大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  73

『法華玄義』現代語訳  73

 

b.境に対して智を述べる

境に対して智を述べるにあたって、二つの項目を立てる。第一は、「五境に対する」であり、第二は、「境に対して展転して相照らす」である。

 

第一.五境に対する

境に対して智を述べる第一は、「五境に対する」である。

(注;前にも述べたが、境とは智の対象である。そしてそれは、観心においては単なる対象ということではなく、もっぱら心の中に展開する教理である。その教理は、すべての存在の実相を分析して整えられたものである。このように、もともと教理とは、頭の中での理解に留まるものではなく、理解したならば、さらに心の中で観じ、自らを悟りに導くものなのである。ここであげられる五境とは、記されている順番の通りにあげると、十二因縁・四諦・二諦・三諦・一諦である。次に記されているように、十如是は省略されている)。

 

◎十如是に対する

今までの順序で見れば、まず十如是があげられるが、十如是は『法華経』全体に及ぶ教えであり、あちらこちらに述べられているので理解できるであろう。特にここでは述べない。

 

◎十二因縁に対する

次に十二因縁に対する智を述べる。『涅槃経』に「十二因縁に四種の観心がある。下の智観によって声聞の悟りを得て、中の智観によって縁覚の悟りを得て、上の智観によって菩薩の悟りを得て、上上の智観によって仏の悟りを得る」とある。なぜなら、十二因縁はもともと一つの境についての教えであり、人によって理解が同じではないので、四種類となっている。

ここで、四教の意義をもってこれを解釈するならば、三蔵教は声聞と縁覚と菩薩に対する教えであるが、すべて分析的な智慧である析智(しゃくち)をもって、この世の次元での十二因縁によって表わされる物事を観じて(注:これを析空観という)、最初の教えの門となる。しかし、分析的な智慧は浅く弱く、この三種の人の中では、声聞が最も能力が低い。最も能力の低い人を標準とするので、下智と名付ける。通教もまた三種の人がある。⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智とあるように、みな体法(たいほう・物事を分析的に見て実体がないとするのではなく、存在そのものを幻として実体がないとすること)の智慧をもって、この世の次元での十二因縁の真理を観じる(注:これを体空観という)。体法は深いといっても、三蔵教に比べれば巧みではあるが、別教に比べれば巧みとは言えない。この三種の人の中で、真ん中の縁覚が平均的な存在と言える。このように通教の教えであるので、中智である。別教は、仏と菩薩と共に、この世の次元ではなく霊的次元の十二因縁の事実を知る。智慧を段階的に修める菩薩(次第の菩薩)は、仏に比べれば上とは言えないが、通教・蔵教に比べれば上法である。したがって、上智と名付けるのである。円教は、仏と菩薩と共に霊的次元の十二因縁の真理を観じる。円教には段階がないので、初心の者でも、すべての具体的存在に中道を見る。この教えは最も優れているために、仏をもってその名称とする。したがって上上智観というのである。四教をもって以上のように四つの観心について述べたが、このようにすべて教えと一致しているのである。

下智観とは、受(じゅ・感受作用)は触(そく・外界との接触)によって生じ、触は六入(ろくにゅう・眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官)によって生じ、六入は名色(みょうしき・その形と名称)によって生じ、名色は識(しき・個別認識)によって生じ、識は行(ぎょう・業のこと)によって生じ、行は無明(むみょう・過去世からの煩悩)によって生じることを観じる観法である。真理とは真逆の連鎖である無明から生じた不善の思惟は、不善の行を生じさせ、地獄・餓鬼・畜生・修羅の識と名色などを感じるようになる。もし善の思惟であったなら、人・天の識と名色などを感じるようになる。この無明を観じるならば、一念一念ごとにそれは存在せず、前後同じではなく、善でも悪でも、それは生じてもすぐに変化して速やかに消え、その形も名称も、すぐに衰えて次のものと入れ替わる。煩悩・業・苦は互いの因縁に過ぎず、すべてひと時も留まることはない。過去の二因である無明・行、現在の五果である識・名色・六入・触・受、現在の三因である愛・取・有、未来の二果である生・老死は、過去現在未来の三世(さんぜ)に巡ること、それは車輪のようである。愚痴と迷いの本を無常・苦・空・無我と悟るなら、無明は消滅する。無明が消滅するならば、あらゆる行は消滅し、最後の老死も消滅する。もし火を燃やすことがなければ煙もない。これを子縛断(しばくだん)という。種子がなければ果実もない。身も心も燃え尽きて灰になるように消え、三界の生存から離れる。これを果縛断(かばくだん)という。以上が下智をもって十二因縁を観じて、声聞の悟りを得ることである。

