撰時抄 その4

正法一千年の後は、月氏(げっし・インド西北部の国。クシャーナ朝などと呼ばれ、特にカニシカ王が仏教に帰依したことは有名。その結果、シルクロードを通ってもたらされたヘレニズム文化と仏教文化が合流し、ガンダーラ地方に仏教文化が栄え、仏像などが初めて作られた。ガンダーラ美術などと呼ばれる。西域仏教国のひとつ。)に仏の教えが充満したが、その時は、小乗をもって大乗が破られ、大乗仏教であっても、『法華経』以前の教えによって、真実の教えが隠され、仏の教えが乱れ、悟りに至る者が少なくなり、悪しき道に堕ちる者たちが数知れなかった。

(注:正法が終わって、像法の時代になると、悟りが得られなくなり、教えは伝えられるが、正しい教えは乱れる、とされているところから、この月氏国についての日蓮の言葉も、それに合わせて日蓮が考え出した内容であり、何かの歴史的文献に基づいたものではないと考えられる。)

正法一千年の後、像法に入って、仏の教えは西域から中国の漢に伝わった。像法の前半の五百年のうち、その最初の一百余年の間は中国の道教月氏国から伝わった仏の教えとの論争が激しく、たとえ仏の教えが伝わったとしても、それを受け入れた人の心はそれほど深くなかった。このような時に、仏教は大乗仏教小乗仏教とに分かれ、大乗仏教も、仮の教えと真実の教えとに分かれ、また顕教(けんぎょう・密教以外の教え)と密教(みっきょう・真理は人間の理論では理解できない隠された秘密のものなので、秘密の儀式や呪術的な修行などを通して悟りを得ようとする教え)とに分かれるのだ、などと教えてしまえば、教えがひとつになっていないなどとはおかしい、という疑いを起こして、結局は他の宗教に行ってしまうという危険性があったので、迦葉摩騰(かしょうまとう)や竺法蘭(じくほうらん・この二人は、初めて中国に仏教をもたらした僧侶と言われる)たちは、自らは知っていても、大乗や小乗や、仮の教えや真実の教えの区別は言わなかった。

(注:知っていても言わなかった、という言葉は、日蓮がよく使う非論理的な言葉である。これでは何でもあり、になってしまい、論理を崩してしまうだけである。実際は、インドから西域を経て中国に入った仏教は、一度に伝えられたわけではなく、それぞれのインドや西域の僧侶たちが、経典や仏像などをその都度伝えて、伝えられた経典から、次々と漢訳されていったのである。そもそも、中国に仏教が伝えられた紀元後1世紀~2世紀は、まだインドでも密教すら成立していない。そのため、顕教密教の区別などはあり得ない。中国においては、その後、かなりの経典が漢訳されてから仏教の研究が深まり、その結果、仏教は大乗仏教小乗仏教に分かれる、などの分析が明らかにされていったのである。日蓮当時は、経典はすべて釈迦の説いたものだとされていたため、中国に仏教が伝えられた当初から、大乗、小乗、顕教密教などがしっかりと区別されて存在していた、ということになってしまうのである。
これ以降も、結局、『法華経』は末法の時代でこそ流布する経典なのだ、ということを述べるために、日蓮はかなり長い紙面を使って、漢の時代に中国に入って来た仏教の歴史を、日本に至るまで詳しく述べることとなる。)

その後、魏・晋・斉・宋・梁の五代の間、仏教の内部で、大乗と小乗、大乗の中の仮の教えと真実の教え、顕教密教などが互いに争って、それぞれ決定的な道理も立てられず、一般の人々も不審がるほどだった。「南三北七」といって、教判においても、南の地域には三つ、北野地域には七つの異論があって、それぞれ激しく論議をしていた。しかし、それらのだいたいの内容は同じようなものであった。いわゆる、釈迦一代の教えの中で、第一は『華厳経』であり、第二は『涅槃経』であり、第三は『法華経』だとするのである。『法華経』は、それ以前に説かれた『阿含経』や『般若経』や『維摩経(ゆいまきょう)』や『思益経(しやくきょう)』などと比べたら優れているが、『涅槃経』に比べれば劣っているなどと判断された。
仏教が入って来た漢の時代より四百年から五百年過ぎて、陳と隋の二代に及んで、智顗という一人の僧侶がいた。後に天台智者大師といわれる人物である。これらの南北の誤った教えを破り、釈迦一代の教えの中では、『法華経』が第一であり、『涅槃経』が第二であり、『華厳経』が第三だとする教判を立てた。この出来事は、像法の前半の五百年のことであり、『大集経』でいうところの、経典は読誦され、教えもよく教えられる時に当たる。

