とするものは、誤った知恵や偏った解釈を実とするのである。小乗に実とするものは、苦を厭い安楽を求め、偏った真理を実とするのである」とある。

これらは、ただ実という名称はあるが、その意義はない。なぜなら、世間の妖幻道術(ようげんどうじゅつ)もまた実と称されるが、その多くは鬼神の人を惑わす術である。これが心に入れば、迷酔狂乱して、自らの好みに従って優れたもの良いものなどを判断し、異議を立てて人々を動かして、特異な奇跡の相を示す。あるいは、髑髏にくそを盛り、多くの人の前でそれを飲み、生魚、臭肉などの汚らわしい物を食べる。あるいは、裸やぼろをまとい、規則に従わず、放逸であり礼を用いない。また問うこともなく答えることもなく、あらゆる欺きを行ない、無知な者たちを惑わし、信じさせ惑わす。そのようなものに捕らわれてから脱することを求めても得難い。内には病を得、その身を害し、外には家人を殺し一族を滅ぼす。その災いは故郷に及び、現世ではあらゆる苦しみを受け、後に地獄に堕ちて長く苦しむ。生まれ変わりを繰り返して真実の道を妨げ、解脱する機会はない。このようなことは実際に見られることである。そこに何の真実があろうか。愚かであり執着に基づく主張である「愛論」の範囲内である。

周公(しゅうこう)や孔子(こうし)の経の典籍などは、治法、礼法、兵法、医法、天文、地理、八卦(はちか=占い)、五行(ごぎょう・存在の生成を説いた教え)、世間の三皇五帝(神話伝説時代の八人の帝王)の典籍である。孝は家を治め、忠は国を治める。それぞれの親を親とし、その子を子とし、上を敬い下を愛し、仁義謙遜温和を徳として人民を安楽に生活させ、人々を統率して国を建てる。もしその法が失われれば、強い者は弱いものを虐げ、天下が乱れ、人民は平安を失い、鳥は住むことに余裕がなく、獣は休む余裕がない。この法によれば、天下泰平であり、牛や馬は家畜舎に戻る。まさに知るべきである。この法は民を愛し、国を治めるものであり、これを実と称する。『金光明最勝王経』に「釈提桓因(帝釈天のこと)のあらゆる勝論」というのは、この意義である。しかしこれは十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見)に過ぎない。十善を行なうことにより、天の心にかなう。そのため諸天は喜んで、天然の報いを求める。そしてこの法を優れているとする。このため「勝論」というのである。また大梵天王は「出欲論」を説くのは、禅定を修して、欲望の泥沼から出るためである。またこれも「愛論」の範囲内である。また世には占いや医術がある。薬を服用して長生きし、体を鍛えて身体を整える。仙人や魔術を使う者は、このような薬は秘要であり真実だという。これもまた「愛論」の範囲内の煩悩に過ぎない。

 

第二項 外道の典籍について

外道の典籍については次の通りである。もし薬を服用して知を求め(注:ここでは典籍を読むことを薬の服用に喩えている)、聡明利発であり道理を探求し、この薬の調合法を優れているとするならば、薬の力は多少知ったとしても、その結果を見ることはできない。薬の副作用に触れれば得たものも失い。薬をやめても失う。これもまた真実ではない。

このような荘子老子の教えのようなものは、無為無欲、天真虚静にして、あらゆる大言をやめ、聖人と呼ばれることもなく、智慧も絶することである。ただ胸の内を空しくするだけであり、四見(しけん・有、無、亦有亦無、非有非無の四種の誤った見解)の外に出ることはない。どうして聖なる教えに関わることがあろうか。たとえ四見の外に出たとしても、なお複四見(ふくしけん・有の有と有の無、無の有と無の無、亦有亦無の有と亦有亦無の無、非有非無の有と非有非無の無の四種の誤った見解)に堕ちる。あくまでも人間の見解の中のことであり、解脱の道ではない。

