法華経の現代語訳と解説

解説を交えながら、法華経をわかりやすく現代語訳することを目指しています。何より、法華経には何が書いてあるかを知っていただきたいと願っています。数日に一回程度、アップして行くつもりです。訳者については、http://nozomichurch.net/ をご覧ください。

法華経 現代語訳 66

妙法蓮華経 随喜功徳品 第十八

 

(注:今回は、第十八章目にあたる『随喜功徳品(ずいきくどくほん)』である。「随喜」とは、法華経においてはこの経を聞いて喜ぶことであり、すでに前の章である『分別功徳品』に、この随喜の功徳についても述べられていた。この章では、特にその随喜の功徳について、さらに詳しく述べられる内容となる。)

 

その時に弥勒菩薩摩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。もし良き男子や良き女人がいて、この法華経を聞きて喜ぶならば、どのような福を受けるのでしょうか。」

さらに詩偈の形をもって次のように申し上げた。

「世尊よ 仏の滅度の後に この経を聞いて喜ぶ者は どのような福を受けるのでしょうか」

その時に仏は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「阿逸多よ。如来の滅度の後に、もし僧侶や尼僧や男女の信者、および他の智者であっても年配者であっても若者であっても、この経を聞いて、喜んで教えの場から出て、それぞれの場所に行ったとする。そして、僧坊あるいは寂しい場所、もしくは城壁の中の町、港、集落、農村などで、聞いた通りに父母、親族、友人、宗親、善友、指導者のために、その者の能力に従って説いたとする。この聞いた人たちが、やはり喜んで、同じように他のところで教えたとする。さらに、また聞いた人たちが喜んで、同じように他のところで教えたとする。このように、教えが伝えられて、そのようなことが五十回繰り返されたとしよう。

阿逸多よ。この五十回目の良き男子や良き女人が喜んだ時の功徳を、今、私は説こう。あなたはまさに知るべきである。もし数えきれないほどの世界のすべての衆生は、卵から生まれたり、母胎から生まれたり、湿ったところからわき出たり、突然と生まれたり、もしくは、形があり、形がなく、想念が盛んであったり、想念がなかったり、想念が静かだったり、想念の有る無しを超越していたり、足がなかったり、二足だったり四足だったり多足だったり、このようなすべての衆生に対して、ある人が福を求めて、それぞれの願うところに従って、楽しむことのできるあらゆる物を与えたとする。その各々の衆生に対して、地上に満ちる金、銀、瑠璃や珊瑚や琥珀、真珠などの妙なる珍宝、および象馬、車、七宝によって作られた宮殿や楼閣などを与えたとする。この大いなる施しをする人は、このように布施を続けて八十年を経て、次のように思った。「私はすでに、あらゆる衆生に、その願いに応じた楽しむ物を施して来た。しかし、彼らはすでに八十年が過ぎて年老い、髪白く顔にしわを刻んで、まさに死ぬ時までは長くない。私はまさに仏の教えをもって、彼らを導こう」。すなわち、このすべての衆生を集めて教えを述べ伝え、教えを示して導き、一度にさまざまな悟りの境地を得させ、あらゆる煩悩を消し、深い禅定において自由な境地を得させ、あらゆる解脱を身に着けさせたとしよう。

そこであなたはどのように思うか。この大いなる施しをする者が得る功徳は多いだろうか、少ないであろうか。」

弥勒菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この人の功徳は非常に多く、無量無辺なりです。この施しをする者が、ただ単にすべての楽しむべき物を施しただけでも、その功徳は無量です。ましてや、悟りの境地を得させるのですから、なおさらです。」

仏は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「私は今、あなたに明らかに語る。この人は、すべての楽しむべき物をもって、数えきれないほどの世界のあらゆる衆生に施しをして、さらに悟りの境地を得させた。その得るところの功徳は、この五十回目の人が、法華経の一偈を聞いて喜ぶ功徳には届かないのだ。その百分の一、千分の一、百千万億分の一にも及ばないのだ。さらにどのような算術をしても、知ることはできないのだ。

阿逸多よ。このように五十回目の人が法華経を聞いて喜ぶ功徳は、とても測り知れないのだ。ましてや、法華経が最初に説かれる会衆の中において、それを聞いて喜ぶ者はなおさらである。その福はこれに増して、とても比べることなどできないのだ。

