法華経 現代語訳 71

妙法蓮華経 常不軽菩薩品 第二十

その時に仏は、得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)に次のように語られた。
「あなたはまさに知るべきである。もし、法華経を保つ僧侶や尼僧や男女の在家信者に対して、悪口を言い、罵ったり誹謗したりするならば、大きな罪の報いを受けることは、すでに述べたとおりである。また、法華経を保つ者は、その功徳によって、先に説いた通り、その者の眼、耳、鼻、舌、身体、意識はみな清らかとなる。
得大勢菩薩よ。数えることも測ることもできないほど遠い昔に、仏がいらっしゃった。その仏の名は、威音王(いおんのう)如来という。その仏の時代の名は離衰(りすい)といい、その仏の国の名は大成(だいじょう)という。
その威音王仏は、その世の中において、天や人や阿修羅のために教えを説かれた。また、声聞を求める者には、それにふさわしい四諦(したい)の教えを説いて、生老病死の苦しみを解決させ、悟りを成就させ、辟支仏を求める者には、それにふさわしい十二因縁(じゅうにいんねん)の教えを説き、多くの菩薩のためには、最高の悟りに導くために、それにふさわしい六波羅蜜(ろくはらみつ)の教えを説いて、仏の智恵を成就させた。
得大勢菩薩よ。この威音王仏の寿命は、大河の砂の数を四十万億倍し、さらにそれを一千億倍した劫数である。その正法(しょうぼう)の劫数は、この世をすりつぶして微塵にした数であり、像法(ぞうぼう)の劫数は、四つの大陸をすりつぶして微塵にした数である。その仏は、衆生を教え終わって、その後に滅度された。
(注:仏の滅度、つまり仏が死んで姿がなくなった後、その仏の教えが正しく伝えられ、悟りが得られる時代を正法といい、その正法が終わって、教えは伝わるが、悟りが開けなくなる時代を像法という。つまりこの文の流れでは、仏の滅度のことが正法と像法の記述の後に来ているので、像法の後に仏の滅度が来るように読めてしまうが、そうではないのである。)
正法が終わり、そして像法が終わった後、その国土にまた仏が出られた。その仏の名も威音王如来であり、そのように続いて、二万億の仏が同じように出られた。みな名も同じであった。
最初の威音王如来が滅度され、それに続く正法が終わり、その後の像法の時代において、思い上がって高慢になった多くの僧侶たちがいた。
その時にひとりの菩薩である僧侶がいた。名を常不軽(じょうふきょう)という。
(注:この『常不軽菩薩品』の主人公であるこの菩薩は、「菩薩比丘(ぼさつびく)」と表現されている。「菩薩」は大乗仏教の人々であり、「比丘」とは僧侶の意味である。菩薩と僧侶は、決してイコールではない。大乗仏教は、僧侶ではない一般信徒が中心の、仏教改革運動の中から生まれた新しい仏教の流れだとされるが、その大乗仏教の運動に共感して、伝統的な仏教教団の僧侶たちも多く大乗仏教の教団に入って来るようになったと考えられている。この「菩薩比丘」という名称も、そのような僧侶たちを指していると考えられる。そのためここでは、「菩薩である僧侶」と訳した。
ところで、地蔵菩薩の像や絵を見ても、見た目がいかにも僧侶である。地蔵菩薩も、この「菩薩比丘」の典型ではないであろうか。つまり、この常不軽菩薩に対しても、地蔵菩薩の姿をイメージすればよいのではないだろうか。)
得大勢菩薩よ。なぜこの菩薩を常不軽と名づけるのだろうか。この僧侶は、僧侶や尼僧や男女の在家信者などに出会うことがあるならば、みな彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。
『私は深くあなたを敬います。決して軽んじたりしません。あなたがたは、みな菩薩の道を行ない、必ず仏となるでしょう。』
しかもこの僧侶は、経典を読誦せずに、ただこのような礼拝を行なうばかりであった。たとえ遠くであっても、四衆(ししゅう・僧侶や尼僧や男女の在家信者たちのこと)を見ては、同じように彼らのところに行き、彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。
『私は決して軽んじたりしません。あなたがたは、必ず仏となるからです。』
四衆の中で、心が汚れている者は怒って、悪口を言い、罵倒して次のように言った。
『この無智の僧侶は、どこから来て、自分勝手に、あなたがたを軽んじない、などと言って、私たちが仏になるなどという授記をするのだろうか。私たちはそんな虚妄の授記などは必要ない。』
このように、長い年月を経て、常に罵倒されても、怒りの念さえ起こさず、いつも『あなたがたは仏となるでしょう』と言い続けた。
このように言われた人々が、棒や木や瓦や石をもって、この僧侶を打とうとすれば、彼はそれを避けて走り去り、遠く離れてなお大声で『私はあなたがたを軽んじません。あなたがたは仏となるでしょう』と言った。
このように、この僧侶は常にこの言葉を発していたので、思い上がった高慢な僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、彼を『常不軽』と名づけたのであった。
(注:「あなたがたは仏となるでしょう」という言葉は、決して悪い言葉ではないのに、なぜ棒や石で攻撃するまで、相手は怒るのであろうか。
大乗仏教は、歴史的釈迦の教えを受け継ぐ伝統的な仏教教団の教えを批判し登場した、新しい仏教の流れである。伝統的な仏教教団では、いくら修行をしても、いくら悟ったと言っても、釈迦と同じ悟りには到達できない、つまり、仏となることはできず、その前の段階である阿羅漢(あらかん・聖者という意味)の段階(阿羅漢果)にまでしか到達できない、としていたと言われる。それに対して大乗仏教は、誰でも仏となることができるのであり、さらにそれは決して僧侶とならずとも、在家の姿のままでも仏となることができるとまで主張していた。
そのような状況の中で、上に述べたように、もし伝統的な仏教教団に属して僧侶となった者が、後に大乗仏教に転向して、さらに僧侶のままの姿で、大乗仏教の教えを堂々と説くならば、当然、伝統的な仏教教団側の僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、大いに怒って当然であろう。「あなたがたを軽んじません」と言っても、かえって彼らには大いなる皮肉に聞こえるのである。
またあるいは、同じ大乗仏教教団に属するグループから、そう軽々しく、誰に対しても、あなたは仏となるであろう、という授記を与えるべきではない、という非難が来ても不思議ではない。
このように、実際に常不軽菩薩のような人物がいたかは別として、この物語も、大乗仏教の歴史的事実を背景としていることは確かである。)

 

つづく

 

法華経 #現代語訳