大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

立正安国論 現代語訳と解説 前半

立正安国論

 

客人が来て言った。

このごろ、まさに天変地異が続き、さらに飢饉や疫病が広まっています。

人ばかりか牛や馬までが死んでしまい、その死体は道のあちこちに見られます。

ある人たちは念仏を唱え、または病が治ると信じられている『薬師経』を読み、同じく病が消滅するという『法華経』や『仁王経(にんのうきょう)』に書いてある言葉を選んで唱えたり、たくさんの僧侶たちが祈祷したり、真言を唱えたり、あるいは座禅を組んで悟りを求めたり、さらにまた、まじないの札を貼ったり、政治を行なう者たちは、できるかぎりの救済の手を差し伸べたりしています。

しかし、これらの効果もなく、状態はますます悪くなっています。

とは言え、冷静に考えてみれば、太陽や月星の動きがおかしくなっているわけでもなく、仏教なども盛んに行なわれています。

昔、八幡大菩薩は、王を百代まで守るとおっしゃったのに、まだ百代になる前に滅びてしまうのでしょうか。

何がどのように間違っていて、こうなってしまったのでしょうか。

 

主人は言った。

そうですか。実は私もこのことを悩んでいました。ならばここでいっしょに語り合おうではありませんか。

今の世の中に対しては、神仏の力も無力に見えます。そこで、私は自らの貧しい能力を用いて経典を読んでみますと、正しい教えが行なわれていない、ということに気づきます。この理由から、神仏も国を捨てたようになってしまっているのです。

その代わり、悪い魔や鬼が現われ、多くの災難が起こるのです。

正しい教えが行なわれていない、ということこそ、人々が知らねばならないことです。

 

客人は言った。

今やすべての人々が苦しんでいます。その原因について、あなたは、正しい教えが行なわれていないから、神仏が国を捨てたようになっている、とおっしゃる。

ならば、その証拠となる経典の言葉などを示してください。

 

主人は言った。

そのような言葉は、すべての経典にたくさんあります。

まず、『金光明経(こんこうみょうきょう)』には、次のようにあります。

「その国土において、この経典があるといっても、王はそれを広めることをせず、仏の教えを捨て去って、教えを聞くことを願いません。また、供養し尊重し讃歎することもしません。在家の男女の信者や僧や尼僧、そして経典を所持している人を見ても、積極的に尊重し供養することはありません。ついには私たち四天王(注:この箇所は四天王が仏に対して語っている箇所である)、および他の眷属や無量の諸天に対して、この非常に深い妙なる教えを聞かせないようにしてしまい、仏の教えの甘露の味は得られず、正しい教えは流れを失い、私たちの威光も勢力もなくなってしまいました。地獄、餓鬼、畜生、修羅の力は増し加わり、人や天の世界を損ねて、生死の川に落ちて涅槃の道から離れています。

世尊よ、私たち四天王ならびに多くの眷属および薬叉たちは、みなこのようなことを見て、この国土を捨てて、もはや守護しようという心は生じません。ただ私たちだけがこの国の王を捨て去ろうとするのではなく、きっと無量の国土を守護する多くの大善神がいても、やはりみな捨て去ってしまうでしょう。実際に捨て去って離れてしまえば、この国はまさにあらゆる災禍(さいか)が起って、国自体が成り立たなくなるでしょう。すべての人々は、みな善心がなくなり、ただ拘束し合ったり、殺し合ったり、怒り争いばかりあって、互いに批判し合って、正しい裁きも行なわれないでしょう。疫病が流行り、不吉な彗星が多く見られ、幻日も現われ、日食や月食が起り、黒や白の不吉な虹も現われ、星が流れ地震が起き、井戸の中からは地鳴りがして、年中暴風雨があり、常に飢饉にあって苗が育たず実らず、多くの他方に悪しき賊がいて、国中を侵略すれば、人々は多くの苦悩を受けて、土地に安住することができなくなるでしょう」。

