法華経 現代語訳 74

妙法蓮華経 嘱累品 第二十二

(注:今回は、二十二章にあたる『嘱累品(ぞくるいほん)』である。「嘱累」という言葉は、適切な現代語は見当たらないが、この法華経では、「この経を広めるために委ねる」という意味であり、この直前の『如来神力品』の中にも二度出てきている言葉である。このように、『如来神力品』とこの『嘱累品』は内容が共通している。
またこの『嘱累品』は、法華経の中で最も短い章であり、内容的には、この章でこの経典が終わっても何ら不思議はない。すなわち、ここまで説いてきた法華経を、この経典を広めることに使命を持つ者たちに委ねる、という内容であり、さらに最後の箇所では、釈迦如来が、多宝仏をはじめ、他の世界から来た諸仏に対して、本国に帰るように勧めているほどである。しかしもちろん、法華経はこの後も続く。特にこの後には、『観音経』と名付けられて、独立した経典としてまで用いられている『観世音菩薩普門品』もある。
法華経の成立史から見れば、いったん法華経はこの章で終わっており、後に、これ以降の章が加えられたと考えられる。これ以降の章は、法華経の応用編として、法華経の精神をもってわざを行なう菩薩たちを中心として展開していくのである。)
その時に釈迦牟尼仏は、法座より立って、大いなる神通力を現わされた。右の手をもって無量の大いなる菩薩たちの頭の上をなでて、次のように語られた。
「私は測ることもできないほどの無量の歳月において、この得難い最高の悟りへの教えを修習した。今、これをあなたがたに委ねる。あなたがたはまさに、一心にこの教えを広め、多くの人々を導くべきである。」
(注:よく大人が子供をほめたりするとき、子供の頭をなでることをするが、その根拠は、この法華経の一節にあるのである。あなたはよい子だから、私のすべてを委ねる、というほどの意味であるから、この上なく最高にほめる行為だと言うことができる。)
このように三度、多くの大いなる菩薩たちの頭の上をなでて、次のように語られた。
「私は測ることもできないほどの無量の歳月において、この得難い最高の悟りへの教えを修習した。今、これをあなたがたに委ねる。あなたがたはまさに、この経を受け保ち読誦し、広くこの教えを述べ伝えて、すべての衆生が聞いて知るようにすべきである。それはなぜであろうか。如来には大いなる慈悲があり、滞ることなく、また恐れることなく、衆生に仏の智恵、如来の智恵、自然(じねん・人の計らいを超えているという意味)の智恵を与える。如来はすべての衆生にとって大いなる施主である。あなたがたはまさに、従って如来の教えを学ぶべきである。怠けることがないようにせよ。未来世において、もし良き男子や良き女人いて、如来の智恵を信じようとする者には、まさにこの法華経を演説して、聞いて知るようにすべきである。その人に仏の智恵を得させるためである。
もし衆生の中に信じることをせず受けることをしないない者があれば、まさに如来の他の深い教えによって、示し教え導き喜ばすべきである。あなたがたはもしこのようにするならば、すでに諸仏の恩に報いていることになる。」
(注:この法華経を信じることをせず、受けることをしない者には、他の教えを示しなさい、ということは、まさにこの法華経の前半で述べられていた方便である。最終的には、すべての者をこの法華経に導くべきなのであるが、まだその準備ができていない者には、他の教えから始まって、順々にこの法華経に導けばよい、ということである。)
この時に多くの大いなる菩薩たちは、仏がこのように語られたことを聞き終わって、みな大いに喜びにあふれ、大きな尊敬の念を抱き、身体を曲げて頭を垂れ、合掌して仏に向かって共に次のように申し上げた。
「世尊の命じられた通り、まさに謹んで行ないます。ただ願わくは、世尊におかれましては、心配なさることなどありませんように。」
多くの大いなる菩薩たちは、このように三度、共に声を発して次のように申し上げた。
「世尊の命じられた通り、まさに謹んで行ないます。ただ願わくは、世尊におかれましては、心配なさることなどありませんように。」
その時に釈迦牟尼仏は、あらゆる方角から集まった多くの分身の仏に対して、それぞれ本土に帰らせようとして、次のように語られた。
「諸仏それぞれに安楽があるように。多宝仏の塔、帰って昔のようになさるように。」
この言葉を語られた時、あらゆる方角から集まった無量の分身の諸仏、そして宝樹の下の立派な座の上に座っていた者、および多宝仏、ならびに上行菩薩などの数えきれないほどの菩薩たち、舎利弗などの声聞や僧侶や尼僧や男女の在家信者たち、およびすべての世界の天、人、阿修羅などは、仏の説かれる言葉を聞いてみな大いに喜んだ。

 

つづく

 

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