大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  14

『法華玄義』現代語訳  14

 

第六節 引証判教

法華経』は、他の経典を包括して、仏の真意を明らかにする経典である。このことを、『法華経』の「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)」では、十の譬喩を用いて、『法華経』の教えを讃えているが、ここでは、そのうちの六つの譬喩を引用する。すなわち、海のように大きく、山のように高く、月のように丸く、太陽のように照らし、梵天王のように自在であり、仏のように真理を極めている。

海はあらゆる川が流れ込み、どこも同じ塩味である。『法華経』も同じく、仏の悟り得たすべての徳が帰入し、人々を同じく仏に導く。川と湖にはこのような徳はないように、他の経典も同じである。このため、『法華経』の徳は最大なのである。

須弥山(しゅみせん・仏教の世界観において最高の山)は最も高い。あらゆる宝によって形成されており、あらゆる天の住まいとなる。『法華経』もまた同じように、あらゆる教えを包含しており、非難されるところがない。真理を開き、示し、悟らせ、入らせる力は、もっぱら統一された道であり、教えは同じである。弟子はもっぱら菩薩だけであり、声聞はいない。

月は満ち欠けしても、必ず満月となる。『法華経』も同じである。権と実は同体であり、漸教をそのままに頓教に入る。

灯や松明や星や月は、暗闇があってこそ輝くことができる。それは『法華経』が、他の経典と二乗をそのままにして、小乗と並び立つことを喩える。太陽は、暗闇を破る。『法華経』に記されているように、人々を休めるための仮の町を消し、粗末な草庵も除く。また、太陽が昇れば、星や月の光は奪われ見えなくなるように、『法華経』は迹の教えを排除し、方便を除くのである。

転輪聖王(てんりんじょうおう・仏教の世界観の中で、この世において最も力の強い王)はこの世のあらゆる場所において自在であり、帝釈天は三十三天ある忉利天(とうりてん)において自在であり、大梵天王は三界において自在である。他の諸経典は、世間的な言葉で表現できる俗諦において自在であり、あるいは言葉に表現できない真理である真諦において自在であり、あるいは中道において自在であるが、これらは段階的な自在であって、絶対的な大自在ではない。『法華経』は、空諦・仮諦・中諦の三諦が円融して、最も自在であれば、大梵天王の自在に喩えられるのである。他の諸経典は、苦しみの世から衆生を救い出し、生死の苦しみから救い出す。これは、釈迦が最初に教えた五人の僧侶が、凡夫の中で第一であるようなものである。あるいは菩薩が、小乗においてもう学ぶべきことがなくなった無学の聖人のさらに上にいるように、衆生を導いて相対的な涅槃から出るようにする。『法華経』は衆生を、方便の教えに留まる菩薩よりさらに上に導く。このために、『法華経』は教えの王である法王であるとし、最も第一の経典とするのである。

以上、あらゆる譬喩を引用して、『法華経』の教えが最大であることを明らかにした。これを例として知るべきである。経典の働き(用)も、その目的(宗)も、その正体(体)も、その名称(名)もまた海のように大きく、智慧で照らす対象の境も、その智も、そしてその利益(りやく)もまた海のように大きい。その教えは須弥山のようであり、四味の喩えで示される他の教えの上を行くのである。用も、宗も、体も、名も、境も、智も、利益もまたこのようである。また、教相は月のように円満であり、用も、宗も、体も、名も、境も、智も、利益もまたこのようである。その教えは仮の町を取り除く。用も、宗も、体も、名も、境も、智も、利益もまたこのようである。教相は自在である。他もまたこのようである。教相は王の王である。他もまたこのようである。ただ経文を引用して証明するだけではない。その他の意義もまた成就する。