解説を交えながら法華経を読もう

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 23

その時 仏は次のように舎利弗に語られた。

「私は今、天や人や僧侶やバラモン教の人々などの大衆に告げる。舎利弗は、過去の二万憶の仏のもとにおいて、この上ない道のために教化されてきた。そして実は、それはみな私が舎利弗を導いたのだ。この世においても舎利弗は、長い間私に従って学び修行して来たが、それは私が方便の力をもって私の弟子にしたからのだ。

舎利弗よ。あなたを仏の道を志願させたのは、私なのだ。しかし、今、あなたはそれらをすべて忘れて、自分で悟りを得たと思った。私は今、本当に行なうべき道を明らかに知らせようとし、また多くの声聞のために、この菩薩の教えであり、多くの仏たちが守られる妙法蓮華経を説くのだ。

(注:さて、ここから法華経の本領発揮とも言うべき、人間の常識をはるかに超えた教えが展開されて行く。まずここで、舎利弗は、実は過去二万憶もの仏に仕えてきたのだと言われ、さらにそれは、みな舎利弗の師である釈迦が導いてきたのだ、という。つまり、その二万憶の仏たちと釈迦は、同一であると解釈するしかない。あるいは、二万憶の仏のもとで、釈迦はまだ仏になっていなかったが、その修行仲間の先輩として、舎利弗を導いたとも解釈できるが、そのようにまどろっこしく考えても結論は同じである。そしてそのことを舎利弗は忘れ、自分で悟ったのだ、と思っていたというのである。法華経とは、そのように、時間も空間もはるかに超えた世界の真理を説くものなのだ、と、ここからも明確に知ることができる。歴史的釈迦の教えを本来の仏教とするならば、もはやこれは仏教とも名付けられない教えである。まさに仏教を超えた、霊的真理を明らかにする経典が、この法華経と言えるのである。

なお、大衆の中に、仏教以前からインドに存在していたバラモン教の修行者もいることがわかる。このように、聴衆としては、特にその身分や宗教も問われていないことも知られるのである。)

舎利弗よ、あなたは未来世において、気の遠くなるほどの長い歳月の後、千万憶の仏を供養し、正しい教えを保ち、菩薩の行なう道を満たし、まさに仏となるであろう。その名を、華光如来(けこうにょらい)といい、その仏国土を離垢(りく)と名付けられる。

(注:未来に仏となるという予言のことを、今までも何度も出てきたが、「授記」(じゅき)という。しかし、今までは抽象的な表現であったが、いよいよこれから、個人個人に具体的な授記が行なわれる。授記の記述が多いのも、法華経の特徴の一つである。いや、究極的には、人は誰でも、仏となることを目的として生きているのであるから、これは当然である。もちろん、仏となる、という表現は大乗仏教に限ったことだが、他の宗教にも当てはまるように表現するならば、「絶対者に引き寄せられ、その絶対者とひとつとなるギリギリの存在」を、大乗仏教では仏と言っているのである。そして、ついにその絶対者とひとつとなることを、大乗仏教ではそれを「滅度」(めつど)と言うのである。したがって、仏が滅度するならば、その仏の存在そのものがなくなってしまうのである。しかし大乗仏教では、滅度した仏の遺体は残るとして、その後、その遺体を焼いて舎利として、塔廟を建てることを勧めている。それはもともと、歴史的に、大乗仏教が、歴史的存在であった釈迦の舎利を管理していた在家教団を基に形成されていった名残であると考えられる。

さてこれから、舎利弗が仏となった華光如来仏国土の様子が詳しく説かれることとなる。なお、これも以前にも述べたが、法華経では、仏の名前を初めて出すときに、「十号」と呼ばれる仏の徳性を表現した十通りの言葉を長々と記すことが行なわれるが、これは省略してよいものと判断して、その中の「如来」だけを記すこととする。)

その仏国土はどこまでも平らで、清く厳かに飾られ、天的存在や人は平安で豊かで安楽で栄えている。地は瑠璃色の宝石でできていて、八つの交わる道がある。その道の両側は黄金の縄であり、その傍らに各々七つの宝によってなる樹木が並び、常に花や果実がある。華光如来もまた、三乗をもって衆生を教化する。

舎利弗よ、その仏の時代は悪い世ではないと言っても、前世からの誓願によって、三乗を説くのである。その仏が出現する時代は、大寶荘厳(だいほうしょうごん)と名付けられる。なぜ大寶荘厳というのだろうか。それは、その国の中には、菩薩をもって大寶とするためである。その多くの菩薩の数は、とても数えたり数式によって表現することなどできないほどである。仏の知力でなければ知ることはできないのだ。その菩薩たちが移動する時は、宝の華の上に乗って行くのだ。その多くの菩薩たちは、初めてそこで悟りを求める心を起こしたのではない。みな、長い間徳を積んで、数えきれないほどの多くの仏たちに従って、清らかな修行をし、常に諸仏から褒められることを得て、常に仏の智慧を修行し、偉大な神通力を備え、よくあらゆる教えを知り、偽りなく、純粋で、志は堅固である。そのような菩薩たちが、その仏国土には充満しているのだ。

舎利弗よ、華光如来の寿命は十二小劫(一小劫であっても、気の遠くなるほど長い歳月であり、それが十二ある、ということ)である。しかし、そこには仏になる前の期間は入れない。その仏国土の人々の寿命は八小劫である。華光如来はその十二小劫を過ぎて、堅満菩薩(けんまんぼさつ)に究極的な悟りを得るであろうと授記を与え、多くの僧侶たちに次のように言うであろう。『この堅満菩薩は、将来仏になるであろう。華足安行・多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀(けそくあんぎょう・ただあかど・あらか・さんみゃくさんぶっだ)という。その仏の国土もまた、この国のようであろう』。

舎利弗よ、この華光如来の滅度の後、正しい教えが世に伝わる期間(正法・しょうぼう)は三十二小劫、教えは伝わるが悟りが得らなくなる期間(像法・ぞうぼう)は三十二小劫であろう。」

(注:大乗仏教においても、終末論のような時代区分を説く。上に書いたように、正しい教えが世に伝わる期間を正法といい、教えは伝わるが悟りが得らなくなる期間を像法といい、さらに、教えも伝わらず、悟りも開けなくなる最悪の時代を末法(まっぽう)という。この世におけるこの時代区分としては、中国においては、正法五百年、像法五百年という説が採用され、日本においては、正法五百年、像法千年という説が採用され、それによって、日本では、平安時代の西暦1052年の永承七年から、末法になったと言われていた。その末法になったという危機感から、鎌倉新仏教が生まれたと言っても過言ではない。)

つづく。