大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その11

真言宗という宗派は、上の二つに比べ物にならないくらい、大きな誤りのある宗派である。これからそれについて述べよう。

いわゆる中国唐の玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵は、『大日経』や『金剛頂経』や『蘇悉地経(そしつじきょう・いずれも密教の中心的な経典)』を、月支国よりもたらした。この三つの経典の説くところは明らかである。その究極的な教えを見れば、仏になる教えだけを説いていて、各教典に見られる声聞(しょうもん・釈迦の弟子の教えという意味で、大乗仏教から見れば小乗仏教)や縁覚(えんがく・自分一人で悟り、弟子も作らずこの世を去る人)の存在などは触れない。そしてその目に見える実践方法は、ただ手に印を結び、真言を唱えるだけである。それらは、『華厳経』や『般若経』の、声聞や縁覚を仏になる菩薩と比べて、仏になる道を説いている教えにも及ばない。また、天台宗で説く、『法華経』以前の段階での高度な教えほどの深みもない。ただ、非常に初歩的な教えを表面的に繕っているだけである。

善無畏三蔵は次のように思った。「この経文を人々に明らかにしてしまうと、華厳宗法相宗に馬鹿にされ、天台宗にも笑われるであろう」。こう思ったが、せっかく大切に月支国から持ってきた経典であるから、ただ持ち帰ってはもったいないと思ったのであろうか。天台宗の中に一行禅師(いちぎょうぜんし)というひねくれ者が一人いた。

(注:以前にも述べたが、この時点では真言宗という宗派はなく、密教という大乗仏教のひとつの流れが、善無畏や金剛智や不空たちによって、インドから中国に伝わっていた状態である。そして、これから善無畏とその弟子の一行の記述になる。一行については、日蓮上人は天台宗の人と言っているが、そうではなく、ありとあらゆる仏教の教えを学んだ僧侶であり、また皇帝に用いられた天文学者でもある。一行は密教を善無畏と金剛智から学び、善無畏と共に『大日経』の注釈書である『大日経疏(だいにちきょうしょ)』を著わした。この『大日経疏』は後の日本における真言宗天台宗に非常に大きな影響を与えることになる。日蓮上人は、日本の天台宗が、天台大師の教学のみを中心とせずに、特に密教を受け入れたことを非常に批判しているため、日蓮上人にとって一行は目の敵である)。

善無畏はこの一行に中国にすでにある教理を語らせた。一行阿闍梨あじゃり・修行を達成した人に与えられる称号のひとつ)は騙されて、三論宗法相宗華厳宗などを詳しく語ったのみならず、天台宗の教理を語ったところ、善無畏は「天台宗はインドで聞いていた以上に優れていて、とても太刀打ちできない」と思い、一行を騙して「あなたは中国にあってはとても尊い僧侶である。天台宗は神妙なる教えの宗派であるが、今、真言宗天台宗より優れているところは、印と真言である」と言った。

一行もそうかもしれないと思った。善無畏三蔵は一行に「天台大師が『法華経』の注釈書を著わしたように、『大日経』の注釈書を作って、真言の教えを広めようと思うが、あなたが書いてくれないか」と言ったので、一行は次のように言った。「書くことはたやすいことです。ただし、どのように書いたらいいでしょうか。天台宗は憎い宗派です。諸宗派はわれもわれもと戦いを挑んでいますが、太刀打ちできないことがひとつあります。『法華経』が説かれる直前に説かれたとされる『無量義経(むりょうぎきょう)』という経典をもって、『法華経』以前の四十年あまりの期間に説かれた経典は、すべて『法華経』から見れば、仮の教えだと定めてしまっています。

(注:『無量義経』は短い経典であるが、この経典の中に、釈迦の言葉として、今までの四十年間の説法では真実を明らかにして来なかった、という記述があり、いかにも『法華経』の前座的な内容となっている。さらに『法華経』の序の箇所に、「無量義という教えが説かれた」という記述がある。このため、『法華経』の「開経(かいきょう)」と呼ばれている)。

そして、『法華経』の『法師品(ほっしほん)』や『神力品(じんりきほん)』をもつて、『法華経』の後に、『法華経』以上の経典は説かれなかったとしています。また、『法華経』と肩を並べるほどの内容だと思われる経典は、『法師品』の『私の説いた経典は、無量千万億あって、すでに説き、今説き、まさにこれから説こう。そしてその中で、この『法華経』は最も信じることが難しく、理解することが難しい』という文をもつて片付けられてしまいます。このようなわけですから、『大日経』は、この『すでに説き、今説き、まさにこれから説こう』の中で、どこに当たる経典だとすればよいのでしょうか」と質問した。