また阿逸多よ。もしある人が、この経を聞くために僧坊に行き、座ったり、立ったりして、少しでも聞いたとする。この功徳によって、この人が生まれ変わったならば、最上の妙なる象馬、車、珍宝の輿(こし)を得て、天宮に上るであろう。もしまたある人が、法華経が説かれる場所に座っていたとする。さらに後から人が来て、その人に勧めて座らせて聞かせたり、あるいは自分の座を分けて座らせたりしたとする。この人はその功徳によって、生まれ変わったならば、帝釈天の座る場所、もしくは梵天王の座る場所、もしくは転輪聖王の座る場所を得るであろう。

阿逸多よ。もしまたある人がいて、他の人に「法華経という経典がある。行って共に聞こう。少しでも、その教えを聞こうではないか」と言ったとする。この人はその功徳によって、生まれ変わったならば、陀羅尼菩薩(だらにぼさつ)と同じところに生まれるであろう。能力はすぐれ、智慧を得るであろう。百千万回生まれ変わっても、耳が聞こえないことや言葉を話せないことにならない。口の息は臭くなく、舌は常に病気がなく、口にもまた病気はないであろう。歯は黒くなく、黄色くなく、疎けることはなく、欠け落ちることなく、かみ合わせが悪くなく、曲ることはなく、唇は垂れ下がらず、またすぼまることなく、ざらつかず、できものがなく、欠けることなく、曲がることなく、厚くなく、大きくなく、また黒くなく、見た目の悪いところもないであろう。鼻は偏平でなく、また曲がることなく、顔は黒くなく、細長くなく、曲がっていることなく、すべて願わしくないところはないであろう。唇も舌も犬歯や歯も、みな厳かに美しいであろう。鼻は長く高くまっすぐであり、顔つきは円満であり、眉は高く長く、額は広く平たく、良い人相がそなわっているであろう。生まれ変わる世ごとに、仏に出会い、教えを聞いて、教えを信じ保つであろう。

阿逸多よ。あなたはこのことを心に刻むがよい。一人に勧めて、教えを聞かせる功徳はこのようなものである。ましてや、一心に聞いて説いて読誦し、さらに大衆に向かって、人のためにわかりやすく解説して、自らも教えによって修行する者はなおさらである。」

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、詩偈の形をもって次のように語られた。

「もし人が法会において この経典を聞く機会を得て たとえ一偈においても 喜び 他の人にも説いたとする そしてこのようなこと五十回続いたとする その五十回目の人がどのような福を得るか 今ここに述べよう

大いに布施する人がいて 数えきれないほどの衆生に施しをして 思いのままに行ない八十歳になった 彼は髪の毛も白くなり 顔には皺が寄り 歯が抜けて体も痩せてきたのを見て 「死はさほど遠くはないであろう 私は今まさに教えを説き 仏の道に導こう」と思い 方便を用いて涅槃についての真実の教を説いた 「この世はみな水に浮く泡や炎のように 常に定かではない あなたたちはまさに この世を嫌って離れる心を起こすべきである」 多くの人はこの教えを聞いて みな煩悩を離れた阿羅漢の位を得 あらゆる神通力とさまざまな 解脱を身につけた

法華経の一偈でも聞いて喜んだ その五十番目の人の福は 実はこの大いなる布施をした人の福より 比喩や言葉にできないほど優れているのだ ましてや法会において 最初に法華経を聞いて喜んだ人の福は言うまでもない

もしある人が他の人に 「この経は深く妙なる教えである 千万劫においても聞くことはまれだ」と言い、言われた人が行って法華経を一瞬でも聞いたとする その勧めた人の果報の福を 今まさに説こう

その人は何度生まれ変わっても 口の病気はなく 歯は黒くなく黄色くなく 唇は垂れ下がらず欠けることなく 悪しき形もないであろう 舌は適度に乾き 黒かったり短かったりしない 鼻は高くまっすぐであろう 額は広く平らであり 顔立ちは端麗であり 人が見たいと願うほどであろう 口の息も臭くなく 天の花の香りが 常にその口からただようであろう 

もしある人が僧坊に行き 法華経を聞こうと願い 一瞬でも聞いて喜んだとするな 今まさにこの福を説こう その人は後に天人の中に生れて 妙なる象や馬や車 珍宝の輿(こし)を得 さらに天の宮殿に上るであろう

もしこの経典の講義の場所において 人に勧めて座らせて聞かせたとするならば この福の因縁をもって 帝釈天梵天転輪聖王の座に着くであろう

ましてや一心に聞き その深い教えを解説し 教えの通りに行なう者はなおさらであり その福は無限である

 

つづく

 

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