像法の後半の五百年は、唐の始めの太宗皇帝の時代に、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が月支国に入って十九年間学び、百三十あまりの国々の寺院を回り、多くの師に会って、すべての経典の奥義を習い尽くした。その中に法相宗(ほっそうしゅう)と三論宗(さんろんしゅう)の二つの教えがあった。大乗仏教である法相宗は、その初めは弥勒(みろく・弥勒菩薩弥勒ではなく、インドの僧侶であり、法相宗の開祖とされるが伝説的な要素が多い人物)と無著(むじゃく・4世紀ごろのインドの僧侶で、弥勒の弟子。仏教の心理学ともいえる唯識学の大成者)からであり、玄奘は戒賢(かいけん・インドの唯識学の学者)からそれを学び、中国に帰って太宗皇帝に伝えたのである。法相宗では次のように教えている。「仏は、教えを聞く相手の能力に応じて教えられたということが重要である。すべての人々はやがて究極的な悟りを開いて仏になることができる、ということが理解できる者にとっては、悟りにはいろいろな段階があって、その段階までしか到達できない者がいるという教えは、方便(ほうべん・巧みな手段)の教えであり、すべての人々が究極的な悟りを開いて仏になれるという教えが真実となるのである。すなわちこれが『法華経』である。また逆に、悟りにはいろいろな段階があるということしか理解できない者には、それを真実として教え、すべての人々は仏になれる、という教えは方便となるのである。すなわちこれが『深密経(じんみつきょう)』や『勝鬘経(しょうまんきょう)』である。天台智者大師はこのことを教えてはいない」などと主張している。太宗は賢い王であり、天下に名前が知られているばかりではなく、中国のそれまでの大いなる皇帝も超越したといううわさは国境を越え、高昌国(こうしょうこく・西域の国の一つ)や高麗(こうらい)などの千八百あまりの国々まで聞こえ、内政や外交までも究めた王であると言われた王である。そして玄奘はその王が最も信頼して帰依していた僧侶である。このように法相宗で主張されても、天台宗の僧侶は何も言えなかった。このようにして、『法華経』の教えは中国において衰退していった。
そして、同じ太宗の太子である高宗と、その高宗の継母であり後に高宗の皇后となり実権を握った則天武后の時代に、法蔵(ほうぞう・644~712。華厳教学の大成者)といふ僧侶がいた。法相宗によって天台宗が退けられるのを見て、この時とばかり、以前に天台大師に第一の座を退けられた『華厳経』を取出して(もちろんこのような日蓮の言葉は正確ではない)、釈迦の教えの中では、『華厳経』が第一であり、『法華経』が第二であり、『涅槃経』が第三であるとした。
第四代の玄宗皇帝の時代である開元四年と同八年に、西インドから善無畏(ぜんむい)と金剛智(こんごうち)と不空(ふくう・この三人によって中国の密教が伝えられた)は、『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』や『蘇悉地経(そしつじきょう)』を持って中国に来て、密教を宗旨とする真言宗を立てた(正確には、真言宗という宗派は、日本に密教を伝えた空海が立てた宗派である)。この宗の教えに二つある。ひとつは、『華厳経』や『法華経』などを顕教(けんぎょう・真理を秘密(密)として、誰もが理解できる言葉として表さず、表わしても象徴的な方法を取る密教に対して、積極的に言葉で真理を明らか(顕)にする教え)として、もうひとつは、『大日経』などを密教とする。『法華経』は顕教の第一とし、この経典は『大日経』などの密教に比較して、究極的な教えの点では同じであるけれど、真理を象徴して手や道具を通して表わす印契(いんげい)と、釈迦が実際に使っていたとされる古代インド語を翻訳せずに用いる真言(しんごん)は記されておらず、密教において必要とされる三密(さんみつ・体と言葉と心によって真理を象徴的に表すこと)がそろわないので、劣った教えだとする。
以上のように、法相宗華厳宗真言宗の三宗は、同じように、天台宗の『法華経』の教えを貶めたが、天台大師ほどの智者は当時の天台宗の中にはおらず、天台大師のように公の場で論戦などもしなかったので、上は国王大臣から下はすべての人民に至るまで、仏教について迷い、人々が悟りを得ることはなかった。これらは、像法の後半の五百年の、さらに前半の二百年あまりのことであった。

(注:ここまでが西域から中国の仏教史についての論述であり、次の段落からは、いよいよ日本の仏教史についての記述となる。実際はこの後、日蓮が尊敬する妙楽大師湛然(たんねん・711~782)が唐の時代の中に現われて天台教学を中興するわけであるが、もうそのころになると、日本でも奈良仏教が花開くころで、このへんで話を日本に持っていく必要があったと考えられる。)

 

つづく

 

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