大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  60

『法華玄義』現代語訳  60

 

◎二諦について麁を開いて妙を表わす

過去・現在・未来の三世の如来は、衆生が仏の知見を開き、すべては生じることはない、という悟り(無生法忍)を得させようという偉大な目的をもって世に出現するのである。『法華論(ほっけろん・世親の法華経の注釈書)』に「蓮華は水から出る。その意味は語り尽くせない。小乗の汚水から離れ出るように、如来は大衆の中に入って座る。諸菩薩は、蓮華の上に座り、この上ない清浄の智慧を説く教えを聞く」とある。これは必ずしも、実際に蓮華の上に座っていたということではなく、諸菩薩が完全な円教の道が説かれるのを聞いて、完全な円教の悟りを得て、華王界(けおうかい・廬舎那仏の世界)に行き、『華厳経』で説かれるところの、廬舎那仏(るしゃなぶつ)と同じく蓮華の台の上に座るということを意味する。仏の意図はこのようである。

最初からその完全な教えを悟れば、すぐに蓮台に乗る。仏は、まだ悟ることのできない者のために、すぐに悟る者のための頓教から、少しずつ悟る者のための漸教に移って、いろいろ異なった方便をもって、第一義諦に至るためのさまざまな二諦を説く。あるいは一つ、あるいは複数、あるいは不可思議の教えというように、それぞれ同じではないけれども、みな蓮台に乗るための方便とするのである。ただ如来は、絶対的次元にいるだけで、あちこちに行くわけではないが、その教化の道は、すべての世界にあまねく行き渡っている。確実に分別して、まず導く計画を立て、その通りに働き、強引に引っ張ることをせず、慈しむ心と力をもって、あらゆる衆生を導き入れることをするのである。

ある人は「最初の鹿野苑(ろくやおん・釈迦が初めて教えを説いた場所)から、『法華経』に至る方便である」と言ったが、そうではない。最初は『華厳経』の寂滅道場から『法華経』に至る方便である。そのために、白毫からの光をもって他の仏国土を照らし、現在の仏は頓教から漸教を開いた。文殊菩薩は、過去の仏も頓教から漸教を開いたと言った。しかしこのようなことは、まだまだ最近のことである。大通智勝如来の時から、衆生のために『法華経』の方便はあるのだ。まさに知るべきである。方便は、『華厳経』の寂滅道場からあるのではない。しかし、これもまだまだ最近のことである。仏は成仏してからずっと、衆生を蓮台に導くために方便を施しているのである。しかしこれもまだまだ最近のこととしなければならない。仏は成仏する前の菩薩の時から、衆生を蓮台に導くために方便を施しているのである。『法華経』には、「私は昔、すべての人々も同じ道を歩むようにさせようという誓願を立てた」とある。まさに知るべきである。このような導きは、ただ現在にあるだけではなく、遠い過去から教化されて蓮台に乗った者たちは、まだ一部である。まだ蓮台に乗っていない者のための方便は止むことがない。過去と現在の中間も同様である。もし華厳時・方等時・般若時(注:法華涅槃時以前の四時から、すでに述べた鹿苑時を除いた三時ということ)などの経典によって、あるいは別入通教・円入通教・円入別教(注:この三教は、円教以前の蔵教・通教・別教に加えられて説かれている三教である)などの教えによって蓮台に乗る者は、もともと蓮台に乗っている者と異なることはない。しかしこれもまだ一部である。まだ蓮台に乗っていない者は、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味の教えによって整えられ、みな『法華経』によって蓮台に乗ることができるのである。あらゆる教えの中で、三味、二味、一味の教えにあって、またあるいは全く教えにさえ進んでいない者も麁から妙に導かれ、すべて蓮台に乗るようになるのである。三蔵教の者でさえ、究極的な悟りへの道があるとされ、教えを更新するのが困難な三蔵教を更新し、開きがたいところがすでに開かれた。ましてや、更新しやすい大乗の教えはなおさらである。すべて、各人の随情によって、本来の悟りによって、それぞれの教えにおいて真実を表わし、蓮台に乗るのである。『法華経』に、「七つの宝によって飾られた大いなる車は数えきれないほどある。それらはそれぞれの子に与えられた」とある通りである。これはすなわち、権を開いて実を明らかにすれば、あらゆる麁の教えはみな本来、妙であり絶待妙なのである。もしこのように述べれば、『法華経』はあらゆる経典を総括するのであり、しかもその働きを最も究める。これこそ、仏が世に出た本来の意図であり、あらゆる教えと真理の帰一するところである。ある人はこのことを知らないで、『法華経』も他の経典と同じようなものだと軽々しく高慢な言葉を述べており、結局そのような者の口はただれてしまうのである。もしその真意を受け入れれば、深くすでに述べた七種類の二諦と、その七種類の二諦を随情・随情智・随智の三つに当てはめた二十一種類の数多くの教えを見て大いに心燃やされ、あらゆる教えの違いにも精通し、それらが見事な絨毯の刺繍のようになるのである。横に広く縦に深く、すべて『法華経』に帰一するのである。二万人いたとする日月燈明仏や迦葉仏の過去の仏の教えもここに極まるのである。ある『経典』(どの経典かは不明)に、「未来に仏となる弥勒菩薩の時も、その妙はこれと同じく極まるのである」とある。釈迦仏も、過去・現在・未来の三世の仏と同じく、この妙を仰ぐ。『法華経』の次に語ったとされる『涅槃経』は、釈迦仏の肉体の命を捨て去る時の重要な教えであり、『法華経』の教えを重ねて繰り返したのである。この妙の真理を見ると実に壮大である。知ろうとする者はすべてその視野を広げるべきである。人間的な思いを起こして、この壮大さを狭く限ることがないようにせよ。