外国の論理学のようなものについては、梨昌(りしょう)族が募集をかけて、五百の論理的な質問を集めた。その第一に梨昌の人は「瞿曇(くどん・釈迦の姓)よ、一つの究極的な道があるのか。多くの究極的な道があるのか」と言った。それに対して仏は「ただ一つの究極的な道があるのみである」と答えた。続いてその人は「どうして多くの師がただそれぞれ究極的な道を説くのか」と言った。仏は鹿頭(ろくず・弟子の一人)を指して、「あなたはこの人が誰であるか知っているか」と言った。その人は「知っている。究極的な道について論じさせれば第一の人である」と答えた。仏は「究極的な道を得たのであれば、どうして、その道を捨てて、私の弟子となったのであろうか」と言った。その人はたちまち悟って、仏の教えの中の唯一の究極的な道を讃嘆した。

また、長爪(ちょうそう・弟子の一人)が次のように言っている。「すべての論は破りやすく、すべての言葉は転じやすい。諸法の実相を観じれば、長く、一つの法も心の中に入ることはない」。『大智度論』に「長爪は亦有亦無の見解に執着している」とある。また「また不可説の見解をめぐらしている」とある。

このようなものは、百千万種である。虚妄の戯論は、煩悩に流転させられる。誤った見解の網が広く、誤った知恵が盛んである。境に触れれば執着を起こす。ある時は有または無を繰り返し、有の無を有とし、無の有、無の無を無とし、有の非有非無を有とし、無の非有非無を無とし、百千回繰り返しても、すべてみな誤った見解である。生死の隅であり、真実ではない。『涅槃経』に「無明の枷(かせ)をかけられ、生死の柱につながれている。二十五有を廻って、解脱を得ることができない」とあるのは、この意義である。

 

第三項 小乗について

声聞の教えの中に「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」とある。『大集経』に「憍陳如(きょうちんにょ・釈迦の一番弟子)沙門は、最初に真実の知見を得た」とある」。

しかし、小乗は大いなる慈悲を用いない。衆生を救わず、功徳の力は薄く、仏になることを求めず、深く実相を究めることがなく、智慧は劣っていて弱い。「有を離れ無を離れることを、聖中道と名付ける」といっても、すなわち、「断」と「常」を二つの対照的な見解とし、真諦を中道とする。真無漏の智慧を「見」と名付け、涅槃の法を証することを「知」と名付ける。見思の惑を断じて、分断生死を除くといっても、草庵に住めば(注:つまり人と交わらず、慈悲がなければ、という意味)、究極的な理法とは言わない。前の生死の有に対照的な無に過ぎない。有も無も破るべきであり、破られやすい。これは真実の道ではないので、実相と名付けることはできない。

法華玄義 現代語訳 170

『法華玄義』現代語訳 170

 

第二項 体を述べる意義について

そもそも、体を述べる意義とは何か。『大智度論』に、「あらゆる小乗の経典は、もし無常、無我、涅槃の三つの項目をあげて小乗の印とするならば、すなわちそれは仏の教えである。そしてこれにそって修行すれば、道を得て、逆に、この三つの教えの印がなければ、悪魔の教えとなる。一方、大乗の経典は、ただ一つの教えの印があるのみである。それは諸法実相である。そのような教えを記す経典をみな了義経と名付け、それによって大いなる道を得る。もしこの実相の印がなければ、悪魔の教えである」とある。このために舎利弗は「世尊は実道を説き、悪魔にはこれがない」と言っている。ではなぜ小乗は三つであり、大乗は一つなのであろうか。小乗では「生死」と「涅槃」は異なるとしている。生死については、無常をもって最初の印として、無我をもって後の印として、この二つの印をもって生死を説く。涅槃はただ一つの寂滅の印とする。このために、三つを用いる。一方、大乗では、生死即涅槃、涅槃即生死であり、不二不異である。『維摩経』に「すべての衆生は常に寂滅の相である。すなわち大涅槃である」とある。また「本(もと)自ら生じることなく、今すなわち滅することもない」とある。「本生ぜず」とは、すなわち、無常・無我の相ではない。「今すなわち滅することもない」とは、すなわち小乗の寂滅の相ではない。ただこれは一実相であるのみである。実相であるために、「常に寂滅の相」なのである。「すなわち大涅槃」であり、ただ一つの印を用いるのである。

