解説を交えながら法華経を読もう

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 25

その時、仏は、舎利弗に次のように語られた。

「私は先ほど、諸仏世尊のあらゆる因縁や比喩や言葉によって、方便して教えを説くことは、みな最もすぐれた悟りのためだと言わなかったであろうか。この多くの教えは、みな菩薩を教化するためのものだ。しかも舎利弗よ、今まさに、たとえをもってこの意味を明かすことにしよう。さまざまな智慧を持つ者は、このたとえによって、方便の深い意味を理解することができるだろう。

(注:仏の説く様々な教えは、いろいろあるように見えるが、これらはすべて、最高の悟りのため、つまり仏になるために説かれたもので、いろいろな教えがあるのは、それぞれの能力に応じて、方便してさまざまな教えとして説かれたのだ、と、ここまで繰り返し語られてきた。仏の教えの種類としては、歴史的な仏教の流れの中から、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗として語られてきたが、これはあくまでも、歴史的な仏教の流れの中で、その三種類をあげることができる、ということなので、他の宗教に当てはめれば、必ずしも、三つとしなくてもいいはずである。

そしてこれから、この三つは一仏乗の一つのためなのだ、ということを、仏はたとえとして語り始めるが、これが有名な「火宅のたとえ」である。)

舎利弗よ、ある国のある都市に、大金持ちの長者がいた。その者は年老いていたが、財産は数えることができないほど豊かであった。多くの田畑や宅地および多くの使用人たちがいた。その家は広大であったが、門はただひとつであった。出入りする人々は多く、百人、二百人、あるいは五百人、その中にいた。屋根は朽ち古び、壁は崩れ落ち、柱の根は朽ち破れ、梁は傾き、非常に危険な状態だった。ある時、建物のあちこちから突然火が出て、たちまち建物は炎に包まれた。その長者の子供たちは十人、二十人、あるいは三十人いたとしよう。その子どもたちはまだ家の中にいた。

長者は大火が起こったのを見て、大いに驚き、次のように思った。『私は幸いにしてこの門から安全に出ることができたと言っても、子供たちはまた家事の中にいて、遊びに熱中していて、火事のことも知らず、驚かず、恐れない。火は子供たちの身に迫っているにもかかわらず、それを苦痛に思わない。出ようとする気持ちもない。』

(注:『火宅の人』という小説があるが、もちろん、その火宅という言葉は、法華経のこの箇所から取っている。この炎に包まれている家は、この世を表わしている。この世は、さまざまの苦しみ、悲しみ、苦痛に満ちているにもかかわらず、人々はそのことを悟らず、目の前にある楽しみにふけり、夢を追いかけて、その世から出ようともしない。この長者は言うまでもなく仏を表わすが、この世を火宅にたとえて、仏が何とかそこから子供たちを救い出そうとするたとえは、本当に見事なたとえである。)

舎利弗よ。この長者は次のように考えた。『私は力があるから、とにかく道具を使うにしろ何にしろ、子供たちをここから連れ出そう』。しかしまた次のように考えた。『この家にはひとつの門しかない。しかもそれは狭い。彼らは幼くて、この危機を知らず、遊びに夢中になっている。もし無理に引き出そうとすれば、建物が崩れて火の下敷きになってしまうだろう。私は子供たちに危険が迫っていることを言って聞かせよう。この家は家事になっているから、早く出て、火に焼かれないようにせよと』。このように考えて、すぐに長者は子供たちに『早く出て来なさい』と言った。

父は子供たちのことを思って、適切な言葉をもって諭したにもかかわらず、子供たちは遊びに夢中になっていて、その言葉を受け入れず、相変わらず驚きもせず、恐れもしなかった。ついに、出ようとする気持ちを起こさなかった。またそもそも、何が火であって、何が家であって、何を失うのかさえ知らなかった。ただ東西に走り回り、ふざけあって、父を見ても、それ以上のことはなかった。

その時、長者は次のように考えた。『この家はすでに火に包まれている。子供たちが出て来なければ、必ず焼け死んでしまう。私は今まさに方便を用いて、子供たちがこの災難を逃れるようにしよう』。

父はそれぞれの子供たちの好みを知っていた。あらゆる種類のおもちゃや珍しい物は、必ず欲しがるはずだと気づき、子供たちに次のように言った。『おまえたちが欲しがっていたおもちゃは、なかなか手に入らない物だ。今、それを取らなければ、後で後悔するぞ。さまざまの羊の車、鹿の車、牛の車が、今、門の外にある。これで遊びなさい。おまえたちは早く家事の家から出て来なさい。おまえたちが欲しいだけ、おまえたちにやろう』。

その時、父がおもちゃのことを言うのを聞き、子供たちが欲しがっていたものだったので、それぞれ大喜びで、互いに争うように走って火事の家から出て来た。その時、長者は子供たちが無事に出て来て、みな町の道が交差する大広場に座って怪我もなく、その心も大いに喜んでいるのを見た。そして子供たちは父に次のように言った。『お父さん、さっきおっしゃった羊の車、鹿の車、牛の車をください』。

舎利弗よ。その時、長者はそれぞれに、同じ大きな車を与えたのだった。その車は、高く大きく、あらゆる宝によって厳かに飾られ、周りには欄干があり、四面に鈴があり、その上に屋根を張り巡らし、珍しいあらゆる宝によってこれを飾り、きらびやかな縄が張り巡らされ、華の飾りが垂れ下がり、柔らかな布でできた布団が安置されている。その車は白い牛が引いているが、その皮膚の色もよく、身体も立派で大きな力があった。歩みは安定しており、その早いことは風のようであった。また多くの従者が手綱を引いていた。

この長者は大富豪であり、多くの蔵も宝に満ちている。そのため次のように思ったのである。『私の財産は極まりない。子供たちに劣った小さな車を与えるべきではない。この幼い子供たちはみな私の子である。みな同じく愛している。私にはこのような立派な車が数多くある。みな平等に与えるべきである。差別すべきではない。なぜなら、私の豊かな物を国のすべての人々に与えることさえできるのであるから、ましてや自分の子供たちにはこのようにしてやるべきだ。』」

(注:長者は、火宅から子供たちを救い出すために、最初は、羊、鹿、牛の車を約束して、幸いに子供たちを家から出すことに成功した。ところが、長者は子供たちに、余りにも豪華な車を平等に与えた。しかし、幼い子供が遊ぶのだから、そんな並外れた豪華な車よりも、単なる羊や鹿や牛の車のほうがいいのではないか、とツッコミを入れたくなるのであるが、もちろん、最初の三つの車は三乗を表わし、結果的に与えられた豪華な白い牛の車は一仏乗を表わしている。

また、最初の三つの車の三つめも牛で、豪華な車も牛が引いていることになっているが、この理由は、このたとえにおいて牛は菩薩を表わしているからである。今まで仏は、菩薩を教化すると繰り返し述べてきた。しかし、これも前にも述べたが、仏が教える相手は、他の声聞や縁覚と並列関係にある菩薩ではない。つまり、声聞と縁覚を捨てて菩薩だけを取るのではなく、すべての人が菩薩として仏から教えを受けることが目的である。そのため、最初の三つの車の牛と、豪華な車の白い牛は、別の牛である。このようなことも、仏教の歴史の中で、教理を重んじる宗派内では議論の材料とされた事実がある。)

つづく

 

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