大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  77

『法華玄義』現代語訳  77

 

◎三諦との比較

次に三諦の境と比較して、智を述べる。すでに五種(注:二諦の七種から中道のない蔵教と通教を除いた五種。ここでは①~⑤の数字をつけて整理する)の三諦について述べたが、ここでさらに分別する。

そもそも三諦の智慧は十法界を照らす。十法界を三法に分ける。六道を有漏(うろ・煩悩がある状態)とし、声聞と縁覚を無漏(むろ・煩悩が断たれた状態)とし、菩薩と仏を非有漏非無漏(ひうろひむろ・煩悩があるのでもなくないのでもない状態。つまり煩悩があるないの次元を超越していること)とする。この三法が互いに含まれ合って五種となる。

①別入通教においては、非有漏非無漏は無漏に含まれ、有漏・無漏に相対する三法である(注:通教は中道を説かないので、非有漏非無漏を表現できないが、果において別教に入る能力のある人は、もともとその無漏に中道が含まれていると解釈される)。②円入通教は、すべての教えは無漏に含まれ、有漏・無漏に相対する三法である(注:通教の果において円教に入る能力のある人は、もともと無漏にすべての教えが円融されて含まれると解釈される)。③別教は、有漏・無漏・非有漏非無漏の三法を順番に観心する。④円入別教は、すべての教えは非有漏非無漏に赴き、有漏・無漏に相対する三法である(別教の果において円教に入る能力のある人は、有漏・無漏に相対しながらも非有漏非無漏にすべての教えが円融されていると解釈される)。⑤円教は、すべての教えは有漏に赴き、無漏に赴き、非有漏非無漏に赴く三法である。これが三諦の智慧が照らす対象である五境である。

この五境を、一切智(いっさいち・すべての実在の真理について知る智慧)・道種智(どうしゅち・菩薩が衆生を教化するために衆生と教えの差別の姿を知る智慧)・一切種智(いっさいしゅち・すべての実在の真理とその差別の姿とその平等の真理の姿を同時に知る智慧)の三智が照らす。

そして、一切智は空であるので空智(注:蔵教の智慧)とし、道種智は仮であるので道智(注:通教の智慧)とし、中である一切種智においては、空・仮・中が順番に照らされる場合は中智(注:別教の智慧)とし、順番なく照らす場合は如来蔵智(注:円教の智慧)とする。この三智は五境に対してそれぞれ互いに含まれ合うが、その状態は同じではない。

次に詳しく述べる前に、各名称だけをあげると次の通りである。

別入通教においては、中智は空智に含まれ、道智に相対する三智である。円入通教においては、如来蔵智は空智に含まれ、道智に相対する三智である。別教においては、中智は空智と道智に相対する三智である。円入別教においては、如来蔵智は中智に含まれ、空智と道智に相対する三智である。そして円教の三智である。これが五境の違いである。次に詳しく述べる。

○別入通教の中智が空智に含まれ道智に相対する三智

最初に無漏によって一切智を発し、次に有漏によって道種智を発し、後に深く無漏の空を観じて、空もまた空と知って、一切種智を発する。しかし初心の者は、空もまた空であることを知らないので、いくら空を悟り得たとしても、その空も空であることを知らず(注:この段階では通教である)、後に明確に空を深く観じて、得たところの空も空であると悟る(注:このように順番に中智を悟るので、ここで別教に入るとされる)。通教の空も別教の空も名称は同じであり、通教の空智の境である無漏と、別教の中智の境である非有漏非無漏は同じとなるので(注:通教は中道を説かないので)、中智は空智に含まれるとするのである。これを三智によって分別すれば、無漏を照らす空智が一切智であり、有漏を照らす空智が道種智であり、中道の空智を一切種智とする。一般的に各経論の説を総合して、「六地に煩悩を断じるのは阿羅漢と等しく、七地に方便道を修し、八地に空観を行ないながら他の人を教化して無明を破って仏となる」と言っているのはこの意味である。

○円入通教の如来蔵智が空智に含まれ道智に相対する三智

有漏と無漏によって一切智と道種智を発することは、前の①別入通教と変わらないが、次の③別教の境によらずに中智を修するのである。つまり、深く空を観じて、空は不空と知るのである(注:①の場合は、空もまた空と知るとあったが、②では不空と知るのである)。この不空は如来蔵である。如来蔵は、空と同じとなるので互いに含まれるとする。深く空を観じて不空を見ることにより、一切種智を発する。前の①別入通教の中道の智慧は、ただ別教の中道を表わすのみである(注:順番に悟って到達した中道であるから)。その別教の真理と智慧は、あらゆる実在を備えないが、この如来蔵の真理と如来蔵の智慧は、あらゆる実在を備えるために、前とは異なるのである。この如来蔵の智慧を、空智と道智と相対して三智とするのである(注:あくまでも因が通教であるから相対するのである)。『涅槃経』に「声聞の人はただ空を見て不空を見ない。智者は空および不空を見る」とある。また『般若経』に「一切智は声聞の智慧、道種智は菩薩の智慧、一切種智は仏の智慧」とあるのはこの意味である。

○別教の中智は空智と道智に相対する三智

無漏によって一切智を発し、有漏によって道種智を発し、非有漏非無漏によって一切種智を発する。それぞれの順番や浅い深いの違いは、互いに交わらない。このために『地持経』には「十住の位に上った菩薩は、発心して煩悩の障りと智慧の障りを除こうとする。仏がいてもいなくても、必ず順番にあらゆる煩悩を断じる」とあるのは、この意味である。

○円入別教の如来蔵智は中智に含まれ空智と道智に相対する三智

無漏によって一切智を発し、有漏によって道種智を発することは、前の③別教と同じであるが、一切種智が少し異なっている。なぜなら、前の③別教で中道の境を明らかにするのは、ただ中道の真理のみである(注:順番に悟った中道であるから)。この真理を表わそうとするならば、まさにすべての修行を行なわなければならない。真理を表わす智慧のために一切種智と名付けたまでである。しかし、この如来蔵の真理は、すべての智慧を含んでいる。ただ真理を表わす智慧を一切種智と名付けただけではないために(注:この一切種智はすべてを含む如来蔵智であるから)、前の③別教と異なっているのである。この如来蔵の智慧をもって、空智と道智に相対して三智とするのである(注:あくまでも因が別教であるから相対するのである)。このために、地論宗の人が「縁修は真修を表わすものである。真修自体が発する時は縁修を用いない」と言っているのはこの意味である。空智と道智は縁修である。如来蔵智が発する時は、これが縁修に相対して真修となる。真修はすべての智慧を備えているので、他を用いる必要はない。

○円教の三智

有漏は因縁によって生じたものであるので、即空・即仮・即中である。無漏もまた即仮・即中である(注:無漏は即空であるから)。非有漏非無漏もまた即空・即仮である(注:非有漏非無漏は即中であるから)。一法は三法であり、三法は一法であり、一智は三智であり、三智は一智、智慧はそのまま境であり、境はそのまま智慧であり、融通無碍である。このような三智がどうして前と同じであろうか。『大智度論』に「三智は一心の中で得て、前もなく後もない」とある通りである。人に対して説くために、わかりやすくするために三智の名称を出して説くだけである。