この大乗と小乗の印をもって、「半(不完全な教えという意味)」と「満(完全な教えという意味)」の経典とするならば、外道も乱すことはできない。天の魔も破ることはできない。世間の公文書に印が押されていれば、信じるべきであることと同じである。まさに知るべきである。あらゆる経典は、最終的には「実相の印」を得ることをもって、完全な教えの大乗とすることができるのである。

 

第三項 明確に体を明らかにする

このように、体とはすなわち「一実相の印」である。三軌においては「真性軌」のことである。十法界においては「仏法界」のことである。仏法界の十如是においては、「如是体」のことである。四種の十二因縁においては、「不思議不生不滅の十二因縁」のことである。不思議不生不滅の十二因縁においては、「十二種の苦道はそのまま法身」であるということである。四種の四諦においては、「無作の四諦」のことである。無作の四諦においては、ただ「滅諦」のことである。七種の二諦においては、「五種の二諦」のことである。五種の二諦においては、ただ「真諦」のことである。五種の三諦においては、「五種の中道第一義諦」のことである。あらゆる一諦においては、「中道の一実諦」のことである。あらゆる無諦においては、「中道の無諦」のことである。

もしこの意義を知るならば、智妙において、また十妙の一つ一つに、正しく体について知ることは可能である。

もし譬喩をもって、この意義を明らかにすれば、次の通りである。梁や柱をもって家を建てても、家そのものは、梁でもなければ柱でもない。すなわち、屋内の空間が家である。この場合、柱や梁は因果の喩えであり、家は柱でもなく梁でもないということは、実相の喩えである。実相を体とするのであって、梁や柱ではないのである。もし屋内に空間がなければ、入る所がない家となり、そもそも家とは言わない。同じように、因果に実相がなければ、何も成就しない。『大智度論』に「もしこの空がなければ、すべて何も起こらない」とある。またたとえば、太陽や月は天を天とする役割があって、それは公の大臣などが主を助けるようなものである。太陽と月は二つであるが、大いなる虚空である天は二つはない。大臣などはたくさんいてもよいが、主は多くはない。この意義のために、正しく体について知る必要がある。

三軌の乗を成就することは、不縦不横・不即不離であるが、言い表すために便宜が必要である。そのため、観照軌は除いて、ただ真性軌だけを挙げる。その意義は明瞭である。三軌がすでにこのようであるので、他の方も同様である。

 

第四項 経文を引用して証する

法華経』の「序品」に「今、仏は光明を放って、実相の義を明らかにする」とある。また「諸法実相の義は、すでにあなたがたのために説く」とある。「方便品」に「ただ仏と仏だけがよく諸法実相を究め尽くす」とある。その偈の中に「諸仏の法は長い時間の後、必ず真実を説くであろう」とある。また「私は仏としての荘厳な身を現わして、実相の印を説く」とある。舎利弗は理解して「世尊は真実の道を説き、悪魔にはできないことです」と言っている。また「真実の智慧の中に安住して、私は必ず仏となるでしょう」と言っている。「法師品」に「方便の門を開いて、真実の相を示す」とある。「安楽行品」に「諸法の如実の相を観じる」とある。「如来寿量品」に「如来は真実の通りに知見する」とある。『観普賢菩薩行法経』には「昔、霊鷲山において、広く唯一の真実の道を説いた」とある。また「一実の境界を観じる」とある。

このために次のように知ることができる。諸仏は大いなるわざの因縁のために世に出現し、ただ衆生が仏の知見を開き、この「一実」の非因非果の理法を見せるのである。『法華経』の経文の真意はここにある。明らかな証拠とすべきである。

