大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その3

問う:龍樹や天親(てんじん・世親とも言われる。4世紀から5世紀のインドの僧。唯識(ゆいしき)思想の大成者)などの学者の論書に、このことは述べられているのか。

答える:龍樹や天親たちは、心の内には思っていても、説くことはしなかった。

さらに追及して言う:なぜそれを説かなかったのか。

それには多くの理由がある。まずは、その時には、その教えを聞くことのできる能力のある者たちがいなかったのである。そして二つめの理由は、時がまだ至っていなかったのである。三つめには、彼らはまだ『法華経』の本当の意味を教えるために現われた者たちではなかったからである。

さらに求めて言う:このことは、もっとよく聞かせていただきたい。

答える:釈迦が死んだ日は、二月十五日なので、二月十六日から、正法の始まりである。迦葉尊者(かしょうそんじゃ・摩訶迦葉(まかかしょう)のこと。釈迦の十大弟子のひとりで、直接、釈迦から教団の後継者として指名されたと言われる)は、仏から後を引き継ぎ二十年、次に阿難尊者(あなんそんじゃ・釈迦のいとこであり、釈迦に常に付き従い、最も多く釈迦の説法を記憶していたと言う)が引き継ぎ二十年、次に商那和修(しょうなわしゅ)が二十年、次に優婆崛多(うばくった)が二十年、次に提多迦(だいたか)が二十年、以上の百年間はただ小乗仏教の経典の教えのみが広まり、大乗仏教の経典はその名前さえなかった。どうして『法華経』を広めることができようか。次は弥遮迦(みしゃか)、仏陀難提(ぶっだなんだい)、仏駄密多(ぶっだみった)、脇比丘(きょうびく)、富那奢(ふしゃな)などの四~五人の師が教えを継いだが、この五百年あまりの間は、大乗仏教経典の教えが少し形成されていたけれど、とりたてて広まらなかった。あくまでも、小乗仏教の教えが表に出ていた。以上、これが『大集経』に述べられている、悟りを正しく開くことのできる五百年間の時代(解脱堅固)である。

(注:繰り返し述べてきたように、大乗仏教は、紀元直後にインドで成立した仏教改革運動である。これが明らかとなったのは明治以降であり、日蓮上人の時代は、すべて歴史的釈迦が説いたものとされていた。史実ではないとしても、一人の釈迦が最初に小乗仏教を説いて、後に大乗仏教を説いたということは、理解でないこともない。しかし、では、なぜ、紀元前の仏教者が大乗仏教を説いておらず、紀元後になって大乗仏教の論書が登場しているのか、ということは、どういうことなのか。日蓮上人はこれについて、まだ時至っていなかったので、紀元前の時代は、小乗仏教の影に大乗仏教が隠れていて、まだ文章にされていなかった。紀元後になって、時となったので、大乗仏教の経論が著されたのだ、と説いている。それではむしろ、紀元後までの約五百年間、大乗仏教は、まるで生き物のように姿を隠していた、また、釈迦が説いた大乗仏教の教えを知っている人も、時ではないので、それを説かなかった、ということになり、それでは大乗仏教はどのように継承されていったのだろうか。むしろ、紀元後までの約五百年間、大乗仏教の教えがしっかりと伝えられ、紀元後になって、急に数えきれないほどの経典や論書が記された、というほうが奇跡としか言いようがない。もちろんそのようなことはない。

このように、日蓮上人の時代で正しいとされていたことが、現在では明らかに誤りだとわかっている。つまり日蓮上人の著作にも、誤りは多いことが現在では明らかとなっている。したがって、それらをすべてそのまま受け入れるわけにはいかない。しかし、日蓮上人の宗教的思想は、それら歴史的事実との錯誤によっては、何ら影響は受けない。なぜなら、宗教的思想と悟りは、時間と空間を超越しているからである。それを見抜いて、日蓮上人から学ぶ必要がある)。

