大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  68

『法華玄義』現代語訳  68

 

〇忍法について

その1.下忍

次に忍法の観心について述べる。正しく欲界の苦諦と、色界(しきかい・欲望がなくなり、物質的存在と精神的活動があるとする次元)と、無色界(むしきかい・物質的存在もないことがわかり、精神的活動だけが残るとする次元)の苦諦(注:認識や精神的活動がある限り、苦しみはあるので四諦が必要とされる)、欲界の迷いについての集諦、色界と無色界の迷いについての集諦、欲界の迷いの滅諦、色界と無色界の迷いの滅諦、欲界の迷いを断じる道諦、色界と無色界の迷いを断じる道諦を観じることである。このような三十二心(四諦を観心の対象とすることにおいて、苦諦に非常・苦・空・非我、集諦に因・集・生・縁、滅諦に滅・静・妙・離、道諦に道・如・行・出などの観心の対象があり、これを十六行相(じゅうろくぎょうそう)というが、さらに欲界の四諦と色界・無色界の四諦の二つがあるとするので、全部で三十二の観心の対象があるとする)を観じることを下忍(げにん)の観心と名付ける。

その2.中忍

さらに修行者は次第にこのような観心の対象である三十二心と四諦を減らしていく観心を行なう。その観心とは、正しく欲界の苦諦と色界・無色界の苦諦を観じ、こうして欲界の迷いを断じる道諦を観じ、色界・無色界の迷いを断じる道諦を減らす。この観心を中忍(ちゅうにん)の観心と名付ける。さらに正しく欲界の苦諦を観じて、色界・無色界の苦諦を観じ、こうして色界・無色界の迷いの滅諦を観じて、すべての道諦を減らし尽くす。また正しく欲界の苦諦と色界・無色界の苦諦を観じ、こうして欲界の迷いを断じる滅諦を観じて、色界・無色界の迷いの滅諦を減らす。また正しく欲界の苦諦を観じ、こうして色界・無色界の迷いの集諦を観じて、すべての滅諦を減らし尽くす。また正しく欲界の苦諦を観じ、こうして欲界の迷いの集諦を観じて、色界・無色界の迷いの集諦を減らす。また正しく欲界と色界と無色界の苦諦を観じて、すべての集諦を減らし尽くす。また正しく欲界の苦諦を観じて、色界・無色界の苦諦を減らす。また正しく欲界が常にあって断じることができず、離れることもできないことを観じる。このように観じる時、深く厭離の気持ちが生じる。またさらに減らしていき、最後に二刹那(せつな・一刹那は一瞬の心のこと)である二心において、欲界の苦諦の苦を観じるのである。これは、「十六心の最初の苦法忍・苦法智のようである。このように、正しく観じることを中忍と名付ける。

(注:この十六心は、これ以降も繰り返し記される重要な用語であるので、ここで詳しく説明する。

これもすでに前述したが、断じるべき煩悩には、まず見惑(けんわく)と思惑(しわく)がある。見惑とは、後天的な一般生活において得た考え方や信念が生じさせる迷いのことである。そして思惑とは、先天的な生まれながらに持っている感覚的または感情的の迷いである。

そして、まず見惑を断じるのが、この十六心である。思惑を断じるのは、後に述べる十八心である(『法華玄義』69参照)。ここでは十六心のみを説明する。

まず、これも繰り返し述べてきたように、六道の生き物が転生する世界を三界といい、三界は欲界と色界と無色界である。欲界は欲望に振り回される世界であり、色界は欲からは解放されたが、まだ物質に縛られる世界であり、無色界は物質の縛りから解放された、完全に精神だけの世界である。

そしてまず、見惑を断じるために、四諦を観心の境とする。三界の最初の欲界においては、苦法忍(欲界の苦諦を具体的に観心し、煩悩を断じること)と苦法智(欲界の苦諦を具体的に観心し、苦諦の真理を証しすること)があり、続いて集諦、滅諦、道諦も同様となり、集法忍、集法智、滅法忍、滅法智,道法忍、道法智となる。

次に色界と無色界においては、苦類忍(色界と無色界の苦諦を具体的に観心し、煩悩を断じること)と苦類智(色界と無色界の苦諦を具体的に観心し、苦諦の真理を証しすること)があり、続いて、集諦、滅諦、道諦も同様となり、集類忍、集類智、滅類忍、滅類智、道類忍、道類智となる。欲界では、対象が具体的に認識できるので法という言葉を使い、色界と無色界では、抽象的に認識するので類という言葉を使うのである。以上、十六心となるが、またこれを十六刹那、あるいは八忍八智ともいう)。

