大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  75

『法華玄義』現代語訳  75

 

◎二諦に対する

次に二諦に対する智を述べるとは、権と実の二智である。先に述べた真諦・俗諦の二諦に七種があったように、この権・実の二諦も七つに分けることができる。三界の内外の相即(そうそく・互いに融合し合うこと)と不相即によって見るなら、三界内の不相即が蔵教であり、三界外の相即が通教であり、三界外の不相即が別教であり、三界外の相即が円教であり、以上、四つとなるのである。そこに、先に述べたように別入通教・円入通教・円入別教の三つが合わさり、七つである。もしこれもすでに述べたことによって分けるならば、蔵教は析空観の権・実の二智、通教は体空観の権・実の二智、別入通教は体空観に中道が含まれる権・実の二智、円入通教は体空観に中道が顕わされている権・実の二智、別教は別教の権・実の二智、円入別教は別教に円教が含まれる権・実の二智、そして円教の権・実の二智である。この七つに随情・随情智・随智の三つがあって、全部で二十一種類となる。

また、この七つの権・実の二智に、それぞれ三種類ある。化他(けた・他の人々を教化すること)の権・実、自行化他(じぎょうけた・自らの修行をしつつ、他の人々を教化すること)の権・実、自行の権・実の三つである。この場合も全部で二十一種類の権・実の二智となる。

○析空観の蔵教の二智

蔵教の析空観の権・実の二智は、森羅万象の区別を照らす智慧を権智とし、森羅万象の真理を明かし尽くすのを実智とする。仏はこの二智を説いて、あらゆる人々に合わせてあらゆる教えを説き、あらゆる欲、あらゆる場合、あらゆる対治、あらゆる悟りに従い、それぞれにふさわしく条件に従って分別する。またあらゆる事柄があっても、すべて析空観の権・実の対象となるので、化他の権・実の二智がある。また、化他の二智は、人の能力に応じる教えであるので、みな合わせて権・智とする。そして、その者の自行をもって得た悟りについては、それが権智であっても実智であっても、共に悟りであるので、合わせて実智とする。このように、自行と化他を相対させて二智とするなら「自行化他の権実」の二智となる。また、自らの悟りの権・実を言えば、ただその悟りは本人のみ明らかなものなので、他の人は見ることができない。ここには照らす智慧の権があり、真理を明かす智慧の実があるので、自行の権・実となる。

さらにこの蔵教において、再びこれについて述べる。蔵教の仏は、声聞と縁覚の二乗を教化する場合、多くの化他の実智を用い、二乗はこの化他の実智を受けて、自行の実智を修し成就する。このことを、仏は弟子の迦葉(かしょう)に「私とあなたとは共に解脱の場に座っている」と証明した。これはすなわちこの意味である。またもし菩薩を教化するならば、多くの化他の権・実の二智を用い、菩薩は化他の権智を受けて修学して自行の権智を成就することができる。仏はまた「私もまたあなたのようである」と言った。この三つの二智は、もし体空観の二智に比較するならば、すべて権である。このために龍樹は「どうして不浄の心の中に、悟りへの道を修することができようか。毒のついた器には食物を盛ることはできない。それを食べれば人を殺すようなものだ」と言っている。これは正しく析空観の意義を破ることである。このために権である。

○体空観の通教の二智

通教の体空観の権・実二智は、認識の対象である神羅万象はすなわち空であると体得する。森羅万象を認識の対象とすることは権智であり、空であるとすることは実智である。『涅槃経』に「認識の対象がそのまま空である。認識の対象がなくなって空になるのではない」とある。これはまさしくこの意義である。教化する人々のために二智を説くとしても、人々はそれぞれ別で同じではないので、また教えもさまざまとなる。また教えはさまざまであるとしても、すべて化他の権・実の範囲内なので、化他の二智がある。さらにこの化他の二智は、すでに随情であるので、すべて権である。本人の悟りの権・実は、すでに自らの悟りであるので、すべて実と名付ける。こうして自行の実智と化他の権智の自行化他の権・実がある。さらに、自らの悟りについて、認識の対象とする権があり、空を明かす智慧の実があるので、自行の権実がある。この三つの二智は、次に述べる別入通教に比べれば、またすべて権智と名付ける。なぜなら、中道がないからである。