正法の後半の六百年から一千年になるまでの五百年の間は、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ・菩薩とは、その人物を最大限に尊敬しての呼称。馬鳴は、1世紀から2世紀の仏教文学者。最初はバラモン教の僧侶であったが、後に回心して仏教の僧侶となり、優れた詩を残している。『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』という大乗仏教思想の書物を記したと言われているが、現在の仏教学ではそれは否定されている)、毘羅尊者(びらそんじゃ)、龍樹菩薩(龍樹も、最初はバラモン教の僧侶であったが、後に仏教の僧侶となり、繰り返すが、大乗仏教思想の大成者となった)、提婆菩薩(だいばぼさつ)、羅睺尊者(らごそんじゃ)、僧佉難提(そうぎゃなんだい)、僧伽耶奢(そうぎゃやしゃ)、鳩摩羅駄(くまだら)、闍夜那(じゃやな)、盤陀(ばんだ)、摩奴羅(まぬら)、鶴勒夜那(かくろくやな)、師子(しし)などの十人あまりの人々は、最初は外道(げどう・仏教以外の宗教)の者であったが、後に小乗経典を究め、さらには大乗の経典をもって、多くの小乗経典を打ち破った。これらの偉大な人物たちは、多くの大乗経典をもって多くの小乗経典を論破したが、多くの大乗経典と『法華経』の優劣は述べなかった。

たとい、その優劣を少し説いたようだけれども、本迹の十妙(ほんじゃくのじゅうみょう・本とは本門のことで、『法華経』の後半のこと。迹とは迹門のことで、『法華経』の前半のこと。天台大師は、『法華玄義』において、「迹門の十妙」と「本門の十妙」について解き明かしている)や、二乗作仏(にじょうさぶつ・本来仏にはなれないとされていた菩薩以外の人も、仏になることができるという教え)や、久遠実成(くおんじつじょう・釈迦の本当の寿命は永遠であるという教え)や、已今当の妙(いこんとうのみょう・『法華経』の中に、「すでに説き、今説き、当(まさ)に説くであろう」という言葉がある。つまり釈迦は、その奥義(妙)を過去にすでに説き、現在説き、未来においても説くであろうという意味)や、百界千如(ひゃっかいせんにょ・仏教では、人間が生まれ変わる世界を十種類あげるが、その一つ一つの世界にはすでに、他の世界が具わっているということで、10×10=百世界になり、さらにその百世界のひとつひとつは、『法華経』で説かれる十種類の範疇(十如是・じゅうにょぜ)が具わっているとして、100×10=千の如是になる。つまり存在すべてをこのように表現し、観心の対象とする)や、一念三千(いちねんさんぜん・百界千如で導き出された千如是のひとつひとつには、さらに五蘊世間(ごうん・人間の認識作用を五つに分けたもの。その認識作用の世間とは、一個人の認識の世界のこと)と衆生世間(その個人が集まった世界のこと。いわゆる社会)と国土世間(その社会が集まって存在する国土を指す)の三つの範疇があるとして、1000×3=三千世間となる。この三千、つまり人間を取り囲むすべては、たった一瞬の心の動きである一念に含まれる、という教え。これも観心の結果、悟られる真理だとするのが天台教学の中心である。日蓮は、この一念三千は、南無妙法蓮華経の題目によって実現すると言う)などの重要な教えは明らかにされていない。ただそれは、指を使って月を指すようなものであって、その教えの真理そのものには至っていない。

あるいは、文の中で、それらの教えの一端くらいは書いているが、釈迦がどのように人々を導いたか、師である釈迦とその弟子たちの関係の浅さや深さについて、その教えによって悟りを得られるか得られないか、などについては、全く述べられていない。

これらは、正法が終わってからの五百年のことであり、『大集経』でいうところの、修行はよく行なわれていた時代(禅定堅固)の時である。

(注:ここまでは、釈迦が死んでからの、前半の五百年間と後半の五百年間、つまり、『法華経』は広く流布してはいなかったが、正しい教えが伝えられ、修行もしっかりと行なわれている正法(しょうぼう)の千年間のことが説かれていた。そして、これからは、像法(ぞうぼう)と呼ばれる期間についての記述となる。

当時ばかりではなく現在も、釈迦の生没年については明確な定説がないが、だいたい、釈迦は紀元前5世紀から4世紀の人と見て間違いはない。しかし日蓮当時の日本では、釈迦が死んだのは、西暦でいうと紀元前949年とされていた。したがって、最終的な時代である末法(まっぽう)は、すでに見てきたように、釈迦の死後二千年後に始まるのであるから、平安時代の中期にあたる1052年(永承7年)に始まった、という説が有力であった。2000-948=1052だからである。

日蓮上人は、1222年から1282年の人物であるから、まさに、これから末法(まっぽう)が本格化するという危機感を持ち、さらにその危機感を裏付けるような事件が、日本の国と、自分の身の回りと自分自身に降りかかって来たのであった。

ここまでは日蓮上人から見ても、あまりにも遠い昔の時代のことを扱ってきたので、記述自体がかなり抽象的であったが、これからは日蓮上人にとっても具体的に知ることのできる時代となるので、記述も具体的になっていく)。

 

つづく

 

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