大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  65

『法華玄義』現代語訳  65

 

◎一実諦との比較

次に、一実諦(=一諦)と十如是を比較すると、一つ一つの法界の十如是は、互いに他の十法界を備える。したがって、すべてが一実諦とすることができるのだが、あえて九法界を捨てることができたとしても、仏法界だけは一実諦としなければならない。

そして同様に一実諦と十二因縁と比較すると、思議生滅の十二因縁と思議不生不滅の十二因縁と不思議生滅の十二因縁を捨てることができたとしても、不思議不生不滅十二因縁だけは一実諦としなければならない。

同様に一実諦と四種の四諦と比較すると、生滅の四諦と無生の四諦と無量の四諦を捨てることができたとしても、無作の四諦だけは一実諦としなければならない。

一実体と七種の二諦を比較すると、蔵教と通教を除いた五種の真諦は、それらがもちろん円教の真諦と全く同じではないが、みな中道を説いているということにおいては一実諦である。

一実体と五種の三諦を比較すると、ただ円教の中諦が一実諦である。

 

◎無諦との比較

無諦と十如是を比較すると、そもそも無諦は言葉にすることができないのであるが、やはり十如是と融合させることができる。十如是の「如」は「異なることがない」という意味である。すなわちこれは空による寂滅である。究極的真理に対しては、言葉は寂滅して説くことができない。すなわちこれは、十如是のすべては如という意味で無諦である。

無諦と十二因縁を比較すると、十二因縁の無明が滅せられて老死までが滅せられることは、非常に意義が深い。それこそ無諦と同じことである。

無諦と四種の四諦を比較すると、その生生不可説・生不生不可説・不生生不可説・不生不生不可説(生じることが生じることを説くことができず、生じることが生じないことを説くことができず、生じないことが生じることを説くことができず、生じないことが生じないことを説くことができない)は、すべて言葉で説くことができないという不可説ということで、無諦と同じである。

無諦と七種の二諦を比較すると、その七種の真諦は、みな言葉で説くことができない。最初の蔵教にも不可説がある。その証拠に、『維摩経』の中で、蔵教の人である舎利弗が「私は、解脱の中に言葉はないと聞いた」とある通りである。ましてや、他の六種は言うまでもない。

無諦と五種の三諦を比較すると、それらはみな中道を説き、中道は生死でもなく涅槃でもなく、二つの両極を超越しているので、中道自体もないということであり、五種の中道は無諦と同じである。

無諦と一実諦を比較すると、一実諦は虚空と名付けられ、虚空に一つとか二つとか、そのようなものはない。したがって、実というものもない。したがって、無諦と同じである。

無諦は自ら存在するのではない。大いなる智慧は平等であり、数で数えることはできない。数えることができないと言っても、教えとして表現すれば、以上見てきたような無量の教えとなる。もしそれらをすべて書き記すならば、世界も書かれた書物を入れることができない。そしてどこから来たかを知ることができない。無量であるけれども、数はない。これを収めたとしても、その場所を知ることはできない。どこに去るかを知ることができない。この「不来不去(ふらいふこ)」は、すなわち真理そのままの姿の法身仏である。

また七種の二諦は、聞く人の能力に応じて展開し、教えをさまざまに変える。そしてそのひとつひとつに随情・随情智・随智がある。他の十如是・十二因縁・四諦・三諦・一実諦の五つの境も同じである。今は具体的には記さない。自ら知るべきである。

問う:このさまざまな境の真理がこのように融合するならば、なぜ、数多くの教えが分かれて一つとなっていないのか。

答える:如来は十法界すべての本質や現われた姿を観察して知られたことは、成熟した者や未成熟の者などがいるということである。大きな能力を秘めていても、それがまだ成熟していなければ、仏の教えを非難して去らないようにさせ、能力が低い人であっても、それが成熟しているならば、さらに進展する時期を逃させない。その最善に従って、一人一人の能力に応じ、多くの群衆の能力に応じ、円教がその他の教えに融合し、それを成熟させ、どんな教えを聞いても、必ず益とさせるのである。

華厳時には、十法界のすべてについて述べられているけれども、菩薩と仏においてのみ機が熟しているので、別教と円教の二種の人を成熟させるのである。三蔵教すなわち鹿苑時の人も具体的に十法界を見るとは言っても、声聞と縁覚の二乗の本質と姿が熟しているので、生滅の四諦をもってこれらの人を成熟させるのである。方等時の人も十法界を見るとは言っても、声聞と縁覚と菩薩と仏が熟しているので、四種の四諦をさまざまに用いて成熟させるのである。般若時の人もまた十法界を見るとは言っても、また同じく声聞と縁覚と菩薩と仏が熟しているので、無生の四諦・無量の四諦・無作の四諦の三種の四諦をさまざまに用いて成熟させるのである。法華時の人もまた十法界を見るとは言っても、仏界の一乗の本質と姿が熟しているので、ただ円教の四諦を用いて成熟させるのである。

もし優れた巧みな方便がこのように人々を成熟に導くことがなければ、どうして、境と智が融合して妙となることができるだろうか。たとえば、画師が五つの色だけを使って、さまざまな絵を描くようなものである。ましてや、仏法の王である仏は、その教えにおいて自在であり、しかもさまざまな人々に関わって調伏することがなぜできないであろうか。

問う:すでに六つの境が明かされた。しかし、『法華経』にそれぞれの名称がないのであるが、それは許されるのであろうか。

答える:十如是についてはもちろん『法華経』に記されている。四種の十二因縁については、「化城喩品」に思議生滅の十二因縁が明かされている。また「譬喩品」に「ひたすら虚妄を離れる」とあるのは、思議不生不滅の十二因縁のことである。「方便品」に「仏になる種は縁によって起る」とは、無量無作の十二因縁、すなわち不思議生滅の十二因縁と不思議不生不滅十二因縁のことである。四種の四諦については、「譬喩品」に「あらゆる苦が起こる原因は貪欲にある」とあるのは、生滅の四諦のことである。「薬草喩品」の「空の教えに了達した」とあるのは無生の四諦のことである。また「無上道」とあり、また「方便品」に「ただ無上道を説くのみ」「如来の滅度」などとあるのは、無量の四諦と無作の四諦のことである。

十如是がさまざまにあるということは、俗諦に相当する。「ただ仏と仏だけがすべての実在の真理の姿を究め尽くす」とあるのは真諦のことであり、これは二諦である。

「安楽行品」に「また有為と無為、実と不実の法を分別するな」とある。「有為(うい)」は俗諦であり、「無為(むい)」は真諦であり、「分別するな」とは、両極に傾くことを防ぐ中道を表わしている。「寿量品」に「如ではなく、異ではなく」とあるが、「異ではなく」は俗諦ではないということであり、「如ではなく」は真諦ではないということであるので中道の義であり、三諦である。

「方便品」に「さらに異の方便をもって第一義を表わす」とあるが、これは一実諦のことである。

また「ただこの一事のみが実である」とあり、また「無分別の法を説く」とあり、また「すべての実在の真実の姿は言葉で表現することはできない」とあるが、これは無諦のことである。