大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その8

質問して言う:(注:この質問の内容は非常に長いので、どこまで質問なのか、見誤らないように注意が必要)。正法一千年間の論師たちは、内心では『法華経』で明らかにされている真理が、顕教密教の諸経典に超過していることを知っていながら、外には説かず、ただ、『法華経』以前の仮(権)の大乗仏教の教えばかりを伝えていた、ということ、そうだとは思えないけれども、少しわかった気がする。

像法一千年間の中間ごろに、天台智者大師が現われて、題目の妙法蓮華経の五文字の一字一字に含まれた深い真理を『法華玄義(ほっけげんぎ・天台大師の『法華経』の講義を弟子が筆記した天台教学の代表的文献)』十巻一千枚に書き尽くし、『法華文句(ほっけもんぐ・これも同じく天台大師の『法華経』の講義を弟子が筆記した文献)』十巻には、『法華経』の最初の一文字から始まって最後の一文字まで、その一字一句を四つの方向(四種釈という)から解釈を加えて、一千枚を尽くして説かれた。以上の『法華玄義』と『法華文句』の二十巻には、すべての経典の心を江河とし、『法華経』を大海にたとえて、あらゆる世界の仏の教えの一滴も漏らさず、妙法蓮華経の大海に流れ込ませているのである。その上、インドの論書のあらゆる解釈や、中国の南北の多くの学者たちの解釈を、少しも漏らさず、破るべきは破り、取るべきは取って用いている。さらに、『摩訶止観(まかしかん・これも『法華玄義』などと同じく天台大師の講説である)』十巻を著わして、釈迦が説いた観心(かんじん・心を観察すること。いわゆる瞑想)の教えを一念に総括させ、すべての世界やそこに存在する者のあり方すべてを、三千のあり方にまとめたのである。この書は、遠くは月支国の一千年の間の論師も超え、近くは中国の五百年の学者たちの解釈よりも優れている。

したがって、三論宗の吉蔵大師は、南北の百人あまりの指導者や長者たちに、天台大師の経典の講義を聞けと勧めた書状の中で、「千年、五百年の単位で聖人が出るというが、まさにその聖人が今日おられる。南岳の叡聖(天台大師の師である慧思のこと)と天台の明哲(天台大師のこと)は、昔は『法華経』に生き、今は二人の偉人として現われている。単に尊い教えをこの地にもたらすばかりではなく、その教えはインドにまで響いている。生まれながらにして真理を悟り、魏や晉の時代以来、典籍の解釈においては比類がない。このため、禅宗の百人あまりの僧と共に天台智者大師の教えをいただいている」と記している。

また、修南山(しゅうなんざん)の道宣律師(どうせんりっし・中国唐の律宗の僧侶)は天台大師を讃歎して「『法華経』の真理を照らしていることは、正午の太陽が深い谷の中まで照らすようであり、大乗仏教の教理を説くことは、風が虚空に自由に吹くようなものである。たとえ、学問ばかりしている学者が千人万人いて、彼の妙なる弁論を極めようとしても尽くすことができないであろう。その真理を述べれば、ひとつの極みに至る」と言っている。

華厳宗の法蔵大師は、天台を讃嘆して「慧思禅師や智者大師は、不思議な霊の真理にまで感通して、菩薩の位を登られている。『法華経』の説かれた霊鷲山のその場で教えを聞かれた記憶が現在でもあるのだ」と言っている。真言宗の不空三蔵と、その弟子の含光法師の師弟共に真言宗を捨てて天台大師に帰依する物語として、『高僧伝(こうそうでん・中国の高僧たちの伝記集)』に「不空三蔵と共にインドに留学している時、ある僧侶が次のように言った。『唐に天台の教えがあり、誤ったことを正し、曲がったことと完全なことを明らかにすることにおいて最も優れている。これらを翻訳して、このインドに伝えるべきではないか』」とある。この物語は含光が妙楽大師に語ったことである。妙楽大師はこの物語を聞いて、「これは、インドの地における教えが失われて、それを他の地域に求めていることではないか。その中国においても、それを知っている者は少ない。自分の国に天台というすぐれた教えがあるにもかかわらず、それを知らない中国の地方の国の人のようなものだ」と言った。

もしそのインドに天台大師の三十巻のような大いなる論書があるならば、このように、南インドの僧侶がどうして中国に天台の教えを求めるだろうか。これはまさに、像法の中に『法華経』の真理が明らかにされて、この世に流布している証拠ではないか。

答える:正法一千年と像法の前半の四百年、つまり釈迦が死んでから一千四百年あまり、天台大師は確かにそれまでの論師が到達できなかった偉大で完全な禅定と完全な智慧を中国に広め、そればかりではなく、今引用された文のように、そのうわさはインドまで聞こえていたのである。この事実は『法華経』が広まっていたことのように思えるが、その時点では、まだ円頓(えんどん)の戒壇は建てられておらず、小乗仏教の儀式をもって、大乗の完全な智慧と禅定を規定するということは無理がある。たとえば、日食のようなものであり、月が欠けているようなものである。何よりも天台大師の時は、『大集経』でいうところの、経典はよく読まれ研究が盛んであるという時期であって、まだ『法華経』の広まる時期ではないのである。

(注:「円頓の戒壇」とは、前にも出てきたが、日本の伝教大師最澄が生涯をかけて設立を朝廷に求め、最澄の死後ようやく設立が許された比叡山戒壇のことである。日蓮上人もこの戒壇で受戒して僧侶となったのであり、実はこの私もそうであった。しかし、比叡山戒壇を設立することは、今までの奈良仏教の一大勢力からの独立を意図するものであり、朝廷に訴えるその教義的理由としては、「今まで大乗仏教戒壇はなかった、奈良の戒壇は小乗である」ということであるが、実際はかなり政治的な意図が強い。そしてこれは何よりも、最澄を見出し、中国まで送り届け、帰国後もその命が尽きるまで最澄を支えた桓武天皇の意図なのであり、最澄桓武天皇のためにも、そして日本の仏教の将来のためにも、大乗戒壇設立に文字通り命を懸けたのであった。日蓮上人は、『法華経』が広まることと、この戒壇設立をかなり教義的にも結び付けているが、それはあまりにも無理のある論理の飛躍である。

そしてここで戒壇のことがあがったので、これ以下は、その戒律についての内容となり、まず今まで以上に、非常に長い質問者の言葉が続くことになる)。

 

つづく

 

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