大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  67

『法華玄義』現代語訳  67

 

第三.相

諸智を解釈するにあたっての第三は、相(そう)である。諸智の具体的姿(相)について解説することである。

①世智

インドにおけるこの世での最高の智慧は非想(ひそう)と呼ばれる。それは微弱な想念しかない世界とされ、その智慧の者は最高の天界である有頂天に上るとされる。また、この世で尊ばれる徳目は、要するに忠孝である。また、すべての存在は木・火・土・金・水の五つの元素である五行(ごぎょう)によって成り立っているという。習い事や学問については、礼・楽(がく・音楽のこと)・射(しゃ・弓術のこと)・御(ご・馬術のこと)・書・数の六芸(りくげい)、天文、地理、医方、卜相、兵法、貨法(経済のことか)、千種類にもなる草木についての知識、万にも及ぶ禽獣についての知識などがある。また世の中には、仏に香油を塗る者もいれば、傷つける者もいるが、仏はどのような者に対しても、平等に接するのである。また世の人々の中には、瞑想してさまざまな神通力を得る者もおり、川の水を留めて耳の中に入れたという者、帝釈天を羊に変えたという者、風や雲を飲んだり吐いたりし、太陽や月を触るという者もいる。これらの教えはこの世の教えであり、瞑想してもこの世の次元から出ることはできず、知恵や知識があったとしても煩悩に対しては何もできず、名声を求め、偏見我執を増す。このように、世の人々が知り求めるものなので、世智と名付けるのである。

②五停心・四念処の智

五停心(ごじょうしん)とは、五停心観のことであり、禅定なので「停」といい、智慧があるので「観」という。観は誤った考えを翻し、禅定は乱れた心を制することである。五停心観の第一は数息観(すそくかん)であり、散乱する心を整え、第二は不浄観であり、欲望の貪りを抑え、第三は慈悲観であり、怒りである瞋恚(しんに)を抑え、第四は因縁観であり、愚痴を抑え、第五は念仏観であり、仏道の障害を除く。

四念処(しねんじょ)とは、四諦の中の苦諦を観じる四つの智慧であり、この世のものは常にあるという「常」と、この世には楽があるという「楽」と、私というものがいるという「我」と、この世は清らかであるという「浄」という四つの誤った考えである四倒(しとう)を対治するものである(注:この常・楽・我・浄についても、この後、数えきれないほど述べられるのであるが、四倒と言われるように、修行の初段階においては否定されるべき認識である。一方、後の段落に詳しく述べられるように、究極的な段階においては、常・楽・我・浄はそのまま肯定される認識とされる)。この四倒が起こらないのは、この四念処の四つの観によるのであり、すなわち、世のものは無常であるという諸行無常を観じる心念処と、この世は苦しみであるという一切皆苦を観じる受念処と、この世は汚れているという不浄観の身念処と、自我というものはないという諸法無我を観じるという法念処の四つの観による。まだこの四倒を翻して聖なる真理に入っていないので、この世の次元の能力の劣った者という意味の外凡(げぼん)の智という。

③四善根の智

(注:ここからしばらくはこの「四善根」の煖法・頂法・忍法・世第一法の四つの項目についての大変長い記述となる。そして、これに比べて他の項目は非常に短い。その理由を考えると、この四善根の段階が成就すれば、後はその者自身の心がしっかりと究極的悟りに向かって進んで行くことができるようになるからであろう。反対に、ここでつまずき、退いてしまうと、本文にも出て来るが、地獄に堕ちる可能性もあるという。まさに最初が肝心ということである)。

〇煖法について

四善根の第一の煖法(なんぽう・煖とは暖かいという意味)は、境に対して四諦が修された結果生じた智慧である。煩悩を抑える智慧がさらに増して、四諦の苦諦・集諦・滅諦・道諦それぞれに四種類の観があって、十六観智(じゅうろくかんち・四諦の苦諦に非常、苦、空、非我の四つ、集諦に因、集、生、縁の四つ、滅諦に滅、静、妙、離の四つ、道諦に道、如、行、出の四つ、すべてで十六の境を観心する智慧のこと)となる。火打石の二つが接すると小さな火花が生じ、やがて薪を焼くようなものである。有の智慧をもって有の境を知り、煩悩を焼く元となる弱々しく暖かな火のような煖智(なんち)が生じて、有の存在を弱らせる。夏、花を集めて積み上げると、その花から暖気が生じて、花自体を萎ませるようなものである。また、五陰(ごおん・五蘊(ごうん)ともいう。人の認識が生じる段階を五つに分けたもの。これも教えの基本的なものである)によって、五陰自体を観察すれば、智慧の火が生じて、かえって五陰を焼く。それはまるで二本の竹が摩擦し合って火が生じ、竹林全体を焼くようなものである。瞿沙尊者(くしゃそんじゃ・詳しくは不明)が「解脱を求める智慧の火は、煖(なん)が最初である。煙が生じる前にまず存在する小さな火のようなものである」と言っている。煩悩から離れた大きな智慧の火も、最初、煖法があってこそである。太陽の形を認識するまえに、その明るさが最初にあるようなものである。このために煖と名付ける。正しい教えである正法と律(りつ・法則という意味)を通して信・愛・敬が生じる。正法は道諦を対象として信じ、律は滅諦を対象として信じる。

