撰時抄 その13

これよりも百千万億倍、信じられないような最大の悪事がある。慈覚大師(じかくだいし・円仁(えんにん)。伝教大師最澄の弟子。唐に渡り、その9年間の旅の記録を『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』として記し、その書物は世界三大旅行記の一つに数えられている。日本で「大師」という諡号を朝廷から下されたのは、円仁が最初である)は、伝教大師の第三の弟子である。しかし、上は王より下は万民に至るまで、慈覚大師は伝教大師より優れていると思っているほどの人である。
この人は、真言宗法華宗の真実の教えを学び極め、その結果、真言は『法華経』より優れていると文に記している。そしてこのことを、比叡山の三千人の大衆および日本じゅうの学者たちが受け入れてしまったのである。弘法大師の門人たちは、大師が『法華経』は『華厳経』に劣ると書いているのを見て、私たちの師であるけれども、少し言い過ぎではないか、と思ったが、慈覚大師の解釈もそうであるから、やはりそれは真実だと信じ込んでしまった。
日本において、真言宗は『法華経』に勝るという者がいれば、何よりも比叡山こそ、それに対抗すべきであるのに、比叡山の慈覚大師が三千人の口をふさいでしまったので、真言宗の思う通りになってしまったのだ。したがって、真言宗の東寺の第一の味方は、まさに慈覚大師よりすぐれた者はいないということだ。
たとえば、浄土宗や禅宗は、他の国ではいくらでも広まるとしても、日本においては、比叡山延暦寺が許さなければ、自由に広まることはできない。しかし、安然和尚いう比叡山第一の古徳は、『教時諍論(きょうじじょうろん)』という書物を記し、その中に、九宗の優劣を立てている中に、第一は真言宗、第二は禅宗、第三は天台法華宗、第四は華厳宗などとある。この大いなる誤りによって、ついに禅宗は日本に充満して、日本は滅びようとしている。法然念仏宗が流行って、それによっても、日本が滅びようとしているが、その始まりは、比叡山の恵心僧都の『往生要集』の序より始まっている。「師子の身の中の虫が師子を食う」という仏の言葉は本当である。
伝教大師は日本において十五年間、天台や真言などを一人で学ばれ、生まれながらの智慧をもって、師匠がなくても悟られたが、世間の疑いを晴らそうと、自ら中国の唐に渡って、天台や真言の二宗を伝えたのである。

(注:これも誤りである。最澄が出家して学んでいた時点では、日本には密教は伝わっておらず、天台の書籍もじゅうぶんではなかった。最澄は世間の疑いを晴らそうとしたのではなく、自ら天台教学をしっかりと学び、天台教学の典籍を伝えるために唐に渡り、それに付属する形で、密教も伝えようとしたのである。)

当時の中国においては、さまざまの教えがあったが、伝教大師は、法華の教えは真言より優れていると考えたために、真言宗の「宗」の字を削って、天台宗の止観・真言というように書いたのである。

(注:これも誤りである。真言宗とは、弘法大師空海以降の宗派に名付けられた名称であり、最澄当時は、真言宗という名称はなかった。当時は、真言密教の意味で使用されていたのであり、そのため、天台教学の「顕教」に対する「密教」という意味で、「真言」という言葉を使用していたのである。)

