法華経 現代語訳 81

もし婬欲が多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、欲を離れることができるであろう。もし怒りの思いが多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、怒りを離れることができるであろう。もし愚痴が多ければ、常に念じて観世音菩薩をつつしみ敬うならば、愚痴を離れることができるであろう。
無尽意菩薩よ。観世音菩薩はこのように大いなる威神力があり、多くの人々を導くのである。このために、人々は常に心に念ずべきである。
もしある女人がいて、男子を産むことを願って、観世音菩薩を礼拝し供養するならば、福徳と智恵のある男子を産むであろう。もし女子を産むことを求めるならば、姿かたちの整った、徳を備えて人々に愛され敬われる女子を産むであろう。
無尽意菩薩よ。観世音菩薩には、このような力がある。もし人々が観世音菩薩をつつしみ敬い礼拝するならば、その福は空しくはならないのである。このために人々は、まさにみな観世音菩薩の名号を受け保つべきである。
無尽意菩薩よ。もしある人がいて、大河の砂を六十二億倍した数の菩薩の名を受け保ち、力の限り飲食、衣服、寝具、医薬などを供養したとする。あなたはどう思うか。この良き男子や良き女人の功徳は多いか少ないか。」
無尽意菩薩は次のように申し上げた。
「大変多いです。世尊よ。」
仏は次のように語られた。
「また、もしある人がいて、観世音菩薩の名を受け保ち、たとえ一時であっても礼拝し供養したとする。この二人の福は、全く同じであって異なることはなく、百千万億劫の間も尽きることはない。
無尽意菩薩よ。観世音菩薩の名を受け保つならば、このように無量無辺の福徳の利を得るのである。」
無尽意菩薩は仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。観世音菩薩は、どのようにしてこの娑婆世界にわざをなすのでしょうか。どのようにして衆生のために教えを説くのでしょうか。その方便の力はどのようなものなのでしょうか。」
仏は、無尽意菩薩に次のように語られた。
「良き男子よ。もしこの国土の衆生において、仏によって導かれる者には、観世音菩薩は仏の身を現わして教えを説き、辟支仏によって導かれる者には、観世音菩薩は辟支仏の身を現わして教えを説き、声聞によって導かれる者には、声聞の身を現わして教えを説き、帝釈天によって導かれる者には、帝釈天の身を現わして教えを説き、自在天によって導かれる者には、自在天の身を現わして教えを説き、大自在天によって導かれる者には、大自在天の身を現わして教えを説き、天大将軍によって導かれる者には、天大将軍の身を現わして教えを説き、毘沙門天によって導かれる者には、毘沙門天の身を現わして教えを説き、小王によって導かれる者には、小王の身を現わして教えを説き、長者によって導かれる者には、長者の身を現わして教えを説き、貿易商人によって導かれる者には、貿易商人の身を現わして教えを説き、宰官によって導かれる者には、宰官の身を現わして教えを説き、婆羅門によって導かれる者には、婆羅門の身を現わして教えを説き、僧侶や尼僧や男女の在家信者によって導かれる者には、僧侶や尼僧や男女の在家信者の身を現わして教えを説き、長者や貿易商人や宰官や婆羅門の婦人によって導かれる者には、婦人の身を現わして教えを説き、男子や女子によって導かれる者には、男子や女子の身を現わして教えを説き、天龍八部衆によって導かれる者には、天龍八部衆の身を現わして教えを説き、金剛力士によって導かれる者には、金剛力士の身を現わして教えを説く。
(注:このように、多くの身に変化して現われるというところは、前の章にあった妙音菩薩と同じである。しかし、妙音菩薩はもともと娑婆世界の菩薩ではないが、観世音菩薩は最初から娑婆世界の菩薩であるところが、大きな違いである。)
無尽意菩薩よ。この観世音菩薩は、このような功徳を成就して、あらゆる姿となって、国土において衆生を導くのである。このために、あなたがたは、まさに一心に観世音菩薩を供養すべきである。この大いなる観世音菩薩は、突如の災難による恐怖の中において、よく無畏(恐れがないこと)を施す。このために、この娑婆世界では、みなこの菩薩を施無畏者(せむいしゃ)と呼ぶのだ。」
無尽意菩薩は仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。私は今まさに観世音菩薩を供養します。」
無尽意菩薩は首にかけた百千両金の価値のある宝珠の首飾りをはずし、これを与えようとして、次のように語った。
「この珍宝の首飾りを、教えに対する施しとしてお受けください。」
その時、観世音菩薩はこれを受け取ろうとしなかった。
無尽意菩薩は、また観世音菩薩に次のように語った。
「どうか私たちを憐れんで、この首飾りをお受けください。」
その時に仏は、観世音菩薩に次のように語られた。
「まさにこの無尽意菩薩、および僧侶や尼僧や男女の在家信者、さらに天龍八部衆たちを憐れんで、この首飾りを受け取るべきである。」
その時、観世音菩薩は、僧侶や尼僧や男女の在家信者および天龍八部衆たちを憐れんで、この首飾りを受け取り、それをふたつに分けて、一方を釈迦牟尼仏に捧げ、一方を多宝仏塔に捧げた。
「無尽意菩薩よ。観世音菩薩はこのような自在の神通力をもって、この娑婆世界にわざをなすのである。」
(注:この「観世音菩薩普門品」は、「観音経」という独立した経典のようにも認識されているとすでに述べたが、厳密には、独立した経典とされては意味がないのである。今まで、「法華経の一句でも保つ者には大きな功徳がある」という内容が繰り返し記されていたが、この観世音菩薩の力を受けるということは、法華経の一句でも保っているからなのである。つまり、観世音菩薩という称号ひとつを見ても、それが法華経の「一句」であるから意味があるのである。ここに記されていたように、観世音菩薩の功徳に感動した無尽意菩薩が、自分の首飾り(瓔珞・ようらく)を外して、観世音菩薩に捧げようとしても、最初、観世音菩薩は受け取らなかった、ということがそのことを表わしている。そして、法華経の教主である釈迦如来が受け取るように勧めると、それを受け取り、釈迦如来多宝如来に捧げた、ということも、観世音菩薩自身が供養を受けるのではなく、法華経が供養されるようにした、ということを意味しているのである。)

 

つづく

 

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