大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その5

像法に入って四百年あまり過ぎたころ、朝鮮半島百済国より、すべての経典と釈迦の仏像と僧侶などが渡って来た。それは中国では梁の末から陳の始めに当たる。日本においては、初代天皇である神武天皇より第三十代の欽明(きんめい)天皇の時代である。欽明天皇の御子である用明天皇の太子に聖徳太子がおられ、仏教を広められた。そればかりではなく、『法華経』と『維摩経』と『勝鬘経』を鎮護国家の教えと定められた。その後、第三十七代孝徳天皇の時代に、三論宗成実宗(じょうじつしゅう・三論宗の付属的な性質があり、三論宗と共に、ある一定の経典ではなく、大乗仏教思想の論書を研究する宗派である)を観勒(かんろく・百済の僧侶。日本において初めての僧正に任命される)が百済より伝えた。同じ時代に、道昭(どうしょう・遣唐使として唐に渡り、玄奘に師事した日本の僧侶)は、中国から法相宗倶舎宗(くしゃしゅう・法相宗の付属的な性質をもつ。やはり、大乗仏教思想の論書を研究する宗派)を伝えた。第四十四代元正天皇の時代には、インドより『大日経』を持って日本に渡って来たが、日本には広まらなかったので、中国に帰った僧侶がいた。それは善無畏であった(これは伝説であり史実ではない)。第四十五代聖武天皇の時代に、審祥(しんじょう・日本人か新羅人かは不明。唐に渡って華厳宗の法蔵に師事して華厳宗を伝える)新羅国より華厳宗を伝え(新羅にも渡っている可能性があるため、日蓮はこのように表現している)、日本において、良弁(りょうべん・審祥と共に東大寺を建て、大仏建立に活躍する)と聖武天皇に伝えて、東大寺の大仏を建てた。同じ時代に、唐の鑑真(がんじん)が渡来して、天台宗律宗を伝えた。律宗については、それを広め、小乗の戒律を授ける戒壇東大寺に建立させたが、天台宗の教えについては何も伝えず亡くなった。

 

(注:鑑真は有名であり、唐招提寺を建てて、戒律を重んじる律宗を伝えたということは、歴史の教科書にも載っている。それに加えてもうひとつの功績が、多くの天台教学についての書物を日本にもたらしたということがあげられる。それはあくまでも書籍をもたらした、ということにとどまり、日蓮上人が言うように、天台教学について人々に説くことはなかったようである。しかし、鑑真の弟子の道忠(どうちゅう)は、後に伝教大師最澄と親しく交わりを持ち、道忠が関東地方に布教したことがきっかけで、後に関東地方出身の慈覚大師円仁などが最澄の弟子となり、最澄自身も北関東に来るなどのきっかけを作ることとなった。また、最初奈良の平城京で仏教を学んでいた最澄が、天台教学に興味を持ったのも、鑑真が天台教学の書物を伝えていたからであった。

なお、日蓮上人は、「小乗の戒律を授ける戒壇」という言い方をしているが、これも後に、最澄が、鑑真によって広められた戒律を小乗仏教の戒律として、大乗仏教には大乗戒が必要であると朝廷に訴えたことが背景にある。鑑真には、小乗仏教の戒律という認識はなかった。これ以降は、その最澄についての記述となる)

第五十代桓武天皇の時代は、像法八百年の時代である。その時代に、最澄という僧侶が現われた。後の伝教大師である。最初は、三論宗法相宗華厳宗倶舎宗成実宗律宗の六宗ならびに禅宗などを、行表僧正(ぎょうひょう・奈良時代の僧侶。僧正となる)に学ばれた後、国昌寺(こくしょうじ・後の近江国分寺)を経て、後に比叡山と名付けられる山に入られた。そして、今まで学ばれた六宗の経典や論書と、それらの宗派の僧侶たちの解釈を引き合せて研究して見ると、諸宗派の僧侶の解釈が、それらの宗派が基づいているとしている経典や論書と食い違っており、自分勝手な解釈が多いことに気づかれた。このような教えを受け入れてしまっては、みな悪しき世界に堕ちてしまうと考えられた。その上、『法華経』の真実の教えは、それらの宗派の人々も理解していると自ら述べているが、実際はそのようなことはなかった。

しかし、このようなことを言ってしまっては、論争になってしまうし、言わなければ、仏への誓いに背いてしまうと思い煩われて、ついに桓武皇帝に申し上げた。帝はこのことを驚かれて、奈良の六宗の僧侶たちを招き、論議をさせた。最初は彼らは山のような高慢な思いと毒蛇のような悪しき心で反発してきたが、最後は帝の前で最澄に攻め落とされ、奈良の六宗や七つの大寺は、一同に最澄の弟子となった。これは、中国において南北の多くの僧侶や学者たちが、陳の王の前で天台大師に攻め落とされ、それからは弟子となったこと同じである。

(注:このようなことは全くない。この論争と言っていることは、論争ではなく、「法華十講(ほっけじゅっこう)」と呼ばれるもので、最澄を見出して登用した桓武天皇が、奈良の学僧たちを講師として依頼し、比叡山で『法華経』の講義を行なわせたことを指す。もちろん、奈良の僧侶たちがみな最澄の弟子となったなどと言うことはあり得ない。日蓮上人の記述に、天台大師の時と同じだとあるが、天台大師の場合は、確かに、陳の国王の前で論議があり、天台大師がことごとく難問を破り、人々は驚いた、ということがあるが、最澄の場合は、それに似たような事実はない。この後、最澄は京都の高雄山寺で天台教学の中心的書物である『天台三大部』(中国の天台大師の講義を弟子が記述したもの)の講義(高雄講経)を行なったが、招かれていた奈良の僧侶たちも感銘を受けた、という記録はあるが、弟子になるまでにはなっていない。さらに、後の記述にあるように、最澄の晩年、戒壇のことについて奈良の仏教と衝突し、このころは論争に論争を繰り返すこととなるが、これとは別のことである。