その3.上忍

また一刹那に欲界の苦を観じることを上忍という。そしてこの上忍の次が世第一法となる。

(注:なぜこのような観法を修するのかというと、そもそも観心の対象である心そのものは、具体的にどのようなものか認識できないものである。そこで、下忍では四諦の三十二心というものをあげて、それを観心の対象とし、次の中忍ではそれらを段階的に一つずつ減らしていき、最後に欲界の苦諦を残して、いかにこの世の次元の苦しみは根強いものか、ということを自ら思い知らせるということである。観心は、結局はこの苦つまり煩悩を徹底的に対象として、その根源にある無明まで滅ぼし尽くして究極的な悟りとするのである。最初から漠然とした心を対象にして観法を修するのではなく、最初にその対象がどのような構造をしているか、ということを定まった教理によってはっきりと境として定め、そのひとつひとつ減らして的を絞って行くというテクニックを用いるということである。日本では鎌倉期以降、そのような教理的テクニックを用いない「只管打坐(しかんたざ)」という、ただひたすら座るという座禅が主流となったが、むしろ只管打坐の方が、よほど熟練しない限り、心の中が常に目まぐるしく動き続けるわけなので、かなり難しいであろう。そして、最後の上忍では、このような段階的な観心ではなく、一瞬の心において、欲界の苦を観じるというのである)。

たとえば、人が自分の国から他の国に行こうとする時、あらゆる形をしたすべての財産をそのまま持って行くことはできず、それらすべての財産を物に換えて、さらに現金を持つことを避けて金に換え、金も避けて価値のある宝に換えて、それを持って他の国に行くようなものである。修行者は、その段階ごとで捨て去るものは変わるが、その修行は継続されているわけで、こうして上忍に至って、その次の世第一法に至るのである。

〇世第一法について

問う:世第一法に三品(さんぼん・三つの差という意味で、上品・中品・下品がある)があるというが、それはどのようなものか。

答える:一人にそのすべてがあるわけではなく、さまざまな人にさまざまにあるのである。たとえば、釈迦の弟子の舎利弗は上品(じょうぼん)であり、目連は中品(ちゅうぼん)であり、その他の弟子たちは下品(げぼん)である。また、仏(注:菩薩も含まれると思われる)は上品、辟支仏(=縁覚)は中品、声聞は下品であり、このような三品がある。

(注:実質的な天台大師講述の本文における「四善根の智」の説明はここまでと考えられ、次の段落である「四果の智」の直前までの箇所は、『阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまだいびばしゃろん)』第一巻からの引用文が挿入されているだけである。この箇所の最後にも、「以上は『阿毘達磨大毘婆沙論』によって解釈した。詳しくはそこを尋ねよ」とある。しかし実際は、解釈したのではなく引用しただけであるため、これまでの記述と流れが合っていない。そのため、この箇所がない方が、かえって前後の文章がスムーズにつながる。したがって、これは筆録者の灌頂の挿入と判断する)。

世第一法とは、この心と心の作用は、他の教えに比べて、最であり、勝であり、長であり、尊であり、上であり、妙である。また部分的に優れており、全体的に優れている。部分的に優れるとは、世間の教えよりは優れているが、見惑を断じ尽くした第十六心よりは優れず、他の十五心とは同じである。また智慧の力は多い。また、熏禅(くんぜん・後に詳しく述べられるが、禅定の一つの段階である)は凡夫と同様に特定の場所に生まれることはない。また、すでに学ぶことのない阿羅漢の段階であって、そこで行なうすべての善根は、長い期間すべての煩悩の妨げを離れる。三三昧(さんざんまい・阿羅漢の段階で修す三つの禅定のこと)は、煩悩を完全に断ち切った状態の禅定を卑しめる。ましてや煩悩をまだ断ち切っていない禅定はなおさらである。まさに全体的に優れているとは言えない。部分的に、煖法・頂法・忍法より優れている。また第一と言うべきであり、部分的に優れていると言うべきである。煖法・頂法・忍法・すべての凡夫の得る禅定・四無量心・八解脱・八勝処よりは優れている。また全体的に優れていると言っても、すべての修行の中で優れていると言うのではない。ただよく聖道の門を開くこと(注:凡夫の段階を離れ、聖人の段階へと行くこと)ができる。見惑を断じる修行などは、聖道の門を開くことはできない。世第一法は聖道の門を開くことができるので、見惑を断じる修行を尽くすことができる。見惑を断じる修行を尽くすことができることは、すべて世第一法の力である。この世第一法という名称と意義は、最勝、第一の義ということである。妙なる果を得ることは、第一の義である。高い旗の頂点に、それ以上の上がないようなものである。これが第一という意義である。

問う:前のあらゆる意義に差別があるのか。

答える:これはみな上妙の意義を褒め称えているが、また差別はある。不浄観、数息観においては、最と名付け、智慧の教えを聞くことにおいては、勝と名付け、智慧の教えを思い巡らすにおいては、長と名付け、煖法においては尊とし、頂法においては上とし、忍法においては妙とする。また禅定にまだ入らない段階として最とし、初禅として勝とし、中間の禅定において長とし、二禅として尊とし、三禅として上とし、四禅として妙とする。

以上のようなさまざまな説がある。以上は『阿毘達磨大毘婆沙論』によって解釈した。詳しくはそこを尋ねよ。