法華経 現代語訳 77

宿王華菩薩よ。この経はすべての衆生を救うのである。この経はすべての衆生を、多くの苦悩から離れさせるのである。この経は大いにすべての衆生を導き、その願を満たすのである。それはまさに、清らかな池が、すべての渇乏する者を満たすようであり、寒さを感じる者が、火を得たようであり、裸の者が衣を得たようであり、旅の商人が隊長を得たようであり、子が母を得たようであり、渡ろうとする者が船を得たようであり、病の者が医者を得たようであり、暗闇に燈火を得たようであり、貧しい者が宝を得たるようであり、民が王を得たようであり、貿易商が海を得たようであり、灯が闇を除くように、この法華経もまたこのようである。衆生のすべての苦しみ、すべての病の痛みを離れさせ、すべての生死の縛りを解くのである。
もしある人がいて、この法華経を聞くことができ、自らも書き、人に書かせるとする。その功徳を、仏の智慧をもって測ろうとしても、そのすべてを知ることはできない。もし、この経巻を書いて、華香、瓔珞、焼香、抹香、塗香、飾られた旗や傘、衣服、あらゆる灯火、乳から作った灯火、油の灯火、あらゆる優れた香油の灯火などをもって供養したとするならば、その功徳はまた無量である。
宿王華菩薩よ。もし人がこの薬王菩薩本事品を聞いたならば、また無量無辺の功徳を得るであろう。もし女人がいて、この薬王菩薩本事品を聞いて、受け保つならば、その人が死んだ後、再び女の身受けることはないであろう。
もし如来の滅度の後の五百年の間に、もし女人がいて、この経典を聞いて、説くところに従って修行するならば、その命終わって、安楽世界の阿弥陀仏の、大いなる菩薩たちがいるところに行き、蓮華の中の宝座の上に生まれるであろう。
(注:この箇所にある「もし如来の滅度の後の五百年の間に」という言葉の原文は、「若如来滅後。後五百歳中」である。しかし、この箇所のサンスクリット原文は、「最後の五十年の間」となっている。ではなぜ、漢文ではこのようになっているのか、つまり鳩摩羅什はなぜ、この箇所をこのような漢文に翻訳したのであろうか。
それを考えるにあたって、まず「最後の五十年の間」とはどういう意味であろうか。それは明らかに、ここではこの女人の一生の期間を表わしているのである。昔は、人の一生の期間は、五十年ほどであると認識されていたことは、多くの人々が知っている通りである。さらに、この箇所では、一つ前の文も女人の話であり、その女人は「再び女の身を受けることはないであろう」とある。このサンスクリット原文の言い回しは、「この世が女性としての最後の生涯となるであろう」となっている。まさに、この文は明らかに一生の期間を表現しているのである。つまり「最後の五十年の間」という言葉も、同じように人の一生の期間と解釈すれば、この連続する文においてぴったり一致するのである。
また、同じ法華経の最後の「普賢菩薩勧発品」にも、「後五百歳」という言葉が三箇所記されている。それをここに引用すると、「於後五百歳。濁悪世中。其有受持。是経典者。我当守護」と「若後世後五百歳。濁悪世中」と「若如来滅後。後五百歳。若有人。見受持読誦」の三つである。この文の意味は読んでわかる通り、みな同じである。つまり、釈迦の死後五百年たった悪しき世の中においても、この法華経を受け保つ者を称賛する内容である。したがって、この「後五百歳」は、「薬王菩薩本事品」の内容とは全く関係がない。
しかし、鳩摩羅什は、この女人の一生の意味である「最後の五十年」ということを理解できず、同じ法華経の「普賢菩薩勧発品」の言葉と同じ意味と理解して、このように訳したと考えられる。
実は、この「若如来滅後。後五百歳中」という言葉は、この後の部分にもう一度記されており、そこからまた一つの大きな問題が生じることになるのであるが、それはその箇所の解説の中で述べることにして、ここはこれでいったん区切ることにする。
さて、もうひとつこの箇所で注目される箇所は、阿弥陀仏の話が記されているという点である。一般的に、法華経の信仰と阿弥陀仏の信仰は対立するという観念がある。つまり、南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏とは対立すると考えられているようだが、実際は、法華経の中に阿弥陀仏の信仰が登場しているのである。同じ法華経の「化城喩品」で、大通智勝如来の十六王子の話があり、そこでも、王子たちの中で釈迦如来阿弥陀如来は兄弟ということになっていた。このようなことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。あるいは、積極的には広められてこなかったとしか言いようがない。このように、法華経の本文を直接読むことには、さまざまな深い意味があるのである。)
