法華経 現代語訳 38

その時、大通智勝如来は、あらゆる方角の梵天王をはじめ、十六王子の願いを受け、即時に、四諦(したい)と十二因縁(じゅうにいんねん)の教えを説いた。僧侶や婆羅門、あるいは天、魔、梵天および他の世の人が説くことのできない教えである。つまり次の通りである。
四諦は次の通りである。すべては苦しみである(苦諦・くたい)、苦しみの原因は執着が集まったものである(集諦・じったい)、執着を滅ぼせば苦しみも滅びる(滅諦・めったい)、その苦しみを滅ぼす道に八正道がある(道諦・どうたい)。
また、十二因縁(ものごとの成り立ちを十二の因縁に分けて説いた教え)を説かれた。すなわち次の通りである。
無明(むみょう・真理から離れた無知)があるから行(ぎょう・自分を中心とした働き)が生じ、行があるから識(しき・識別作用)が生じ、識があるから名色(みょうしき・名称と形)が生じ、名色があるから六入(ろくにゅう・眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官)生じ、六入があるから触(しょく・対象に接触すること)が生じ、触があるから受(じゅ・感受する働き)が生じ、受があるから愛(あい・対象を求める働き)が生じ、愛があるから取(しゅ・執着)が生じ、取があるから有(う・自我の存在)があり、有があるから生(しょう・生きること)が生じ、生があるから老いること、死ぬこと憂うこと悲しむこと苦惱することが生じる。したがって、無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識が滅し、識が滅すれば名色が滅し、名色が滅すれば六入が滅し、六入が滅すれば觸が滅し、觸が滅すれば受が滅し、受が滅すれば愛が滅し、愛が滅すれば取が滅し、取が滅すれば有が滅し、有が滅すれば生が滅し、生が滅すれば老・死・憂・悲・苦惱が滅する。
(注:ここで、なぜこの章で、大通智勝如来という仏が登場したか、その理由について述べてみたい。
大通智勝如来は、この後述べられることであるが、実は、今ここで法華経を説いている釈迦の父であり師匠なのである。つまり、釈迦は、父であり師匠である仏が行なったことと同じことを行ない、またこれからも行なうのだ、という前提がここに隠されている。
まず、大通智勝如来の十六人の子供が、十六王子と表現されていることに注目である。歴史的釈迦も、仏教では王子として生まれた、と言われる。実際は、王子という表現は大げさであって、ヒマラヤのふもとの地方豪族の息子として生まれたわけであるが、それを誇張して王子と言い伝えられているのである。つまり、やはり大通智勝如来も王であった、ということで、歴史的釈迦に重ねているわけである。
そしてすでに述べたが、前の箇所では、梵天王の「梵天勧請」が非常にくどいくらいに繰り返されて記されていた。もともと「梵天勧請」は、歴史的釈迦における説話である。すなわち、釈迦が悟りを開いた時、梵天が現われて、教えを説くよう要請したという話である。もちろん、これは歴史的事実ではなく、釈迦の死後生まれた説話であるが、このことにおいても、歴史的釈迦に重ねているのである。それも、釈迦の師匠である大通智勝如来であるから、この「梵天勧請」も、釈迦以上に誇張されて、壮大なスケールで記されているわけである。
そして、要請を受けた大通智勝如来は、上に述べたように、四諦と十二因縁の教えを説いたと記されている。このような教えは間違いなく、歴史的釈迦が説いたものである。もっとも十二因縁は、釈迦の死後間もなく、釈迦の教えをわかりやすく整理して十二因縁とした可能性が高い。また、上の記述を見れば明らかだが、この四諦と十二因縁は、ほとんど、その項目だけが記されているだけであって、ここでは訳者が現代語にする過程で、一言、説明を加えたが、いずれにせよ、このような記述で、四諦と十二因縁を深く理解することは不可能である。つまり、法華経を記述した記述者も、ここで四諦と十二因縁を理解させようとしているのではなく、とにかく、歴史的釈迦が説いた教えと同じ教えを、大通智勝如来は、はるか過去の世において説いたのだ、ということを読者に伝えたいのである。そして読者もそれを知ればそれでいいのである。
それはなぜかと言うと、この後、大通智勝如来妙法蓮華経を説くことになるのである。つまり、釈迦の師匠である大通智勝如来法華経を説いたということならば、同じく、釈迦も妙法蓮華経を説くのだ、ということである。このように、妙法蓮華経が説かれる、ということは、はるか昔から定まっていることであり、最初は四諦や十二因縁という、歴史的釈迦も説いた教えが説かれたとしても、それで終わるのではなく、必ず仏は、妙法蓮華経を説いて滅度を迎えるのだ、ということを、法華経の記者は読者に訴えようとしているのである。
さらにここには、小乗仏教に対する大乗仏教の立場というものが明らかに表わされている。大乗から見れば、歴史的釈迦の教えは小乗であり、つまり歴史的釈迦は小乗だけを説いて、八十歳で死んだ、ということになる。しかし大乗は、その歴史的釈迦を大乗仏典の中で、まるで復活したかのように再び登場させている。特に法華経においては、釈迦が本当に説こうとしていたことは、四諦や十二因縁のような小乗の教えなのではなく、大乗の究極の教えである妙法蓮華経なのだ、ということを主張しているのである。そのためには順序を追って、まず仏は、四諦や十二因縁を説いたということを記さなければならない。そのためこの章では、大通智勝如来がそれらを説いたと記されているわけである。そのため、四諦も十二因縁も、ただその項目を並べただけの記述となっているのである。繰り返すが、法華経の記者としては、この法華経の読者に四諦と十二因縁を説明して理解させようという意図はないのである。
このことを知らない昔の多くの法華経の注釈者たちは、ただでさえ、哲学的および教理的な教えが法華経の中にないことを不満に思っているわけであるから、このように、数少ない教理的な記述に対しては、待ってましたとばかり、やたらと細かい解釈を、この箇所に対して行なっている。それは大いに見当違いであり、ここは、さらっと読み過ごして良い所なのである。)

 

つづく

 

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