また、『大集経(だいじっきょう)』には、次のようにあります。

「仏法が隠れ失われたら、僧侶も髪の毛や爪まで伸ばし、あらゆる教えも忘れ去られてしまうだろう。そして時至って虚空から大きな音が起り、地震が起き、すべてがことごとく動かされることは、まるで水の上の泡のようになるであろう。城壁は崩れ落ち、家屋はすべて倒れ、樹林の根も枝葉も、花びらや果実、そして薬もなくなるだろう。ただ、浄居天(じょうごてん)を除き(注:浄居天を除くという表現で、五浄居天以下の欲界を指していると考えられるが、欲界以上五浄居天以下においても多くの天はある)、欲界のすべての七味(酸味・苦味・甘味・辛味・塩味・渋味・淡味)や三精気(地・人・仏法)は損なわれ、残ることはないであろう。解脱に関するあらゆる論書はすべてなくなるであろう。果実が生じたとしても、味は薄く美味ではないであろう。あらゆる井戸や泉や池はみな枯渇して、土地はみな荒れて、地割れして起伏が生じるばかりであろう。多くの山は噴火して、天の竜も雨を降らさず、苗や実もみな枯れ、他の草も枯れ、新たに生えるものもないであろう。土煙ばかりが全地を多い、太陽や月も見えなくなる。あらゆるところが日照りばかりとなり、あらゆる不吉な前兆が起り、十不善業道(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)や貪り、怒り、愚痴が倍増し、人々は親孝行をせず、父母を見てもまるで鹿を見るような態度をとるようになるであろう。人々の寿命や体力や威厳や安楽は減り、人も天も平安から遠ざかり、みな悪しき世界に堕ちるであろう。このような不善業の悪しき王や悪しき僧侶は、仏である私の正しい教えを破棄し、天人の道を損ない、人々をあわれむ諸天善神や善王たちは、このような悪に染まった国を捨てて、みな他の国に行ってしまうであろう」

また、『仁王経』には次のようにあります。

「国土が乱れる時には、まず鬼神が暴れる。鬼神が暴れるために、人々は苦しむ。外国から賊が来て国をおびやかし、あらゆる身分の民が殺される。臣・君・太子・王子・百官は互いに責め合う。天変地異が起り、天文、星、太陽や月は正しく時を刻まず、多くの賊がはびこるようになるであろう」。

また次のようにあります。

「私が今、五眼(ごげん・肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)をもって明らかに過去・現在・未来の三世を見るに、すべての国王はみな過去の世に五百の仏に仕えたことによって、王となることができたのである。これにより、すべての悟りを開いた聖人や阿羅漢たちが彼の国に来て、大いなる利益(りやく)をもたらすのである。もしこの王の福が尽きた時は、すべての聖人は去ってしまう。もしすべての聖人が去るならば、七難(後述)は必ず起るであろう」。

また『薬師経』には、次のようにあります。

「もし王族や国王たちの誤りによって災難が起るならば、疫病の難・他国が侵略する難・国内が乱れる難・天変の難・日食月食の難・暴風雨の難・干ばつの難があるであろう」。

また『仁王経』には次のようにあります。

「大王よ。私が今教化している百億の須弥山には、百億の太陽と月があり、その一つ一つの須弥山に四つの天下があり、その南にある南閻浮堤(なんえんぶだい・いわゆる私たちがいるこの国土世界)に十六の大きな国と五百の中くらいの国と一万の小さな国がある。その国土の中に七つの恐るべき災難がある。すべての国王は必ずこれらを災難と呼ぶ。では、それらはどのような災難であろうか。

太陽や月は正しい運行を失い、時節が真逆となり、あるいは赤い太陽が出で、黒い太陽が出で、二つ三つ四つ五つの太陽が出で、あるいは日食が起って光がなくなり、あるいは太陽の輪が一重二重三重四重五重現われることを、第一の難とする。

星などの天体も正しい運行を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星(ちょうせい・刀星とも。意味は不明)・南斗六星・北斗七星・五鎮の大星(五つの惑星のこと)・すべての国主星・三公星・百官星(この三つは中国の王位や官位になぞらえた星)など、このような多くの星に異変が起るのを、第二の難とする。

大火が国を焼き、すべての民が焼け出されるであろう。あるいは、鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火があるであろう。これを第三の難とする。

