大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  61

『法華玄義』現代語訳  61

 

第五.三諦

諸境についいて詳しく述べるにあたっての第五は「三諦の境」である。この言葉の意味するところは、あらゆる経典に記されているが、この名称としては、『瓔珞経』と『仁王般若経』にある。有諦・無諦・中道第一義諦という。『法華経』にはこの言葉そのものはないが、この言葉の意味するところは記されている。「如来寿量品」に「同じよう(=如)ではなく異なっている(=異)のでもない」とあり、これは中道のことである。そして「如」は真諦であり、「異」は俗諦である。

(注:経典には有諦・無諦・中道第一義諦とあるが、ここまでの記述に合わせれば、俗諦・真諦の「二諦」に「中道(中諦)」を加えて「三諦」となるということである)。

問う:『法華経』には今まで述べられてきた思議生滅の十二因縁・思議不生不滅の十二因縁・不思議生滅の十二因縁・不思議不生不滅十二因縁の四種の十二因縁の名称もなければ、この三諦の名称もない。なぜこの言葉を用いるのか(注:「この三諦の名称もない」という文は、前後の意味が通じやすいように挿入した)。

答える:煩悩を生じさせる根本的な煩悩である、見一処住地(間違った見解)、欲愛住地(この世的な迷い)、色愛住地(欲望は離れているが物質が存在するという誤った見解による迷い)、有愛住地(無色愛住地ともいう。欲望も物質的なことからも解放され、ただ精神性に対する迷いが残っている状態)、無明住地(=無明)の五住地煩悩(五住煩悩ともいう)の教え、そしてまた分断生死(一般的な人間の生死)と不思議変易生死(自らの意志で生死を取る聖者以上の存在の生死)の二死の教えのことを考えると、この名称としては『勝鬘経』にのみあるものである。しかし、だからと言って、『涅槃経』の教えに適応してはならないのであろうか。もし「五住地煩悩」の教えがなければ、無明を断じることはできない。もし二死の教えを用いなければ、霊的次元の常住性を説くことはできない。また、仏の三身(応身、報身、法身)の名称としては『楞伽経』にあるが、それだからと言って、他の経典にこの三身の意義は見いだせないのだろうか。あらゆる経典は仏の教えである。名称はそれぞれ違っていても、その意義は通じるのである。

この三諦について述べるにあたって、三つの項目を設ける。一つめは、三諦について解説する。二つめは、麁と妙を判別する。三つめは、麁を開いて妙を表わす。

 

◎三諦について解説する

蔵教と通教については、ここではもう語る必要がない。その理由は、蔵教と通教では、中道を説かないからである。すでに述べた七種の二諦から、この二つの教えを除き、五種の教えにおいて中道について述べるならば、五種類の三諦があることになる。

まず、別入通教において、煩悩であり煩悩でない、という非有漏非無漏の観点から見れば、三諦がある。有漏は俗諦であり、無漏は真諦であり、非有漏非無漏は中道である。この別入通教において中道があるといっても、単に空と異なるということだけであり、別教に接する可能性があるということ以外に働きはないので、あらゆる教えを備えることはない。

円入通教の三諦については、俗諦と真諦の二つは前の教えと同じである。非有漏非無漏の観点から見れば、他のあらゆる教えを備える点で、前の教えの中道とは異なっている。

別教の三諦は、別教の二諦の俗諦(幻有であり同時に幻有は空であるとすること)が、俗諦と真諦の二つとなる。すなわち、幻有が俗諦であり、幻有が空であるとすることが真諦である。そして、その真諦に対して中道がある。その中道は真理を指し示すのみであり、それ以上の働きはない(注:二諦における別教の真諦は、不幻有であり同時に不空であるということであり、すでにこれは中道を表わす。そのため、三諦においては、二諦における俗諦を俗諦と真諦の二つに分けて、二諦における真諦を中道として三諦とするのである)。

円入別教の三諦は、二諦は別教と異なることはない。そしてその中道は真実であり、すべての仏の教えをそこに備える。

円教の三諦は、ただ中道にすべての仏の教えを備えるのみでなく、真諦にも俗諦にもすべての仏の教えを備える。したがって、この三諦は完全に融合して一にして三、三にして一である。このことについては『摩訶止観』に詳しく述べている。

 

◎三諦について麁と妙を判別する

次に、麁と妙を判別する。別入通教と別入円教は方便を帯びているので麁であり、別教は通教を帯びていないので妙である。円入別教は別教の方便を帯びているので麁であり、円教は方便を帯びていないので、最も妙である。

五味の教えの喩えをもって述べれば、乳味の教えは別教・円入別教・円教の三種類の三諦を説き、二麁一妙である。酪味の教えはただ麁であり妙はない。生蘇味と熟蘇味の教えは、別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の三諦を備え、四麁一妙である。『法華経』はただ一種類の三諦だけである。以上がすなわち、相待妙である。

