大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  12

『法華玄義』現代語訳  12

 

第六目 顕露不定教(けんろふじょうきょう)

ここまで教えを分別してきたが、ここまでの分別の仕方は、教えとその教えによって得られる悟りがはっきりしている場合について、漸教・頓教そして五味の喩えによって分ける方法であった。しかし、これから述べる「不定教」の場合はそうではない。

たとえば、太陽が高山をまず照らすように深い悟りを得られる教えを釈迦は説いたが、釈迦はその場所である寂滅道場(じゃくめつどうじょう・『華厳経』を説いたとされる場所)にいるままで、鹿野苑(ろくやおん・歴史的釈迦が最初に説法したとされる場所)に遊化(ゆげ)する。(注:釈迦が最初に『華厳経』を説いたとすれば、釈迦が最初に説法した初転法輪鹿野苑のことはどうなるのか、という矛盾を解決しなければならないことは確かである)。四諦(したい・苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つで構成される、基本的には声聞に対する教えであるが、後に記されるように、さまざまな角度から深く解釈される教えの一つである)の生滅の教えを説くといっても、その教えは不生不滅の教えを妨げない。菩薩のために仏の次元を説くといっても、その教えには声聞と縁覚の二乗の悟りの智慧と涅槃は含まれる。釈迦が最初に説法したという五人の僧侶が、その教えによって悟りを得ても、肉体を持っていない八万の諸天が無生法忍を得ることを妨げない。まさに知るべきである。頓教はそのままで漸教ともなり、漸教であってもそのままで頓教にもなるのである。『涅槃経』に、「ある時は深い真理を説き、ある時はわかりやすい教えを説き、許すことはそのまま禁止することにもなり、禁止することはそのまま許すことにもなる」とある通りである。一時、一説、一念の中にも、すべてその教えと結果が必ずしも明らかに対応しているということではない。今までの不定教に対する解釈は特定の経典に限っていたが、それらとは同じではない。五つの味を喩えにしたが、その味にもさまざまなものが含まれるのである。これは顕露不定教というのである。

第七目 秘密不定教(ひみつふじょうきょう)

これから説く祕密不定教は、以上述べた顕露不定教とも異なるものである。如来は教えにおいても最も自由自在なのである。智慧においても、説く相手においても、その説く時においても、その場所においても、そして、仏の身体、言葉、心の不思議な働きにおいても、四門(しもん・教えのあらゆる形体を、有門、空門、亦有亦空門、非有非空門の四つにおいてまとめる教え。これ以降も詳しく説かれる教えの一つ)も、すべて妨げがないのである。ある説法の場において頓教を説きつつ、同時にあらゆる方角に向かっては漸教を説き、また同時に不定教を説く。頓教が説かれた場所では、そのあらゆる方角に向かって説かれた教えは聞くことができない。同じく、あらゆる方角においては、その頓教は聞くことができない。あるいは、あらゆる方角に向かって頓教を説き、不定教を説き、この説法の場では漸教を説く。それぞれの聴衆はそのことを知ることができない。この場にあっては、人間の知恵で理解できる教えであって、他の場所においては、人間の知恵では理解できない教えとなる。

あるいは、一人の人に対しては頓教を説き、同時に多くの人に対しては漸教を説き、不定教を説く。あるいは、一人の人に対しては漸教を説き、同時に多くの人に対しては頓教を説く。それぞれの聴衆はそれを知らないまま、人間の知恵で理解できる教えや理解できない教えとなる。あるいは、その場では黙っているが、あらゆる方角に対しては説法をしているのであり、あらゆる方角には黙っているが、その場では説法をしている。あるいは、両方の場において黙っているが、同時に説法をしている。お互いに、聴衆はそのことを知ることができず、人間の知恵で理解できたりできないまま、着実に悟りへ向かって進まされる。しかしそうであっても、如来の自在の力は尽きない。ただ、悟りの智慧をもって知るべきである。言葉では表現できない。このように、適宜に教えが数多く説かれるといっても、頓教、漸教、顕露不定教、秘密不定教四つの教えの範囲を出ないのである。