洪水が起こり、多くの民を押し流し、時節が真逆となり、冬に雨が降り、夏に雪が降り、冬に雷雨があり、六月に雹が降り、赤水・黒水・青水を降らせ、土山・石山を降らし、砂や瓦礫、石を降らす。河川は逆流し、山を浮かべ石を流す。これを第四の難とする。

大風がすべての民を吹き殺し、国土山河樹木は一度に壊滅し、非常な大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風があるであろう。これを第五の難とする。

天地国土が乾き切り、炎火は激しくすべての草を枯らし、五穀は実らず、土地は熱くなってすべての民は滅び尽くされるであろう。これを第六の難とする。

四方の賊が来て国を侵し、内外の賊が起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊がすべての民を乱し、武器を持った兵が多く起こる。これを第七の難とする」。

また『大集経』には次のようにあります。

「もし国王が過去の無量の世において、仏に布施して戒律を守り智慧を修行したとしても、私の教えが滅びゆくのを見捨てて擁護しなければ、今まで積み重ねてきた無量の善根はすべて消滅して、その国はまさに三つの不祥事があるであろう。一つには穀物が高騰する。二つには戦乱がある。三つには疫病が広まる。すべての善神がみなその国を去れば、その王が勅令を出しても、人々は従わず、常に隣国の侵略にあう。まさに暴火が起こり、悪しき風雨が多く、暴水が増えて民を苦しめれば、内外の親戚でさえ反逆するであろう。そして、その王は間もなく重病にかかり、死後は大地獄の中に生じるであろう。また、王と同じく夫人・太子・大臣・城主・村主・郡守・宰官もまた同じようになるであろう」。

このように、『金光明経』、『大集経』、『仁王経』、『薬師経』の四つの経典の言葉は明確で、疑いようがありません。

しかし、今この世には、誤った教えが広まり、人々は経典の言葉を捨て去ってしまって、敬う気持ちがないのです。このために、神仏や善霊が国を見捨ててしまい、代わりに、悪い鬼や魔が災難を起こすのです。

 

客人は顔色を変えて次のように言った。

中国の後漢の明帝(めいてい)はインドから仏教を求め、日本では聖徳太子以来、天皇から庶民に至るまで、仏教を敬ってきました。その結果、比叡山や奈良の諸大寺をはじめ、近畿地方ばかりではなく全国にも仏像や経典は伝わり、お寺もたくさんあります。僧侶たちも仏の教えを行なっているではありませんか。

それにもかかわらず、今、この国では仏教はすたれ、誤った教えが広まっていると言えるでしょうか。ならば、その証拠を聞かせてください。

 

主人はさとすように言った。

寺の甍(いらか)は並び、経典を収めた経蔵も多くあります。そして僧侶も竹や葦や稲や麻のようにたくさんいます。長い年月の間、寺や僧侶が崇められ、しかもそれは日々増しています。

しかし、僧侶の心は曲がり、人に悪影響を与えています。また国王は悟りがなく、誤った教えを正そうとしません。

『仁王経』には、「多くの僧侶が名誉や利益のために、国王や王子の前で、正しい仏の教えに反することを説き、国に災害をもたらす原因を説くであろう。その王も、そのことを見破ることができず、ただ信じ受け入れ、正しい教えに基づかない自分勝手な法律を作り、仏の教えが消えて国が亡ぶ結果をもたらす」とあります。

また『涅槃経(ねはんぎょう)』には、「悟りを求める者たちよ。狂暴な象などの動物に対して恐れることはない。誤った教えを伝える者に対して恐れなければならない。動物に殺されても、死後、悪い世界に落ちることはないが、誤った教えを受けて死ねば、死後、悪い世界に落ちてしまうからである」とあり、また「釈迦が亡くなって後、世の中が悪くなると、釈迦の正しい教えを保つ者たちも亡くなっていく。そして外見は僧侶のようであっても、心のうちは貪欲な者たちが現われる。彼らは教えについて問われても、まるで他の宗教の沈黙の行でもしているかのように口を開かず、それでいて、正しい教えを非難するのだ」とあります。

また『法華経』には、「世の中が悪くなると、僧侶たちも悪くなる。彼らは悟ってもいないのに悟っていると思い、静かな山里の寺に住み、世の中の人々を蔑み、それでいて人々から敬われている。さらに、正しい教えを保つ者たちを非難するため、王や大臣に取り入り、正しい者たちを追い出す」とあります。

