法華経 現代語訳 46

その時に仏は、また薬王菩薩摩訶薩(まかさつ・偉大な菩薩という意味)に語られた。「私の語る経典は無量千万億であり、それらはすでに説かれ、今説かれ、これから説くであろう。しかしその中において、この法華経は最も信じることが難しく、理解することが難しい。
薬王よ。この経は諸仏の秘められた重要な教えである。みだりに広めて人に与えるべきではない。諸仏世尊が守護する教えである。昔より今まで、いまだに明らかに説かれてはいない。しかもこの経は、如来が存在する現在ですら、なお非難されることが多いのであるから、如来の滅度の後はなおさらである。
薬王よ。まさに知るべきである、如来の滅度の後に、この経を書き写し、読誦し、供養し、他の人に説く者は、如来はその衣をもってその者を覆うように守のである。また、他の方角の現在の諸仏に覚えられ、守られる。その者は大いなる信仰の力、および大いなる志と願いと、多くの善を生む力がある。
まさに知るべきである、この者は、如来と寝起きを共にするようなものである。そして、如来の手をもって、その頭をなでられるのである。
(注:「如来の手をもって、その頭をなでられる」とは、仏になるであろうという授記を受ける意味とされる。そして、子供をほめるとき、「頭をなでる」ということがされるが、それは法華経のこの個所に由来する。いわゆる、最高にほめることを意味するのである。)
薬王よ。あらゆる場所で、この経を説き、内容を読んで理解し、読誦し、書き写し、あるいは経巻が保存されるならば、みなまさにその場所には、あらゆる宝によって作られた、大きく高い塔を建てて、荘厳な装飾を極めるべきである。
また、仏塔だからと言って、舎利(しゃり・仏の遺骨)を収納する必要はない。なぜならば、この経の中には、すでに如来の全身があるからである。その塔を、まさにすべての花や香、宝石、飾られた覆いや旗、そして伎楽や歌をもって供養し敬い、尊重し賛美すべきである。もしある人がこの塔を見て礼拝し供養したとすれば、まさに知るべきである、そのような人はみな、最高の悟りに近づいたことになるのである。
薬王よ。多くの人が、在家(ざいけ・出家をしていない一般信徒)であっても、出家者であっても、菩薩(自分の悟りだけではなく、他の人の悟りのために生きる者)の道を行なっている場合、まだその者が、この法華経を見たことも聞いたことも、読誦したことも、書写したことも、供養したこともなければ、まさに知るべきである、その者は正しく菩薩の道を行なっているとは言えないのである。もしこの経典を聞くことができたならば、正しく菩薩の道を行なっていることになるのである。
衆生の中に、仏の道を求める者があり、この法華経を見たり、聞いたり、聞き終わって信じ理解し受け保つならば、まさに知るべきである、この者は最高の悟りに近づいたことになる。
薬王よ。例えばある人が、渇乏して水を求めていたとする。ある高原で井戸を掘ろうと土を掘り下げ始めた。その過程で、乾いた土が出続けるならば、まだまだ水は遠いことがわかる。さらに努めて続けるうち、次第に湿った土が出て来て、さらに泥に至るならば、間違いなく水は近いと知ることになる。菩薩の段階もこのようなものである。もしこの法華経を、まだ聞いたことがなく、まだ理解したことがなく、まだ修学したことがなければ、まさに知るべきである、この者は仏の最高の悟りから遠いのである。もし聞いて理解し、思考をめぐらし、修学することができたならば、間違いなく仏の最高の悟りに近づいたと知るべきである。なぜなら、すべての菩薩の最高の悟りは、この経の中にあるからである。この経は、方便の門を開いて、真実の姿を示すものである。この法華経の蔵のような教えは、深く固く幽遠であり、人が簡単に到達することはできない。今仏は、菩薩を教化して、悟りを成就させるために開き示すのである。
薬王よ。もし菩薩がいて、この法華経を聞いて、驚き疑い恐れたとする。まさに知るべきである、この者は、新たに悟りを求める心を起こした菩薩と名付けられる。しかし、菩薩ではない声聞の人がこの経を聞き、驚き疑い恐れたとする。まさに知るべきである、この者は思い上がった人間なのである。
薬王よ。もし良い男子、良い女子が、如来の滅度の後に、人々のためにこの法華経を説こうとするならば、どのようにしたらよいだろうか。この良い男子、良い女子は、如来の部屋に入り、如来の衣を着て、如来の座に座り、人々のためにこの経を説くべきである。
