法華経 現代語訳 40

多くの僧侶たちよ。私はこのように沙弥であった時、数えることのできないほどの多くの衆生を教化した。私に従って教えを聞いた衆生は、最高の悟りを得るように導かれたのである。この多くの衆生は、今も声聞である者もいるが、私は常に最高の悟りを得るように教え導いている。この者たちも、この教えによって、やがて仏の道に入るであろう。なぜならば、如来智慧は信じがたく理解しがたいからだ。
その時に私が教化した数えることもできないほど多くの衆生は、今のあなたたちであり、さらに、私が滅度した後の未来世の声聞の弟子たちなのである。私が滅度した後は、弟子であっても、この経を聞くことはなく、菩薩の行なうべきところを知らず悟らず、自ら得た功徳において、完全な悟りの境地に到達したと思うであろう。そのような人たちのために私は、また他の仏国土において別の名を持つ仏となり、完全な悟りの境地に到達して涅槃に入ったと思っているその人たちも、またその国土において仏の智慧を求めて、この経を聞くことになるであろう。このように、ただ一仏乗によって完全な悟りの境地に至るのであり、多くの如来の方便による説法は除くが、他の教えはないのである。
多くの僧侶たちよ。如来が自ら完全な悟りの境地に到達する時が来たと知り、衆生も清く信仰と理解が堅固であり、空の教えをよく理解し、深く禅定に入ることができることを知るならば、多くの菩薩たちや声聞たちを集めて、彼らのためにこの経を説くのである。この世に、他の二乗によって完全な悟りの境地に至ることはないのである。ただ一仏乗をもって滅度を得るのである。
僧侶たちよ。まさに知るべきである。如来の方便は深く、衆生の本性に至るのである。深く肉体的欲望に執着する者たちが、劣った教えを喜ぶならば、仏は、その劣った教えによって得たものを究極的な悟りだと説くのであり、そうするならば、その者たちは信じ受け入れるのである。
(注:法華経では、前世の因縁と、未来世に対する予言が非常に多く説かれている。そしてここでは、釈迦は滅度した後、また他の仏国土において別の名を持つ仏となって、前世からの因縁のある者たちをまたそこで教え導く、と述べている。しかし、真実の滅度とは、完全にその存在自体が消滅してしまうことであり、そのために、もうその名前もなくなる。それは言うならば、完全にひとつの大きな根本的な世界、聖書でいう天の御国に入ったことである。しかしここでは、それでいても、また別の名の仏となって、教え導いて来た者たちを教え導くとあるが、それはどのようなことであろうか。
それは次の通りである。釈迦に従って教えを受けて来た者たちは、釈迦が滅度して、その名もなくなった以降も、まだ仏になっていないのであるから、仏国土間の生まれ変わりを続けていることになる。さらに彼らには、釈迦に従って来た、という因縁もそのままあるわけである。したがってその因縁があるゆえに、彼らが別の仏のもとに導かれ、その仏は釈迦ではなくても、霊的真理においては、その仏は滅度した釈迦の生まれ変わりと言うこともできるのだ、ということである。仏のような、最高の霊的次元に至るならば、もう、この仏あの仏、などという個別の差は極限状態まで希薄になっているわけで、どの仏に従っても、同じ仏に従い続けていることと同じなのだ、ということである。)
たとえば、非常に長く険しく危険な道で、さらに人家もなくなった恐ろしい所があったとする。そこを、珍しい宝を求めて、多くの人々が通過しようしていたとする。そこに、ひとりの導師がいた。聡明であり、この道についてもよく知っていた。彼が人々を導き、この難所を過ぎようとしていたのである。しかし、人々は気力を失って、導師に次のように言った。
『私たちは疲れてしまい、また恐れています。もう進むことはできません。これから先も長いですから、この辺で引き返したいです』。
導師は方便の智慧も豊かであり、次のように思った。
『彼らはかわいそうだ。ここまで来て、大いなる珍宝をあきらめて、帰ろうとしている』。
このように思って、方便の力をもって、険しい道のはるか先に、ひとつの城(いわゆる町)を神通力によって現わし、人々に次のように言った。
『あなたたちは恐れる必要はない。引き返すようなことはするな。あそこに、大きな城があるではないか。中に入って自由にするがよい。もしあの城に入るなら、快く休むことができるだろう。そしてさらに進んで宝のある所に行って来ようではないか』。
この時、疲労の極みであった人々も、この思いがけないことに、大いに喜んで次のように言った。
『もうすぐで私たちは、この危険な道を通過して、安心できる場所に行くことができる』。
人々は、進んで行って城に入り、助かったと思い、平安な心に満たされた。その時に導師は、人々が十分休み、また疲労も回復したことを知って、この城を消して、人々に次のように語った。
『さあ、宝の場所はもうすぐだ。この大きな城は私が神通力で現わしたものである。ただ、あなたたちを休ませるためのものだ』。
多くの僧侶たちよ。如来もまたこのようなものである。今、あなたたちのための大いなる導師であって、険しく長い生死や煩悩の悪しき道を、どのように進み、乗り越えるか、よく知っているのだ。もし衆生が、いきなり一仏乗を聞けば、仏を見たいともせず、親しく近づきたいともせず、次のように思うだろう。
『仏の道は、長く遠い。非常に長い間、苦しい修行をして、やっと成就するものだ』。
仏は、このような心が弱く劣っていることを知って、方便の力をもって、途中で休むために、二乗の涅槃を説いたのだ。もし衆生が、声聞乗や縁覚乗に到達すれば、如来はその時、次のように言うのだ。
『あなたたちは、まだ目標を成就してはいない。あなたたちは、仏の智慧の近くまで来た。よく考えてみよ。得たところの涅槃は、真実ではない。これは如来が、方便の力をもって、一仏乗のところを、分けて声聞乗と縁覚乗と菩薩乗の三つとして説いたのだ。これは、導師が、休ませるために大きな城を作り、すでにじゅうぶん休んだと知れば、宝は近くにある。この城は真実ではない。私が仮に現わしたものなのだ』
と言うようなものである。」
(注:ここで、この章の散文の部分は終わり、続いて同じ内容を詩の形にした箇所になって、この章は終わる。このように、この章は「化城喩品」とは言っても、その化城の例えの部分は全体から見れば非常に短く、やはり、釈迦の前世物語の章だと言うことができる。そしてすでに述べたように、釈迦の前世物語を説くことによって、この妙法蓮華経が、諸仏の究極的な教えであることを伝えようとしているのである。)

 

つづく

 

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