このように、経典の言葉は、今の世の中をみごとに指摘しています。このような悪い僧侶たちを改めさせなければ、どうして正しい教えが広まりましょうか。

 

客人はさらに怒って言った。

世を治める者たちは、正しい道理に基づいて人々を導き、宗教家は真理に合うか合わないかによって導きます。今の世の僧侶たちも、人々に敬われています。悪い僧侶ならば、世を治める者たちが信じるわけがありません。世を治める者たちが敬っているのですから、その僧侶たちも偉大な方々でしょう。それなのに、あなたは彼らを非難している。いったい誰を指してそのようなことを言うのですか。詳しく教えてください。

 

主人は言った。

後鳥羽上皇の治世に法然(ほうねん・1133~1212)という者がいて、『選択本願念仏集(せんじゃく/せんちゃくほんがんねんぶつしゅう・略称は選択集)』という書物を著わしました。これによって、すべての経典の教えを破り、人々を惑わしています。その選択集には、次のように説かれています。

(注:ここから長い箇所は、日蓮上人の批判の対象となる『選択本願念仏集』の教えを要約して述べている内容となる。「である」調の文は、法然の教えの引用部分であり、引き続き、「ですます」調の文は、主人あるいは客人の言葉として訳した。)

道綽(どうしゃく・562~645・中国北周の僧侶であり、浄土宗においては第二祖)は、仏の道には、自分の力によって修行する聖道門(しょうどうもん)と、阿弥陀仏の力を信じて極楽浄土に往生する浄土門(じょうどもん)の二つがあると言い、さらに、聖道門を捨てて浄土門に歩むべきであると説いている。したがって、浄土門以外の宗派は、すべて捨てるべきである。

また、曇鸞(どんらん・生没年不詳。中国南北朝時代の僧侶であり、浄土宗においては第一祖)が著わした『往生論注(おうじょうろんちゅう)』には、次のようにある。龍樹(りゅうじゅ・2世紀ごろのインドの僧侶。大乗仏教の空思想の大成者)が著わした『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』には、大乗の菩薩が悟りを求める道に二つをあげている。一つは難行道(なんぎょうどう・難しい修行)であり、他の一つは易行道(いぎょうどう・容易な修行)である。難行道とは、すなわち聖道門であり、易行道とは、すなわち浄土門のことである。したがって、浄土宗の学者はこのことを知るべきである。たとえ以前から聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門に入りたいという志のある者は、みな聖道門を捨てて、浄土門に帰すべきである、とあります。

(注:法然上人が著わした『選択本願念仏集』には、釈迦が亡くなって非常に長い年月を経て悪くなった今の時代(末法・まっぽう)では、難しい修行は無効であり、誰でもできる念仏の浄土門しかないと説き、そのため、浄土門以外の教えは、たとえ釈迦の説いた教えだとしても、すべて捨て去るべきであると力説している。日蓮上人は、このような念仏だけを「選択」して、他の経典や教えは捨てる、という考え方を強く批判しているのである。確かに、このような姿勢で、釈迦の教えであると信じられている経典や高い評価を受けている論書を解釈した人物は、インド、中国、日本に至るまでの仏教の流れの中では、法然上人が初めてであり、その点からして、それは間違った解釈であると非難する日蓮上人の意見は、当時においては正しいと言わざるを得ない。そして日蓮上人は、まずその批判の対象となる思想を詳しく、また長い紙面を費やして記している。また一般的に日蓮上人は、『法華経』以外の教えを厳しく批判して排除したというイメージがあるが、実際はそうではなく、あくまでも批判の対象は、法然上人の選択の思想である。日蓮上人の立脚する『法華経』の教え、さらに天台大師講述の『法華玄義』の教えは、釈迦のすべての教えは究極的に一つである、というものである。したがって、すべての教えは一つとなるものであるため、そこに選択ということは入り込む余地はなく、もし取捨選択をして、念仏以外の教えを捨ててしまうならば、それはやはり日蓮上人から見れば邪教としなければならない。さらに言い換えれば、念仏の教えでさえ、『法華経』によって究極的に他の教えと共に一つとされるわけであるから、日蓮上人は、念仏の教えを批判したわけではないのである。このことは、現在、日蓮上人の事実において、非常に誤解されていることの一つである)。