第八目 法華経の場合

では、『法華経』はどうなのか。この経典は顕露であって、秘密ではなく、漸教の後の頓教であって、すべての教えを合わせたものである(注:原文では、「合にして不合にあらず」とある。『法華経』の最大の特徴は、開会(かいえ)の思想と呼ばれ、すべての教えをそのまま最高の教えとするものであるため、このように表現されるが、このことについては後に非常に詳しく、そして何度も繰り返して説かれる)。これはまさに醐醍味であって、その他の味には喩えられない。そして、この教えによって得られる悟りはみな明らかに同じであり、定まっていないことはない。このように分別すると、明らかに『法華経』と他の経典は異なっているのである。

(注:「漸教」と「頓教」くらいなら何とか理解できそうであるが、「不定教」や「秘密不定教」そして最後にあった『法華経』についての記述になると、もう「何でもあり」のような気持ちになって、はっきり区別がつかないように思えてしまう。そもそも、歴史的釈迦の教えは、ほぼ「三蔵教」がそれであって、もともと歴史的釈迦の教えは非常に理解しやすい。しかし、大乗仏教の経典に記されている仏の教えやその仏の行動や、聴衆を含めてそこで起こるあらゆる出来事などは、最初から人間の知恵で理解できるようなものではない。それは大乗経典を少し読んでもすぐにわかるものである。そのような大乗経典の教説をすべて包含し、整理しようと天台大師は試みているのであり、その結果、実際、他の誰も追順できないほどの教学体系を築き上げた。その特徴は、もはや神秘的としか言いようのない解釈である)。

 

第二項 化道の始終不始終の相(けどうのしじゅうふしじゅうのそう)

法華経』以外の経典は、聴衆各人の能力の違いに応じて説かれたものであり、そこには、如来が人々を教え導く究極的な真意は説かれていない。この『法華経』は、仏が教えを設けた最初の時(「化城喩品」に記されている大通智勝如来の時のことを指す)に、仏が巧みに衆生のために、頓教・漸教・不定教・顕露教・秘密教の種子を作ったことを明らかにしている。それから『法華経』に至るまで、頓教・漸教の五味の教えをもって、衆生の能力を調え悪を抑え成熟させ、また、頓教・漸教の五味の教えをもって救済した。同時に解脱させ、同時に成熟させ、同時に種を蒔き、その大いなる力と威力は過去現在未来に至るまで、全く変わらず人々を高みに導いた。これは『法華経』の「信解品(しんげほん)」に記されている通りであり、このようなことは、他の経典には記されていない。

 

第三項 師弟の遠近不遠近の相(していのおんごんふおんごんのそう)

他の経典には、釈迦は菩提樹の下で悟りを開き、その菩提樹から立って、初めて人々に教えを説いたと記されている。しかし『法華経』では、釈迦は気の遠くなるほどの遥か昔において、すでに究極的な悟りを開いており、この世において、あらためて菩提樹の下でその悟りを得たのだと記している。

また、他の大乗経典では、二乗の弟子は実の究極的な智慧に入ることはできず、また権の智慧衆生に施すことはできないと説く。しかし『法華経』では、そもそも釈迦の弟子は、はるか昔に究極的な実の悟りを開いており、また、すでにその悟りに基づいた権を行じていたと記している。また他の経典では、この世における釈迦と弟子の権と実については説いておらず、ましてや過去世からのことは説いていないのである。しかし『法華経』では、この世における権と実が、遥か過去世からのものであることを明らかにしている。弥勒菩薩も、すべての世界を数えることができず、ましてやその世界の塵の数など知る由もない。『法華経』には、「この世において今まで説かなかった教えを、これからあなたたちは聞くことになる」とある。ここに、『法華経』を称賛する理由がある。まさに知るべきである。この『法華経』は、このように他の経典とは異なっているのである。