 

◎三諦について麁を開いて妙を表わす

前のあらゆる麁をそのままにして、絶対唯一の妙の三諦に入る。相対するものがないので、これは絶待妙である。

 

第六.一諦

諸境についいて詳しく述べるにあたっての第六は「一諦の境」である。『涅槃経』に「二諦とは実は一諦である。方便によって二と説く」とある。酒に酔った人が、太陽と月を見て、回転する太陽と回転しない太陽があると言う。酔っていない人はただ回転しない太陽を見るだけであって、回転する太陽を見ないようなものである。回転する太陽と回転しない太陽が対立していることを麁とし、回転しない太陽だけを妙とする。三蔵教は回転する太陽と回転しない太陽を見るようなものであり、まさに酔った人と同じである。あらゆる大乗経典は、回転する太陽と回転しない太陽の二つを通して、回転しない太陽を説くようなものである。『法華経』は方便を全く捨てて、ただこの上ない教えを説くのみである。回転しない太陽は、ただ一つの真実である。このために妙である。

『地持経』には「悟りの段階に入っていない人に真理を説くことは、真理に似た教えであり、悟りの最初の段階以上に達した人に真理を説くことは、真実の教えを説くことになる。また、教えにおける方便は、教えの必要性を明らかにし、悟りについての教えを説くことは、悟りへ向かう修行の必要性を明らかにする」とある。今、この言葉を用いる。『法華経』に「諸仏の教えは長い時間の経過した後、必ず真実を説くであろう」とある。これは、悟りの最初の段階以上に達した人に真理を説くことの意味である。また「仏が悟りを開いた道場を得る道」とは、悟りへ向かう修行の必要性を明らかにすることである。このために、『法華経』の文は妙である。しかし、この真実に執着すれば、真実を教える言葉は虚妄の言葉となってしまう。言葉に対する執着を生じるために、それは麁である。真理に入って、なお真理に対する執着がないならば妙である。

麁を開いて妙を表わすことは、自然と知ることができるであろう。

(注:真理とそれを説く方便があるならば、それは必ず「二諦」以上になる。ここで説かれる「一諦」とは、ただひとつの真理があるのみであり、もはや方便もない。言葉はすべて真理に対して方便である。しかし、方便がなければ「一諦」ということも表すことができないので、方便をもって悟りに至っても、その方便さえ意識しないことが「一諦」ということなのである)。

 

第七.無諦

あらゆる諦は、本来説くことはできないのであるが、その理由は、あらゆる存在はもともと常に自ら寂滅の相だからである。なぜそれに対して、わざわざ諸説を立てて寂滅の相を乱すことがあろうか。すでに述べた一諦ですら、本来はないのである。一つ一つはみな説くことはできない。いわば、説くことは麁であり、説くことができないことが妙である。

さらに、説くことができないことは説くことができないので、不可説もまた不可説ということが妙である。この妙もまた妙である。言葉の道が断たれているからである。もし四句をもって、不可説を表わせば、生生不可説から不生不生不可説の四つとなる。生生不可説・生不生不可説・不生生不可説の三つが麁であり、不生不生不可説が妙である。もし麁が妙と異なっているならば、相対していることになり、帰一することはない。麁妙不二であるなら、それは絶待妙である。

五味の教えを用いれば、乳味の教えは一麁の無諦と一妙の無諦である。酪味の教えは一麁の無諦である。生蘇の教えは三麁の無諦と一妙の無諦である。熟蘇味の教えは二麁の無諦である。『法華経』はただ一妙の無諦だけである。

麁を開いて妙を表わすことは前と同じである。

問う:なぜ大乗の教えばかりではなく、小乗の教えにも無諦があると言うのか。

答える:『大智度論』には、「悟りを開いた聖人の心の中に得られた涅槃は否定すべきではない。まだ悟りを開いていない者は、涅槃に執着して無駄な論議をするので、そのような者においては、涅槃は否定されるべきである。無ということを条件として煩悩を生じさせてしまうからである」とある。このために、涅槃さえ否定して無諦というのである。

問う:もしそうならば、小乗は涅槃を得ることと得ていないことの両方を否定すべきであり、大乗も同じように両方を否定すべきであろう。

答える:そうではない。小乗の教えにおいては、真理とは別の煩悩を除くべきであり、また煩悩とは別の真理を表わすべきである。このために、悟りを得たとしても、すべて否定されるべきである。しかし大乗の中道はそうではない。得ていないのであるから、得たということはどうして否定できるであろうか。

問う:もしそうならば、中道はただひとつの実諦があるべきであり、無諦と言うべきではない。

答える:まだ悟りを得ていない者は、中道に執着して煩悩を生じさせてしまうので、無諦を用いる。真実に悟りを得た者にとっては諦はあるのであり、無駄な論議をする者には無諦なのである。