比叡山の出家者は、十二年間勉学をするのであるが、その年分得度者(ねんぶんどしゃ・毎年の出家者の数。当時は毎年の出家者の人数を朝廷が管理していた)は二人である。そして、止観院に『法華経』と『金光明経』と『仁王経』(この三つの経典は国を守る護国経典とも言われる)の三部を鎮護国家の三部と定めて読誦させた。天皇からこの宣旨申し下され、永く末代まで、日本国の第一の重宝、いわゆる神璽や宝剣や内侍所と同じように崇めさせたのである。このことは、比叡山の第一の座主(ざす)である義真(ぎしん)和尚そして、第二の座主である円澄(えんちょう)大師まではこの通りであった。
第三の座主となった慈覚大師は、中国の唐に渡って十年間、顕教密教の二道の勝劣を八宗の大徳に学んで伝えた。また、天台宗は、広修(こうしゅ)や惟蠲(ゆいけん)などに学んだ。しかし、心の中では、「真言宗天台宗に勝っている。わが師である伝教大師は、このことを学んでおられなかったのだ。長く中国にはおられなかったので、この法門については、ご存じなかったのだ」と思って、日本に帰国し、比叡山の東塔の止観院の西に総持院という大講堂を建て、本尊は密教金剛界大日如来を安置し、この前で、『大日経』について善無畏が記した論書を基に、『金剛頂経』の解説書七巻と『蘇悉地経』の解説書七巻、以上の十四巻を記した。
その論書には次のように記されている。
「教えに二種がある。ひとつは顕示教(=顕教)、つまり声聞と縁覚と菩薩の教えを別々に説く三乗教である。世俗の教えと悟りの教えとが、まだひとつとなっていないのである。もうひとつは秘密教(=密教)、つまり声聞も縁覚も菩薩もすべての人々が仏になるという一乗教である。世俗の教えと悟りの教えが一体となっているからである。さらに、秘密教の中にまた二種ある。ひとつは悟りの秘密を理論で説くの『華厳経』や『般若経』や『維摩経』や『法華経』や『涅槃経』などである。ただ、世俗の教えと悟りの教えがひとつであると説くだけで、まだ真言の秘密である印を説かない。ふたつは、目に見える実践的修行と理論がともに秘密であることを説く教えである。これは、『大日経』や『金剛頂経』や『蘇悉地経』などである。世俗の教えと悟りの教えが一つになっていることを説き、さらに真言の秘密の印を説くのである」と言っている。
この解釈の核心部分は、『法華経』と真言の三部の経典との勝劣を定めているのである。真言の三部経と『法華経』とは、理論的には同じく一念三千の法門である。しかし、秘密の印と真言などの実践的修行のことは、『法華経』には書いておらず、『法華経』は理論の秘密を説き、真言の三部経は理論も説き、実践的修行のことも説くので、その違いは天地雲泥の差であると書いているのである。しかも、このことは、自分勝手な解釈ではなく、善無畏三蔵の『大日経疏』の核心なのであるとあるので、自分でもなお、二宗の勝劣に対して疑問を持っていたのであろうか。あるいは、他人の疑問を解決しようとしたのであろうか。
慈覚大師の伝記に次のようにある。
「大師は二経の解説書を書かれて功をなし、さらに心の中で『この解釈が仏の心に通じるであろうか。もし仏の心に通じないのであれば、世に広めることはしない』。こうして、仏像の前に安置し七日七夜、誠を尽くして勤行した。すると、五日目の夜明け前に夢を見た。正午ごろの太陽に向かって弓矢を射ると、その矢は太陽に当たって、太陽は動いて回った。この夢から覚めて、自分の解釈は仏の心に通じているので、後世に伝えることにした」とある。
慈覚大師は日本においては、伝教大師弘法大師の両家の教えを習い極めて、中国に渡っては、八宗の大徳ならびに南インドの宝月三蔵などに十年間、最も重要な秘法を極めたのである。そのうえで、二経の解説書を著わし、さらに本尊に祈祷したところ、智慧の矢は昼間の太陽に命中し、その喜びのあまり仁明天皇に宣旨を申し上げ、天台の座主を真言の官主のようにして、真言の三部経を鎮護国家の三部経として今に至り、この四百年あまり、慈覚大師の弟子たちは稲や麻のように多く、大師を慕う人々は、竹や葦のように多い。
このようにして、桓武天皇伝教大師が建てた日本の寺院はすべて真言の寺となり、公家も武家も一同に真言宗の僧侶を召して師匠と仰ぎ、官位をあげて寺を与えている。仏事の仏像や仏画の開眼供養は八宗すべて、みな同じく密教の印と真言によって行なわれている。

 

つづく

 

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