また次のようにあります。

善導(ぜんどう・613~681。中国唐の僧侶であり、浄土宗においては第三祖)が、仏教を正行(しょうぎょう・正しい行)と雑行(ざつぎょう・正行以外の行)の二つに分け、雑行を捨てて、正行に帰すべきであると次のように述べている。極楽浄土に往生することを説く経典以外の経典を読誦することは、読誦における雑行であり、阿弥陀仏を礼拝すること以外は、たとえそれが他の諸仏および諸天善神などであっても、礼拝における雑行である。

このように、雑行を捨てて、専ら念仏だけを行なわねばならない。そうすれば、百人が百人とも、必ず極楽浄土へ往生できる。どうして、千人の中に一人も成仏することのできない雑行を行なわねばならないのであろうか。よく考えるべきである、とあります。

また次のようにあります。

『貞元釈教録(じょうげんしゃっきょうろく・中国唐の円照が記した経典目録)』には、 二千八百八十三巻もの多くの経典が登録されている。これほど経典が多い理由は、釈迦が聞く者の能力に応じて、さまざまに説かれたからである。その場合は、極楽に往生する方法に関しても、心を静めて阿弥陀仏や極楽浄土の様子をイメージする方法や、あらゆる良い行ないを積むなどの方法も説かれている。しかし、釈迦が自らの悟りの境地を直接語られた教えこそ念仏のみであり、一度、そのように釈迦の本意が明らかにされたならば、極楽往生を説く教えであっても、念仏以外の教えはもう閉じられるべきである、とあります。

また次のようにあります。

観無量寿経(かんむりょうじゅきょう・浄土経典のひとつ)』を注釈した善導は、その書の中で、異なった解釈をする者や、異なった修行方法を説く者や、誤った教えを説く者がいることが記されているが、それらはすべて、聖道門の者たちを指すのだ、とあります。

そして、『選択集』の結論部分では、次のようにあります。

すみやかに生死の苦しみを離れることを願うならば、聖道門を捨てて浄土門に入りなさい。浄土門に入ろうと願うならば、雑行を捨てて正行に入りなさい、とあります。

『選択集』の概略は以上です。

さて、これらについて考えてみると、曇鸞道綽、善導の誤った解釈をもって、聖道と浄土、難行と易行の区別を立て、法華や真言をはじめ、二千八百八十三巻すべての経典と、さらにすべての諸仏菩薩および諸天善神などを、みな聖道門、難行、雑行などに入れて、それらを投げ捨てよと言っています。このように、すべての人々を惑わし、インド、中国、日本の三国の聖僧や仏弟子を、念仏の修行を妨げる賊であるとして、悪口を浴びせています。

しかしこのことは、彼ら自身が寄り頼んでいる浄土経典の中にある、『正しい教えを非難する者は、たとえ念仏を称えても極楽浄土に往生できない』という言葉に該当してしまいます(注:このように日蓮上人自身、浄土経典を引用している。ここにも、日蓮上人が批判した対象は、浄土教そのものではない、ということが明となっている)。また、『法華経』の中にある、『法華経を信ぜずに非難するならば、地獄の底に落ちる』という言葉に該当してしまいます。

今は末法の世であり、人は聖人のようではありません。みな迷いの暗い道に入って、真っすぐな道を忘れてしまっています。悲しいことに、その誤りを指摘する者もいません。さらに痛ましいことに、ますます間違った教えが広まっています。そのために、上は国王から、下は士民に至るまで、みな経典といえば、『浄土三部経(浄土宗の中心的な三つの経典・『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)』以外になく、仏といえば阿弥陀仏とその脇士である観音菩薩勢至菩薩の三尊以外にないと思っています(注:この「以外にない」という思想が、『法華経』の教えに相反するものである)。

以前はこのようではありませんでした。

伝教大師最澄、その弟子の義真、また慈覚大師円仁、智証大師円珍たちが、荒波を渡って中国から日本にもたらした経典や、中国の各地をめぐって崇めた仏像を、比叡山に多くの堂塔を建てて納め、また深い谷に堂塔を建てて安置し崇めました。