また貪欲などには悩まされない。また怒りや愚癡に悩まされない。また慢心、嫉妬、あらゆる汚れに悩まされない。菩薩の神通力を得るであろう。この神通力を得て、眼は清らかとなり、その眼をもって、七百万二千億を一千億倍した数の諸仏如来を見るであろう。そして、その時に諸仏は、共に褒めて次のように語られるであろう。
『良いことだ、良いことだ。良い男子よ。よく釈迦牟尼仏の教えの中において、この経を受け保ち、読誦し、思惟し、他人のために説いた。得るところの福徳は無量無辺である。火も焼くことができず、水も流すことができない。その功徳は、千の仏たちが共に説き続けたとしても尽きることがないであろう。
あなたはよく多くの魔賊や生死の軍隊を破り、その他の多くの怨敵をすべて滅ぼした。良き男子よ。百千の諸仏は神通力をもって、共にあなたを守護するであろう。すべての世の天や人の中において、あなたのような者はない。ただ如来を除いて、その他の多くの声聞、辟支仏、さらに菩薩の智慧や禅定も、あなたと等しい者はないであろう。』
宿王華菩薩よ。この菩薩である人は、このような功徳や智恵の力を成就した。もし人がいて、この薬王菩薩本事品を聞いて、喜んで『すばらしい』と賛美するとしたら、その人は現世において、口の中より常に青蓮華(しょうれんげ)の香を出し、身の毛孔の中より、常に優れた香木の香を出すであろう。得るところの功徳は以上説いた通りである。
このために宿王華菩薩よ。この薬王菩薩本事品をもってあなたに委ねる。私の滅度の後の五百年間の中で、この地に広く述べ伝えて、決して悪い菩薩の魔、魔民、諸天、龍や夜叉や鳩槃荼(くはんだ・夜叉と同様、鬼神の一種)たちに攻撃の機会を与えないようにせよ。
(注:先に述べたように、ここにも、「私の滅度の後の五百年間の中で」と、ここでは訳した言葉がある。先の箇所では、女人に関することであったが、ここでは、宿王華菩薩に委ねられた言葉として、この法華経をこの地に広く述べ伝えるべき期間を表している。
まずここでも、この箇所の本当の意味を見ていくことにする。この箇所のサンスクリット原本では、その少し前から見ると、「したがって、宿王華菩薩よ。この薬王菩薩本事品が最後の時であり最後の機会である最後の五十年の経過している間に、この娑婆世界に行なわれて消滅しないように、(中略)私はそれをあなたに委ねよう」となっている。この原本の「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」は、先の女人の生涯のことと同じく、この宿王華菩薩の生涯を表わしていると解釈すれば、すべて意味が通じる。つまり、宿王華菩薩は、もう二度と、この娑婆世界には生まれて来ないのである。したがって、宿王華菩薩にとっては、現在の娑婆世界にいる期間が、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」と表現されるのである。言い換えれば、仏が宿王華菩薩に薬王菩薩本事品を委ねるということは、彼がこの娑婆世界にいる最後の機会の五十年間、この娑婆世界にそれが行なわれて消滅しないことが期待されているということなのである。このように解釈すれば、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」という一見不思議な言葉も、その意味がよくわかる。
しかし、先にも述べたように、このようなことを読み取ることができなかった鳩摩羅什は、先の箇所と同様に、ここも、「我滅度後。後五百歳中」と訳してしまった。さらにこの箇所は、仏が法華経を委ねる、という内容であったため、さらにこの鳩摩羅什の訳が別の意味に解釈されて行ってしまったのである。
この鳩摩羅什が訳した「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、日本の日蓮は「大集経」で記されているところの、「第五の五百年」と解釈している。この「大集経」の言葉は、「五百年が五つ重なった時」という意味である。つまり、第一の五百年は、一年から四百九十九年までであり、第二の五百年は、五百年から九百九十九年までであり、第三の五百年は、千年から千四百九十九年まで、第四の五百年は、千五百年から千九百九十九年まで、そして第五の五百年は、二千年から二千四百九十九年までである。そして「大集経」によれば、釈迦の死後二千年から末法が始まるとするので、第五の五百年から末法が始まると言うのである。この鳩摩羅什が訳した「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、「第五の五百年」と解釈することは、すなわち、「如来の滅後、後の五百歳」は末法の始まりを意味することになり、まさに日蓮はそのように解釈していたのである。それはなぜか。
