法華経の現代語訳と解説

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 61

多くの良き男子たちよ。如来は、劣った教えを願う、徳の薄い汚れが重い衆生見るならば、その人のために、『私は若い時に出家して、後に最高の悟りを得たのだ』と説くのである。しかし、私は仏になってから今まで、実に膨大な年月を経て来たことは、すでに述べた通りである。ただ方便をもって、衆生を教化して仏の道に入らせようと、このような教えを説いたのだ。

多くの良き男子たちよ。如来が述べる経典は、みな衆生を悟りに導くためである。あるいは私自身の過去の因縁を説き、あるいは他の仏の過去の因縁を説き、あるいは私の分身を現わし、あるいは他の仏の身となり、あるいは私が仏になったことから始まって涅槃に至ることなどを説き、あるいはその他の菩薩や仏や、さらに衆生に関するあらゆることを説くのだ。これらのことはすべて真実であり、偽りではない。

それはなぜであろうか。如来如実に、迷いの世界を知り、ありのままを見るからである。迷いの世界は、生まれることもなく死ぬこともなく、退くこともなく、出ることもなく、また存在することもなく、滅び去ることもない。真実でもなく、偽りでもなく、同じこともなく、異なることもなく、迷いの世界が迷いの世界を見るようなこともない。このようなこと如来は明かに見て、誤ることはないのである。

多くの衆生は、それぞれの性質を持ち、それぞれの願いを持ち、それぞれの行ないがあり、それぞれの思いや判断力があるために、多くの善根(ぜんこん・良い結果を生じさせる要素)を得させようと願い、さまざまな因縁、譬喩、言葉をもって、さまざまに教えを説くのである。これらのことは、今まで一度も変更したり取り消したりしたことはない。

このように、私は仏になってから今まで、実に長い年月を経てきた。私の寿命は無量阿僧祇劫である。常に存在して世を去ることはない。

多くの良き男子たちよ。私は過去に菩薩の道を行じて得たところの寿命は、今なお尽きることはない。先に述べた年数の倍以上あるのだ。しかし今、本当の滅度ではないが、まさに滅度すると言うのだ。

如来はこの方便をもって、衆生を教化する。それはなぜであろうか。もし仏が長い間この世にいるならば、徳の薄い者は善根を種えようともせず、貧しく劣ったままであり、あらゆる欲望に執着し、妄想や誤った考えの網の中に入ってしまうであろう。もし如来が、常にこの世にいて、去ってしまうことがないと知れば、人々は意識が麻痺し、怠けた心を起こし、仏に会うことは困難だという思いや、仏を敬う思いを持つことがないであろう。このために如来は、方便をもって説くのである。

僧侶たちよ。まさに知るべきである。諸仏が世に出現することに遭遇することは難しいのである。それはなぜであろうか。多くの徳の薄い者たちは、無量百千万億劫を過ぎて、やっと仏を見ることができるのであり、またそれでも見ることのできない者もある。このために、私は『多くの僧侶たちよ。如来を見ることは難しいのである』と言うのである。衆生はこのような言葉を聞くならば、必ず仏に会うことは難しいのだと気づき、心に仏を慕う思いを抱き、仏を渇仰して、すぐに善根を積むようになるであろう。このために如来は、実際には世を去ることはないが、滅度するのだと言うのだ。

また良き男子たちよ。諸仏如来の教えはみなこのようなものだ。衆生を悟りに導こうとするのであり、みな真実であり、偽りはない。

 

(注:いつも仏が人々の前にいるならば、人々は怠け心を起こし、仏を敬ったり、悟りを求めようとはしなくなるので、実際は仏は世を去ることはないけれども、滅度、つまり仏の死の姿を現わすのだ、と述べられているが、果たしてそうであろうか。いつも仏が目の前にいれば、むしろ喜ばしく、常に安心であり、幸せな毎日とならないであろうか。

ここで気づかねばならないことは、仏がどうのこうのではなく、私たち人間が、どのような存在であるか、ということである。まさに仏がいつも目の前に見える姿でいるということは、わかりやすく言うならば、極楽浄土にいるようなものである。となると、よくこの世の人々が笑い話などで言うのであるが、さぞかし、極楽浄土は退屈であろう、ということになる。最初は、きれいな蓮の花を見ては喜び、仏のすばらしい姿を見て敬うかもしれない。でも、すぐにそれらに飽きて、やがては寝っ転がってあくびばかりしている毎日になる、という話を落語で聞いたことがあるが、まさにその通りであろう。なにせ、働く必要もなく、死ぬこともないのであるから、すぐに退屈してしまう。今の私たちは、まさにそのような存在なのである。

このことに気づけば、ここで法華経に記されている通り、いつも仏が目の前にいるならば、すぐにその状態に飽きてしまい、仏を敬う気持ちも薄れ、もちろん悟りを得なければならない、という気持ちも起こすわけがない、ということに納得がいく。

そもそも、それはなぜかと言えば、その答えは、むしろ聖書にある通り、人間そのものが真理から離れてしまい、自分勝手に生きるようになっているからなのであるが、仏教ではそのようなことは説かず、そのような人間の現状を説き、そのような状態から逃れる道を示すのが、仏教の特徴なのである。)

 

つづく

 

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