法華経 現代語訳 60

妙法蓮華経 如来寿量品 第十六

(注:いよいよ今回から、第十六章にあたる『如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)』に入る。天台宗では、迹門の『方便品』と本門の『如来寿量品』を同等か、どちらかと言えば、迹門の方を重要視するが、日蓮宗日蓮系の諸宗教は、この『如来寿量品』を法華経の中心とする。)
その時に仏は、多くの菩薩とすべての大衆に次のように語られた。
「多くの良き男子たちよ。あなたたちはまさに、如来の誠を明らかにする言葉を信じ理解すべきである。」
また大衆に次のように語られた。
「あなたたちはまさに、如来の誠を明らかにする言葉を信じ理解すべきである。」
また多くの大衆に次のように語られた。
「あなたたちはまさに、如来の誠を明らかにする言葉を信じ理解すべきである。」
この時に、菩薩たちと大衆は、弥勒菩薩を筆頭として、合掌して仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。ただ願わくは、これを説いてください。私たちは仏の言葉を信じ受けます。」
このように、
「ただ願わくは、これを説いてください。私たちは仏の言葉を信じ受けます。」と、三度申し上げた。
その時に世尊は、多くの菩薩たちが、三度願ってやまないことを知られ、彼らに次のように語られた。
「あなたたちは明らかに、如来の秘密にして神通の力を聞くべきである。
この世のすべての天と人および阿修羅は、みな、今の釈迦牟尼仏は、シャーキャ族の王宮を出で、伽耶城の近くの修行の場に座り、最高の悟りを得たと言っている。しかし、良き男子たちよ。私は実は、仏になってから今まで、無量無辺の長い時を経ており、それは百千万億を千億倍した数の劫に相当する。
例えば、五百千万億を千億倍して、さらに大河の砂の数よりもはるかに大きい数をかけた数ほどの世界を、もし人が微塵に粉々にして、東の方角に、その世界の数と同じ数の国を過ぎたところで一塵を下し、そのようにして東の方角に行って、その微塵を尽くしたとする。多くの良き男子たちよ。どう思うか。こうして通過したすべての世界は、考え計算して、その数を知ることができるであろうか。」
弥勒菩薩たちは、共に仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。その多くの世界は、無量無辺であり、計算しても知ることができません。また想像力のおよぶところではありません。すべての声聞、辟支仏などが、煩悩を断ち切った智慧をもってしても、考えてその数を知ることはできません。私たちは、もう退くことのない修行段階に達していますが、このことについては、まだ達してはいません。世尊よ。このような多くの世界は無量無辺です。」
その時に仏は、大菩薩たちに次のように語られた。
「多くの良き男子たちよ。今まさに、あなたたちに明らかに語ろう。この微塵を下した世界と下さなかった世界のすべてを再び擦って微塵として、その塵ひとつを一劫とする。私が仏となって今まで、それらすべての劫をさらに百千万億を千億倍して、さらに大河の砂の数よりもはるかに大きい数をかけた数の劫が過ぎているのだ。それ以来、私は常にこの娑婆世界にあって説法して教化している。また、その劫の数と同じくらいの多くの国々においても、衆生を導いている。
多くの良き男子たちよ。その中において、私は然燈仏(ねんとうぶつ)などの名称で教えを説き、また、涅槃に入ると述べた。これらはみな、方便をもって判断した結果である。
多くの良き男子たちよ。もし人々が私のところに来るならば、私は仏の眼をもって、彼らの信仰の能力の優劣を観じ、悟りに入らせる方法に従って、自らのさまざまな名前、その寿命の長さを説き、また、応に涅槃に入ると述べ、また、あらゆる方便をもって、妙なる教えを説いて、人々に歓喜の心を起こさせたのだ。
(注:さっそく、大変なことが語られた。実は、釈迦は29歳で出家して、35歳で悟りを得て、80歳で死ぬまで布教をされた、ということになっているが、実は、「本当の釈迦」は、想像も及ばない過去から、想像も及ばない未来にかけて、ずっとこの娑婆世界で生きておられ、それこそ数えきれないほどの菩薩たちを教化してきたのだ、というのである。
ここまで繰り返し述べてきたように、『法華経』そのものが、歴史的釈迦の説いたものではなく、紀元直後、大乗仏教運動が起こった中で記されたものである。このことは間違いなく、このことを否定する者は、よっぽどの狂信者か、仏教を勉強していない者である。しかし、そのことを横に置いておくとしても、この『法華経』自体が、「この『法華経』を説いている釈迦は、実は歴史的釈迦ではない」と記しているのである。では、目に見える形となってこの経を説いている釈迦は誰か。それは、「本当の釈迦」が、人々の能力などに応じて姿を現わした仏だというのであり、そのパターンで姿を現わした仏は他にもたくさんいる、というのである。今まで、すでに数多くの名前の仏がこの『法華経』に登場してきたし、これからも登場するわけであるが、それらのすべての仏は、この「本当の釈迦」が姿を変えたものだ、と解釈できる。もちろん、そのように解釈するしかない。
さて、この「本当の釈迦」を、いくつかの呼び名はあるが、「久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦」などと呼ぶ。そして、その久遠実成の釈迦を「本仏(ほんぶつ)」と呼び、本仏が姿を変えて現われた仏を「迹仏(しゃくぶつ)」などとも呼ぶこともある。これは、あまり天台宗などでは言われないが、日蓮宗日蓮系の宗教ではよく言われることである。
では、この久遠実成の釈迦とは、誰なのか。キリスト教などで言う創造主なる神様なのか、などと思いたくもなるが、そもそも宗教が違うので、ここで「違う宗教」の用語などを持ち出して来て比較することなど、愚の骨頂である。
訳者の私としては、ここまで、『法華経』は霊的世界を如実に現わした経典である、と述べてきたが、この久遠実成の釈迦は、まさにその霊的世界の真理それ自体を表わすと確信している。
霊的真理は、言葉には表現することはできない。したがって、この久遠実成の釈迦も、仏像や仏画などで表すことはできないことは当然である。
日蓮が本尊として、釈迦仏などを彫って崇拝するのではなく、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることを教え、それを文字化したものを本尊としたことが、ここにきてさらによくわかるのである。)

 

つづく

 

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