○体空観に中道が含まれる別入通教の二智

別入通教の体空観に中道が含まれる権・実二智は、認識の対象はすなわち空であり不空であると体得する。認識の対象を照らすことは権智であり、空であり不空であるとすることは実智である。この二智を説いて無量の人々に赴き、随情によってさまざまに説く。また人々に応じて教えは無量だとはいっても、すべて中道が含まれる権・実二智の範囲内であるために、化他の権・実の二智がある。さらにこの化他の二智は、相手の能力に応じるので権と名付け、自行の二智は実と名付けるので、自行化他の権実となる。さらに自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において、二智を分けるために、自行の権・実の二智がある。この三つの二智は、次の円入通教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、通教における空とその教えは、方便を帯びているからである。

○体空観に中道が顕わされている円入通教の二智

円入通教の体空観に中道が顕わされている権・実二智は、認識の対象は空であり不空であり、すべての実在は空および不空に赴くことを体得する。認識対象を照らすことが権智であり、認識の対象は空であり不空であり、すべての教えは空および不空に赴くことを体得することが実智である。人々のために二智を説いても、人々は無量なので教えも無量である。この無量の教えは、体空観に中道が顕わされている権・実二智の範囲内なので、化他の権・実の二智である。この化他の二智は、人々の能力の違いに応じるので、すべてこれは権である。これに対して、本人の悟りの二智は、すでに自らの悟りであるので、すべて実と名付ける。この自行と化他が相対して自行化他の権・実となる。さらに自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権実の二智がある。この三つの二智は、次の別教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、通教における即空と、その教えは方便を帯びているからである。

○別教の二智

別教の権実の二智とは、認識の対象は空であり不空であると体得することであり、認識の対象と空とは共に権智であり、不空は実智である。この二智をもって百千の人々の能力に従ってあらゆる教えを分別する。分別は多いとしても、すべて空・仮・中を順番に観じる二智の範囲内なので、化他の権実の二智がある。さらにこの化他の二智は、すべて人々の能力に従ったものであるので、権と名付ける。そして自ら行じて悟り得た二智は、自らの悟りであるので、すべて実とし、化他に対するなら、自行化他の権実となる。自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権実となる。この三つの二智は、次の円入別教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、空・仮・中を順番に観じて、その教えは方便を帯びているからである。

○別教に円教が含まれる円入別教の二智

円入別教の別教に円教が含まれる権・実二智は、認識の対象は空であり不空であり、すべての教えは不空に赴くことである。認識の対象と空を権智とし、すべての教えが不空に赴くことを実智とする。この二智をもって、百千の人々の能力に従ってあらゆる教えを分別する。その分別は多いとしても、すべて別教に円教が含まれる二智の範囲内なので、化他の権実の二智がある。さらにこの化他の二智は、すべて人々の能力に従ったものであるので、権と名付ける。そして自ら行じて悟り得た二智は、自らの悟りであるので、すべて実とし、化他に対するなら、自行化他の権実となる。自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権・実となる。この三つの二智は、次の円教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、空・仮・中を順番に観じて、その教えは方便を帯びているからである。

○円教の二智

円教の権・実の二智とは、認識の対象がそのまま空であり不空であり、すべての教えは認識の対象に赴き、空に赴き、不空に赴くことである。すべての教えが認識の対象に赴き空に赴くことは権智であり、すべての教えが不空に赴くことは実智である。このような実智はそのまま権智であり、権智はそのまま実智であり、二ではなく別ではない。衆生を教化するために、人々の能力に従い、欲に従い、都合に従い、対治に従い、悟りに従って、あらゆる教えを説くとしても、すべて円教の二智の範囲内なので、化他の権実の二智がある。さらにこの化他の二智は随情なので、すべて権と名付ける。そして自ら行じて悟り得た二智は、自らの悟りであるので、すべて実として化他に対するなら、自行化他の権・実となる。自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権・実となり、ここにも化他の権・実、自行化他の権・実、自行の権・実の不同がある。この二智は、円教以外の二智の六種に、それぞれ三つがあるところの全部で十八種の方便を帯びず、ただ真の権であり、真の実であり、これを仏の権・実と名付ける。

法華経』に、「如来の知見は広大深遠にして、方便の完成をすべて備えている」とあるように、これを妙として、前の麁とされた教えに相対させる。