法華経の現代語訳と解説

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 63

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「私は仏になって今まで その経て来た劫の数は無量であり   百千万億年を測り知れないほど倍にした長さである その間常に教えを説いて 無数億の衆生を教化して 仏の道に入らせた それから今まで無量劫である 衆生を悟りに導こうとするために 方便して涅槃を現わす しかも実は滅度していない 常にここにあって教えを説く 私は常にここにいるが さまざまの神通力をもって 迷いの衆生には 近くにいても見えないようにしている 衆生は私の滅度を見て 広く舎利を供養し みな慕う心を抱いて 渇仰の心を起こす 衆生が信じる心を持ち 素直で心が柔らかに 一心に仏を見ようと願って 自らの身命までも惜しまないようになった時 私は多くの僧侶たちと共に 霊鷲山(りょうじゅせん・この法華経の説かれる場所)に出現する そして私は次のように語る 『私は常にここにあって滅びることはない 方便の力をもって滅不滅の姿を現わす 他の国の衆生で 敬い信じ願う者があるならば 私はまたその中において 無上の教えを説く』 あなたたちはこのことを聞くことがなかったので 私がただ滅度したのだと思ったのだ

私は衆生を見るに 苦しみの海に沈んでいる そのため私の姿を現わさず それによって私を渇仰する心を生じさせるのだ その慕う心に応じて 私は世に出現して教えを説く 私の神通力はこのようなものだ 阿僧祇劫(あそうぎこう)という非常に長い間 私は常に霊鷲山および他の場所に居続けている 世の中が大火で焼かれていると人々が見る時も 私の国土は安穏であり 天人たち常に充満している 園や林にある多くの堂閣は あらゆる宝をもって荘厳に飾られ 宝樹の華や果は多く 衆生が遊び楽しむ所である 諸天は天の鼓を打って 常に多くの伎楽を演奏し 天の華を降らせて 仏と大衆に注いでいる 私の浄土は滅びることがないにもかかわらず 多くの人々は この世は焼け尽きて 憂いや怖れの苦悩が充満していると見る この多くの罪の衆生は 悪業の因縁をもって 千億劫を過ぎたとしても 仏と教えと僧侶の三つ宝の名を聞かない 多くのあらゆる功徳を修し 柔和で素直な心を持つ者は すなわちみな私がここにあって教えを説く姿を見ることができる ある時はこの人々のために 仏の寿命は無量であると説く しかし長い間仏を見ずに ようやく仏を見た者には 仏に会うことは難しいと説く 私の智慧の力はこのようなものだ 智慧の光は無量の世界を照らして 寿命も無数劫である これは私が前世における誓願を果たして仏になったためである あなたたちの中で智慧のある者は このことにおいて疑いを生じさせてはならない まさにそのような疑いは永遠に断じ尽くさねばならない 仏の言葉は真実にして偽りではない

医者が良い方便をもって 本心を失った子を癒すために 実際は死んでいないにもかかわらず死んだと伝えたように 偽りをもってではなく 私もこの父のように 多くの苦しみや患いを救う者なのである 迷いの衆生は本心を失っているために 実際は存在しているにもかかわらず 私は滅度する もし常に私を見るならば 自己満足の心を起こし 放逸になって肉の欲に執着し 悪しき道の中に落ちるであろう

私は常に衆生の 仏の道を行じているかいないかを知って まさに導くところに応じて あらゆる教えを説くのだ どのようにしたら人々をこの上ない仏の道に入らせ 速やかに仏となるように導くことができるか 私は常に考えているのだ」

 

(注:この『如来寿量品』の詩偈の部分の冒頭は、「自我得佛来」であり、書き下すと「我佛を得て自(よ)り来(このかた)」となる。そして、読経の時はそのまま音読して、「じーがーとくぶつらーい」となるが、この冒頭の言葉より、この詩偈全体の通称として「自我偈(じがげ)」と呼ばれる。『如来寿量品』はまさに『法華経』の中心と言うことができ、さらにその詩偈は、この章の内容を要約したものであるから、「自我偈」は、『法華経』の中心の中心と言われるのである。そのため、『法華経』を中心的経典としている宗派や宗教団体では、この「自我偈」が読経の時に最も多く読まれる。重要な箇所であり、さらに名文であり、しかも短いので、まさに「読経に最適」なのである。

しかし、この詩偈の中ほどには、いわゆる久遠実成の釈迦の国は、決して滅びることはない、ということが記されているが、そのような内容は、散文の部分にはない。そして、この永遠の国のことを、『法華経』が説かれた場所である「霊鷲山(りょうじゅせん)」にちなんで、「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」と呼ぶことがある(くれぐれも、「れいざん」とは読まないこと)。

さて、この『法華経』には、他にも多くの仏とその仏国土が記されている。ひとりの仏には必ずその仏の国土があることになっている。したがって、この『法華経』を説いている釈迦の国土は、この娑婆世界なのである。実際インドにある霊鷲山も、言うまでもなく娑婆世界の中にある。

すると、永遠ではない娑婆世界の中に、永遠なる霊山浄土があることになってしまう。さらに、この『法華経』は、あくまでも娑婆世界の釈迦が説いているのであり、久遠実成の釈迦が説いているのではない。本文中にも、「私は多くの僧侶たちと共に 霊鷲山に出現する そして私は次のように語る 『私は常にここにあって滅びることはない 方便の力をもって滅不滅の姿を現わす 他の国の衆生で 敬い信じ願う者があるならば 私はまたその中において 無上の教えを説く』」とある。つまり、霊鷲山にも出現するが、他の国にも出現するのである。あくまでも、本仏である久遠実成の釈迦にとっては、この霊鷲山は、その身を迹仏(本仏が仮に現れた姿)として現わす場所の一つに過ぎないのである。

したがって、久遠実成の釈迦の国土を、『法華経』が説かれている場所にちなんで、「霊山浄土」と呼ぶのはおかしいことになる。そもそも、釈迦も、この娑婆世界の実在人物の名であるから、「久遠実成の釈迦」という言葉もおかしい。

やはり、永遠の存在には名前はつけられず、その永遠の存在の国にも、名前はつけられないのだ。真理は言葉には表現できず、無理やり言葉に表現した途端、それは真理ではなく、真理の表現となる、ということは、まさに真理である。)

 

つづく

 

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