『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』では、大乗の教えを十種類に整理して記されているが、これに基づいて、『摂大乗論』を研究する論師が、『十地経論』の論師を論破した。試みに今ここで述べている十妙をもってこれと比較すると、これらの論師に足りないところがあることがわかる。これもここで述べている境妙を用いて、『摂大乗論』の第一で述べられているところの、阿黎耶識(ありやしき・阿頼耶識(あらやしき)ともいう)からすべてが生じるということと比較すると、境妙は不思議の因縁を明らかにし、生生・生不生・不生生・不生不生の四句(『法華玄義』56参照)をもって執着を破る。なぜ本来清浄の仏性である菴摩羅識(あんまらしき・阿摩羅識(あまらしき)ともいう)を説かずに、迷いの根元である阿黎耶識からすべてが生じるとするのか。そして四悉檀を述べるのは、ただ無明である阿黎耶識からすべてが生じるとすることではない。それはたった一つのことによって仏の道のすべてを説明しようとしていることで、無理がある。境妙は、すべての経典を統合し、頓教・漸教は衆生の能力に応じて説かれたものであり、教えや修行について、また随情・随情智・随智について、大いに仏の教化の方法を見極め、その深さは計り知れない。すでに十二因縁だけでも、阿黎耶識からすべてが生じるということより広い。さらにすでに述べた四種類の四諦、七種類の二諦、そしてこれから述べる五種類の三諦・一諦などを用いて比較すれば、これ以上の教えはないのである。『摂大乗論』の主張は、この迹門の十妙と比較しただけでも大いに不足がある。ましてや、後に述べる本門の十妙は他の経典には説かれないところである。ましてや、『摂大乗論』にないのは当然である(注:『摂大乗論』や『十地経論』などを中心とする学説は「唯識論」といわれ、その学派は「唯識派」であるが、後も唯識については繰り返し述べられていることになる)。

また観心の十妙は、修行の働きを述べることであり、貧しい人が他人の宝を数えて、結局、手元には何も残らないというようなことではない。まさに知るべきである。十妙の教えは、魚のうろこが重なり合っているように多角的であり、その優れていることは言葉に表現することはできない。インドの『大智度論』ですらこれと比較にならない。ましてや中国の論師たちと、わざわざ比較する必要もない。これは思い上った言葉ではない。真理そのものがそうさせているのである。余計な思いなどに煩わされることがないようにせよ。