大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  15

『法華玄義』現代語訳  15

 

第三章 生起(しょうき)

七番共解の第三は、生起である。

(注:五重玄義の各項目は、正しい順序に従って制定されているということを論証する)。

生じさせる働きを「生」といい、生じされられるものを「起」という。そこには、明確な前後の順序があり、微塵もそこに乱れはない。僧肇(そうじょう・中国の後秦の僧侶。『法華経』を翻訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)の優れた弟子であり、多くの著作を残している)が記した『肇論(じょうろん)』の中に、「名称には、その物を生み出す力はなく、その物はその名称に相応する実体はない。名称なく物もないのであるから、本来の名称や物はなぜあると言えるのか」とある。これは、最も深い真理の表現(=第一義)の中の無相(むそう)という意味である。これに対して、一般の常識では、次々とあらゆる物事を言葉の名称をもって表現する。一般の人々に理解させるためには、名称がなければ教えることもできないのである。そのため、五重玄義では、初めに釈名(名)を立てて名称を説明するのである。そして名称は、教えに基づく。その教えはそのまま真理の正体(体)を表わすのである。すなわち、名称によって正体を知るのである。その正体は、経典の目的(宗)とされなければ、知ることはできない。そのようにして、経典を通して正体を知ることによって、自らの修行と悟りが円満となれば、その正体から働き(用)が起こり、衆生を導く。その利益がすでに多ければ、必ずその教相(教)を分別すべきである。

前の引証の章で引用した『法華経』の「如来神力品」の経文をもう一度記すと「如来一切所有之法。如来一切自在神力。如来一切秘要之蔵。如来一切甚深之事」とある。ここにも、教えの順序について表わされている。「一切法」とは、もとみな仏法である。『涅槃経』に「一切の世俗諦は、如来においては、そのまま第一義諦である。衆生はそのことを真逆に錯覚して、仏法でないという」とある。『法華経』ではこれを明らかに示すために、一切法というのである。この法を説くために、まず仏の神通力をもって動かすために、「一切自在神力」というのである。このような神通力を見て、衆生が目覚めて悟りを飢え渇いて求めれば、仏はそのために教えを説くことができる。教えは実相を表わすために、「秘要之蔵」というのである。その教えを受けて修行すれば、その因果があるために、「甚深之事」というのである。次の教相は、名・体・宗・用と他の経典の同異を分別するためにある。

また、これも前の引証の段で『法華経』の「序品(じょほん)」の経文を引用して述べたが、五重玄義の各項目は、人々の修行の順序によったものである。まず、経典や指導者に従って、教えを見たり聞いたりする。これは、教えについての名称(名)を聞くことである。そして、聞いて意味を理解すれば、その真理の正体(体)を思い浮かべることができるようになる。さらに、その真理の正体を体得するために修行をする。修行は教えから悟りへ至らせるものであり、それこそ、教えが説かれた目的(宗)である。修行すれば、自ずと疑惑も断ぜられ、また人々を教えることができる。これは教えの働き(用)である。そして、そのような教えを区別し判断する(教)。

またこれも、前の段で『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」の経文を引用して述べた開示悟入(かいじごにゅう)も、修行の順序によったものである。真理には、本来、開かれている閉じられているということはない。ここでは、人が理解しやすくするために、方便によって「開く」とするのである。これはすなわち、教えの名称(名)を聞くことである。真実の姿を示すことは、真理の正体(体)を明かすことである。迷いの状態から悟りの状態に移ることは、教えを悟ることである。教えの目的(宗)は、悟りを得させることである。そして、悟るためにさらに悟りを深め、また他の人々も悟りに入らせることは、教えの働き(用)である。その教えの違いを分別することが教相(教)である。

この五重玄義の五つの項目は、「序品」においては、修行の順序の意味を明らかにするのである。