大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  71

『法華玄義』現代語訳  71

 

第五.判

諸智を解釈するにあたっての第五は判(はん)であり、二十智について麁と妙を判別することである。

前半の十二智(①世智、②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智、⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑭三蔵仏の智、⑮通教仏の智)の智慧は麁であり、後半の八智(⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智、⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智)の智慧は妙とする。

なぜなら、蔵教と通教の仏は自らの存在を無常であるとして、常(じょう・真理の次元は無常ではなく常に存在する、という意味)を説かない。仏がそうであるならば、その声聞と縁覚の二乗と菩薩は、どうやって常を聞き、常を信じ、常を修行することができるのだろうか。このために麁とする。

一方、八智の最初の別教の十信は、最初からすでに常を聞き、常を信じ、常を修行する。そのため、もうその時点で蔵教と通教の仏より優れている。ましてやそれ以外の者より優れているのは言うまでもない。このために妙とするのである。

「『法華経』には仏の身体が常に存在するとは説かれていない」と批判的に言われることは、それはただ三蔵教の仏についての意味である。ここで明らかにすることは、別教の十信は中道を知っており、もうこの意味で蔵教と通教の仏より優れているわけであり、そのためこの別教の十信以降の八智を妙とするのである。

またこの八智の中で麁と妙を判別するならば、別教の四智(⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智)は、三つの麁と一つの妙である。そして、円教の四智(⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智)は、すべてみな妙とする。

なぜなら、地論師(地論宗の人)が「中道の真理は修行の結果表わされるものである。初心の者は、ただこの真理があるということを仰いで信じるだけである。それは蓮の枝を切った時に出る細い糸が須弥山(しゅみせん・仏教の世界観で最も高い山)の頂上に掛かっていたとしても、その事実は見て確認できないのでそのまま信じるようなものである」と言っている通りである。したがって、説かれた教えを信じて修行することは、段階的なことなので、円教ではない。このために別教の十信の智慧は麁なのである。続く十住の智慧は空を中心に修行し、派生的に仮・中を修行する。またそれに続く十行の智慧は、仮を中心に修行し、派生的に中を修行する。またそれに続く十回向の智慧で初めて中を中心に修行する。ここまでの中は抽象的な真理ということに留まり、具体的な真理とはなっていない。そのために麁である。十地に至った智慧は、無明を滅ぼし尽くして中道を見る。それを悟るので妙である。したがって、三つ(⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑯別教仏の智)の麁と一つ(⑬十地の智)の妙である。

(注:別教仏は、あくまでも別教の教えを説く仏なので、円教の妙とは区別される存在ということである。したがって、別教の段階において十地に至れば、円教と同じとなって妙ということになる)。

まとめれば、蔵教・通教の二つは共に正しい仏の道へと進んではいるが、三蔵教の門は程度が低いということである。『法華経』の教えに比べれば、別教もまた同じである。この別教の教えの門は、すべて方便で権であるが、悟ればみな妙である。これに対して、円教の四智(⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智)は、すべてみな妙であるとは、存在の真実ありのままを説き、その教えの通りに信じて、真理に従って修行することである。最初の⑰円教五品弟子の智から最後の⑳妙覚の智に至るまでは、すべて実であり権ではない。これを麁の智慧に対して、妙の智慧を説くというのである。

次に、智慧における知見について麁と妙を判別する。知見とは何であろうか。四つに分けることができる。それは、「知らず見ず」、「知っていても見ていることにはなっていない」、「見ているけれども知っていることにはなっていない」、「知ってかつ見ている」の四つである。

