法華経 現代語訳 11

その時、世尊は舎利弗に次のように語られた。
「あなたは懇ろに三度も願った。どうして教えを説かないことができようか。あなたは今、明らかに教えを聞き、しっかりと心に刻むように。私はまさにあなたのために、わかりやすく説き明かそう。」
その言葉を聞いたとき、会衆の中に五千人の僧侶や尼僧や男女の信者たちが、即座に立ち上がって、仏を礼拝して退いてしまった。それはなぜかと言えば、彼らは罪の根が深く重く、さらに思い上がっており、未だ教えを得ていないにもかかわらず得たと思い、未だ悟りを開いていないにもかかわらず悟っていると思っていたからである。そのような誤りがあるために、そのままそこにいることができず、去ったのである。しかし、世尊は黙って、引き止めるようなことはなさらなかった。
その時、仏は舎利弗に次のように語られた。
「今や、この会衆の中には枝葉のような者はおらず、みな純粋に真実のみがある。舎利弗よ。あのような思い上がった者たちは、去ることもまたいいのだ。あなたは今、よく聞くように。まさにあなたのために説こう。」
(注:今回からの非常に長い説法の箇所は、法華経の前半の中心的な部分であり、非常に有名な言葉が連続して記されている。しかしまず、仏が語ろうとしたとたん、五千人もの僧侶たちがその場を立ち去った、という事件が起こっている。これは仏に対して、大変失礼なことであるが、法華経が成立した当時、法華経のグループに対して非難する者たちが多かったことを、この箇所は物語っていると、仏教学では結論付けられている。そのような者たちは、最初から仏も相手にされないのだという、法華経のグループの断固とした態度がうかがわれる箇所である。法華経のグループに批判的だったのは、歴史的釈迦以来の伝統的な仏教教団である。したがって、このような記述は、法華経の立場が、明らかに伝統的な仏教とは関係がないことを表わしている。まさに、伝統的仏教との決別の宣言を、この箇所は表わしているのである。「法華経は釈迦の肉声の教え」などと主張する者たちがいまだに多いが、そのような誤った先入見を捨てない限り、法華経の霊的意味を正しく読み取ることはできない。極端に言えば、歴史的釈迦の教えを仏教とするならば、法華経は仏教ではないのである。ただ仏教から用語を借りて表わされた、霊的世界を如実に表現している真理の書なのである。)
舎利弗は次のように申し上げた。
「世尊よ、ただ聞き奉らんことを願います。」
仏は舎利弗に語られた。
「このような妙なる教えは、諸仏如来が、時を定めて語られるのだ。まるで、優曇鉢華(うどんぱつげ・原語はウドゥンバラという花で、三千年に一度花を咲かせると言われている神聖な花)が時を定めて一度現われるようなものである。
舎利弗よ。あなたはまさに信ずべきである。仏の説くところは虚妄なところはない。
舎利弗よ。諸仏の説く教えは、その深い意味を理解することは難しい。それはなぜであろうか。私は無数の方便、さまざまな因縁、比喩、言葉をもって、あらゆる教えを説くのだ。その教えの真理は、人間の思慮分別で理解するものではない。ただ諸仏のみ、これを知られるのだ。それはなぜであろうか。諸仏世尊は、ただひとつの大きな因縁をもっての故に、世に現われるのだ。
舎利弗よ。それはどのようなことであろうか。諸仏世尊は、衆生に対して、仏の知見(ちけん・悟りのこと)を開かせ、清らかな存在となるように、世に現われるのだ。衆生に対して、仏の知見を示そうとするために、世に現われるのだ。衆生に対して、仏の知見を悟らそうとして、世に現われるのだ。衆生に対して、仏の知見に入らせようとして、世に現われるのだ。
舎利弗よ。これを、諸仏世尊は、ただひとつの大きな因縁をもっての故に、世に現われると名付ける。」
(注:「ただひとつの大きな因縁」という言葉は、原語そのままに「一大事因縁」(いちだいじいんねん)と呼ばれる。大変なことが起こると、「一大事だ」と言うことがあるが、それは法華経のこの箇所から来ていると思われる。
そして、仏の知見を、開く、示す、悟らす、入らせる、と連続しているが、この部分を短くして、「開示悟入」(かいじごにゅう)と言われる。確かに、まず真理を開き、示して、それを悟らせ、さらにその真理を体験するという順番で進んで行くと言えるであろう。)

 

つづく

 

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