法華経の現代語訳と解説

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 62

例えば、智慧が豊かで、薬の知識が豊富で、よく多くの病を治す良医がいたとする。その人の子供たちは多く、十、二十、あるいは百人以上だったとする。ある時、用事があって遠い国に出かけた。その間に子供たちは毒薬を飲んでしまい、苦しんで地に転げまわった。そして父が家に帰ったが、子供たちの中には、毒を飲んで本心を失ってしまった者もあり、あるいは失っていない者もいた。遠くに父の姿を見て、みな大いに喜んで挨拶し、次のように言った。『よくご無事で帰られました。私たちは愚かにも、毒薬を飲んでしまいました。願わくば治療してくださり、命を長らえさせてください。』父は、子供たちが苦しんでいるのを見て、多くの医学書に基づいて、色も香りも味も良い薬草を求めて調合し、子供たちに与えた。そして次のように言った。『この大いなる良薬は、色も香りも味も良く、効能がある。あなたたちは飲みなさい。速やかに苦しみが消え、他の患いもなくなるであろう。』その子供たちの中で、本心を失わない者は、その良薬の色も香りも味も良いことを見て、すぐにこれを飲み、病はすべて癒された。他の本心を失ってしまった者たちは、その父が帰って来たことを見て喜び、病を治してほしいと求めはしたものの、その薬が与えられても、あえて飲もうとはしなかった。なぜなら、毒気が深く入ってしまい、本心を失っていたために、色も香りも味も良い薬にもかかわらず、良い薬とは思わなかったのである。

これを見た父は、次のように思った。『この子たちは憐れむべき者たちだ。毒によって心が混乱してしまっている。私を見て、喜んで治療されることを求めても、この良い薬を飲もうとはしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませるべきである。』そして次のように言った。『あなたたちはまさに知るべきである。私は今老衰によって死の時が近づいている。この良い薬をここに置いておく。あなたたちは取って飲みなさい。治らないと心配することはない。』

このように教えて、他の国に行き、そこから使いを送って、『あなたたちの父は死んだ』と伝えさせた。この時、子供たちは父が亡くなったということを聞いて大いに憂い、次のように思った。『父がいる時は、私たちを慈しみ、よく救い守ってくださった。今、私たちから離れて、遠くの国で亡くなった。私たちは孤独になり、頼る者もいなくなってしまった。』このような悲しみを常に抱いているうちに、心はついに覚醒した。すなわち、この薬が色も香りも味も良いことを知って、ただちに取って飲み、毒の病がみな癒された。その父は、子供たちがみなすでに癒されたことを聞いて、すぐに帰り来たって、子供たちの前に姿を現わした。多くの良き男子たちよ。あなたたちはどう思うか。この良医は、嘘偽りを語った罪があるだろうか。」

「いいえ。世尊よ。」

仏は次のように語られた。

「私もまたこれと同じなのだ。仏となってから今まで、無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫である。衆生のために方便の力をもって、まさに滅度するであろうと言う。私の教えもそうであって、私が偽りを説いたと言う者はないのだ。」

 

(注:薬を飲まない子供たちに、薬を飲ませるために、例え話の中の父親は、一度遠い所に出かけて、そこから「父は死んだ」という知らせを伝え、その知らせを聞いた子供たちは、悲しみのうちに心が元に戻り、薬を飲んで癒された、というのであるが、これは一度聞いただけでは、すぐに納得がいかない話ではないか。悲しむ心が、一度失った本心を取り戻させる、ということは必ずしも言えない。

実は、ここには隠されたヒントがあって、それが「危機感」ということである、と思わざるを得ないのである。子供たちは、薬が良薬だとは思えず飲まなかったのであるが、ただ飲まなかった理由がそれだけだとは思えないのである。そこには、危機感というものがなかったのではないだろうか。

前回見たように、いつも仏が目の前にいる、という状態では、緊張感は薄れ、怠惰になって、悟りを求めようとする気持ちを持たない。同じように、いつも父がそばにいて、自分たちを守って導いてくれている、という状態だと、「良医である父がいるのだから、少々毒を飲んで苦しんでも、死ぬことはあるまい、もし本当に死にそうな状態になれば、必ず父が助けてくれるだろう」と思い、自分たちが毒を飲んで苦しんでいることは理解していても、それほど大きな危機感を抱かないということは十分考えられる。そのため、自分の目には良薬だとは思えない薬は飲まないのである。
しかし、その父が死んだとなれば、もう自分たちを常に助けてくれる人はいなくなったのだから、自分で何とかしなければならない、という危機感を抱く。まさに本文にも、「父がいる時は、私たちを慈しみ、よく救い守ってくださった。今、私たちから離れて、遠くの国で亡くなった。私たちは孤独になり、頼る者もいなくなってしまった」と思ったことが記されている。このため、まず自分たちができることは、父が置いて行ってくれた薬を飲むことだ、ということになり、飲んで癒された、ということである。

人が真理を求めるためには、このような危機感が必要であることは確かである。この世での生活に満足し、何ら危機感を抱かないならば、人は誰でも、真理とは何か、人生とは何か、などとは考えず、日々の生活を楽しむだけである。それでは、その人には、悟りとか、救いなどということは無縁である。この「良医の譬」と呼ばれる例え話は、実に深い真理を物語っているのである。

さて、この『如来寿量品』も散文の部分は終わり、詩偈の部分がこれに続くが、この詩偈の部分が、法華経の中心の中心と言われる箇所であり、まさに訳者鳩摩羅什の名文によって、多くの人々に親しまれて来た『自我偈(じがげ)』である。)

 

つづく

 

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