法華玄義 現代語訳 169

『法華玄義』現代語訳 169

 

第二章 顕体

 

第二に「顕体(けんたい)」とは(注:最初の「五重玄義」の項目があげられている箇所では、「弁体(べんたい)」となっていたが、ここでは「顕体」となっているので、それに従う)、前の「釈名」では総合的に説いたが、そのため、文義が広く漫然としていた。ここからは、特に要点を絞って、明確に経典の本体を顕わし、直接、真性軌を述べる。真性軌の他に、観照軌と資成軌がないわけではないが、理解しやすくするために、真性軌のみを説く。後に、「明宗」と「論用」を述べるが、その場合も真性軌がないわけではないが、その項目の名前に合った説き方をする。

顕体の「体」とは、経典の根本的思想であり、あらゆる意義の集まる所である。このため、これを会得することが難しいばかりではなく、またこれについて説くことも容易ではない。『法華経』に「この法は示すことができない。言葉の相は寂滅している」とある。『涅槃経』には、「不生不生不可説」とある。また「因縁あるがゆえに、また説くことができる」とある。

ここでは、概略的に七つの項目を立てる。一つめは、明確に経典の体を顕わす、二つめは、広く誤った解釈をあげる、三つめは、一法の異名、四つめは、実相に入る門を明らかにする、五つめは、遍く諸経の体について述べる、六つめは、遍く諸行の体について述べる、七つめは、遍く諸法の体について述べるである。

 

第一節 明確に経典の体を顕わす

明確に経典の体を顕わすことにおいて、さらに四つの意義を明らかにする。一つめは、古い解釈をあげ、二つめは、体を述べる意義について、三つめは、明確に体を明らかにし、四つめは、経文を引用して証する。

 

第一項 古い解釈をあげる

北の地論宗の人は、一乗をもって経典の体とする。その言葉は漠然としており、要件を絞ることができていない。一乗の言葉は通じて権と実を混同してしまう。権の一乗は、すべての経典の意義ではない。一方、実の一乗は、その意義に真性軌・観照軌・資成軌の三軌が欠けている。体を顕わすことが明らかでないので、用いることはできない。

また、ある人が解釈して「真諦を経典の体とする」と言っている。これも、また他にも通じる意義を乱用していることである。小乗と大乗は、共にみな真諦を明らかにしている。小乗の真諦は、もはや言うまでもない。大乗の真諦も、また種類が多い。ここでは(注:『法華経』ではという意味)、何の真諦をもって体とするのだろうか。このために用いることはできない。

また、ある人が解釈して「一乗の因果を経典の体とする」と言っている。しかしこれもまた用いることはできない。なぜなら、一乗の言葉が表わす意味は、すでに前に述べた通りである。また因果は因と果の二法であるので、事象的な範囲を出ていない。どうしてこれが経典の体であろうか。事象的なことは、理法の証印がなければ、すなわち悪魔の経典に同じである。どうして用いることができるであろうか。

また、ある人が解釈して「乗(=教え・経典)の体は因果に通じる。果はあらゆる徳をもって体とし、因はあらゆる善をもって体とする」と言っている。そして『十二門論』を引用して、「大いなる諸仏の乗は、文殊菩薩や観世音菩薩が乗である」と述べ、また、『法華経』を引用して、「『仏は自ら大乗に住む』とは、すなわち果である。『あらゆる仏の弟子は、この宝の乗に乗る』とは、因である」と述べている。また『観普賢菩薩行法経』を引用して、「大乗の因果は、みなこれ実相である」と述べている。

