法華経 現代語訳 47

妙法蓮華経 見宝塔品 第十一

その時、仏の前に多くの宝によって形成された塔があった。高さも縦横の長さも、測ることができないほどであった。地面より現われ出て、空中に留まった。この塔は、さまざまな宝物をもって荘厳に飾られていた。そして五千の欄かんがあって、部屋も千万あった。無数の旗が厳かに飾られ、宝石が垂れ下がり、万憶もの宝の鈴がその上に懸かっていた。四面に妙なる香木が香りを放ち、その香りは世界に充満した。その多くの旗や覆いは、金銀あらゆる宝石、珊瑚、真珠などの宝をもってできており、その高さは四天王のいる天にまで至った。 多くの天は、天の花である曼陀羅華(まんだらけ)を注いで、この宝塔を供養した。他の千万憶の天や魔は、あらゆる花や香、宝石、旗、伎楽をもって宝塔を供養して、敬い尊重し讃歎した。
(注:今回から、第十一章にあたる『見宝塔品』(けんほうとうほん)である。意味は文字通り、「宝塔を見る章」である。
東大寺戒壇院などにある、法華経の世界を現わした仏像は、塔の中に二人の仏像が並んでいるという形が多い。その塔が、今回仏の前にあったという塔、すなわち多宝塔であり、その二人の仏像の一人はもちろん釈迦如来、もう一人が、これから塔の中から登場する多宝如来である。ここから、法華経の最後まで、釈迦如来多宝如来法華経の説法の中心にいることになる。しかし、多宝如来はほとんど語ることはなく、引き続き語るのは釈迦如来である。その多宝如来の役割などが、ここから語られることになる。)
その時、宝塔の中より、その場を讃嘆する大きな声が聞こえ、次のように語った。
「良いことだ、良いことだ。釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん・釈迦の正式な名前)よ。平等にして大いなる智慧であり、菩薩を教化する教えであり、仏が念じ守るところの妙法蓮華経を大衆のために説かれた。それで良い、それで良い。釈迦牟尼世尊が説かれたことは、みな真実である。」
その時にあらゆる人々は、大いなる宝塔の空中に留まっているのを見て、また塔の中より発せられた声を聞いて、みな喜び、今までになかったことだと驚き、座より立ち上がり、敬って合掌し、会衆の片隅に座った。
その時、一人の大いなる菩薩がいた。名を大楽説(だいぎょうせつ)という。すべての人々、および天や魔の思いを知って、仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。どのような因縁で、この宝塔が地面より現われ出たのですか。またなぜその中から、この声が発せられたのですか。」
その時、仏は大楽説菩薩に次のように語られた。
「この宝塔の中に、如来の全身がある。今より過去の世に、東方の国土を数えきれないほど過ぎた世界に、宝浄(ほうじょう)と名付けられた国土があった。その国に仏がおられ、名を多宝(たほう)といった。その仏は、仏になる前の菩薩の道を行じていた時、大いなる誓願を次のように立てた。『もし私が仏になり、さらに滅度の後、あらゆる方角の国土において、法華経が説かれるならば、この経を聞くために、私の塔廟がその前に現われ、その経が真実であることを証明し、讃めて「良いことだ」と言おう』。
(注:大乗経典の中には、ある仏が、仏になる前の菩薩の段階で、「私が仏になったらこのようなことをしよう」という誓願を立てた、という記述が多く見られる。いわゆるマニフェストである。有名な阿弥陀仏の「本願」も、実はマニフェスト、つまり公約なのである。阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩であった時、自分が仏になったならば、自分の名前を呼ぶ者が自分の仏国土に生まれることができるようにする、という誓願を立てたのである。それが、『無量寿経』(むりょうじゅきょう)に記されている、法蔵菩薩四十八願中の第十八願の誓願である。
一方、この法華経における多宝如来が菩薩であった時に立てた誓願は、法華経が説かれる場所がどこであろうと、必ず自分が死んだ後に建てられた塔廟がそこに現われ、「良いことだ」と褒め称えよう、というものであった。つまり、多宝如来がお墓ごとそこに現れる、ということである。その誓願通り、ついに釈迦が法華経を説いている場所に、多宝塔が地面から湧き出で、空中に留まったのである。こうして法華経のこれからの場面は、今までに増して、まるでSF映画のような場面が次々に展開して行くのである。)
その多宝如来が仏になって、さらに滅度する時となり、仏は天や人間などの大衆の中において、僧侶たちに次のように語られた。
『私が滅度した後、私の全身を供養しようとする者は、まさにひとつの大きな塔を建てるべきである』。
その仏は、神通の願力をもって、あらゆる方角の世界のあらゆる場所で、もし法華経が説かれるならば、その宝塔はその前に現われ出て、みなその前に涌出して、塔の中におられる如来の全身が『良いことだ、良いことだ』と讃嘆するのである。
大楽説よ。今、多宝如来の塔は法華経が説かれることを聞くために、地面より現われ出て、讃めて『良いことだ、良いことだ』と言ったのである。」
この時、大楽説菩薩は如来の神通力に動かされて、仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。願わくは、その仏の全身を見させてください」。
仏は大楽説菩薩に次のように語られた。
「この多宝仏には、深く重要な誓願があるのだ。それは、『もし私の宝塔が法華経を聞くために諸仏の前に出て、さらに私の全身をもって、会衆に示そうとするならば、その国土の仏の分身の諸仏、つまりあらゆる世界にあって説法している諸仏をすべてひとつの場所に戻して集め、その後に、私の全身を現わそう』というものである。
大楽説よ。私の分身の諸仏、つまり今あらゆる方角の世界にあって説法している者を、今まさにここに集めようではないか。」
(注:話が次第に複雑になってきた。仏の神通力にうながされて、大楽説菩薩は、その多宝如来の全身を見たい、と願い出た。確かに、塔廟の中からの声を聞けば、誰でもその仏そのものを見たいと願うだろう。しかし、それにはさらに条件があった。多宝如来が塔廟に入ったまま、法華経が説かれる場所に現われて、さらに全身を現わす必要が生じた時は(必要がない時などないと思われるが)、その法華経を説いている仏の分身をそこに集めねばならない、ということなのである。ここで「仏の分身」という、さらにSFチックな言葉が出てきた。釈迦であろうがどの仏であろうが、仏たる者、その仏の分身である多くの仏がまた存在し、その仏たちがあらゆる方角のあらゆる仏国土で説法をしている、というのである。まさに、霊の世界の自由自在な活動を表わす事実である。したがって、ここで法華経を説いている仏は釈迦如来であるから、今、釈迦の分身をこの場に集めてこそ、多宝如来のお顔を拝することができる、ということになったのである。ここからさらに、奇想天外な場面が次々に展開し始める。)

 

つづく

 

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