大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  78

『法華玄義』現代語訳  78

 

もし智慧を表わそうとすれば、必ず観心を成就すべきである。広く観心の智慧を述べるならば、そこに因果がある。すなわち観心は因であり智慧は果である。たとえば、仏性ということに関しても、そこに因果があり、因は仏性であり、果は涅槃である。ここで、因と果に分けて観心を因とし智慧を果としたわけである。『瓔珞経』に「従仮入空観(じゅうけにっくうがん=空観)を二諦観と名付け、従空入仮観(じゅうぐうにっけかん=仮観)を平等観と名付け、この二つの観心を方便として中道第一義諦(=中観)に入ることができる」とある。ここで従仮入空観を因として、成就する果である智慧を一切智とする。そして、従空入仮観を因として、成就する果である智慧を道種智とする。また中観を因として、一切種智の果を成就することができるのである。先に「五種の智慧」について述べたが、観心の成就についても、五種がある。その細かな点については自ら知るべきである。観心の修行については『摩訶止観』に記された通りである。

次に、麁と妙を判別する。蔵教と通教の仏に一切種智の名称があったとしても、中道を説かないのであるから、それ以上の真理がなく、それ以上の煩悩を破ることもないので、この智慧は成就しないことになり、用いることもない。別入通教の智慧は、中道を説くといっても、通教の教えを因として一切智・道種智を成就し、後に中道を照らすとしても、広大な働きはない。程度の低い教えを因とすれば、果もまた融合しないものとなる。このために麁である。次に円入通教の智慧は、教えの果の真理は融合するとしても、因は通教の教えなので麁である。別教の智慧は、通教の教えを因としないとしても、三智はそれぞれ別であり、果の教えは融合しないので麁とする。円入別教の智慧は、果は融合するとしても、因は別教の教えなので、この因もまた麁である。円教の三智は、因も円教であり果も円教であり、因も妙であり果も妙であり、諦も妙であり、智慧も妙である。まさに方便を捨てて、ただ無上の教えを説くのみである。このために「妙智」というのである。

もし五味の教えを用いれば、乳味の教えは別教・円入別教・円教の三つの智慧であり、酪味の教えは三諦を説かないので、一切種智の名称だけであり、生蘇味の教えは、別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の三智であり、熟蘇味の教えも同じく五種の三智を備える。この麁と妙については自ら知ることができるであろう。『法華経』は、ただ醍醐味の教えの三智のみである。これは『法華経』が方便を破ることであるので、相待妙である。

麁を開いて妙を表わすことについて述べれば、仏道がない世智であっても、その邪悪な姿のままで正しい姿となる。この世の治生産業は、みな実在の真実の姿と異なることはない。『法華経』にある通り、仏を象徴するものに対して、少しだけ頭を下げ、少しだけ手を挙げただけでも、麁が開かれ妙が表わされ、仏の道が成就される。ましてや、声聞、縁覚、菩薩のように、この世の次元から出た人たちはなおさらである。このために『涅槃経』に「声聞と縁覚は実であると同時に虚である」とある。煩悩を断じているので実といい、常に変わらない真理と一体とはなっていないので虚とする。一般人は煩悩を断じていないので、実はなく虚だけである。しかしそれでも、大乗の教えによって麁が開かれ妙が表わされる。ましてや、声聞や縁覚の智慧はなおさらである。この二乗の智慧は、感覚器官が死んで意識が枯れてしまうようなことがあっても(注:いわゆる小乗の独善主義を指す)、また生き返ることができる。ましてや、衆生のための道種智を持つ菩薩はなおさらである。このように、麁が開かれ妙が表わされる時は、すべてが妙となり、実在の真実の姿に異なることがなくなる。『法華経』に、七つの宝に飾られた大きな車の数が無量にあるということは、これはこの経典の麁を開いて妙を表わすことの意味であり、絶待妙である。

 

◎一諦との比較

次に、一諦の境と比較して智を述べる。これはすなわち如実智(にょじつち・すべての実在の真実の姿を知る智慧)である。『大智度論』に「あらゆる川の水が海に流れ込めば、みな同じ塩味となる」とある。あらゆる智慧も、この如実智に入れば、そのそれぞれ異なっている智慧の名称を失う。このために、如実智はすべての智慧を摂取し、もっぱら一諦の境を照らすために、すべての水が一つの味となるのである。もしあらゆる智慧を麁とすれば、如実智は妙となる。もし、あらゆる智慧の中で、真理を指し示す智慧である実智に相対させれば、中道を備えない実智は麁であり、中道を備える如実智を妙とする。しかし、麁を開いて妙を表わせば、あらゆる実智を妙とするばかりではなく、その他のあらゆる智慧もまた妙となる。

さらに無諦無説について述べれば、すでに無諦と言えば、また無智である。もしあらゆる場合における無諦について述べれば、方便の無諦無智を麁とし、中道の無諦無智を妙とする。もし『維摩経』にあるように、真理は言葉に表現できないため、ただ黙っているという無諦無智を用いれば、麁もなく妙もなく、相待妙もなく絶待妙もない。すべてにおいてみな麁なく妙もないのである。