中智観とは、受は触により、さらにさかのぼって行は無明によることを観じることにおいては、下智観と同じである。しかし、無明は一念の迷いの心そのものであることを観じる。そもそも心とは、形や本質がなく、ただ名称があるだけである。外中、そして内のどこを探しても、名称の指し示す対象を得られず、それは存在するのでもなく存在しないのでもなく、幻化のようであり、虚しく目をだますものである。無明の本質と姿は、もともと自らあるものではない。妄想の因縁が合わさって生じたものである。存在するところがないので、仮に無明と名付けるまでである。不善の思惟は、心の行の作るところである。無明は幻化のようだと悟っていないために、善と不善の思惟を起こし、善と不善の行があって、善と不善の名色・触・受を受ける。無明は幻のようだと悟るために、すなわちあらゆる行もまた化のようであり、幻により識・名色などが生じるので、みな幻のようである。愛・取・有が生じて過去現在未来の三世に転々とし、幻化が移り変わり、そこに何ら真実はない。智慧のある人は、まさにその中において好いたり憎んだりする心は生じさせない。無明は得ることができないので、すなわち無明は生じない。生じなければ、滅びることもない。あらゆる行から老死に至るまで、また生じることもなく滅びることもない。生じないのであるから、新しいということもなく、滅びないのであるから古いということもない。古いということもないのであるから、終わることもなく、新しいということもないのであるから、新たに作り出されるということもない。新しいということがないということは、子縛断であり、古いということがないということは、果縛断である。これが中智をもって十二因縁を観じ、縁覚の悟りを得ることである。

上智観とは、受は触により、さらにさかのぼって行は無明によることを観じることにおいては、下智観・中智観と同じである。そして無明は悟りのない迷いの一念の心ということも同じである。心が迷いであるために煩悩が生じ、煩悩によってあらゆる業が生じ、業によってあらゆる苦が生じる。この煩悩を観じる際、この上智観では、煩悩にあらゆる種類があり、どれも同じではない、と観じるのである。どれも同じではないため、業も同じではなく、業が同じではないため、苦も同じではない。あらゆる行があって、名色も各々異なる。煩悩道・業道・苦道の三道は無量無辺であるが、それぞれは異なっており、混じり合うことはない。「この煩悩」によって「この業」を起こし「この苦」を得るが、「かの業」および「かの煩悩」には関わらないということを知るのである。このような三道は、法身・般若・解脱の三徳を覆い隔てている。この妨げを破る方便も、また無量である。無明が破られれば般若が現われ、業が破られれば解脱が現われ、識・名色が破られれば法身が現われる。愛・取・有・老死も、また同じである。自分のことをよく理解するならば、また他の人も教化することができる。一切種智(いっさいしゅち・あらゆる種類について詳しく知る智慧)において一切智(いっさいち・すべての実在について概括的に知る智慧)を起こし、道種智(どうしゅち・人々を教化するために仏の道の種類を知り尽くす智慧)を起こして、人々を導く。以上が上智をもって十二因縁を観じることである。

上智観とは、受は触により、さらにさかのぼって行は無明によることを観じることにおいては他と同じである。しかし、上上智観では、十二因縁の三道はそのままで三徳であると知るのである。三徳を断ち切って、他の三徳を求めるようなことをすれば、すなわちあらゆる存在の姿を打ち破ることになるであろう。煩悩道はそのままで般若なのである。まさに知るべきである。煩悩は闇ではない。般若はすなわち煩悩であるので、般若も光ではない。煩悩が闇でないなら、なぜ断絶しなければならないのだろうか。般若も光でないならば、なぜ破る対象があるだろうか。闇も本来、闇ではないのだから、それを破るために光はいらない。名医である耆婆(ぎば)は毒を用いて薬を作った。どうして「これ」をすてて「それ」を取るべきであろうか。業道はそのままが解脱なのであり、業道も煩悩の縛りではないことを知るべきである。解脱はすなわち業であるので、解脱したとしても自在になるわけではない。業も煩悩の縛りではないなら、なぜ離れる必要があるだろうか。解脱も自在になるわけではないので、なぜ得るべきであろうか。神通力を持っている人であっても、どうして「これ」を避けて「それ」につくべきであろうか。苦道はすなわち法身であるので、苦も生死ではないと知るべきである。法身はそのまま生死であるので、法身も楽ではなく、苦も生死ではないので、なぜ憂うべきであろうか。法身も楽ではないので、なぜ喜ぶべきであろうか。虚空に得るところがなく失うところがなく、喜ばず憂いがないのと同じである。

このように観じれば、三道は三徳に異ならず、三徳は大涅槃であり秘密蔵と名付ける。これはすなわち仏果である。深く十二因縁を観じることは、すなわち悟りの道場に座ることである。これはすなわち、仏因を備えることである。仏因・仏果をすべて備えることである。その他のことはこれに準じて知るべきである。以上が上上智をもって十二因縁を観じて、仏の悟りを得ることである。

これをもって、まさに麁妙を判別し、麁を開いて妙を表わすべきである。意義はわかりやすいので、記さない。

また以上の四智をもって四種の十二因縁を照らし、境がそのまま悟りに転じないのであれば、その智慧は麁であり、四種の十二因縁がそのまま悟りに転じれば妙境となり、麁智はそのまま妙智となる。これは、相待妙と絶待妙の意義である。