解説を交えながら法華経を読もう

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 21

妙法蓮華経譬諭品 第三

 

その時、舎利弗は躍り上がるほど喜び、すぐに立ち上がり合掌し、仏の顔を仰ぎ見て次のように申し上げた。

(注:ここから、法華経の第三章である譬諭品(ひゆほん)に入る。舎利弗が、ここまでの仏の教えを聞いて、大いに喜び、仏の教えを理解したことを、比喩をもって説くことになる。

さて、では、今まで舎利弗および大衆に語られた内容は、複雑なことではない。仏が説いて来た、法華経以前のさまざまな教えや道は方便であって、それらは、ただ一仏乗のためである、ということだけである。その一仏乗とは、仏の教えを聞く者は、気の遠くなるほどの長い歳月、数えきれないほどの多くの仏に仕え、その結果、やがて仏になるのだ、という教えである。

しかし、本当にこのようなことを聞いて、大いに喜べるかどうか、ということである。確かに、仏になる、ということほど素晴らしいことはなく、それは有り難いのだが、普通、では、仏になるためには、これこれをしなければならない、この教えや戒律を守って、しっかりとやらねばならない、ということが教えられるはずだと考える。しかし、法華経のどこにも、そのような教えはない。

実は、前にも述べたように、法華経の中に、抽象的な教えや哲学が記されているのではなく、法華経そのものが教えであり真理なのである。法華経で展開されるすべてが、真理なのである。

鎌倉時代道元(どうげん)は、「法華転法華」という言葉を残している。「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず」である。迷いという状態は、法華に動かされていることであり、悟るならば、法華を動かすことになる、という意味である。誰でも、真理の中に生きているのだが、それを知らない。知らなくても、真理に動かされていることには違いはない。しかし、悟れば、自ら納得して、その真理を動かしていくのである。真理を動かす、と言っても、何か努力したり、修行したりすることではなく、真理を受け入れればいいだけである。真理は、肉体を持つ人間からすれば、途方もないほど、偉大なものだからである。

自分の乗っていたボートが激流に巻き込まれ、操作不能となれば、誰でも恐怖に陥る。しかし、今は激流にいることは確かでも、絶対に大丈夫であり、やがて素晴らしい場所にたどり着く、ということをはっきりと確信するならば、恐怖はなくなり、激流の中にいながら、平安をもって前に進み続けるはずである。あるいはまた、激流下りで、けっこう翻弄され、水を浴びても、船頭さんが超一流の腕を持ち、今まで失敗などしたことがないベテランだと確信するならば、キャーキャー言いながらも楽しめるはずである。悟りとは、唯一の真理を知ることであり、その真理を知ったならば、その真理に乗って進んで行くだけなのである。

今、舎利弗は、仏の教えをすべて受け入れ、その法華という真理を自覚したのである。もう当然、舎利弗は、法華をしっかりと保って、仏になる道を仰ぎ見て進んで行くはずである。その進んで行くという過程は、実にバラエティーに富んでいて、さまざまな仏や菩薩との出会いがある。それが、まさに法華経そのものなのである。)

「今、世尊より、この教えの御声を聞きましたことは、大変尊いことであり、心に喜びが満ち溢れました。それはなぜかと申しますと、私は昔から仏に従ってまいりまして、多くの菩薩がやがて仏になるであろう、という授記についての教えを聞きましたけれども、私たち声聞は、そのことにあずかりませんでした。これは自分たちが、如来の数限りない知見を得ることができていないからだ、と心を痛めていました。

世尊よ、私は常に山林の樹木の下において、座ったり歩いたりして、次のように考えていました。『私たちも、他の者たちと同じく、仏の教えを受けている。しかし、なぜ如来は、劣った教えをもって、私たちを導かれるのだろう。これは、世尊に原因があるわけではなく、私たちに原因があるからだ』。それはなぜかと申しますと、仏が最高の悟りを成就する道を説かれたならば、私たちも、その優れた教えによって悟りを得られたでしょう。しかし、私たちは、方便によって解かれた教えだということが理解できず、初めて仏の教えを聞いて、すぐにそれを信じ受け入れ、それによって悟りを得ました。

世尊よ、私は昔から今まで、一日中そして夜ごと、自らを責めていました。しかし、今、仏が今まで聞いたこともない教えを説かれるのを聞き、あらゆる疑いを断じ、身も心も快く平安に満たされました。今日やっと知りました。私は真の仏の弟子です。仏の口から生じ、仏の教化より生じ、仏の教えを受ける資格を得ました。」

(注:喜ぶ舎利弗が、今までのことを振り返って告白している場面であるが、これは歴史的事実に基づいてはいない。舎利弗が実際、釈迦の弟子であった時は、菩薩などという存在はなかったのであり、当然、そのような菩薩が仏になるであろう、という授記(じゅき)を受ける場面など、舎利弗は見るわけがない。菩薩は、あくまでも、歴史上の釈迦の死後、約500年ほど後の、紀元直後から起こった大乗仏教の中で生まれた称号である。では、この舎利弗の言葉は虚構かと言うと、もちろん、そうではなく、霊的世界では、まさにこれは事実として展開しているということである。もし霊的世界において、舎利弗が菩薩たちを見て、さらに法華経の教えを聞くならば、まさにこのような反応をするはずだからである。前から述べているが、法華経が、歴史上の釈迦の弟子たちでさえ、やがて仏になる存在なのだ、という霊的事実を説いていることが、この舎利弗の告白を通しても、みごとに表現されているのである。)

つづく

 

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