一般の人々は、仏の教えを聞かないので知りようがない。悟りようがないので見ることがない。これが①世智の知らず見ずである。

②五停心・四念処の智と③四善根の智は、聞いてはいるので知ることであり、まだ悟っていないので見ることではない。

⑤支仏の智については、辟支仏(びゃくしぶつ=縁覚)は仏の教えを聞いていないので知っていることにはならないが、自然と悟ったわけであるから見るのである。

④四果の智は、聞いているので教えを知り、悟っているのでこれを見る。以下、このように麁と妙を判別することは順番通りにわかるであろう。

円教の知見について述べるならば、この円教の教えは、人・天・声聞・縁覚・蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩の七方便(しちほうべん)は、聞いていないので知らず、悟りようがないので見ない。⑰円教五品弟子の智と⑱六根清浄の智は、聞いているので知っており、まだ悟っていないので見ない。ここにもさまざまな場合があり、過去世からの因縁によって悟る者は見るということになり、それでも聞いた教えに従っていないので知らないことになる。円教の教えを受けて悟りに入る者は、知りまた見る者である。これはその場合その場合に麁と妙がある。

究極的には、ここまで述べて来た二十智について、これらを権と実の二つの智慧にまとめることができる。『法華経』に「如来は方便と知見の波羅蜜(はらみつ・完成という意味)の両方をすべて備えている」とある。これはここまで述べて来たあらゆる権の智慧を述べていることである。また「如来の知見は広大深遠である」とある。これはここまで述べて来たあらゆる実の智慧を述べているのである。すでに方便を完全に備えているなら、なぜ欠けたるところがあるだろうか。すでに知見が広大深遠であるならば、なぜ摂取しないところがあるだろうか。境は無辺の淵のようであるから、その淵を満たす智慧の水も測ることはできない。まさに『法華経』に「ただ仏と仏だけがそれらを究める」とある通りである。このような知見は、仏の眼と智慧である。仏の眼は肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を備え、智慧は一切智(すべては平等であるという智慧)・道種智(人々の能力などの違いを知る智慧)・一切種智(「一切智」と「道種智」を同時に働かせる智慧)が一つの心にある。一切種智は実を知り、一切智・道種智は権を知る。仏眼は実を見て、肉眼・天眼・慧眼・法眼は権を見る。この知はすなわち見であり、この見はすなわち知である。ここまで述べて来たあらゆる智慧が麁であり、この仏の知見を妙とするのである。

もし知見の中の意義を理解するならば、これ以上、五眼について述べる必要はない。しかし、まだ理解していない者のために、さらに五眼について麁と妙を述べることにする。

肉眼が閉じていれば、どうして物を見ることができるだろうか。人の話を聞いて、いろいろ想像して見ても、最後まで実物を見ることにはならない。その眼を開かせようとするならば、その網膜を治さなければならない。どうして目が閉じていていいだろうか。いたずらに論争して何の益になろうか。眼を閉じて想像するようなことを麁とし、眼が開いて見るようなことを妙という。天眼がまだ開いていなければ、ついたての向こう側が見えないようなことを麁という。禅定と願智(がんち・願い通りに得られた智慧)を働かせる力は、この世を超越した清らかな能力をもって物を見るために、ついたての内外も透視して、明るさの程度にも左右されない。慧眼がまだ開いていなければ、常に死への道を行く。たとえ想像しても、実物ではないので麁である。煩悩が滅ぼし尽くされれば、真理に対して明瞭になるので妙とする。法眼がまだ開いていなければ、相手の能力に合わせて教えを説くことはできない。舎利弗が相手の能力を間違えて教えを説いたことや、富楼那(るふな・舎利弗と同じ釈迦の弟子)が新しい弟子にふさわしくない教えを説いたことなどが麁である。神通力を発することを妨げる無知を破り、病気に応じて薬を処方することを妙という。仏眼がまだ開いていなければ、存在の真実の姿を見ることはできない。このために『法華経』に、「声聞と縁覚の二乗の人や、悟りを求める心を起こしたばかりの人や、退くことがなくなったばかりの菩薩は知ることができない」とある。⑪別教十信の智の位に至って仏眼と同等の智慧を得て、よく真実の仏の知見を開けば、これを妙とする。多くの教えは肉眼・天眼・慧眼・法眼の四眼を説き、または四眼を用いて仏眼を説くので麁である。『法華経』のみが仏眼を説くのである。このために妙とする。以上、麁に相対して妙を述べた。