問う:煖法は、四諦を対象とするはずであるのに、なぜ四諦のうちの道諦と滅諦の二つだけなのか。

答える:この二つが最も優れているので先に説くべきである。また正法は苦諦・集諦・道諦であり、律は滅諦である。仏が満宿(まんしゅく)という比丘に「私に四つの句がある。まさにあなたのために説こう。知ろうと思うか。思う通りにせよ」と語ったように、この四つの句は四諦である。

(注:ここから数行の文章は、単語の意味はわかっても、文の意味が通じない。筆録者の灌頂のメモのようなところがそのまま記載された可能性がある。そのため省略する)。

煖法に三種ある。下の下、下の中、下の上である。頂法に三種ある。中の下、中の中、中の上である。忍法に二種ある。上の下、上の中である。世第一法に一種ある。上の上である。この四善根自体を、三つに分けてみれば、煖法は下、頂法は中、忍法と世第一法は上である。

(注:四善根は、ようやく煩悩を焼く智慧が生じ始めた段階の「煖法(なんぽう)」、尋ね求める気持ちが起こる「頂法(ちょうぼう)」、忍耐の気持ちが起こる「忍法(にんぽう)」、この世の人と同じ思いから離れる直前の「世第一法(せだいいっぽう)」の四つであり、上のような上中下の分け方は、天台大師独特の理路整然としたものであり、大変わかりやすい)。

またある説によれば、「煖法に二種ある。下の下、下の中である。頂法に三種ある。下の上、中の下、中の中である。忍法に三種ある。中の上、上の下、上の中である。世第一法に一種ある。上の上である。またすべてを三つに分ければ、煖法は下の下、頂法は下の中、忍法は中の上、世第一法は上の上である」とある。また瞿沙尊者は、「煖法に下の三つがある。頂法に六つがある。それらは下の下から中の上である。忍法に八つがある。下の下から上の中である。世第一法はただ上の上である。すべてを三つに分ければ、煖法は下の一種である。頂法は下と中の二種である。忍法は下、中、上の三種である。世第一法は上の一種である」と言っている。

修行の方向に進み出した煖法の状態から離れることにおいて、二種類ある。一つは離界地(りかいち)であり、さらに上の段階に進む時のことである。もう一つは退時(たいじ)であって、修行を止めてしまうことであり、煖法を捨てるのであるから地獄に堕ちる。無間地獄(むけんじごく)に堕ちる原因となってしまうのであるが、再び修行に進む原因である善根までは断じ尽くされない。頂法においても同じである。忍法まで進むと、捨て去ることはないので、離界地だけであり、地獄に堕ちることはない。

〇頂法について

頂法については、四善根の中において、動・不動(動くことと動かないこと)、住・不住(留まることと留まらないこと)、難・不難(障害にぶつかることとぶつからないこと)、断・不断(修行を断ち切ってしまうことと断ち切らないこと)、退・不退(退くことと退かないこと)がある。そして動と退には二つあり、下の者は煖法に戻り、上の者は頂法に留まる。そして、不動と不退の者には二つあり、下の者は忍法に進み、上の者はさらに世第一法に進む。またある説に「頂法は、まさに下頂と言うべきである。なぜなら、煖法の頂、すなわち煖法の最も高いところにいるわけであり、そのため頂と名付けられ、忍法から見れば、その下にいるわけであるから下と名付ける」とある。またある説には「山頂の道に人は長い間いない。もし特に障害がなければ、必ず人は山頂を過ぎて他に移動するはずである。もし障害があるならば、元来た道に退くのである。修行者も頂に長くとどまることはない。もし障害がなければ、必ず忍法に至り、障害があれば、退いて煖法に戻る。まさに山の頂上のようなものであり、そのため頂と名付けるのである」とある。