私的に問う:因の乗は、果の乗に変わるのであろうか、変わらないのであろうか。もし変わるのであるならば、何が能通(=因)であり、何が所通(=果)であろうか。もし変わらないのであれば、因と果はいつまでも並列的である。それではこの理法はない。もし別の法の因果に通じるならば、まさに知るべきである。因果は果の経体ではない。『十二門論』に、「大いなる諸仏の乗」の「大いなる」という意味は、仏はもはや修行を必要としないことであり、それを乗と名付けている。どうして修行をしないことをもって因果の乗を証することができようか。『法華経』に「仏は自ら大乗に住む」とあるのは、これは理法に乗って人を導くことである。果である徳に住んでいるという意味ではない。『観普賢菩薩行法経』に因果を明らかにしていることは、みな実相を指すのである。どうして実相をもって因果を証することができようか。このためここではこれも用いない。

ある人が「因果は般若波羅蜜を本とし、それ以外の五つの波羅蜜を末とする。果の乗は薩婆若(さつばにゃ・仏の智慧を指す古代インド語の音写語)をもって本とし、他を末とする。また、因果は狭く、果の乗は広い。また、般若に相応する心は一体の乗であり、不相応の心は異体の乗である。また無所得(=空)に相応する修行は近乗であり、仏に対して頭を下げ手を挙げるという有所得は遠乗である。また六波羅蜜において世間と出世間が合わさっているのは遠乗であり、三十七道品がただ出世間であるのは近乗と名付ける。また四句(四通りの言い方①~④)がある。①六波羅蜜と三十七道品はすべて無所得である。また②六波羅蜜と三十七道品は共に有所得である。また、③六波羅蜜は世間と出世間が合わさっており、三十七道品は合わさっていない。また、④三十七道品は世間と出世間が合わさっており、六波羅蜜は合わさっていない」と言っている。

私的に言う:般若を乗の本とすることは、『法華経』においては、白牛の喩えであり、経典の体ではない。薩婆若を乗の本とすることは、『法華経』においては、道場において成就するところの果である。これもまた乗の体ではない。因乗は狭いとは、時間的な義であり、果乗は広いとは、空間的な義である。すべて『法華経』の乗の体ではない。般若相応の心・無所得・近遠などは、『法華経』においてはすべて、経典の乗の体を喩える大白牛車の飾りや侍従であって、乗の体ではない。なぜ皮や毛や枝葉のことで論争をするのか。いたずらに争うことは以上のようなことである。誰がこれを止めるのであろうか。

またある人は、『大智度論』を引用して、「六波羅蜜をもって乗の体とする。方便は生死を運び出し、慈悲は衆生を運び取る」と言う。しかし『法華経』においては、般若波羅蜜は牛であり、五波羅蜜は飾りであり、方便は侍従、慈悲は家の軒(のき)である。これも乗の体ではない。

『中辺分別論』に「乗に五つある。一つめは乗の本である。それは真如仏性のことである。二つめは乗の行である。福徳の智慧を指す。三つめは乗の摂取である。慈悲のことである。四つめは乗の障害である。それは煩悩である。これは煩悩障(ぼんのうしょう)であり、修行や理解などは知的煩悩である智障(ちしょう)である。五つめは乗の果である。それは仏果のことである」とある。『唯識論』に「乗は運び出すという意味である。真如仏性によって福徳などの行を出し、この行によって仏果を出し、仏果によって衆生を運び出す」とある。『摂大乗論』に「乗に三つある。一つめは乗の因である。真如仏性を指す。二つめは乗の縁である。すべての修行のことである。三つめは乗の果である。仏果をいう」とある。『法華論』に「乗の体は、如来平等の法身をいう」と明らかにしている。また「如来の大般涅槃である」とある。この二つの文は、法身を隠れた体とし、涅槃を顕かな体としているようである。発心し、仏に対して頭を低くし手を挙げるなどを乗の縁と名付ける。『十二門論』に「乗の本は諸法の実相をいう。乗の主は、般若をいう。乗の補助は、すべての修行が補助して成就させることである。乗の到達点は、薩婆若である」とある。

この五つの論は、乗の体を明らかにすることは同じであるが、余計な飾りのようなものがある。『法華経』において乗の体を明らかにすることは、正しくこれは実相であり、飾りはない。もし飾りの方を取ってしまえば、仏の乗るところの乗ではなくなってしまう。