大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  69

『法華玄義』現代語訳  69

 

(注:③「四善根の智」が終り、これより④「四果の智」から最後の⑳「妙覚の智」までとなるが、この箇所の記述は非常に簡潔である)。

④四果(しか)の智とは、四善根に続く同じ蔵教の段階であり、初果は八忍八智(前述の十六心の別名)であり、続く二果・三果・四果の三つは、重ねて思慮の中で真理を対象とすれば、九無礙九解脱の智である。

(注:九無礙九解脱という用語も、これ以降、たびたび用いられるため、ここで解説する。

まず、三界のうちの欲界は一つとされるが、色界には四禅天に分けられ、無色界は四無色天に分けられる。

色界の四禅天とは、初禅と第二禅と第三禅と第四禅である。初禅とは、あらゆる欲望を離れ、それによる喜びと平安がある状態のことであり、第二禅とは、喜びと平安が外に表われず、内面だけに定着した状態のことであり、第三禅とは、喜びもなくなり平安だけの状態であり、第四禅とは、平安もなくなった完全に平穏な状態をいう。

次に、無色界の四無色天とは、空無辺処と識無辺処と無所有処と非想非非想処である。空無辺処とは、精神統一である禅定には果てがないと思惟することであり、識無辺処とは、認識には果てがないとすることであり、無所有処とは、結局何もないとすることであり、非想非非想とは、何もないという思惟さえ通り越して、非常に微弱な精神活動のみが残ることであり、別名を有頂天と言われる。

この一つの欲界と四つの色界と四つの無色界を合わせると、九の世界となり、これを九地という。そして、見惑は前述(『法華玄義』68参照)の十六心で断じ、また悟りが証しされたが、思惑はこの九無礙九解脱によって断じられると説かれる。

この九地の思惑が断じられる際、その思惑が断じられつつある状態を無礙道といい、断じ終わって解脱を得る位を解脱道という。すると、九地の思惑すべてでは九無礙九解脱となる。またこれを合わせて十八心ともいい、さらに前述した八忍八智の十六心と合わせて三十四心という)。

⑤支仏の智には、過去現在未来の三世の苦諦と集諦を明らかにする総相と、十二因縁を明らかにする別相がある。

六度の智とは、六波羅蜜を修行する菩薩であるが、真理による智慧がまだ弱いので、煩悩を抑えても、断じることはできない。目に見える次元での智慧は強いので、体、命、財産を捨てて顧みることはない。それに対して声聞は、よく真理に対する智慧があって聖人の位であるが、まだ自分の衣や鉢についての思いがあり、他との強弱を論じる。

⑦体法声聞の智とは、通教の声聞であり、苦諦と集諦を明らかにする総相を用いて、俗はそのままで真理の姿であると悟る。

⑧体法支仏の智とは、通教の縁覚であり、苦諦と集諦を明らかにする総相と、十二因縁を明らかにする別相を用いて、俗はそのままで真理の姿であると悟る。

⑨体法菩薩入真方便の智とは、通教の菩薩であり、有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門の総相と別相を用いて、俗はそのままで真理の姿であると悟る。

⑩体法菩薩出仮の智とは、同じく通教の菩薩であり、よくあまねく四門によって仮の世に出て人々を教化する。

⑪別教十信の智とは、十信は、悟りの結果である真如実相(しんにょじっそう・真理のありのままの姿)を信じて、この真理を求めるために十信の心を起こすことである。

⑫三十心の智とは、十信の位に続く十住・十行・十回向のことである。十住は、正しく入空(にっくう)を学び、仮・中を予備的に学ぶことである。十行は、正しく仮を学び、中を予備的に学ぶことである。十回向は、正しく中を学ぶことである。

⑬十地の智とは、初地で中を証し、二地以上で中をさらに重ねて学ぶことである。

⑭三蔵仏の智とは、三蔵教の仏は、一時に八忍八智九無礙九解脱の合計三十二心を用いて、煩悩のすべてを断じ尽くす。

⑮通教仏の智とは、通教の仏は、悟りの道場に座り、禅定と智慧が一致している智慧を持って煩悩のすべてを断じ尽くす。

⑯別教仏の智とは、別教の仏は、金剛のような菩薩の段階の最後の心によって、最後の無明を断じ尽くして、究極の仏となる。また、「無明を断じると言っても、究極的な悟りの境地と同じであり、もはや断ち切るものはない」と悟るならば、円教の等覚の位に等しく、ただ円満な悟りを証得して、悟りの完成の妙覚に備えるのみである。

⑰円教五品弟子の智は円教の位であり、この五品(ごほん)とは、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品であり、五陰の対象である五境の色・声・香・味・触を断じるのではなく、そのままであらゆる感覚器官を清め、煩悩の性質を保ちつつ、よく如来の秘密の豊かな智慧を知る。

⑱六根清浄の智とは、円教の五品に続く位であり、別教の十信と同じであるが、円教では六根が清められ、究極的な悟りに似た中道智を得る。

⑲初住より等覚に至る智は、別教の十住・十行・十回向・十地と同じであり、そして⑯の別教仏の智の中の等覚であるが、円教では初住の位において、如来の一身および無量身を得て、海のような仏の真理の流れに身を任せ、意のままに働くのである。

⑳妙覚の智とは、理解すべきであり、記すことはしない。

(注:以上の位についても、四教によって分類されている。①はこの世の智慧であるので四教の外であるが、②の五停心から④の四果までが蔵教の声聞である。⑤は蔵教の縁覚であり、⑥は蔵教の菩薩である。そして⑦は通教の声聞であり、⑧は通教の縁覚であり、⑨と⑩が通教の菩薩である。そして、⑪~⑬は別教であり、⑰~⑳が円教の位である。そして⑭は蔵教の仏、⑮は通教の仏、⑯は別教の仏である。円教の仏という項目がないことについては、それはまさに絶待妙であり、⑳についても言葉の説明がないように、言葉で説明はできないのである。なお、この修行の段位については、これからも多角的に繰り返し述べられることになるので、この個所ではほぼ名称をあげることで留まっている)。