こうして、比叡山の西塔には釈迦如来、東塔の一乗止観院(=根本中堂)には薬師如来が安置され、その光は現世と来世を照らし、同じく比叡山横川の般若谷(恵心僧都源信の廟がある場所)に安置された虚空蔵菩薩、また戒心谷(坂本から横川中堂に至る場所)に安置された地蔵菩薩も、その利益を今生と後生に施しました。そのため、国主は大きな寄進をして、比叡山の灯明を明るくし、地頭は田畑や荘園を寄進して供養しました。

(注:この『立正安国論』には、「天台沙門日蓮勘之(天台宗の僧侶である日蓮がこれを考えて記した、という意味)」とあって、日蓮上人は天台宗の僧侶として、この書を鎌倉幕府に奏上したことが明らかである。この箇所でも、比叡山のことを詳しく述べていることからも、それが伝わってくる)。

しかし、法然が『選択集』を著わしたことにより、本来の教主である釈迦如来を忘れて、専ら西方極楽浄土阿弥陀如来だけを尊び、伝教大師の安置した東方瑠璃光浄土の薬師如来を差し置いて、ただ『浄土三部経』だけを尊び、釈迦の説かれたすべての聖なる経典を投げ捨ててしまいました。

こうして、阿弥陀如来の堂でなければ、仏を供養しようしなくなり、念仏の僧でなければ、布施をしなくなってしまいました。

そのため、仏堂は荒れ果て、屋根の瓦は松の葉のように乱れ、炊事の煙も頼りなくなり、僧坊も荒廃して庭の草の露ばかり多くなっています。そうなってしまっても、僧侶たちは教えを守ろうという気持ちもなく、寺を建て直そうという気持ちもなく、住職も立ち去ってしまいました。これでは、守護の善神も去ったまま戻ることはありません。これもすべて、法然の『選択集』によることです。

(注:法然上人は、この『選択本願念仏集』を、関白九条兼実の要請によって記している。しかし、法然上人自身、この書物が他の人々の目に触れれば、大きな混乱を招き、大いに批判されることはよくわかっていた。そのため、この書の最後の箇所には、「一たび高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に遺すこと莫れ」と記されている。しかし、法然上人没後、すぐにこの書物は多くの人々が知るところとなり、特に華厳宗明恵上人は『摧邪輪(ざいじゃりん)』を表わして激しく批判している。そして、それから多くの人々の批判を集めることとなる。しかし日蓮上人の時代となると、批判する者よりも、その教えを受け入れる者たちがはるかに多くなっていたのである)。

悲しいことに、ここ数十年の間、百千万の人が悪魔に捕らわれて、仏の教えに迷ってしまいました。これは、脇役を喜んで主役を忘れたようなものです。どうして善神が怒らないことがありましょうか。完全な教えを捨てて、片寄った教えを好んでいます。どうして、悪鬼が働かないことがありましょうか。

現在の災いをなくそうと、万の祈祷をするよりは、この一つの元凶を禁止した方が良いのです。

 

客人は、さらに怒って言った。

私たちの師である釈迦が、『浄土三部経』を説かれて以来、龍樹の論書を捨てて、専ら浄土の信仰に立ち、また道綽禅師は、涅槃経の研究を捨てて、ひたすら西方浄土の教えを広め、善導和尚は雑行を捨てて、専ら念仏に立ち、恵心僧都源信は、多くの経典の重要な言葉を集めて、ただ念仏を中心としました。

(注:比叡山天台宗の僧侶である恵心僧都源信は、平安時代中期、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著わして、極楽浄土の様子や地獄の様子を如実に表わし、この書によって極楽浄土に対する信仰が世に広まった。そのため、浄土宗では源信を非常に高く評価する。しかし源信は晩年、『一乗要訣(いちじょうようけつ)』という、天台教学を中心とした書物を著わしており、日蓮上人は、結局、源信も天台教学を念仏の上に置いたのだ、と主張している。いわゆる源信は、浄土宗の僧侶たちと日蓮上人によって、両側から引っ張られている状態である。)

