法華経 現代語訳 16

舎利弗よ まさに知るべきである 私は昔 誓願を立てて すべての人々を 私と等しい者にしようと願った この昔の私の誓願は 今すでに満たされた すべての人々を導き みな仏の道に入らせよう 私がどんな人に会っても すべて仏の道を教えよう
無智の者は心乱し 困惑して教えを受けないだろう 私は知っている このような衆生は 前世において教えを受けず 目の前の欲に執着して 愚かさを愛するために悩みを生じさせているのだ そのさまざまな欲望の因縁のために 輪廻転生して その中でも最悪の世界に落ち あらゆる苦しみを受ける 肉体も悪く それもさらに増し加わり 徳が薄く福が少ない者となって あらゆる苦しみに圧迫される 間違った教えの林に迷い込み 「すべての存在はあるのだ」 あるいは逆に「すべての存在はないのだ」という誤った教えに留まり さらに多くの誤った考えを持つに至る 深く嘘偽りの教えに執着し それを捨てようとしない 高慢になり 自らを自慢し 心は不実にしてねじ曲がっている 気の遠くなるほどの長い歳月において 仏の名前すら聞くことはない また正しい教えを聞くことはない このような人は悟りに導くことは難しい
このために舎利弗よ 私は方便を設けて あらゆる苦しみを滅びし尽くす道を説き それを涅槃(ねはん)と名付けた 私は涅槃を説くと言っても それは真実の滅度ではない すべての存在は もともと常に実体がなく 寂滅(じゃくめつ)の状態なのである 仏の弟子は 教えられた道を行じ終わったなら 来世で仏となるであろう
(注:歴史上の釈迦は、何よりも、苦しみの解決を目標に、人々に教えを説いた。したがって、その教えにおいては、苦しみを滅びし尽くすならば、それが究極の悟り、つまり涅槃だとするのである。しかし、大乗仏教はそれが目的ではなく、あくまでも、人々が仏と同じ仏の段階に至ることである。さらに、人が仏になるのは、この世において成就するものではなく、何度も生まれ変わりを繰り返し、多くの仏に仕え、やがてその者も仏となると説くのである。したがって、本文に「来世」とあるが、それは単純に次の人生、という意味ではなく、気の遠くなるほどの遠い未来という意味なのである。)
仏は方便の力があって 三乗の教えを示す 多くの世尊も みな一乗の教えを説かれる 今ここにいる大衆は すべて疑惑を取り除くべきである 諸仏の言葉は異なることはない ただ一乗のみがあって二乗はない 気の遠くなるほどの過去に 完全な悟りを成就して滅度した仏は 数えることができないほど多い そのすべての世尊も あらゆる因縁や比喩や多くの方便をもって 多くの教えを説かれた 多くの世尊も みな一乗の教えを説かれ 多くの衆生を導き 仏の道に入らせたのだ」
(注:この方便品の詩偈の部分は、延々と続くが、そこに繰り返し、方便、三乗、二乗、一乗などの言葉が述べられている。このことについては、何度繰り返して説明しても良いであろう。
方便とは、巧みな手段と訳される言葉である。霊的真理をストレートに理解する力を備えていない者たちに対しては、仏が理解しやすい教えから説き始め、次第に真理に導いていく、ということ方法を取ったのだと法華経は述べている。それが方便、すなわち巧みな手段である。
その霊的真理をストレートに述べる教えが、一仏乗あるいは一乗という。そして、二乗とは、歴史的釈迦の教えを受け継ぐ声聞乗と、ひとり静かに悟って、一人静かにこの世を去る者の歩む道である縁覚乗の二つを指す。さらに三乗とは、この二乗に、仏になることを目標とする、大乗仏教の人々の歩む道である菩薩乗を加えたものである。
それならば、大乗仏教の菩薩乗があればそれでよいように思えるが、三乗の中の菩薩乗はあくまでも、声聞乗と縁覚乗とは別のものである。したがって、霊的真理を理解する能力のない者に、方便を使って、まず他の二乗を説きながら、次第に菩薩乗に導く、ということはあり得ない。そのため、この三つを包含しつつ、やがてひとつの究極的道へと導く教えとして、一仏乗、略して一乗が説かれるのである。そして、一仏乗とは、抽象的な教えなどではなく、教理として整理できるようなものでもなく、この法華経そのもの、法華経の言葉すべてなのである。
日蓮上人はこのことを悟って、南無妙法蓮華経の題目を唱える道を説いたと、私は確信する。)

 

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