解説を交えながら法華経を読もう

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 22

その時、舎利弗は、このことを再び述べようと、詩偈をもって言った。

「私はこの教えの御声を聞き、非常に尊いことと 心に大きな喜びを抱いた 疑いの網は すでにみな取り除かれた 昔から仏の教えを受け続けてきたが ついに大乗の教を得ることができた 仏の御声は大変得難くして 人々の悩みを除かれる 私はすでに煩悩を断ち切ったとはいえ 今仏の教えを聞き 憂い悩みを取り除いた 

(注:舎利弗の喜びからの言葉が、再び詩の形で述べられ始めたが、これ以降は、散文のところよりも詳しく、舎利弗が今まで迷っていたこと、自分を責めていたことが長々と語られることになる。この部分を読むにあたっては、「これは舎利弗の以前の心の状態を述べたものだ」という認識を常に頭に置いておく必要がある。それを注意しなければ、読み進めていくうち、頭が混乱してしまう危険がある。また、前回述べたように、これは歴史上の事実に基づいていないため、少しでも仏教の歴史を知っている者が読むと、さらに混乱する危険さえある。これは、あくまでも、法華経独特の記事なのである。)

私は山や谷に住んで あるいは林の樹の下にあって 座るにしても歩くにしても 常に次のようなことを考え 深く自分を責めていた 『自らをあざむいているのではないだろうか 私たちもまた仏の弟子であり 同じく悟りに入ったけれども これから先 この上ない道を説くこともできず 仏が備えると言われる輝かしい姿や優れた悟りも得ることはできない』 私は一人修行しつつ歩んでいる時 仏は大衆の中にあって その名は広く知られ 多くの衆生を教え導かれるのを見て 『私にはこの仏の功徳は失っているのだ 私は自らをあざむいている』と思った 私は日夜 このことを考えて 世尊に『本当に私は得られないのですか』と質問したいと思っていた 私は常に世尊を見るに 世尊は多くの菩薩を称賛されている 仏の御声を聞くに 実にさまざまな教えを説かれている 悟りは人の思いではとらえられないものだ 仏は人々を修行の場へと導かれる 私ももともとは誤った教えを求め 誤った教えを説く導師にまでなった 世尊は私の心を知られ 誤りを取り除き 真実の涅槃を説かれたので 私は邪見をすべて捨てて すべてのものは空であるという悟りを開いた その時 私は真実の悟り(滅度)を得たのだと思った しかし今 これは真実の滅度ではないと知った

(注:ここまで、かなり痛々しいまでの、舎利弗の自責の念が記されていたが、もちろん歴史上の舎利弗がこのように考えていたわけがない。これは、大乗仏教の人々からすれば、舎利弗は、小乗仏教の筆頭であるため、舎利弗が間違っていた、ということを自覚する、という物語を創作することによって、大乗がいかに小乗に勝(まさ)っているかを明らかにしているのである。舎利弗がこのようなキャラクターとして登場することは、他の大乗経典にも見られることである。このことを考えると、少々舎利弗が気の毒である。これからは、舎利弗が大乗の教に目覚めた幸いを説く場面となる。)

仏は大衆の中で 『もし仏となるならば 仏の優れた姿かたちを備え 人からも天からも敬われることになる それが本当の悟りなのだ』と語られた 私はそのような御声を聞き 疑いや後悔がすべて取り除かれた 初めは この仏の教えを聞いて 心の内で驚き怪しみ もしかしたら悪魔が仏となって 私の心を乱しているのではないかと思った しかし仏は引き続き さまざまの因縁や比喩をもって 巧みに語られた 私はその教えを聞いて 疑いの網を断じ 心が海のように穏やかになった 仏が説かれた過去の多くの滅度された仏たちも 方便をもってこの教えを説かれた 現在未来の数えることもできないほどの多くの仏たちも さまざまな方便をもって このように教えを説かれる

現在の世尊も お生まれになって出家され 悟りを得られて教えを説かれ また方便をもって語られる 世尊は真実の道を説かれる 悪魔はこのようなことはない 私はここで確かに知った 悪魔が仏になったのではない 私が疑いの網に陥っていたから 悪魔のわざだと思ったのだ 仏の柔らかな御声は 深遠であり妙なるもので 清らかな教えを説かれることを聞いて 私の心は大いに喜び 疑いや後悔は完全になくなり 真実の智慧の中に安住した 私も必ず仏となって 天や人に敬われることになるであろう そしてこの上ない教えを説いて 多くの菩薩を教化するであろう。」

つづく

 

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