これ以降も、最澄についての記述は続く。)

しかし、これは天台宗における修行実践と教学のことであるが、さらに最澄は天台大師も行なわなかった、戒律の問題にも取り組まれたのである。最澄は、それまで奈良の東大寺戒壇で行なわれた受戒(じゅかい・僧侶が出家する時、戒律を受けること。それによって正式に僧侶となることができるので、受戒が行なわれる戒壇は非常に重要であった。)は、いまだに小乗仏教のものであるとして、奈良の六宗の中心的な僧侶たちに『梵網経(ぼんもうきょう)』に基づく大乗戒(だいじょうかい)を授けたばかりではなく、『法華経』の教えに基づく円頓戒(えんどんかい・完全な戒律という意味)を授ける戒壇比叡山に建立された。これによって、比叡山延暦寺戒壇は日本第一のみならず、釈迦の死後、千八百年あまりの間、この世のどこにもなかった『法華経』で説かれた大いなる戒律が、この日本に始まったのである。

(注:この段落の記述も正確ではない。事実は次の通りである。

東大寺戒壇が設けられ、その後、九州の太宰府観世音寺と、関東の下野薬師寺(しもつけやくしじ)にも戒壇が設けられ、それらは三大戒壇と呼ばれていた。当時は、出家する僧侶の人数は朝廷で決められており、朝廷が認めた者たちが、その戒壇で受戒して僧侶となっていた。しかし、唐から帰って、天台宗の教学と組織の独自の確立を目指していた最澄は、奈良仏教からの独立を求め、比叡山にも戒壇を設けるよう、朝廷に申し出た。

最澄の主張は、奈良仏教で授けられている戒律は、小乗仏教の戒律であり、『梵網経(ぼんもうきょう)』に基づく大乗戒(だいじょうかい)を授けなければならないというものであった。もしその時、桓武天皇が生きていたら、それもすぐに成就したであろうが、最澄の最大の外護者であった桓武天皇は、最澄が唐から帰ると間もなく死に、続く桓武天皇の子の平城天皇も、すぐに弟の嵯峨天皇に譲位し、嵯峨天皇は特に最澄には興味を示していなかった。それどころか、これは当然のことであるが、奈良の仏教勢力が、三大戒壇以外に戒壇を設けることには猛烈に反対した。

「奈良の六宗の中心的な僧侶たちに『梵網経』に基づく大乗戒を授けたばかりではなく」と日蓮は記しているが、最澄が奈良の僧侶たちに授けたのは、最澄が唐に渡って伝えた密教の儀式である灌頂(かんじょう・頭に水を注いで、密教の仏と関係性を結ぶ儀式)である。これも桓武天皇の命令によって行なわれたものだった。

したがって、これは日蓮上人の勘違いか、あるいは、日蓮上人が批判する密教最澄が伝えた、ということを書くことを避けるために、意識的にすり替えたかである。

さて結局、最澄が生きている間は、その願いは達成されなかったが、最澄の死後の初七日の日に、弟子たちの活躍もあって、ようやく比叡山戒壇設立の許可が朝廷から下された。これにより、比叡山は奈良仏教から独立し、それ以降、比叡山は日本仏教の中心となっていく)。

このように、伝教大師の業績を見れば、竜樹や天親以上であり、天台大師や妙楽大師より優れた聖人である。そうであるなら、日本の東寺や園城寺や奈良の七大寺や諸国の八あらゆる宗派、たとえば浄土宗や禅宗律宗などの僧侶たちの中で、誰が伝教大師の円頓戒に背くのだろうか。中国の諸国の僧侶たちは、完全な実践修行や完全な智慧においては、天台大師の弟子と言えるけれども、円頓戒の戒壇は中国にはなかったので、その点においては、天台大師の弟子とは言えない者もいたであろう。

(注:確かに、中国においては、天台大師の教えは大きな影響力を持ったが、それによって、すべての僧侶が天台大師の弟子となったと言う日蓮上人の言葉は行き過ぎである。しかし、天台大師は、戒律においての戒壇は設けていないので、中国には、戒律においては天台大師の弟子ではない者もいた、と言っているのである。もちろん、天台宗以外の僧侶たちは、学問においても戒律においても、天台大師の弟子だと思っていた者など一人もいないのである。天台大師の弟子になりたければ、天台宗の寺院に入るまでのことである)。

したがって、この日本においては、伝教大師の弟子ではない者は、みな外道であり悪人である。しかし、中国と日本の天台宗真言宗の優劣は、伝教大師の心の中には存在していたが、奈良の伝統的な六宗と天台宗と公の場所で論議して勝敗を決めたことはあっても、天台宗真言宗の優劣はつけなかったので、伝教大師以後は、東寺や奈良の七大寺や園城寺の諸寺を始め日本中、真言宗天台宗に勝っていると、上の人から下の人に至るまで思っている。したがって、天台法華宗天台宗をこのように呼ぶことも多い)が本当の意味で活動できたのは、伝教大師の時だけであったと言える。伝教大師の時は、像法の末期であり、『大集経』でいうところの、寺院などが多く建設される時であった。未だに、国乱れて正しい教えが隠れてしまう時ではなかった。

 

 つづく

 

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