如来の部屋とは、すべての衆生に対する大いなる慈悲の心である。如来の衣とは、柔和忍辱の心である。如来の座とは、すべては空であるということである。この中に安住し、怠惰な心を捨てて、多くの菩薩や人々のために、広くこの法華経を説くべきである。
薬王よ。私はそのような者がいる国において、化人(けにん・仏によって仮に現わされた人)を遣して、その者のために教えを聞く人々を集め、また、化人である僧侶や尼僧、在家信者の男女を遣して、その説法を聴かせよう。それらの多くの化人たちは、その教えを聞いて信じ受け、従順であって逆らわないだろう。またその説法者が、誰もいない場所にいるならば、私は広く天や魔(注:回心した善なる魔)を遣して、その説法を聴かせよう。私が他国にいたとしても、度々、説法者に私の姿を現わそう。またこの経を説くにあたって、言葉を忘れたならば、私はその場所に行って語り、思い出させよう。」
(注:仏が仮に現わした人や、さらに人ではない存在に説法しても、何の意味があるのだろうか、と誰でも思うであろう。しかし、聞く人がいなければ、説くこともできないのである。霊的世界においては、もともと真理だけがあり、その真理を説く人もいなければ、聞く人もいない。真理が真理としてこの世に現わされるために、説く人と聞く人が生じているのである。結局、すべては真理の表現である。したがって、誰が説こうが、誰が聞こうが、問題ではないのである。)
その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。「あらゆる怠惰な心を捨てようとするならば まさにこの経を聞くべきである この経は聞くことが難しく 信じ受け入れることも難しいからだ
例えば ある人が渇いて水を得ようとし 高原の土を掘り下げていったとする そして 乾燥した土ばかりが出て来るならば まだ水は遠いと知る しばらくして 湿った土や泥が出て来るならば 間違いなく水は近いと知るようなものである
薬王よ あなたはまさに知るべきである 法華経を聞かない人々は 仏の智慧を遠く離れているのだ 声聞の教えを終わらせる深い真理であり あらゆる経典の王であるこの経を聞き 聞き終って明らかに思考をめぐらせるならば まさに知るべきである このような者たちは 仏の智慧に近づいたのである 
もしこの経を説こうとするならば まさに如来の部屋に入り 如来の衣を着て さらに如来の座に座り 人々に対して恐れるところなく 広く彼らのために解説して説くべきである 大いなる慈悲をその部屋とし 柔和忍辱を衣とし すべては空であるということを座として 教えを説くべきである もしこの経を説こうとする時 人々が悪口し罵り 刀杖瓦石を加えるとしても 仏を念じてまさに忍ぶべきである 私は千万億の国土において 清く堅固なる身を現わし 無量億劫において 人々のために教えを説く 私の滅度の後 この経を説こうとする者には 私が仮に現わしたあらゆる人々 僧侶や尼僧 および信者たちを遣わして この経を説く者を供養させ 多くの人々を導いて集め その教えを聞かせよう もし悪しき人々が 刀杖および瓦石を加えようとするならば すぐに変化(へんげ)の人を遣わして この者の護衛としよう もしこの教えを説く者が 人の声さえ聞こえない寂しい場所に一人でいて この経を読誦するならば 私はその時 清らかな光明の身を現わそう もし経の言葉を忘れるならば そのために語り思い出させよう もしある人がいて このような徳を得て すべての人々のために説き あるいは誰もいない場所で経を読誦するならば どのような場合であっても 私の身を見ることができるだろう もしそのような人が 誰もいない場所にいるならば 私は天や魔を遣わして このための聴衆とする この人は喜んで教えを説き 何ら妨げなく解説するであろう 諸仏に覚えられ守られあるために 多くの人々を喜ばすことができるであろう もしこのような法師に親しく交われば 速やかに菩薩の道を得ることができ その師に従って学べば 大河の砂の数ほどの仏を見ることができるのである」

 

つづく

 

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