これに対して善無畏三蔵は、大いにたくらんで次のように言った。

「『大日経』に『住心品』という品(ほん=章)がある。『無量義経』の『今までの四十年間の説法では真実を明らかにして来なかった』という文のように、これも他の経典を打ち払ってしまう内容である。『大日経』の『入漫陀羅品』以下の諸品は、中国では『法華経』と『大日経』という二つの経典となっているけれども、インドでは一つの経典である。釈迦は、弟子の舎利弗弥勒菩薩に向っては、『大日経』を『法華経』と名付けて、内容も印と真言とを省いて、ただ教理的なことだけを説かれた経典を、鳩摩羅什三蔵はこれを翻訳したのだ。そして天台大師はこれを読んだのだ。一方、大日如来は『法華経』を『大日経』となづけて金剛薩埵(こんごうさった)に説かれた。これを『大日経』と名付ける。私はこの目でインドでそれを見た。このようなわけで、あなたは『大日経』と『法華経』とを水と乳とのように、同じ味とするべきである。そうすれば、『大日経』は『私の説いた経典は、無量千万億あって、すでに説き、今説き、まさにこれから説こう』という言葉を、『法華経』が一番であるということの証拠とするように、『大日経』を第一とすることができる。さて、天台宗で説く一念三千(一瞬の心の中にすべてが含まれるということ)とは、心の悟りの状態を意味する。密教の印と真言は、まさに心を一念三千の状態に高めることであるから、これこそ三密相応(さんみつそうおう)の秘法である。

(注:三密の三とは、身(しん)口(く)意(い)の三つを指す。体と言葉と心のことである。この三つが仏の体と言葉と心とに一致することを三密相応といい、身口意それぞれを身密、口密、意密という。これが密教の目指す悟りの境地である)。

三密相応するならば天台宗は心を相応させることであるから、意密である。したがって、真言宗は、ある将軍が甲鎧に身を固めて弓矢を持ち、太刀を腰につけているようなものであり、天台宗は意密だけなので、ある将軍が裸でいるようなものである」と言ったので、一行阿闍梨はそのように書いたのである。

(注:善無畏が、このように一行をそそのかして、彼に『大日経疏』を書かせた、とあるが、もちろん、このようなことは事実ではない)。

中国の三百六十カ国には、この事を知る人がいない。最初は、どちらが優れているかと論争もしたが、善無畏たちは身分が高く、天台宗の人々は身分が低く、また天台大師ほどの智慧のある者もなかった。そのため、次第に真言宗に押し切られていき、それも長い年月となったので、いよいよ真言宗の災いが根深くなってしまった。

日本の伝教大師は、中国に渡って天台宗を伝えた。そしてついでに真言宗も伝えた。

(注:繰り返すが、あくまでも真言宗という宗派は、日本の弘法大師空海からの宗派である。最澄は、真言宗を伝えたのではなく、密教を伝えたのである。空海密教を日本に伝えるという目的で唐に渡り、帰国後、密教を宗旨とする真言宗を、高野山を中心に開いたのである。最澄天台宗を日本に伝えるために唐に渡ったが、彼は天台教学を中心として、当時あったすべての仏教形態を日本に伝えることも目的とした)。

最澄は、天台宗を日本の皇帝に授け、真言宗を奈良六宗の大徳に習わせた。ただし最澄は、奈良の六宗と天台宗の優劣は、唐に渡る前にしっかりと定めていたのである。唐からの帰国後は、比叡山大乗仏教の戒律を授ける円頓の戒壇を設立しようとしたが、反対する敵が多く、戒壇設立は成就することが困難だと思われたのであろうか、また、末法の世において責めさせればよいと思われたのであろうか、天皇の前でも真言宗と論争することもなく、弟子たちにも明確には語らなかった。ただし最澄に『依憑集(えびょうしゅう・最澄が、天台教学と他の宗派の教学の一致を示す他の宗派の文献を引用してまとめた書物。日蓮上人は、他の人々が天台宗に屈服したことを表わすとしているが、そのようなことはない)』という一巻の秘められた書があり、他の七宗の人々が天台宗に屈服したことが書かれてある。その文の序に、真言宗の誤りを指摘する一文を見ることができる。

(注:すでに述べたように、最澄は天台教学ばかりではなく、密教を含めたすべての仏教形態を日本に伝えようとしたのである。しかし、短い留学期間ではとても足りず、当時の唐の中心地である長安にも最澄は行けず、彼が伝えた密教は傍系のものであった。そのため、最澄は帰国後、善無畏から始まる密教の正統を伝える長安の恵果(けいか)に師事した空海に弟子入りし、また自分の弟子である泰範(たいはん)たちを空海のもとに送り(この中で泰範はそのまま空海の弟子となって帰らなかった)、何とかして密教比叡山にもたらそうとした。そのような最澄が、どうして真言宗と論争するのであろうか。事実はその真逆である)。

 

つづく

 

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