大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  09

『法華玄義』現代語訳  09

 

第三節 標宗(標章明宗)

(注:ここからは再び、天台大師の講述となる)。

 

経典が記された目的を表わすという名称の解釈にあたって、三つの項目を立てる。一つめは、示(じ)、二つめは、簡(けん)、三つめは、結(けつ)である。

 

第一項 示(言葉の意味を示す)

「宗」とは「宗要(しゅうよう)」ということである。いわゆる仏は修行(因)をして、悟り(果)を開いた、つまり仏の因果ということを宗という。ではなぜその宗の言葉に要という言葉がつくのか。修行と言っても数えきれないほど多くあるが、それらをただ因という言葉を使えば、その一言でまとめることができる。悟りと言ってもその段階は数多くあるが、それらをただ果という言葉を使えば、その一言でまとめることができる。たとえば、網に結び付いている太い綱を引っ張れば、網にはたくさんの網目があっても、動かない網目は一つもないように、また、衣の一角を引っ張れば、衣全体が引っ張られるようなものである。そのために、その因果を宗要というのである。

(注:一般的に、因果といえば、因果因縁の法則という意味であり、もちろん『法華経』も『法華玄義』も、そのように用いているが、一方、「因」は「修行」、「果」は修行の結果得られる「悟り」という意味で使用される場合も多い。さらに「縁」を「修行者」という意味で用いる場合もある。このことを頭に入れておかなければ、これ以降、「因果」などの言葉に対して意味が混乱する可能性がある)。

 

第二項 簡(異なった因果を指摘する)

しかし、多くある宗要、つまり因果について、正しく明らめなければならない。真理に近いとはいえ、不完全な因果を取るわけがない。ましてや、その他の因果を取るべきではない。その他の因果とは、昔は声聞の教えと縁覚の教えと菩薩の教えの三つの因が大いに異なっていて、その三つの果はだいたい同じであった(蔵教のこと)。あるいは、その三つの因がだいたい同じであって、その三つの果は少し異なっていた(通教のこと)。また、一つの因が大きく出て、一つの果が融合しない(別教のこと)。因に善が摂取されず、果に徳が収められなければ、すなわち自らの修行の因ではない。悟りの道場において証得された果ではない。

また、『法華経』以外の多くの経典にも、仏の修行や得た悟りについて記されているが、それらはみな真実の因果に至る方便なので、『法華経』の宗要ではない。要約して『法華経』の宗要を述べるならば、その因は久遠の実である修行を究め、その果は久遠の実である証を究める。このような因は、人・天・声聞・縁覚・蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩の七種の人々(『法華経』の「薬草喩品」の記述によってこの七種類の人と教えが設けられるが、これは後に詳しく説かれる)が行なう段階的な修行よりも高く、空間的に言うならば、十法界の法を包み込むのである。最初にこの実相の修行をすることを「仏因」とし、悟りの道場で得る証を「仏果」とする。ただ智慧をもって知るべきであり、言葉をもってはすべて表現できないのである。

 

第三項 結

概略的にこのような因果を挙げて、宗要とするのみである