この頂法の観法はどうであろうか。それは仏・法・僧に対して下の小信を生じさせるものである。小信は、この状態で長くいることはないので下小(げしょう)という。仏によってこの小信を生じさせることは、道諦によることである。仏の教えによってこの小信を生じさせることは、滅諦によることである。

(注:前にも述べたように、初心が大切ということもあり、修行の最初の段階の煖法・頂法・忍法・世第一法に上中下を設け、さらに下の下、中の下などの区別まで示して細かく段階を分けている。しかし実際、修行する中で、自分はこの段階にいるのだ、ということが明確に自覚できるであろうか。まず、それは不可能であろう。もし師匠がそれを決めて示すとしても、修行者自身には明確な自覚などないであろう。これはただ、修行を始めたからには退いたり中止したりしないよう、細かく段階を認識することにより、自らを励ます意味があると考えられる。細かく分けるならば、いくら修行が進んでいないように見えても、実際は、多少は進んで次の段階に上ったのではないか、という気持ちも起こるものである。反対に、余りにも次の段階が明らかに高いものだったら、あきらめてしまうことも起こりうるであろう)。

問う:四諦すべてによらねばならないはずだが、なぜ道諦と滅諦だけなのか。

答える:道諦と滅諦は優れているからである。清浄であり汚れなく、妙であり穢れから離れており、信心を生じさせるのである。教化を受ける者が、信心を願うようにさせるためである。もし世尊が、苦諦・集諦を信じ敬うようにせよと語るならば、教化を受けようと思う人はいないであろう(注:苦諦と集諦だけであったら、苦しみの現実とその原因だけを見せつけられるのみ、その解決が示されないからである)。この煩悩、悪行、邪見、顛倒した見解などをどうやって敬うのであろうか。私たちは日頃、このようなものに苦しめられているではないか。教化を受ける者は、道諦・滅諦において、喜んでそれを願い求めるようになるのである。このために、この二つの諦を説くのである。またある説に、「仏と僧を信じることは道諦により、法を信じることは苦諦・集諦・滅諦によるので、すべて四諦を信じることになる」とある。

問う:頂法に達する者もまた五陰を信じ、また仏・法・僧の三宝(さんぽう)を信じ、四諦を信じるはずである。なぜただ三宝を信じるというのか。

答える:三宝は信じ敬う心を起こさせるからである。ただ修行者の心に従うのみである。五陰の教えに対して喜びを感じるのは煖法であり、三宝に喜びを感じるのは頂法であり、四諦に喜びを感じるのは忍法である。

問う:なぜ頂法から退くことだけを述べて、煖法から退くことを述べないのか。

答える:頂法から退くことを知れば、そこに煖法から退くこともじゅうぶん含まれるからである。修行者は頂法にいる時、煩悩の業からの妨げが多い。煩悩はこのように思うであろう。「もし修行者が忍法に達したなら、我々は誰の身の中でこの果報を作るべきだろうか」と。修行者が欲望にさいなまれる欲界(よっかい)を離れる時も、またこのように思うであろう。「もし修行者が欲界を出れば、我々は誰の身の中でこの果報を作るべきだろうか」と。修行者が非想非非想処を離れる時も、またこのように思うであろう。「修行者が彼の欲望から完全に離れるならば、再びこの世に生まれて来ることはなくなる。我々は誰の身の中でこの果報を作るべきだろうか」と。したがって、この三つの時期に、多くの妨げがあるのである。その妨げによって退いてしまえば、大いに憂い悩むことになってしまう。なぜなら、たとえば人が宝の蔵を見て大いに喜び、そこから宝を取り出そうとして、取り損ねてしまうようなものである。頂法に至った者は自らこう思うであろう。「間もなく忍法に至って、悪道から完全に離れ、大いなる思い利益を得て、聖人のようになれるであろう」と。しかしその直前で退いてしまうならば、大いに憂い悩むことになる。このために「頂退(ちょうたい)」というのである。もし修行における良い友に親しく近づき、それによって能力に応じた方便の教えを聞き、内に心を正しく観じて、仏の悟りを信じ、説かれる教えを良く信じ、僧侶の清浄の功徳を信じれば、この人は仏法の宝を信じることである。またもし、自分の周りに自分以外の存在があるように思えるが、それらはすべて無常であると知り、そこから始まって、生じた認識もすべて無常であると知るならば、これは五陰を信じることである。またもし、苦諦・集諦・滅諦・道諦という教えがあることを知るならば、これは四諦を信じることである。もしこのようになるならば、頂法に至ったことである。もしこのようでなければ、すなわち頂退である。