このように、阿弥陀仏の信仰が重要であることは明らかです。そして多くの人々が実際に極楽往生を遂げています。

なかでも法然聖人は、幼少のときから比叡山に登り、十七歳の時に、六十巻にも及ぶ天台教学の中心的書物を読破し、同時に他のあらゆる宗派の教義を究めました。また、すべての経典やその論書を七回も読み返し、仏法の教義書や伝記なども読まなかった書はないくらいです。その智恵は太陽や月のようであり、その徳はどんな祖師たちよりも優れていました。

(注:この法然上人についての記述は決して誇張ではなく、事実である。それほど学問を究めた法然が、結局、すべてを捨てて念仏の信仰に入った、というところに、法然の確信の深さを知ることができるとも言える。)

しかし、これほど学んだ法然聖人であったけれども、比叡山においては迷いの世から完全に脱することはできず、悟りを究めたという体験はなかったのです。そこで、今まで得た学問に立って深く探求した結果、すべての経典を捨てて、専ら念仏に帰一したのです。さらに夢で善導に会い、確信を深めて世に念仏の教えを広めるに至ったのです。

このために、人々は法然聖人を勢至菩薩の化身だと言い、また善導和尚の再誕だと仰いで、貴族も一般の民も頭を下げ、男女を問わず法然聖人のもとに集まったのです。それからすでに長い年月が経ちました。

しかしあなたは、釈尊の教えをおろそかにし、阿弥陀仏の信仰を説く経文をそしっています。あなたはなぜ、最近の災いを昔の聖人たちのせいにして、無理やりその人たちをそしり、さらに法然聖人を罵っているのですか。まるで人のあら捜しをしているようで、このような悪口は今まで聞いたことがありません。このような言葉は慎むべきです。このような悪いことは重罪であり、必ず裁きを招きます。もうこれ以上、話す気持ちはありません。これで失礼します。

 

主人は笑みながら、それを止めて言った。

辛い蓼(だて)の葉だけを食べている虫は、辛さがわからず、便所にいる虫は臭さがわかりません。それと同じように、良い言葉を聞いて悪口だと思い、誤った者を聖人と言い、正しい師を悪い者だと判断する。その迷いは実に深く、その罪は浅くはありません。詳しく真実を説きますから聞いてください。

釈迦は、そのすべての説法の中で、先と後、仮(かり)と真実をしっかりと分けられました。

(注:釈迦が亡くなって、約四百年以上経って興った大乗仏教の経典は、体裁は釈迦が語ったように記されているが、実際はそうではなく、大乗仏教を興した人々による創作である。しかし、それは決して雑多なものということではなく、優れた瞑想と思索と悟りによる偉大な思想である。ところがこの事実は、明治時代以降になって明らかにされたものであり、江戸時代までの祖師や学者たちは、すべて釈迦の教えであると信じていたので、それでは、さまざまな教えが記されている経典をどのように分類したらいいのか、ということに、中国以来の多くの僧侶や学者たちは、多くの時間と労力をかたむけることになる。その結果、教相判釈(きょうそうはんじゃく)といって、どの経典が先に説かれたのか、どの経典が後に説かれたのか、能力の劣った者にわかりやすく説かれた程度の低い仮の経典はどれであり、能力の優れた者のために説かれた真実の経典はどれか、という分類が僧侶や学者たちの間で行なわれたのである。もちろん日蓮上人もそのように分類される経典が、すべて釈迦によって語られたという大前提に立っているので、「先と後、仮と真実をしっかりと分けられました」と述べているのである。)

しかし、曇鸞道綽、善導は、程度の低い経典を採用して、真実の経典を忘れ、先に説かれた経典によって、後に説かれた優れた経典を捨ててしまっています。仏の教えの深さを悟っていない者たちです。

中でも特に法然は、これら曇鸞道綽、善導の流れを継いでいますが、その源が仮の経典によっていることを知らないのです。それはなぜでしょうか。

二千八百八十三巻にも及ぶ大乗経典、ならびにすべての諸仏菩薩および多くの諸天善神などについて、『捨てよ、閉じよ、排除せよ、投げ打て』の四字をもって、すべての人々の心を迷わせてしまいました。これはひとえに法然が勝手に作った言葉であって、まったく釈迦の教えを見ていないのです。嘘の極み、悪口の咎(とが)はいくら言っても言い尽くせず、いくら責めても責めきれません。人はみなこの嘘を信じ、『選択集』を尊んでいます。そのために、『浄土三部経』ばかり崇めて、他の経典を捨て、極楽浄土の一人の仏だけを仰いで、他の仏たちを忘れています。この邪教は天下に広まり、四方八方に充満してしまいました。