それは、日蓮が非常に尊敬し、日蓮が書いた曼荼羅にも名前があがる妙楽大師湛然(たんねん・711~782・中国唐の僧侶。天台教学の中興の祖)がそのように解釈しているからである。湛然は、『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」の意味を、「大集経」の「第五の五百年」と解釈しており、日蓮は、何の疑問もなく、その説を受け入れているのである。
ではなぜ湛然はそのように解釈したか。
湛然ばかりではなく、他の祖師たちも、同様に解釈している場合があるので、これは湛然が最初にこのように解釈したとは言えないが、このような解釈が成り立った背景には、これもすでに述べてきたように、大乗経典のランク付けである「教判」が影響している。
教判によると、大集経は、法華経よりも先に釈迦が説かれた経典であるとされる。そうであるならば、法華経を説いた時点では、すでに釈迦は大集経の説教を通して、「第五の五百年」のことも説いていたこととなる。すると、鳩摩羅什訳の法華経にある「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、「第五の五百年」であると解釈しても不思議ではなく、無理もない。しかし実際は、大乗経典は釈迦が説いた教えではなく、そしてこれも実際は、大集経は法華経よりも後に成立した経典である。他の大乗経典もそうであるが、大集経と法華経を作成した大乗仏教グループは違う集団なので、直接この二つの経典は関係がない。
したがって、湛然の解釈は誤りである。つまり、鳩摩羅什がまず、サンスクリット原本の「最後の五十年」という言葉を、「如来の滅後、後の五百歳」という言葉に訳してしまい、さらにこの言葉を、湛然が(彼が最初かどうかは不明であるが)大集経と関連付けて、「第五の五百年」と解釈してしまったのである。誤りが二重になったわけである。
日蓮は、湛然の解釈の通り、この『法華経』の「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、仏の滅度の後の第五の五百年、つまり末法の始まりと解釈して疑っていない。そのため、日蓮は、末法の時代でこそ、法華経は広まるのであり、そのように釈迦は法華経を委ねられたのだと主張しているのである。
天台大師を始め、日蓮の当時もそうであるが、漢訳された法華経がすべてであり、当時はサンスクリット原本を見ることなどできないのである。しかし、今の時では、このことは明らかになっているのだから、もう漢訳された法華経の「如来の滅後、後の五百歳」という言葉を、仏の滅度の後の第五の五百年と読んではならないのである。)
宿王華菩薩よ。あなたはまさに神通力をもって、この経を守護すべきである。なぜならば、この経はすなわち、この地の人の病の良薬であるからである。もし病人がいたとして、この経を聞くならば、病はすなわち消滅して不老不死となるであろう。
宿王華菩薩よ。あなたがもしこの経を受け保つ者を見るならば、まさに青蓮華と抹香を盛り満たし、その上に供養して注ぐべきである。注ぎ終わって、次のように思うべきである。
『この人は遠からず必ずまさに、草を取って道場に座り、多くの魔軍を破るであろう。教えの螺(ほらがい)を吹き、大いなる教えの鼓を打って、すべての衆生を、その老病死の海から救い出すであろう。』
このために、仏の道を求める者は、この経典を受け保つ人を見るならば、まさにこのような尊敬の心を起こすべきである。」
この薬王菩薩本事品を説きたもう時、八万四千の菩薩たちは、解一切衆生語言陀羅尼を得た。
多宝如来は宝塔の中において、宿王華菩薩を褒めて次のように語られた。
「良いことだ。良いことだ。宿王華菩薩よ。あなたは思いも及ばない功徳を成就して、よく釈迦牟尼仏にこのことを問い、無量の衆生に悟りへの糧を与えた。」
(注:この章の最初の注釈に書いたように、前章の最後の盛り上がりに水を差すかのような宿王華菩薩の登場に対応して、この章の最後の多宝如来の言葉は、絶妙なホローを与えていることになる。つまり結局、この菩薩の質問によって、一度は、釈迦如来から本土に帰るように促された多宝如来はじめ多くの諸仏も、また娑婆世界の法華経の法座に引き留められ、釈迦如来もこれに続く各章を説かれるようになった、ということなのである。それならば、確かに宿王華菩薩は、思いも及ばない大きな功徳を成就したことになる。)

 

つづく

 

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