しかし、近年の災いを以前の邪教のためだとする私の言葉を、あなたは恐れています。ならば、ここに先例をあげて、あなたの迷いを正して差し上げましょう。

『摩訶止観(まかしかん)・中国隋の天台大師智顗(ちぎ)の著作であり、天台教学の中心的な書物のひとつ)』の第二に、『史記(中国の歴史書)』を引用して「中国周代の末に髪を伸ばして裸であり礼儀を守らない者がいた」という文があり、『摩訶止観輔行伝弘決(まかしかんぶぎょうでんぐけつ・中国唐の妙楽大師湛然(たんねん)の著作であり、智顗の『摩訶止観』の注釈書。日蓮上人はこの妙楽大師の教義を重要視している)の第二巻において、この『摩訶止観』の言葉を解釈して、「周の平王の時代に、都を東に移す時、伊川で髪をだらしなく束ねないで、野原で祭りごとをしている者を見た。その見た者は、百年もしないうちに国は滅びる運命にあったので、まず正しい祭りごとが廃れてしまったのだ」とあります。このように、さきに予兆が現われ、後に災いが起こるのです。

また同じく、『摩訶止観』の第二巻には次のようにあります。

「中国西晋の時代、阮藉(げんせき)という優れた才能をもっている者がいたが、彼は髪を乱し、着物もだらしなかった。それを後の時代の公卿の子弟が真似をして恥を知らない行ないをして、礼儀を重んじる者を田舎者だと呼んだ。これが西晋の王の滅亡の予兆であった」とあります。

また、慈覚大師円仁の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき・円仁が九年間にわたって中国の唐を旅した記録。世界三大旅行記の一つ)』の中の文を、内容を略して記すと次のようにあります。

「中国唐の武宗(ぶそう)は会昌元年に勅命を発して、章敬寺の鏡霜法師(きょうそうほっし)に、各寺院に阿弥陀仏の教えを広めさせた。こうして、各寺院に三日ずつ説法させた。しかし翌年には、回鶻国(かいこつこく・ウィグル族の国)の兵が唐の国境を侵略した。またその翌年には河北の節度使辺境警備隊)が反乱を起こした。その後、チベット族が唐の命令を拒み、回鶻国は重ねて侵略してきた。このような戦乱は、秦の始皇帝や楚の項羽の時代と同じようであり、町も村もみな戦火に飲まれた。まして武帝はその後、仏法を破り多くの寺院を破壊した(会昌の廃仏)。このため、戦乱を収めることができず、ついに死んでしまった」。

(注:上に述べたように、法然上人の『選択本願念仏集』の教えは、インド、中国、日本に至る仏教の流れの中でも、かつてなかったほどの排他的なものであったため、法然上人が亡くなった直後から、多くの批判が起った。明恵上人についてはすでに述べたが、それ以外の例を挙げると、1205年に奈良の興福寺が朝廷に「専修念仏禁止」の奏上をしており、比叡山も、1224年に同じく朝廷に「専修念仏禁止」の奏上をしている。実は、上に引用されている『入唐求法巡礼行記』の文と全く同じ文が、1224年に比叡山が奏上した「専修念仏禁止」の文の中にあるのである。その上、この引用文は『入唐求法巡礼行記』の原文の概略であるから、間違いなく日蓮上人は、その奏上文のこの箇所を書き写したのである。ここからも、先に述べたことと同じであるが、日蓮上人はあくまでも天台宗の僧侶として、『立正安国論』を記していることがわかる)

こうしたことを考えると、法然後鳥羽上皇の時代、建仁年間の者であり、後鳥羽上皇承久の乱で敗北したことは眼前の事実です。それならば、中国の唐の滅亡という先例があり、わが朝廷においてはこの例があります。あなたは疑うことなく、怪しんでもなりません。早く悪を捨てて善を取り、災いの源をふさいで根を断つべきです。

(後半につづく)